世界が出来上がって、まだ間もない頃のことです。 天上の園には大勢の神々が住んでいましたが、その中にマーウェルエートという一人の神がいました。 マーウェルエートはごく平凡な、人間と大差ないような下級の神で、着ているものも粗末なら、住んでいる場所も山小屋のように簡素なところでした。 その頃、天上にあるカレンの丘の上には一本の樹が生えていて、そこには美の果実≠ェなっているということでした。 美の果実を食べられるのはセグアルトやフィリニオルといった位の高い神々で、マーウェルエートのようなごく平凡な神々には、その実を食すことは出来ませんでした。 けれども、毎日のようにマーウェルエートはその樹のそばまで行って、何とかその実を食べてみたいものだと思いました。 そうしたある日、小屋の中でぼんやりとしていたマーウェルエートは、部屋の中に一匹の蝶が入りこんだことに気がつきました。 蝶は七色に輝く燐粉をひらめかせた美しい蝶で、部屋の中に入りはしたものの、どうやって出ればよいのか分からない様子です。 その蝶の美しさを見れば、誰だって籠に入れ、手元に置いておきたいと思うのが普通でしたが、マーウェルエートはふと憐れに思って、 「二度と迷うんじゃないよ」 と言って、窓からそっと逃がしてやりました。 蝶はまるでお礼をいうように、しばらくその近くを飛び回っていましたが、やがてひらひらと風に揺られるように遠くへ行ってしまいました。 その夜、マーウェルエートは夢を見ました。 夢の中でマーウェルエートは白い霧のようなものの中に立っていて、どこかから自分を呼ぶ声が聞こえてきます。 その方に向かって歩いていくと、一人の美しい女性が目の前に現れました。 「あなたは美の果実を食べてみたいそうですね」 と、女性はよく知っています。 「明日の夜中、満月が空の頂で休息をとる頃に、丘の上にまで来てみなさい。そこで果実を得ることができます」 そういうと女の姿は霧の向こうへと消え、たちまちのうちに見えなくなってしまいました。 マーウェルエートは翌日、女に言われた通りの刻限にカレンの丘へとやって来ました。 目の前には、青々と茂った巨木が一本、この世界の王であるかのように凛として銀の月の光の下に立っていました。 けれど、そこには何かの果実らしいものは一つだってなっていません。 マーウェルエートが途方に暮れていると、どこからか夢の女の声がして、目をつむって下さいと言います。マーウェルエートがその通りにすると、たちまちのうちに眠りがやって来ました。 夢の中では、大きな樹の前に立っています。それは眠る前にいた、カレンの丘の樹とまるで同じものでした。 「さあさ、果実をおとりなさい」 と、女がそこにいて言います。 見ると、樹にはたくさんの実が枝のしなるほどにたわわに実っていました。丸い、太陽の光のような黄金の果実で、ちょうど手の平に収まるくらいの大きさがあります。 「今、この時間だけは樹の番人はいなくなります。果実を神々のもとへと持っていくために、ここを留守にするのです。さあ、今のうちに」 マーウェルエートは一番下の枝についていた、一等美しく光る果実を手に取ると、樹からもぎ取りました。 「それではこの場から去ることにしましょう」 と、女はマーウェルエートについて来るように言いました。 女は雲でも踏むようなひらひらした足取りでどんどん歩いていきます。マーウェルエートが急いでその後を追ううち、女の姿は次第におぼろになり、いつしか七色の燐粉を持った蝶の姿へと変わりました。 マーウェルエートがふと気がつくと、蝶も白い霧もどこかに行って、自分の小屋に横になっていました。まるですべてが夢だったかのようです。 けれども右手には、夢の中でもいできた美の果実がしっかりと握られていました。 マーウェルエートはさっそく、その実をかじってみました。 それはまるで、この世の光という光を集め、それをようやく一滴に凝縮したものを、何千年にもわたって蓄積させ、それがようやく形になったという感じの、高貴で情熱的で、優美で甘美な味でした。 まるで世界が一変してしまったかのようです。 マーウェルエートは自分の中から湧き上がってくるそれらを、形にしていきました。それこそ眠る間、息をする間も惜しむほどにです。 マーウェルエートはもはやただの神ではありませんでした。彼は美しいものを泉の水のようにこんこんと生み出す神であり、他の誰もが彼を誉めそやしました。 けれどそうして美しいものを生み出すうち、いつしか果実の効力は薄れ、マーウェルエートはまたもとの平凡な神へと戻ってしまいました。彼を褒めちぎっていた他の神々も、まるで彼を相手にしなくなります。 そのことももちろん辛かったのですが、それ以上に自分の中からあの美しいものたちが湧き上がってこなくなってしまったことに、マーウェルエートは耐えられませんでした。 それでマーウェルエートは前と同じようにカレンの丘へと向かい、樹の前で眠りました。すると前と同じように夢の中で実のなった樹の前に立っています。 マーウェルエートは実に手を伸ばしましたが、横から不意に、女の声がしました。 「それ以上、その実を口にしてはいけません」 というのです。しかしマーウェルエートはまるで忠告なぞ聞く様子もなく実をもいでしまうと、急いでその場を立ち去りました。 マーウェルエートが気づくと、やはり前と同じように小屋の中で横になっていて、手には金色の果実を握っています。 マーウェルエートはやはりその実を口にしました。実は以前と同じく、この世の歓喜をすべて集めたような恐ろしく耽美な味がします。 そうしてまた以前と同じように、マーウェルエートは美しいものを次々と作り出し、皆の賞賛を浴びるようになりました。 けれど、これもまた同じようにいつしか果実の魔力が薄れ、美しいものはマーウェルエートから遠ざかって行きました。 マーウェルエートはするとまた、果実をとりに行きました。今度もまた蝶の化身の女がいて、 「それ以上、その実を口にしてはいけません」 と言うのですが、マーウェルエートは聞きません。 そうしたことを何度も繰り返すうちに、マーウェルエートは次第にやせ細り、目だけが奇妙に光るようになりました。眠る間、食べる間も惜しんでいるうちに、彼の体はすっかり弱ってしまったのです。 けれど、マーウェルエートは実を食べることをやめませんでした。 結局、マーウェルエートはろうそくの炎がふっと掻き消えるような具合に死んでしまいました。それで彼のことは、美と狂気の神と呼ばれるようになったのです。 その墓には、今でも虹色の蝶が愛しむように、じっと止まっているということです。
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