[不完全世界と魔法使いたちB 〜アキと幸福の魔法使い〜]

[四つめの奇跡]

 その少年はずっと、透明なものになりたいと思っていた。
 できるだけ透明なまま、世界にありたいと――
 少年がそんな願いを持つようになったのがいつなのかは、正確にはわからない。
 それは、一番最初に夢を見たときかもしれない。はじめて星の名前を覚えたときかもしれない。夕陽が沈むのをじっと眺めていたときかもしれない。隣の家の庭で小さな女の子が葉っぱの裏側を熱心にのぞいているのを見つけたときかもしれない――
 いずれにせよ、少年は世界をガラス玉みたいにきれいな場所だと思った。そしてその場所を、透明なまま眺めていたい、と。
 たぶん――
 天使みたいなものになりたかったのだ、彼は。
 あるいはそれは、母親から聞かされた話のせいだったのかもしれない。
 いつだったかずっと子供の頃、少年はこんなことを母親に訊いたことがある。どんな子供でも一度は考えるような、素朴な疑問。どんな親でも一度はぶつけられるような、複雑な疑問。
「……どうして、ぼくは生まれたの?」
 その問いに母親が何と答えたか、少年は正確には覚えていない。ただ彼女は、こんなふうに言ったはずだった。
「人はね、生まれるときに空から落ちてくるの。そこは何もない透明な場所だったから、みんなのいる地面に降りて来たくて。そうして人はみんな、心に空のきれいな欠片を持って生まれてくる。その欠片を持ってるから、世界はきれいな場所に見えるんだよ――」
 その時の少年が、母親の言葉をどれくらい理解していたのかはわからない。遠くにある星の光みたいなその言葉を理解するだけの精度を、彼はまだ持っていなかったから。少年はただ、その言葉を一粒の種みたいに受けとっただけだった。
「じゃあ、ぼくは天使みたいなものなんだね」
 嬉しそうに笑って、少年は言った。
 その頃にはすでに病院のベッドで寝起きすることが多くなっていた母親は、彼の頭をそっとなでてやる。
「――そうかもしれないね」
 でも、本当はそうじゃないと少年が知るのに、それほどの時間はかからなかった。
 世界には不幸や不信や不安が満ちていて、それはたぶん、空の上にはないものだった。人はいつのまにか、自分たちが空の上にいたことを忘れてしまったらしい。
 少年はそんないくつもの光景を瞳に映しながら、それでも一粒の種を捨てようとはしなかった。
 この世界で、その種は決して芽を出すことはないのかもしれない――
 この世界に、その種が育つべき場所はどこにもないのかもしれない――
 そう思いながらも、決して。
 ――少年の母親が亡くなったのは、彼が中学に入った頃のことだった。
 結局、彼女が楽しみにしていたその姿を見せることはできないでいた。その頃には、彼女の意識が戻ることはなかったし、その目が開くこともなかったから。
 少年にできるのはただ、母親が少しずつ死に向かっていくのを眺めているだけだった。天使みたいに、透明に。
 母親が死んで、少年は父親との二人だけの生活がはじまった。父親は前みたいに笑わないし、つまらない冗談も口にしなかった。看病や仕事やこれからのことで、たぶん疲れてしまったのだろう。
 けれど――
 本当はそれは、きっと父親が幸福というものを知っていたせいだった。
 幸福というのがどういうことなのかを知っていて――
 そして何より、それを失ってしまったことを知っていたから。
 自分が存在するかぎり、父親はそのことを忘れないだろうな、と少年は思った。少年の存在そのものが、彼女の不在を突きつけるからだ。それは恐ろしく、不幸なことなのかもしれない。
 失ったものは失われ続け、悲しみは悲しまれ続ける。ただきれいで何もなかった空の上に戻ることは、もう二度とない。
 きっと、世界というのはそういう場所なのだ。
 この世界で生きるということは、そういうことなのだ。
 ――そう、少年は思おうとした。
 けれど少年には、何故だかそれができなかった。すべてを過去にして諦めてしまうことも、世界が不幸を許す場所なのだと受け入れてしまうことも。泣いたり、怒ったり、忘れたりしてしまうことを――そして何より、神様に祈ることを。
 少年は誰よりも、守りたかったのだ。幸福を、空のきれいな欠片が形になったものを。誰よりも、それを守りたかった。
 たぶんその時、一粒の種が少年の中で芽を出したのだろう。
 それはもう、誰にもどうすることもできないものだった。どんな批評も、どんな判決も受けつけたりはしない。種はずっと、その時を待っていたのだから。そのためにこそ、その種は少年に与えられたのだから。
 少年は両手でそっと、生まれたばかりのその芽を包んでやった。
 ――僕はこの小さな幸福を守らなくちゃいけない。
 と、少年は思った。
 そうしなければ――
 世界を憎んでしまいそうだったから。

「――――」
 最後のページまで読んでしまうと、アキは時計の針をとめるようにして、そっとノートを閉じた。
 長い文章をいっぺんに読んだせいで、首筋や眉間のあたりが少し痛んだ。頭の中には、ぼんやりとした疲労感みたいなものがある。世界の輪郭が少しだけずれているようでもあった。アキは腕をのばして、大きくのびをした。
 そうして、たった今読み終えたばかりのノートについて考えてみる。
 ノートの中身は連綿と自己の心情を綴った、というようなものではない。そこには主に、幸福クラブ≠ナのことが書かれていた。日付はなく、ほかの人物については名前が伏せられている。具体的な説明が意図的に省かれている箇所もあって、ちょっと読んだだけでは実際のことかどうなのかは判断できない。
 日記調の文体で書かれてはいたが、文章は読みやすく、丁寧に仕上げられていた。きちんと考えられているのに、書くことに迷ったような感じは見られない。きっと、書くべきことが胸の中にちゃんと収まっていたせいだろう。自分の意見や感想について述べていることは少なく、ただ透明な視点で世界を眺めている、という感じだった。
 それは何だか、砂浜に指で文字を書くのに似ていた。
 ――アキは閉じたノートの上に、そっと手を置く。
 おそらく杜野透彦が書いたのだろうそのノートは、世界をただきれいな場所として記述しようとしているようでもあった。世界は幸福な場所でなければいけない、と。世界に必要なのはそれだけなんだ、と。
 そこには澄んだ優しさと、柔らかな明るさがあった。杜野透彦という少年は、世界に対してそれを望んでいたのだろう。例え現実が、どれだけ不完全だとしても。
 けれど――
 それはもう、終わってしまった物語だった。
「――読み終わった?」
 アキがぼんやりしていると、不意に声がかけられている。
 そこには、牧葉澄花がいた。アキがノートを読み終えるのを、彼女はそこでずっと待っていてくれたのである。
「あの、すみません。こんなに長いことお邪魔しちゃって――」
 アキが時計を見ると、ここに来てから二時間以上が過ぎていた。読んでいるあいだは気づかなかったが、よほど集中していたらしい。
「……明日が、文化祭だっていうのに」
「別に大丈夫だよ。もう準備は終わってるしね」
 澄花は何の屈託もなさそうに言う。実際、アキがノートを読みふけっているあいだに、ほかの部員が姿を見せるようなことはなかった。
「それに私のほうもずっと本を読んでたから、待ってたってわけでもないし」
 言って、澄花は軽く笑う。
 部屋の中では、二時間で世界がどれくらい変わったのかはわからなかった。おそらく学校のいたるところで、文化祭の準備がまだ続けられているのだろう。
 アキはノートに手を置いたまま、つぶやくように口を開いた。
「……澄花さんの言ってた意味が、ちょっとわかったような気がします。残酷なくらい、優しいっていうことの意味が」
「うん――」
 澄花は風に揺れるみたいに、小さくうなずいてみせる。
「どうして杜野さんは、世界に対してそんなことを望んだんですか? そんなことをしても、きっと――」
「きっと?」
 少しうつむいて、アキは言った。
「傷つくだけです」
 澄花は何かの重みを量ろうとするみたいに、そっと目をつむった。
「そうだね、そうかもしれないね」
「……だったら、どうして」
 訊きながら、けれどアキにはわかっていた。人が、それを望んでしまうのだということが。どうしても、願わずにはいられないのだということが。
「杜野くんがどうしてそれを願ったのかは、私にもわからない」
 と、澄花は何もない空の音にでも耳を澄ますようにして言った。
「私に――私たちにわかるのは、それがどんな願いだったか、ということだけ。私たちにそれを非難することはできない。どうしたって、人は完全世界を望むものだから」
 そうしてちょっと悲しそうに、澄花は微笑んだ。
「たぶん杜野くんは、天使みたいなものになりたかったんだよ。見えないところからそっとみんなを見守る、そんなものに」
「…………」
 アキはじっと、何も書かれていない表紙を見つめる。だったらこのノートは、その羽の一枚一枚だということになるのだろうか。
「――そのノート、水奈瀬さんが持っててくれないかな?」
 と、不意に澄花が言った。
「わたしがですか?」
 アキはためらうような顔で、澄花のほうを見る。澄花はうなずいてみせた。
「そのほうが、ふさわしいような気がして」
「でもこれって、文芸部のものなんじゃ……」
「――どうかな? ロッカーの鍵を開けたのは水奈瀬さんなわけだし、鍵を開けた人が持つのが正しい気がする。それにもう、いつまでも杜野くんの私物を置いておくわけにもいかないしね。今のところ、ここは杜野くんの正しい居場所じゃないよ」
 アキはノートを手に持って、少し考えてみる。
「……そうかもしれません。じゃあ、このノートはわたしが預かっておきます」
「そうしてくれると助かるかな」
 澄花は朗らかに言った。
「ありがとうございます。澄花さんがいてくれたおかげで、いろんなことがわかりました」
「――それはどういたしまして」
 そうして部屋を出て行こうとして、けれどアキはふと立ちどまって訊いた。
「ところで、もう一つだけ聞いてもいいですか?」
「……何?」
「どうしてあの時、澄花さんは美乃原さんが旧校舎にいるってわかったんですか?」
 澄花はじっと、アキの目を見た。彼女の表情は、あくまで変わらない。
「――どういう意味かな?」
「澄花さんはあの時、美乃原さんがピアノの練習を口実にクラスを抜けだしたって、言いましたよね?」
 アキはその時のことを苦労して思い出すようにしながら言う。
「でもピアノの練習をするなら普通、音楽室に行ったと思うはずです。実際、旧校舎では美乃原さんがピアノを弾いていた形跡はありませんでした。あそこのピアノは調律にも問題があるみたいですし。だからピアノの練習と聞いただけでは、美乃原さんが旧校舎に行っただなんてことはわからないはずです」
「…………」
 澄花はずっとアキの視線から目をそらさなかったが、不意にくすりと笑った。
「なかなか鋭いんだね、水奈瀬さんは」
 いたずらが見つかった子供みたいな、そんな表情を浮かべる。
「うん、本当は知ってたよ。彼女がよく旧校舎に行ってたってことは。あの時も、だからそうだと思った。説明するのが面倒だから、そうは言わなかったけど」
「親しいんですか、美乃原さんとは?」
「そこそこには、かな」
 それだけのことを聞いてしまうと、アキはとりあえず納得したような顔をする。そうしてお礼を言うと、アキはノートを胸に抱えて行ってしまった。
「…………」
 澄花はしばらのあいだ入口から手を振っていたが、やがて小さなため息をついている。
「本当に、なかなか鋭い子だな、水奈瀬陽、さん――」
 おかしそうに笑いながら、そっとつぶやく。
 するとほどなくして、ずっと待っていたかのように一人の人物が姿を現していた。図書室の二階からアキの様子をうかがっていた、例の人物である。
「――どうだった、水奈瀬陽は?」
 その人物は、牧葉澄花と知りあいであるかのように口をきいた。
「いい子みたいですね、とても」
 澄花はからかうように笑っている。
「俺は冗談を聞きに来たわけじゃないぞ」
「わかってますよ、神坂先生――」
 言われて、神坂柊一郎は不機嫌そうな表情を浮かべた。廊下には、二人のほかには誰もいない。いれば、この奇異な取りあわせにはさすがに不審を覚えただろう。
「わかっているなら、彼女と何を話したのか教えてもらおうか」
「――たいしたことじゃないですよ」
 澄花は入口近くの壁に、ちょっともたれかかっている。
「杜野くんのノートを渡してあげただけです」
「あれは今、水奈瀬が持っているのか?」
「ええ……そのほうがいいような気がして」
 神坂はそれに対して、何も言わない。
「勝手なことをして怒ってますか、先生?」
「いや、それくらいなら構わないだろう」
「……それは先生の〈精神研究(ジョーカー・タッチ)〉で私の思考を調べたからですか?」
 と澄花は冗談ぽく質問した。が、神坂柊一郎はあくまでまじめな顔をしている。
「違うが、水奈瀬陽はどう見ても白だよ。あいつはあの五人のこと以外は、何もわかっちゃいない」
 神坂の言葉に、澄花は軽く肩をすくめるだけだった。
「でもいいんですか、このまま放っておいて? あの子、きっと私たちのことも何か気づいてますよ」
「あいつは魔法委員会の関係者じゃない。放っておいても問題はないだろう」
「本当にそうですかね」
 澄花はおかしそうに言う。水奈瀬陽はもうずいぶん、いろんなことを知ってしまっているようにも思えた。
「……いずれにせよ、杜野透彦が現れることはもう二度とない。願いが叶えられた以上は、そういうことになる。魔法使いは、もうここにはいない」
「…………」
 確かに、それはそうだった。この学校で、もう一度あの魔法が使われることはない。杜野透彦自身は別にしても。
「それに十五歳を迎えれば、完全魔法は失われてしまう。奇跡を起こせたとしても、もうそれは世界を変えるほどのものにはならない。そうすれば、どちらにせよ俺たちがこの件に関わる必要もなくなる」
「――ですね」
 澄花は小さくうなずく。それが、あの少年の願いでもあったのだから。
「いずれにせよ、これはもう終わったことだ。まがいの奇跡がいくら起こったところで、俺たちにできることはもう何もない」
 神坂柊一郎のそのセリフは誰に聞かれるわけでもなく、放課後の廊下にゆっくりと消えていった。

 アキはノートを持ったまま、旧校舎の音楽室に向かっていた。
 杜野透彦のノートによれば、幸福クラブ≠フ会合が行われていたのは、その場所のはずだった。掲示板上ではできないような相談があれば、彼らはそこに集まっていたのだ。
 アキは玄関から上がると、前と同じように校舎の三階に向かった。階段はやはり、どこかで油の切れたブリキ製の木こりみたいな音がしている。
 三階の廊下からは、文化祭用に垂れ幕が下がったり、目立つ装飾の施された新校舎を見ることができた。それに比べると、何の変化もないこの旧校舎は、もう死んでしまっているようにも思える。世界はゆっくり、こんな場所のことから忘れてしまうのだ。
 アキが音楽室の前に立つと、そこの扉は両方ともが閉まっていた。今日は、美乃原咲夜はいないのだろう。彼女だけではなく、葛村貴史も、和佐葵も、古賀唯依も。そしてもちろん、杜野透彦も――
 扉を開けると、中は無人だった。もう、クラブの五人が集まることはないだろう。ここにはやはり、終わった物語しか存在していない――
 アキはピアノのそばに立つと、黒漆のような表面にそっと手を触れた。このピアノだけが、今も変わらずに存在している。ずっと五人のことを見続けてきたはずのピアノが。
(どうして――)
 と、アキはノートを強く持ちながら思う。
 どうしてこの人は、そんなことを願ってしまったのだろう――?
 ノートを読みながら、アキが感じたこと。
 選ばれなかった文字、ページの隅に零れ落ちたような思い、鉛筆で書かれた字のほんのかすかなためらい。
 そんな形にならないものが語りかけてくる、一つのこと。
 ノートの存在そのものが教えてくれる、一つのこと。
(どうして――)
 と、アキは思う。
 いや、正確には違う。杜野透彦はそれを願ったわけではない。必ずしもそれは、この少年の本心ではなかった。
 ただ――
 そう願わざるをえなかった、それだけのことだ。
 アキにはそれが、よくわかっていた。ずっと以前に、それと同じものを見たことがあるから。人はそれを失ったとき、諦めることを忘れてしまうのだ。
 ――例え、魔法の力に頼ったとしても。
 抱えていたノートを、アキはそっと譜面台のところに立てかけた。何となく、そこが一番このノートにふさわしいような気がして。杜野透彦がいれば、きっと同じことを望むだろう。
「……どうしてなんだろう」
 アキは鍵盤の蓋を開け、白鍵の一つを叩いてみた。
 もしもこのピアノに生命があれば、ここであったことのすべてを語ってくれるはずなのに――
 そんなことを、思いながら。

 ――その日、アキは夢を見た。
 目覚めたときには幸せの欠片が溶けていって、小さな痛みのような悲しみだけを残していく、いつもの夢だった。
 夢の中で、アキは誰かの隣を歩いている。
 その誰かのことをアキはよく知っているはずなのだが、顔も名前も思い出すことはできない。ただ、その隣にいると何だか気持ちが優しくなって、どんな場所にだって行けそうな気がしてくるのだった。幸福というのがどういう形をしているのか、手で触れて確かめられるくらい、はっきりと感じられる。
 アキはその人の隣をずっと歩いていたいと思うのだが、気づいたときにはその人はもういない。そしてアキの少し前を、その人は歩いている。
 それは、たいした距離ではないはずだった。ちょっと急ぎ足になれば、すぐに追いつけるはずだった。声をかければ、きっとその人は気づくはずだった。
 けれど、アキはどうしてだかそれをしない。ただ何もしないまま、何もできないまま、その人の後ろを歩いている。
 そして気づいたときには、その人はもういない。
 アキはそのことが悲しくて、つと立ちどまってしまう。胸が苦しくなって、涙があふれていく。さっきまで確かにあった幸福の形は、どうすることもできずにどんどん手の中から零れ落ちていく。
 ……いつもなら、そこで目が覚めるはずだった。そうしてあったはずの優しさはあっというまに薄れて、その影さえ残さずに、小さな胸の痛みだけがいつまでも心をしめつける。
 でもその日、立ちどまったアキの手を誰かがつかんでいた。
 ずっと会いたかった、誰かが。
「――――」
 朝になって目覚めたとき、アキはやはりそうした夢の細部を忘れてしまう。容器から流れ落ちた液体が、その形をすぐに失ってしまうみたいに。
 けれど――
 アキはベッドの上で膝を抱えたまま、自分の胸を押さえてみる。その場所は少しだけ、温かくなっているような気がした。
 誰かの手を思い出そうとするみたいに、アキはそっと目をつむった。夢の形が、これ以上壊れてしまわないように。

 秋の深まりを感じさせるような、少し肌寒い一日だった。
 その日、食事の席にはアキと母親の二人しかいない。父親は予定通り出張で、弟はまだ眠っていた。休日らしく、音量をいつもの半分にしたような静かな朝だった。
 テレビの天気予報では、終日晴天が続いて、昼頃には気温も平年並みに上昇するだろうと伝えていた。日向にいれば、まだ夏の落し物みたいな暑さを感じられる程度だろう。
 ごはんに味噌汁、それから母親が誰かからもらってきたという芝漬けを口にしながら、アキはぼんやりとしている。まだ体のネジがうまくしまっていない、というふうに。
「どうしたの、文化祭の当日だっていうのに?」
 母親の幸美が不思議そうに訪ねた。
「――ん、ちょっと」
 アキは歯切れの悪い答えかたをする。
「ここのところ、ずっとそんな感じね」
 幸美は冗談ぽく言った。
「恋煩いかしら……?」
 味噌汁をすすりながら、アキはただ苦笑するだけだった。あまり母親の気まぐれな取り越し苦労につきあっている余裕はない。
 もう食事が終わってしまいそうになってから、アキはふと思いついたみたいにして訊いた。
「もしも、なんだけど――」
「うん?」
「――もしも、わたしが世界からいなくなったら、お母さんはどうする?」
 幸美はじっと、いつのまにか十三歳になった自分の娘を見つめた。
「そうね、悲しむでしょうね」
 と、彼女は静かに言った。
「……それだけ?」
「少しくらいは、泣くかも」
 そう言って、幸美は少し笑う。
「……悲しんで、泣いて、それだけ?」
 アキがなおも訊くと、幸美はその質問を手の平の上で転がして確かめるように答えた。
「悲しんで、泣いて、それだけ」
 言って、彼女は冗談ぽくつけ加える。
「あとは知りあいを呼んで、お葬式をして、それくらいかな」
「……わたしが自分の意志でそんなふうにしたとしても?」
 幸美はちょっと考えてから、けれど、
「やっぱり、そうするでしょうね」
 アキは少しうつむくようにして、訊いた。
「何かに怒ったり、理不尽だと思ったり、絶望したり――世界を、憎んだりはしないの?」
 幸美は首を振った。
「しない、と思うわ」
「……どうして?」
「だって――」
 と幸美はほとんど何の間もなく答えた。
「それが、私だから」
 アキはあらためて、自分の母親のことをまっすぐに見つめる。
 水奈瀬幸美はまるで何の迷いもないような顔で、アキのことを見ていた。
「……本当に?」
「本当に――ああ、でも一つだけ嘘をついたかな」
「?」
「少しくらいじゃなくて、きっとたくさん泣くと思う。ちょっとした砂漠なら、緑に変えられるくらいに」
 アキはくすりと笑ってしまう。確かに、この人にはかなわないな、という気がした。
 それから、幸美は逆に質問する。
「私のほうからも訊くけど、私がいなくなったら、アキはどうする?」
「うん――たぶん、泣くと思う」
「じゃあ、それがアキってことね」
 そう言って、幸美は笑った。
 食事が終わってしまうと、アキは食器を流しまで運んだ。それから、
「ひのりちゃんと待ちあわせしてるから、そろそろ行くね」
 と出かける準備をする。といっても、今日は持っていくものなどなかったけれど。玄関で靴をはくと、「――いってらっしゃい」と母親が手を振った。
 アキはとんとん、と靴のつま先をそろえながら言う。
「いってきます」

 バス停まで歩いていると、ほんの少しだけ冷たい風が吹いてきた。遠慮がちに体温を奪っていく、そんな風である。まるで季節が、世界の様子を調べているようでもあった。アキは空気の固さでも確かめるみたいに、左手を前に出して動かしてみた。カバンを持っていないせいで、ちょっと不安になるくらい体が軽い。
 休日の朝早くとあって、バス停に人の姿はなかった。誰もいないベンチに腰かけていると、バスが気づかずにそのまま行ってしまいそうな気分になる。
 けれど、ほどなくバスはやって来て、アキはいつものように席に座った。
 いくつめかの停留所で、ひのりが姿を見せる。アキは手を振って、二人は並んで座った。バスにはいつもの半分も人は乗っていない。心なしか、その動きはいつもより身軽な感じがした。
「さて、今日はどうなりますやら」
 挨拶のあとで、ひのりはそんなふうにおどけてみせた。何といっても、今日が文化祭の初日なのだ。
「……そうだね」
 対してアキは、どことなくぼんやりとしている。ひのりは少しだけ、首を傾げた。
 いつもに比べるとまだ眠っているような街を、バスは通り抜けていく。どこか密度の薄れた風景が、窓の外を流れていった。
「もしも――」
 と、それからしばらくして、アキは口を開こうとした。
 けれどその言葉は体のどこかで引っかかってしまったみたいに、外に出てくることはなかった。
 ひのりは、怪訝な顔をする。
「――もしも?」
「ううん、やっぱりいいよ」
 アキはごまかすように、少し笑った。「……何でもない」
 またしばらく、何事もなく風景が流れていった。街もバスの中も、ひどく静かである。
「ねえ、アキちゃん」
 と、ひのりが不意に言った。沈黙がそのまま形になったみたいに。
「初めて会ったときのこと、覚えてる?」
「……わたしとひのりちゃんが?」
「うん」
 言われて、アキはその時のことを思い出してみた。
「確か、塾で何かのクラスがあったときのことだよね。休憩時間、だったかな。みんなまだ教室の雰囲気に慣れてなくて、ぎくしゃくしてた」
 ひのりはこくりとうなずく。
「私ね、わりと人見知りするほうだったから、その時誰にも話しかけられなかったんだ。本当はおしゃべりしたかったんだけど、緊張してて」
 そう言われると、アキはそんな気もした。
「でね、その時教室の誰かれなく話しかけてて、私にも声をかけてくれた人がいたんだ」
 ひのりは言って、アキのことを見つめる。
「――それが、アキちゃん」
「だったっけ?」
 アキのほうは、あまり覚えていなかった。覚えているのはただ、ひのりに話しかけて、きっとこの子とは友達になれそうだな、と思ったことだけである。
 首を傾げるアキを見て、それも無理はないな、という感じでひのりは笑う。
「私ね、アキちゃんが話しかけて来てくれて、すごく嬉しかった。だって、私も話しかけたかったから。話しかけたくて、でもできなかった。それでね、私は聞いたんだよ。『どうしてそんなふうに、知らない人に話しかけられるの』って。それで、アキちゃんが何て答えたか覚えてる?」
 アキは首を振った。覚えていない。
「……アキちゃんはね、こう言ったんだよ。『だって、そうしたいと思ったから』って」
「――――」
「私は今でも、そのことに感謝してるんだよ。アキちゃんがアキちゃんでいてくれたことに」
 そんなことを真顔で言われると、アキは少し赤くなってうつむいてしまう。けれど――
「でも、わたしは……」
「万有引力とは、ひき合う孤独の力である=v
「?」
 アキは思わず、顔をあげる。ひのりは笑って言った。
「これも、いつか言ったのと同じ人の詩……よくわからないけど、たぶんアキちゃんはアキちゃんの好きなことをすればいいんだよ。きっとそれで、誰かが救われたりもするんだから」
 それが当然のことみたいに、鹿野ひのりは何の衒いもなく言っている。
「…………」
 アキは今朝見た夢と同じように、心がほんの少しだけ温められるような気がした。
 きっと感謝するのは、わたしのほうだ――
 そう、思いながら。
 バスは休日の街を、いつもと同じように走っていく。

 朝のHRでは、文化祭に関する最終確認が行われた。実行委員による段取りの説明のあと、クラス展示の当番が決められる。見学者に解説をしたり、問題が起こったときその処理にあたる役目だった。
 各班ごとのくじ引きで、アキは一番最初のローテーションにまわされる。そのあとは自由になれるので、このほうがアキにとっては好都合だった。
 最後に担任教師から儀礼的な訓示が下されると、開祭式のために講堂へと移動することになる。全校生徒が例の折りたたみ式のシートについてからも、さすがにお祭り前だけあって、なかなかざわめきは収まらなかった。
 壇上で校長先生による演説が終わると、生徒会長である末島賢道によって予定通りに衣織祭の開催が宣言される。
 何だかそれは、すでに演劇がはじまっているような雰囲気だった。
 同時に、予定にはない音楽がスピーカーから流れていく。
 ――『真夏の夜の夢』
 一部の困った顔をしている人のことを思い浮かべて、アキはくすりと笑ってしまう。結局、奇跡をとめることは誰にもできなかったわけだった。
(それとも――)
 と、アキはけれど、考えてみる。
 これは悲しむべきことなんだろうか、と。
 いずれにせよ、文化祭ははじまる。

 ――最後の奇跡が起きるのを、待ちながら。

 文化祭がはじまってしばらくすると、学園内には来客者の姿がちらほらと見られるようになった。生徒の関係者も多いが、一般人の数もそれなりのものになる。市内では有名な学園祭でもあった。
 アキがクラスで当番についていると、思ったよりも大勢の見物客がやって来た。そのほとんどは保護者かその知りあいのようだったが、中には小学生くらいの子供を連れた大人の姿もあった。教師いわく、来年に学園を受験するかどうか考えている人も来るはずなので、できるかぎり品行方正にしていろ、とのことである。
 それはともかく、アキはできるだけきちんとした対応をするように心がけた。来場者には礼儀正しく挨拶をし、展示物について質問してくる人には丁寧にはっきりした声で答える。
 もっとも、同じく当番にあたっている清本啓が積極的に働いてくれるので、アキは特に忙しくする必要はなかった。この少年がどうしてこんなにもやる気なのかは、アキにはわからない。
 そうして清本が老人の一人を展示物のところに案内していると、また一人教室に入ってきた。アキは「おはようございます」と挨拶してから、それが知った顔であることに気づいて渋い表情を浮かべる。
「――む、本当に来たんだ」
 そこには母親の幸美と、その後ろに隠れるようにして弟の姿があった。
「きちんとやってるみたいね、感心、感心」
 予想通り、幸美はからかうような口調だった。
「何で来たの」
 無駄とは知りつつも、アキは訊いた。ほかの人の迷惑にならないよう、小声で。
「アキの恋人でも紹介してもらおうかと思って」
 にこやかに、幸美は言う。
「……いないよ、そんなの」
 今は母親の冗談につきあっているような時間ではない。アキはため息をついてから、なおも小声で訊いた。
「何で、うちのクラスに来たのかってこと」
「そりゃ、来るでしょ。娘のクラスだもの」
 さも当然のように、幸美は言った。
「……恥ずかしいんだけど」
「あら、前にも言ったけど私は全然恥ずかしくないわよ」
 幸美はまるで意に介さないように言う。
「せっかくだから、アキに案内してもらおうかな」
 その時点で、アキは抗弁する気力を失くしてしまった。こうなると、さっさと見物を終わらせてもらったほうが得策というものである。
 アキは立ちあがって、戻ってきた清本と入れ替わるように案内に向かう。幸美がにこにこと挨拶をすると、少年も礼儀正しく頭を下げた。
 少々うんざりしながらも、アキは簡単に展示の説明をはじめる。
 クラス展示は、古今東西の昔話や伝説、童話から、今回の文化祭のテーマに関連したものを調べ、まとめたものだった。例えば、天の羽衣や夕鶴といった話。
「――こうしたものは異類婚姻譚といって、日本じゃ大抵はうまくいかないようにできています」
 聞きかじりの解説を加えると、幸美は「へえ」と感心してうなずいた。
 展示されているのはほかに、ギリシャ神話のオルフェウスとエウリュディケ、邇邇芸命と木色咲耶媛、いばら姫や白雪姫、人魚姫といった物語についてである。ちなみにアキたちの班が調べたのは、七夕伝説についてだった。
 幸美がそのまま展示に目を通していくのを、弟の蓮はやや退屈そうに眺めている。子供が大喜びするような企画でないことは確かだった。
 高等部の女子生徒らしい二人が、この少年のことに気づいて声をかけようとした。が、蓮は恥ずかしそうにアキの後ろに隠れてしまっている。
「弟さん?」
 と、一人がにこやかに話しかけてきた。
「はい――」
 仕方なく弟の前に立ってやりながら、アキは答える。
「可愛いね」
 優しそうな笑顔を浮かべるが、蓮はやはり隠れたままだった。姉とはだいぶ性格の異なる弟なのである。
 二人の女子生徒は特に気にした様子もなく、そのまま行ってしまう。同時に、母親のほうもアキのところに戻ってきた。
「じゃあ、私たちは適当に見てまわるから、アキはしっかりね」
 蓮の手をつなぎながら、幸美は言う。
「言われなくてもしっかりやるから、大丈夫」
「そういえばここのトイレって冷暖房完備なんだね。ちょっと驚いちゃった」
「……もういいから、早く行きなよ」
 アキは力なくため息をついた。
「わかってる。あとはアキの演奏を聞いたら、そのまま帰るから」
「――うん」
「がんばってね」
 そう言うと、幸美は手を振って行ってしまった。
 アキはその最後の言葉だけ箱に入れて蓋をすると、しばらくじっとしていた。

 クラス当番の引継ぎが終わると、アキは弓道場に向かった。ひのりと約束をして、見学することになっている。
 この時間になると、校舎も中庭もかなりの人で賑わっていた。高等部の模擬店から、いろいろな食べ物のにおいが漂ってくる。売り子の声が糸の切れた風船みたいに、その辺を飛び交っていた。
 弓道場まで行ってみると、一般客か保護者関係者かわからない人が、すでに数人ほど場内にいた。学校の中心から離れているせいか、あたりの人通りは少なく、必ずしも盛況とはいえない状況のようだった。
 アキは玄関口からひのりの姿を探してみたが、どういうわけかどこにも見あたらなかった。そうしてきょろきょろしているうちに、知った人に声をかけられる。
「鹿野なら、まだ来てないよ」
 見ると、葛村貴史だった。もちろん、弓道衣を着ている。道場で見ると、その姿はあつらえたようにその場になじんでいた。学校案内のパンフレットに使えば、入学希望者が増えるかもしれない。
「……都合でも悪くなったんですか?」
 と、アキは訊いてみた。
「いや、特には聞いてないな。おおかた、親御さんにでも会って、案内をしてるんじゃないかな?」
 さもありなん、とアキは得心している。
「鹿野に何か用事でもあったのか?」
 葛村は親切に訊いた。
「いえ、ただのひやかしです。招待されていたので」
「なるほどな」とうなずいてから、葛村は言った。「じゃあ、鹿野が来るまで俺が案内するよ」
「――いいんですか? でもわたし、弓のことなんて何も知りませんよ」
「だから俺たちがいるんだろ」
 葛村は軽く笑ってみせた。
 靴下で床に上がると、アキは射場の隅に通される。道具一式を並べられ、一つ一つについて説明を受けた。弦のかかった弓、胸当て、手袋のような弽、甲矢と乙矢。さすがに、弓道衣を着るところまではいかない。
 それから弓の引きかたについての簡単な説明があり、葛村は実際に構えをとってみせた。背丈よりも大きな長弓がしなり、弦月のように変形する。強力な動的緊張を感じさせながら、その姿勢はあくまで静的だった。
 息を抜いて、葛村は弓を戻す。弓を傷めるので、素引きの時は弦を離してはいけないのだそうだ。
 動作の細かいところを注意されながら、アキも弓を引っぱってみた。初心者用に軽く張られた弦らしく、たいして力のないアキにも何とかいっぱいまで引くことができる。
「わりと筋はいいよ」
 と、葛村は素直に誉めた。
「そうですか?」
 自分の構えを確かめる余裕などなかったが、それでも悪い気はしない。教えられた射法八節を意識してみながら、アキは遠くの的に向かって何度か構えを繰り返してみた。
「…………」
 不意に、一瞬だけ光った流れ星に気づいたみたいにして、葛村は言った。
「弓道って、何だと思う?」
「――はい?」
 ちょうど的を狙って弓をしぼっているところで、アキは葛村のほうを見ることができなかった。矢をつがえてはいなかったけれど。
「例えば禅問答みたいだけど、弓にはこんな言葉がある。的を射る前に狙おうとするな≠ニか」
 そんなことを言われても、今まさにそうしているところだった。
「和弓ってのは、実はたいした射程距離はないんだ」
 葛村は、家庭教師が丁寧に教えるようにして説明する。
「普通よくある近射場は、的までの距離が二十八メートル。基本的に、的には当たったかどうかだけが問題になる。それに比べると、洋弓は百メートルで点数を競うんだ」
「…………」
 アキは息をつめたまま、じっと的場のほうに弓を構えていた。
「つまるところ、弓道っていうのは純粋な意味でスポーツとは言えないところがある。武道全般と同じで、それはむしろ正しい在りかた≠問うための手段みたいなところがあるんだ。矢を的中させることは、弓道の目的とは言えない。その本当の目的は、弓という一連の行為をどう認識するか、結局はそういうことになるんだ――ごめん、もう構えを解いていいよ」
 言われて、アキはようやくほっと息をついて力をゆるめた。さすがに、もう限界である。
「大体、いい感じだよ」
「正しい在りかた≠ェ、できてますか?」
 葛村は訊かれて、ちょっといたずらっぽい顔をする。
「実のところ俺は、別にそんな難しいことなんて何も考えていないんだ。本当の目的とか認識とか、そんなのたいしたことじゃない。俺はただ、弓を飛ばすのが面白いからやってるだけだよ」
「…………」
「けど、俺はそれで十分だと思うんだ。正しいとか、正しくないとか、結局はたいした問題じゃない。だって、それこそ認識の問題なんだからな。問題なのは、自分が本当は何を望んでいるのか、そういうことだろう? そのために、何かを犠牲にする必要なんてない。幸福になるって、きっとそういうことだと思うんだよ」
 アキは両手で弓を抱えたまま、葛村のことを見ている。葛村はそして、ちょっと肩をすくめるようにして言った。
「――と、誰かに言ってやりたかった気がするんだけどな、俺は」
「誰か?」
 葛村はどこか寂しそうに笑った。
「覚えてないけど、そんな気がするんだ。すごく仲のいい誰かだったはずなんだけどな。何で覚えてないのか、不思議なんだけど……」
 その時、不意に後ろから声がしている。アキが振りむくと、そこにはひのりが立っていた。
「――ごめん、遅れちゃって」
「いいよ、どうせお父さんかお母さんの案内でもしてたんでしょ」
 訊くと、ひのりはきょとんとした。
「どうしてわかったの?」
「……だと思った」
 葛村貴史はそんな二人に軽く笑ってみせてから、
「――じゃあ俺は宣伝がてら、クラスのほうに顔を出してみるよ。あとは鹿野に任せたから」
 そう言って、弓道場から出て行ってしまう。
 玄関からその姿が消えるのを見送ってから、ひのりは訊いた。
「アキちゃん、先輩と何を話してたの?」
「……弓道における目的について、かな」
 アキは適当にうそぶいてみる。
「何それ?」
「不純な動機でも、本人が望んだならそれで構わないってこと」
 ちょっとからかうようにして、アキは言った。
 そのあと、的に向かって実際に矢を放ってみることになった。とりあえず一本だけ矢を持って、弓につがえてみる。矢の持ちかたや放ちかたを説明されながら、アキはふと思いついたみたいにして訊いてみた。
「――ひのりちゃんてさ、葛村先輩のことが好きなの?」
「うん、そうなんだ」
 冗談ぽく言ったはずなのに、あっけなく答えられてしまっていた。まるで、当たり前のことみたいに。今すぐ世界中の人間に知られたって、全然構わないという感じで――
 そんな態度に、何故だかアキのほうが逆に赤面してしまっている。
(……やっぱり、この子のこういうところがすごいんだよね)
 と、アキはあらためて思わざるをえない。
 それから、ひのりの指導のもとで、アキは人生初めての行射に挑戦した。足の位置から、胴造り、弓の構え。教えられたとおりに、左の弓手を強く押して、右の馬手はその三分の一くらいの力で引く。できるだけ、肩はあげないようにした。
 正直なところ的までの距離は月を見るみたいに遠すぎて、アキは不安な気持ちにしかならなかった。まっすぐ飛べば上出来だと聞かされたので、できるだけ余計なことは考えないようにする。
「――――」
 やがて自分でもびっくりするくらいの勢いで飛び出した矢は、的からだいぶ外れた安土に突きささった。弓がぶるぶると震えて、アキは危うく落としそうになってしまう。
「初めてで的場まで届くなんて、たいしたもんだよ」
 と、ひのりは笑顔で誉めた。
「そうかな?」
 もちろん、アキにはよくわからない。
「うん、アキちゃんも弓道やったらいいんじゃないかな」
「――それは遠慮しとくよ」
 アキは苦笑して答える。誰かさんと違って、アキにはそれほどの動機は見つけられそうになかった。

 写真部の展示は部室ではなく、特別教室の一つを使って行われていた。
 アキが入口からのぞいてみると、ちょうど昼前のせいか人影はなかった。受付けのようなスペースには、和佐葵が一人だけ人形みたいな格好で座っている。
 葵はさすがに、ヘッドフォンはしていなかった。その器具を装着していない彼女は、地面から引き抜かれた植物みたいで、何となく弱々しい感じがした。誰かが今すぐちゃんとした場所に戻してやるべきのようにも思える。
 アキは軽く手を振って合図をしてから、葵のところまで歩いていった。
「どうですか、展示のほうは?」
 ごく一般的な儀礼として、アキは尋ねてみる。
「順調」
 と、葵はどこかに展示できそうな簡潔さで答えた。
「ほかの部員の人は?」
「休憩中、午後になったら交代する」
「お昼前だから、見に来る人は少ないみたいですね」
「かもしれない」
 相変わらず、短い返答だった。
「……えと、これって勝手に見てもいいんですよね?」
 室内にはいくつかのパネルが置かれ、そこに写真が飾られていた。題名や短いキャプションのついたものもある。
「構わない」
 言われて、アキは写真の一つ一つを見てまわることにした。
 展示されているものは、カラー写真のほうが多いようだった。夕陽や雲、海といった自然を題材にした風景写真や、人物のポートレート、卵の割れる瞬間や水滴の撥ねる様子を捉えたものもある。
「――ふむ」
 と、アキは感心した。それらは、写真にしか写しとれないものだった。普通なら見すごしてしまったり、気づかなかったりするもの。それは小さく切りとられた時間の中にしか存在しない――
 とはいえ、中には練習作品みたいなあまりぱっとしないものもあった。よく見ると、それがクラスメートの清本のものだとわかる。どうやらまだまだ修行が不足しているようだった。
 そうして時間の旅でもするみたいに写真を見ていくと、アキは不意に足をとめている。和佐葵の写真が、そこに飾られていた。
 相変わらずのモノクロ写真の中に、一枚だけ色の着いた写真が混じっていた。そのカラー写真にはタイトルがつけられていて、『ワタシノサクラ』と書かれている。
 それはあの時の、季節外れに満開になった桜を撮影したものだった。桜のそばには、誰か人の姿がある。
(これ、わたしだ……)
 アキはちょっと不思議な気持ちで、その写真を眺めた。
 印画紙には大きく桜の全景が捉えられ、その下にそっと手をのばすアキの姿が撮られている。その姿はごく小さなものだったので、知っている人間でなければ誰なのかはわからないだろう。写真の中の彼女は、まるで古い友人にでも会ったみたいにじっと桜を見つめている。
 その写真だけはほかのものと違って、世界から直接つながっている、という感じだった。手をのばせば、届いてしまいそうなくらいの距離の近さで。
「それ――」
 と、急に横で声がした。いつのまにか、葵が隣に立っている。
「勝手に使わせてもらった」
 言われてみれば、確かにそうだ。
「わたしは全然、構わないです。というか、わたしなんか写してよかったんですか……?」
「うん、これでいい」
 そう言う葵の表情は、心なしか普段よりも柔らかいような気がした。
「でも珍しいですね、葵さんがカラーの写真だなんて」
 てっきりモノクロしか撮らないのかと思っていたのだが。
「……それは、私の見たものだから」
 と、葵は言う。
 アキはいつか、葵の言っていたことを思い出していた。自分と他人の目に映っているものの違い。それを近づけるための手段としての写真。葵にとって、世界の大部分は自分でない誰かのものだった。
「その写真を見たとき、思い出したことがある」
 葵はぽつりと、つぶやくように言った。カードで積みあげたピラミッドを前にしたみたいに、何かを壊してしまわないように、という感じで。
「昔、誰かに言われたこと――私にみんなの見ているものがわからないみたいに、みんなにも私の見ているものがわからない。だから、みんなだってやっぱり、私の見ているものを知りたいと思ってる。私はただ、私の見ているものをそのまま伝えればいい。確か、そんなふうに」
「…………」
「私が葉っぱの裏側を見るのをやめて写真を撮りはじめたのは、その頃だった。私の見ているものを伝えるために。もうずっと、忘れていたことだけど」
 葵の言葉を聞いて、アキはあらためて『ワタシノサクラ』と題された写真を眺めてみた。
 その写真がこんなにも近くに感じられるのは、きっとそれが和佐葵と直接につながっているからだろう。そこには彼女の瞳が持っている、世界に対する透明なまなざしがあった。
 同じ種類のまなざしをしていた人間は、もういないのだけれど――
「すごく、いい写真ですね」
 アキはそっと、何かを手渡すように言った。その写真がそんなふうに見えるのは、きっと彼女の見ているものが、きれいだからなのだと思いながら。

 昼食時だけあって、模擬店はどこもかなりの人だかりを見せていた。仮設テントの中で、高等部の生徒が忙しそうに働いている。見上げると、薄く色を塗られた画用紙みたいに秋の空が広がっていた。
 店舗の通りから少し離れた広場には休憩用のテーブルやイスが並べられていて、休んだり食事をとったりしている人々がいた。特殊なレンズを透したような陽射しが注いで、時折風が涼しく吹いていく。
 人ごみを避けて歩きながら、アキは広場を抜けて正門付近に足を向けた。そこには満開になった桜が、まだ散りもせずに咲き誇っている。何人かの来客者が足をとめて、珍しそうにそれを眺めていた。子供が一人、母親のほうを見て春を見つけたみたいに嬉しそうな笑顔を浮かべる。
「…………」
 アキは指でフレームを作ると、左目をつむって桜を眺めてみた。弓道と違って、こちらのほうは才能がなさそうだった。どうやっても、葵のようにうまく写真を撮れる自信はない。やはりそれは、世界の見えかたが人によって違っているせいかもしれなかった。
 指を戻して、アキはじっとその場にたたずむ。
 この奇跡を起こしたのは、杜野透彦なんだろうな、とアキは思った。季節外れの、けれどきれいな桜の花。それを幼なじみの和佐葵に見せるために。
 彼が、それを願った。
 その時、アキは正門付近の仮設テントに知った顔を見つけた。来校者の受付けや案内をするための場所らしい。そこで、仕事をしているようだった。
「――古賀さん」
 と、アキはテントの脇から声をかけてみた。
 古賀唯依は文化祭のパンフレットの整理をしていたようだが、アキのことに気づいて顔をあげた。そのあいだ、来校者への対応には別の生徒会役員があたっている。
「あの、まず聞いてもいいですか?」
 とアキは古賀の姿を見て言った。
「いいよ」
「その格好は――?」
 生徒会副会長は袖の膨らんだ、宝塚的な青い服を着ていた。この少女がそういう格好をすると、男装の麗人といえなくもない。
「うん、たぶん聞くと思った」
 と機嫌を損ねた様子もなく、古賀は言った。
「……もしかしてそれ、リボンの騎士≠ナすか?」
 アキはうろ覚えの記憶をたどりながら訊ねる。
「わかるかな?」
 古賀は苦笑してうなずく。「手芸部で作ってもらったものなんだけどね」
「よくできてますね」
 アキは感心した。
「――でも水奈瀬さん、よくすぐにリボンの騎士だなんてわかったね。帽子とレイピアをつけるともっとわかりやすくなるんだけど」
「そりゃ、まあ……」
 実際には、弟の持ち物であるそのマンガを読んだことがあるだけだったけれど。
「その格好、古賀さんの趣味ってことはないですよね?」
 アキは再び、質問してみた。
「半分は趣味みたいなもの、かな。これ、生徒会の企画なの」
「生徒会の?」
「そう、『私を見つけてください』っていう企画」
 古賀の説明によれば、それは学園内に散らばる様々なキャラクターに扮装した生徒を見つけだす企画らしい。有志の参加者はめいめいが好きな格好をして任意の場所をうろついている。ヒントを元にして彼らを見つけだし、全員からキーワードを聞きだせば、出題された問題が解ける仕組みになっていた。
「問題って、何ですか?」
「はい、これ――」
 古賀に渡されたのは、一枚の紙だった。参加者に関するヒントと、キーワードを埋めるためのクロスワードパズル風のマスが用意されている。キーワードは、参加者の仮装するキャラクターの名前をあてられれば、教えてもらえることになっていた。
「えと、ということはそうか、確かサファイア姫≠ナしたよね」
「――正解」
 古賀はにこりと笑った。
「私のキーワードはワレモコウ≠諱Bちなみに景品に何をもらえるかは、まだ秘密だから」
「生徒会もいろいろ大変ですね」
 アキは軽く嘆息した。
「ヒントを元に参加者を見つけるんだけど、案外難しいかもしれないよ。中には凝った扮装をしてる人もいるから」
 言われて問題用紙を見てみると、ヒントの中には「ぼくはトルコの天文学者が発見したB612という小惑星から来ました」と書かれているものがあった。ウルトラマンではなさそうだが、かといってこれでは何のことかわからない。
「これ、正解する人いるんですか?」
 アキは疑わしげに紙を眺めている。
「そうだね、もしも全員見つけられる人がいたら、どんな人でも見つけられるかも」
 古賀は冗談ぽく笑う。それを聞いて、アキはふと思いついたようにして訊いた。
「でもそれは、見つけるべき人がちゃんとそこにいれば、ですよね――」
「本当に会いたいと思ってる人なら、きっと何とかして会えるよ」
 何の迷いもないような口調で、古賀唯依は言った。まるで、何かをそっと守るみたいに。
「ロミオとジュリエットと同じで、それが悲劇みたいな結末を迎えるかもしれない。幸福はいつも、そう簡単にはやって来てくれない。でも私は、わりと奇跡っていうのを信じるほうなんだよね。それから、ハッピーエンドも」
 そう言って、古賀はテントの向こうにあるものを見る。
 ――そこには、まるで当たり前のような顔で桜の花が咲いていた。

それにしても、僕は今までに恋をしたなんて言えるだろうか? いや、違う。本当の美しさを見るのは今夜が初めてなのだから

 舞台上で、ロミオ役の男子生徒が胸の思いを語っていた。
 場面はちょうど、キュピレット家の広間で舞踏会が開かれているところである。ロミオはここで初めてジュリエットの姿を見て、宿命的≠ネ恋に落ちる。約束された悲劇へ向かうための恋だった。
 アキは舞台袖から、その光景を眺めていた。演劇部の生徒たちはみな堂々とした演技で、練習の成果を遺憾なく発揮している。夢の中の出来事を、そのまま外科手術でもして取りだして来たみたいにも思えた。
 やがて二人は例のポスターのように、庭園のテラスで手をあわせることになる。劇中で、もっともよく知られているであろう場面の一つだった。
「――そんなところで何をしている?」
 と声をかけられたのは、その時だった。
 アキが振りむくと、そこには神坂柊一郎が立っている。舞台袖には必要最低限の照明しかなかったが、それでもそれくらいはすぐにわかった。
「舞台を見てるんですよ」
 アキはむしろ、ほかに何をしているように見えるのかと質問しているような言いかたをした。
「ここが観客席になったなんて話を、俺は聞いてないんだがな」
 神坂は負けず劣らずのシニカルな口調で言った。二人はもちろん、舞台進行に支障のないようにごく小さな声でしゃべっている。
「次が出番なものですから――」
 と、アキは悪びれもせずに答えた。
「せっかくだから、ここで見てようかと思って」
「大人しく控え室で待機していろ」
 神坂は迷惑そうな顔をした。責任者としては、当然ではあったが。
「だって、それじゃあ劇が見れないじゃないですか」
 さも当然のことのように、アキは言っている。
 軽く脱力したように、神坂はふっと息をはいた。これ以上議論しても仕方がない、と思ったのだろう。それに、この場所にいたところで舞台進行に特別の問題があるというわけでもない。
「先生こそ、どうしてここにいるんですか?」
「……俺がここにいないほうが、不自然だという発想はないのか?」

でも、名前がどうだというのだろう? 私たちが薔薇と呼んでいるあの花のことを、例え別の名前で呼んだとしても、その香りに違いはないはずなのに

 そうしているあいだにも場面は変わって、ああ、あなたは何故ロミオなの……?≠ニいう有名な独白シーンに変わっていた。ロミオが蔦を伝ってテラスに現れる、見せ場の一つである。
「よく知られたセリフだが」
 と、神坂は独り言のようにして言った。
「別の人間に言わせると、バラがアザミとかキャベツなんて名前だったら、とても同じように香るとは思えない≠ニいうことになるがな」
「……一理ありますね」
 アキはしばし黙考したのち、同意した。
 舞台では、生徒たちがかなりの長広舌をよどみなく口にしていた。相当の練習量を感じさせる演技である。
「そういえば、美乃原から伝言を頼まれている」
 と、神坂は不意に言った。
「……伝言ですか?」
「ああ、少し遅刻すると言っていた。ぎりぎりまで姿を見せなくても心配するな、ということだ」
 アキはちょっと首を傾げている。
「どうして先生が、そんなことを頼まれるんですか?」
「俺のほかに誰がいる? プログラムの順番からいえば、当然のことだろう」
「……それもそうですね」
 いつかと同じように何か釈然としないものを覚えたが、アキは黙っていた。
 場面はまた変わって、僧院で二人が結婚の誓いを交わすところだった。いつぞやアキが練習中にのぞいた場面である。この神聖なる結婚に神の祝福のあらんことを。そして後日にいたり、悲しみを下して我らを責められることなきよう!
 ここからは、月が欠けるようにして悲劇的な展開がはじまることになる。
「――そういえば、いつか宮藤晴という少年のことについて訊いたな」
 と、神坂は何の前触れもなくいきなり言った。
「?」
 アキが見ると、この数学教師はまっすぐ舞台のほうを見つめている。
「訊きましたけど、それが何か?」
「何故、そんなことを訊いたのかと思ってな」
「……深い意味はないです」
 と、アキはごまかした。
「それより、先生こそどうして急にそんなことを訊くんですか?」
 神坂は訊かれても、視線を動かそうとはしない。ただ、その口元はほんの少しだけおかしそうに笑っていた。
「――喜劇である『夏の夜の夢』が最後にどうなるか、知っているか?」
 何故か、神坂は急にそんな話しをした。
「ちょっとした手違いで行き場を失った四人の男女の恋路は、結局は同じ妖精の働きによってハッピーエンドに終わる。すべては夏の夜の夢のごとし、というわけだ」
「…………」
「そのための機械神(デウス・エクス・マキナ)としての役割を担うのが、妖精王のオベロンだ」
 神坂はそこではじめて、アキのほうを見た。
「――さて、この文化祭にオベロンはいるかな?」
 舞台上では、四百年以上も続く少年と少女の悲劇が、今日もまた繰り返されていた。

 演劇が終わって休憩時間になったとき、美乃原咲夜はようやく姿を見せていた。
 厚い緞帳の下りた舞台には、すでにピアノが用意されている。悲劇は塵一つ残さずに片づけられてしまって、今は照明があたりを明るくしていた。見えない客席からは、不規則な雨音みたいにざわめきが聞こえている。
 咲夜はピアノの前に座って、調子を試すように軽く鍵を叩いていた。まるで、母親が子供を寝かしつけるような具合に――
「……間にあわないかと思って、かなり不安でしたよ」
 と、そんな彼女の様子を眺めながら、アキは言った。
「大丈夫だって言ったでしょ?」
 意に介したふうもなく、咲夜は答える。
「でも、万が一ってことはありますから――」
「その時は水奈瀬さんのソロコンサートを開けばいいだけだから、問題ないわね」
 もちろん、大問題だった。
 やがて時間が来て、開演を告げるブザーが響く。緞帳が音もなくあがって、暗い観客席が出現した。舞台上では、ピアノだけが光の下で大人しく待機している。
 アキが舞台袖からそっとのぞくと、客席にはかなりの人数がいるようだった。そういう気配の密度のようなものが、伝わってくる。舞台の側から見ると、その場所は夜の海みたいに不気味な感じがした。
「――それじゃあ、行ってくるから」
 咲夜は言って、舞台の中央へと向かった。彼女の様子はその辺の草むらにちょっと花でも摘みに出かける、といった風情で、あまり緊張しているようには見えない。
 実際、咲夜はピアノの前に座ると、ひどく落ち着いた感じで上演を開始した。
 まずマイクを使って自己紹介をすませると、これから演奏する曲についての短い解説を行う。ピアノだけでなく、司会進行までこなしている格好だった。たいしたものだというしかない。
 やがて鍵盤の上に指を置いて、美乃原咲夜は演奏をはじめる。それは聴衆の耳を自然とひきつけるような、特別な音色を持っていた。正しくカットされた宝石が、普通よりもずっと強い輝きを放つみたいに――
 演奏する曲目は、ブラームスの『愛の夢』やリストの『愛のワルツ』などだった。大部の編成曲はなく、どれも小品で、聴いていると気の利いたプレゼントでも贈られたような気分になる。足を運んで聴くだけの価値はあった。
 アキは最後の曲になってから、ヴァイオリンを持って舞台に登場する。
 立ち位置の関係上、アキがピアノの前に出て客席の正面に立たなくてはならない。暗闇の中に沈む観客席は、ピノキオが飲みこまれた巨大な鯨の口蓋でも見るようで、ひどく心もとない感じがした。アキは急に、心臓の音が気になりはじめている。
『この曲は、特別にヴァイオリンの伴奏をお願いしました……』
 と、咲夜がマイクを使って説明をはじめる。アキのことを紹介し、曲の解説を加えた。それが終わってしまえば、アキは演奏をはじめなければならない。
(今さら、やめるなんてできないよね――)
 さすがに、アキは緊張した。ある程度は想像していたとはいえ、こんな役引き受けなければよかったのに、と思ってしまう。どこかにつかまっていないと、目が回ってしまいそうだった。服の襟やスカートの襞が、やけに気になる。お昼を食べたのはいつ頃だったっけ――
 けれど時計の針はきちんと動いていて、咲夜は口上を終えてマイクを置く。そうして、アキに向かって目で合図をした。
「――――」
 それまでの緊張も、余計な思考も捨てて、アキは集中する。自分でも驚くくらいの落ち着いた動作で、ヴァイオリンを肩に当てた。震えは消えて、音のイメージだけが頭に広がる。
 アキはこくりと、うなずいた。
 そして最初の一音が、ゆるやかに空気を震わせる。弦の振動が、柔らかに音楽を紡いでいった。
 エドワード・エルガーの『愛の挨拶』――
 それは威風堂々で知られる作曲家が、婚約の際に妻に贈った一曲だった。たおやかな、花の蕾を両手でそっと包んだような旋律。眠りの中で幸福な夢を見るような、それは静かで穏やかな音楽だった。
 アキは思い出の品を大切に扱うような気持ちで、弓を弾き、弦を押さえた。できるだけ世界を、優しく、柔らかくするように――
 短い演奏が終わると、講堂には温かな拍手が響いていた。アキはその時になってようやく、曲が終わったことに気づいたみたいにして咲夜のほうを見る。彼女はあらためてそれを告げるように、うなずいてやった。夜が明けたばかりの太陽に似た笑顔を浮かべて。
 二人がお辞儀をして舞台袖に下がったあとも、客席からの拍手はしばらく鳴り続けていた。

 舞台袖に戻ってくると、アキは大きく深呼吸をした。体の中にあった重い塊が、音もなく解けていくような気がした。
「――お疲れさま」
 と、咲夜が声をかける。アキは何とか笑ってみせた。
「いい演奏だった。やっぱり、一人で弾くのとは違うものね。お客さんの反応もよかったし」
 咲夜は満足そうな表情を浮かべる。
「だといいんですけど……」
 アキには聴衆の反応を確かめる余裕などなかったし、あの拍手のほとんどは咲夜に向けられたものだろうと思っている。
「とにかく、ありがとう。無理なお願いを聞いてもらって」
 咲夜は労うように笑顔を浮かべた。
「…………」
 ちょっと黙ってから、アキは言った。
「わたしも、一つお願いをしてもいいですか?」
「何?」
「このあと、先輩と旧校舎で話がしたいんです」
「――どうしてかしら?」
 美乃原咲夜の問いに対して、アキは再び深呼吸をしてから答えた。
「もう終わってしまった物語を、もう一度終わらせるためです」

 アキが一人でグラウンドを通って旧校舎へ向かうと、まるで水底にでも沈むみたいに物音が小さくなっていった。歩いていると、少しずつ世界から切り離されていくようにも思える。
 旧校舎の中に入ってみると、そこは相変わらずしんとしていた。人影はなく、文化祭の賑わいも遠い。何だかそれは、たった一つの物語だけを抱えて、扉を閉じてしまった世界に似ていた。
 アキはできるだけその物語を壊さないように、ゆっくりと階段を昇った。その物語は、一年も前にもうすっかり終わってしまっていたのだけれど。
 三階の廊下を歩いているところで、アキはふと足をとめた。グラウンドに大勢の人が集まって、空を見あげている。
 そこからは、大きな熱気球が降りてことようとしていた。
 時々、ゴンドラのところで火力を調整しているのが見える。タンポポの綿毛か何かみたいに、その気球はゆっくりと地面に向かっていた。浮力を得るための球体部分には、星座をデザインしたイラストが描かれている。
 ――星が、降ってきたのだ。
 アキは葛村貴史と初めて会ったときのことを思い出す。確か、彼がそんなことを言っていたはずだった。気球はおそらく、風向きの都合か何かでグラウンドに避難してきたのだろう。でもそんな理由はともかく、これは彼の願い≠セった。
 夢が覚めるみたいに気球が地面に触れるのを確認して、アキは廊下の先へと進んだ。そこには「音楽室」と書かれた、古いピアノの置かれた部屋がある。
 扉は開いていた。美乃原咲夜は、すでにそこにいるのだろう。
「…………」
 アキが入口のところに立つと、中では咲夜がノートを手に持って眺めていた。もちろんそれは、例のノートだ。杜野透彦が書き残していった日記。
「今、四つめの奇跡が起こりました」
 とアキは伝えた。
「……そう」
 時計の針でもあわせるように、咲夜はゆっくりと顔をあげた。
「そのノートが何なのか、先輩にはわかりますよね?」
「いいえ」
 と、咲夜は首を振った。
「私はこんなもののことなんて知らないし、ここに書かれていることについても知らない」
 アキは窓際まで歩いていった。かつてクラブのメンバーだった五人が、よくそうして集まっていた場所に。
「そのノートには、すべてが書かれていたわけじゃありません」
 アキはその場所で、まっすぐ咲夜のほうに体を向けた。咲夜はノートを持ったまま、ピアノのそばに立っている。
「ノートを読んでわたしにわかったのは、杜野透彦がどんなふうに世界を眺めていたのか、ということだけです。そこにはただ、日常としての毎日が書かれていました。魔法なんて登場しません。本当はそんなものは必要ないって、杜野さんにはわかっていたのかもしれません」
「…………」
「杜野さんがどうしてそれを願い、それを叶えてしまったのか、本当のところはわたしにもわかりません。ただその願いや、思いに、ほんの少しだけ見覚えがあるような気がするだけです。行ったことも触れたこともない遠くの月を、それでも眺めているみたいに」
 咲夜はため息でもつくように首を振った。
「さっきから何を言っているのかしら、あなたは?」
「――これがもう終わってしまった物語だということはわかっています」
 アキはまるで気にしたふうもなく、続けた。
「それでもわたしには、そのままにしておけないんです。きっと、何とかする方法があるはずだから……」
 それでもやはり、咲夜は首を振るだけだった。
「何を言っているのか、わからないわね」
「いいえ、先輩は知っているはずです」
「…………」
「美乃原先輩――」
 と、アキは星の光をそっとつかむようにして言った。
「あなただったんですよね、魔法使いは」

「…………」
 美乃原咲夜はどういう反応もなく、ただ黙っていた。アキもじっと、口を開こうとはしない。時間の動く音が聞こえてきそうだった。
「――何の話かしら、それ?」
 やがて咲夜が、あくまで見当もつかないといった様子で言う。
「魔法使い? いったい何のことかしら?」
「人が言葉を覚えて、忘れてしまった力。かつての完全世界にあったもの――それが、魔法です」
 いつか教えてもらったことを、アキは口にした。
「本気で言ってるの?」
 咲夜は憐れむような目つきをする。あるいはそれは、自分に向けられたものなのかもしれかったけれど。
「――そうです」
 アキは迷うこともなく、うなずいた。
「私が魔法使い?」
「はい」
「箒に乗って空を飛んだり、嫌いな人間をカエルに変えたりするのかしら」
「もしかしたら、できるかもしれません」
「……面白いわね」
 咲夜は口に手を当てて、典雅な感じに笑った。
「いったいどういう理由で、私が魔法使いだなんて言うのかしら?」
 アキはここに来るまでのあいだに考えておいたとおりに、話しはじめた。
「――まず、先輩は神坂先生と知りあいですよね?」
「同じ学校の生徒と先生だもの。そうだとしても、別におかしなことはないと思うけど。あの先生は三年の担当でもあるしね」
「知りあいといっても、もっと個人的なものです」
「…………」
「さっきの演奏会、先輩はどうして神坂先生に伝言を頼んだんですか?」
「ほかに誰に頼めばいいのかしら?」
「誰でもよかったはずです」
 アキは即座に否定した。
「――前に、先生はこんなことを言ってました。演劇部の部員には『俺がいなくても大丈夫なように指導してある』って。もしかしたら先生は、舞台袖にいるつもりはなかったんじゃないでしょうか。観客席で、劇の出来ばえを確かめるつもりだったのかも」
「頼めば、伝言くらいのことはしてくれるでしょう?」
「かもしれません。でももう一度言うと、それは誰でもよかったはずです。先生である必要はありません」
 咲夜は少し黙った。
「それと少し前、わたしが図書室で調べものをしていると先生が話に来ました。どうしてだか、先生はわたしが幸福クラブ≠ノついて調べていることを知っているみたいでした。でもそれは、おかしなことです。わたしが暗号に気づいて、残ったメンバーの四人に話を聞いたのは、その一日前のことでした。噂が広まって先生の耳に入るには、いくらなんでも短すぎます」
「だから、四人の中の誰かが先生にそのことを教えたんだろう、と?」
 訊かれて、アキはうなずいた。
「だとしてもそれが私とは限らないし、第一、先生と知りあいだからどうだということにはならないでしょう?」
「先生は魔法使いです」
 咲夜は、今度は笑わなかった。
「……確証はないですけど、たぶん間違いないです」
 あの時――
 舞台練習中に話を聞いていたとき、神坂柊一郎から感じた揺れのようなもの。あれは確かに、魔法によるものだった。
「ずいぶん突飛な話みたいだけど」
 咲夜はそう言って、ノートをそっとピアノの上に戻した。
「でもそれだって、私には何の関係もない話だわ」
「確かにそうです」
 アキは逆らわなかった。
「先輩は先生と個人的な知りあいかもしれない。先生は魔法使いかもしれない。それだけの話です……ではここで、少し話を整理してみましょう」
 アキは一度言葉を切って、それから続けた。
「まず、二年前のことです。学園に、幸福クラブ≠ニいう秘密の団体が作られました。その目的は、生徒の願いを聞いて、それを叶えることです。それから一年たって、クラブは解散しました。理由はわかりません。そして同じ時期に、学園の生徒が一人行方不明になった……杜野透彦のことです」
「…………」
「その少し前にあった文化祭で、四つの奇跡≠ヘ起こりました。消えない虹がかかり、空から飴が降ってきて、階段に一瞬で絵が描かれ、象が迷いこんできた。そしてまた一年後、今年も同じように四つの奇跡≠ヘ起きました。まるで、誰かがそうしているみたいに」
「魔法でそうした、とでも言いたいの?」
「――いえ」
 アキはあまり自信はなさそうに首を振った。
「そのことは、わたしにはよくわかりませんでした。わたしには、それが魔法によるものだと思えなかったんです。あの揺らぎ≠フようなものが感じられなかったから。もしあれが魔法だとしても、それはきっと偽物の魔法なんだと思います。もしくは、ずっと前にもう使われてしまった、魔法の名残りみたいなものなんじゃないかと」
「…………」
 アキは話を続けた。
「でも幸福クラブ≠ニ文化祭の四つの奇跡≠ノ何か関係があるのかは、わかりませんでした。まったく無関係なのかもしれない。だからここではまず、関係があるとして話を進めます」
「その仮定が正しいという根拠はあるのかしら?」
「わたしの勘です」
 アキは冗談でもなさそうに笑った。
「それはともかく、幸福クラブ≠ノついて話をしましょう。彼らがいったい、何者だったのか」
「いつだったか、私のところにも質問に来たわね」
 それはちょうど、一昨日の同じこの場所でのことだった。
「――そうです。わたしはクラブの掲示板を調べていて、あることに気づきました。ハンドルネームから、本人の学籍番号をたどれる、ということについてです」
 アキはメモ帳を開いて、咲夜に示してみせた。
「それを調べれば、メンバーの五人が誰なのかがわかります。葛村貴史、和佐葵、古賀唯依、杜野透彦、そして美乃原咲夜」
「残念だけど――」
 と、咲夜は落ち着いた声で言った。
「私にはそんな覚えはないわね。例え私の名前があったとしても、何かの偶然か間違いじゃないかしら」
「でも先輩は、杜野透彦について知っていますよね?」
 確信的なその口ぶりに、咲夜はわずかに怯んだ。
「――いいえ、知らないわ。あの時もそう言ったはずだけど」
「そんなはずはないです」と、アキは首を振った。「わたしもずっと気づかなかったですけど、あの時先輩が何て答えたか覚えてますか?」
「……?」
「先輩はこう言いました。『そんな生徒のことは聞いたこともない』って。でもあの時、わたしは一言も杜野透彦が学園の生徒だなんて言ってはいないんですよ……」
 咲夜が口を閉ざしたのを見て、アキはにっこりと笑った。
「これでちょっとだけ、つながりが見えてきたと思いませんか?」
「そうかしら」
 咲夜はあくまで、その態度を崩そうとはしない。ババ抜きでジョーカーを引いて、それでも隠しとおすみたいに。
「――わたしのそもそもの疑問は、だいぶ前に遡ります」
 と、アキはそれには構わずに言った。
「先輩がわたしにピアノの伴奏を頼んできたときです。実はそのことが、最初から少しおかしかったんです」
「別におかしくはないはずだけど」
「いいえ、実はおかしいんです」
 アキの強い口調に、咲夜は再び口を閉ざした。
「あの時、わたしが伴奏を頼まれたのはかなり急なことでした。それ自体は、とりあえず良しとします。曲は一つだけだし、ちょっとしたおまけみたいな役目でした。そのことには、無理はありません」
「…………」
「でも先輩はどうして、小菅部長を通してわたしに頼んだんですか? まさか、わたしが新聞部の人間だと知っていたわけではないですよね。先輩は校内で吹奏楽部に頼まれて演奏したわたしを見ただけのはずです。だったら、頼むのは吹奏学部を通してのはずです」
 咲夜は黙ったまま、アキの話を聞いている。
「おそらく先輩は、何らかの理由で小菅部長から直接わたしのことを聞いたんだと思います。もしかしたらそれは、ちょっとした世間話みたいなものだったのかもしれません。新聞部の後輩で、文化祭のことについて調べてる人間がいる。その子は前に校内演奏でヴァイオリンを弾いたことがある――そんなふうに。そして気になった先輩は、わたしに会うために小菅部長を通して伴奏を依頼した」
 アキは、黙ったままの咲夜に向かって言った。そっと、崩れやすいバランスの上に重りを乗せるように。あるいは、地面の上に繋ぎとめるように。
「これで、つながりが増えましたよね? 幸福クラブ=A杜野透彦、文化祭――」
「そのようね」
 咲夜は否定しなかった。
「じゃあ最後に、魔法のことについて考えてみましょう」
 アキは話を核心部分に移すことにした。
 その話をするのは、ずっと見ないようにしてきたものに触れるようで、アキにも少し怖かったけれど。
「幸福クラブ≠フ活動が、魔法によって行われていたものだと仮定します」
「……また、仮定なのね」
 咲夜の皮肉は、けれどあまり反論めいたものではなかった。
「確かに、あくまで仮定ですが、そう考えたほうが自然です。たぶんメンバーだったに違いない四人がみんな、そのことを覚えてないと言ってるんです。そのうちの三人は、どうやら本当にそうみたいですし――」
「…………」
「記憶の改竄はともかくとして、ここではそれがどんな魔法だったかを考えてみます」
 アキは話を戻すようにして言った。
「わたしははじめ、それを単純に人の願いを叶える*v@なんだろうと思いました。これは、クラブの活動としてはぴったりです。たぶん、具体的な方法さえ決めてしまえば、その魔法は発動することができるんでしょう。掲示板で相談して、それを決めていた。でもその場合、誰が魔法使いだったんでしょう? メンバーの誰かだとして――さすがにそうじゃないと、五人でクラブを作ったりはしないですよね――それは、誰なのか。もしかしたら、五人全員がそうだという可能性だってあります」
 咲夜は特に何も言おうとはしない。
「よくは知らないんですが、魔法には一般型と特殊型というのがあるそうです。特殊型というのは、人によって違う魔法です。人の願いを叶える*v@が特殊型なら、魔法使いは一人だった可能性が高いです」
 これも仮定だったが、咲夜は口を挟もうとはしなかった。
「――でも、その時ふと思ったんです。もしも人の願いを叶える*v@が、自分以外の人の願いを叶える*v@だったとしたら? もしも自分の願いを叶えられるなら、ただ人の幸福を願えばいいだけの話です。サンタクロースみたいに、わざわざ靴下を用意してもらって願いごとを聞く必要なんてないんじゃないでしょうか」
「…………」
「文化祭の四つの奇跡≠ェ魔法で行われていたとしたら、それは何故四つなんでしょうか? それは五人のメンバーのうち、一人だけが本物の魔法使いだからです。その人物だけが、自分の願いを叶えられないんです。そして杜野透彦のノートでの言及と、今までの出来事を勘案すると、一人だけその願いを叶えられていない人物がいます」
 アキはそう言って、美乃原咲夜のことをまっすぐに見つめた。
「その人物は、一年前に杜野透彦の願いを叶えました。世界から透明な存在でありたい≠ニいう彼の願いを。それは叶えられました。クラブは解散し、記憶は失われ、彼は行方不明になった。その願いは、今でも続いています」
 そして最後に、アキは小さなガラスの欠片を水中に落とすようにして言った。
「――先輩がこの部屋の扉をいつも開けたままにしているのは、みんなを待っているからですか?」
 その問いかけに、美乃原咲夜は小さく答えた。
「そうかもしれないわね……」

 美乃原咲夜は、何かを押しつぶすようにして語りはじめた。
「――私の魔法、〈幸福感染(ドリーム・メーカー)〉はあなたの言うとおり他人の願いを叶える*v@よ。ムーミン谷に出てくる、飛行おにみたいなものね。私の近くで誰かの願いが一定の強さを超えると、その魔法は自動的に発動する」
「自動的、ですか……?」
 アキは眉をひそめた。
「そう、今でこそ多少の意志をもって制御できるようになっているけれど、子供の頃は特にそれがひどかった。私はまわりの人間の願いや望みを片っぱしから叶えていた」
 咲夜は雲の形がほんの少しだけ変わるように笑った。
「それがどういうことか、あなたにわかるかしら? ……もっとも、子供の頃の私は何も考えてなんかいなかった。ただ親やまわりの人が喜ぶ顔を見て、そのことを嬉しく思っていただけ。病気が良くなった、宝くじに当たった、仕事で昇進した。でも次第に、それがおかしなことなんだと気づきはじめた」
「…………」
「どんな希望であれ、欲望であれ、その願いがある程度はっきりしてさえいれば、私の魔法は勝手にそれを実現してしまう。あなたの指摘したとおりよ――具体的な方法がわかっていれば、それはより容易になる。そのせいで、ずいぶんひどいことが起こった。私は段々、怖くなりはじめた。次はいったい、何が起こるのか。自分はいったい、どんな願いを叶えてしまうのか……」
 咲夜は小さくため息をついた。悪い夢のことを、忘れてしまおうとするみたいに。
「そうして、私は思ったの。願いが叶うことが、幸福になることだとはかぎらないんだって。私のまわりの人は、大抵はそのせいでもっと不幸になった。私が、みんなを不幸にした。その頃から、私はできるだけ人から遠ざかるようにした。そうすれば、人の願いを叶えずにすむようになるから――」
 アキは咲夜の言葉を聞いて、かすかな胸の痛みを覚えた。その胸の痛みに、アキは見覚えがあった。
 もう、幸福を信じられないこと――
 もう、世界を信じられないこと――
 美乃原咲夜が失い、手放してしまうしかなかったもの。
「私は冷たい月の上にでも行ってしまいたかった。そうすれば、もう誰の願いも叶えずにすむから。孤独だけが、私に平和を与えてくれた。私は一人ぼっちになってしまいたかった。誰もいないところに行きたかった。私が話をするのは、せいぜいピアノくらいのものだった」
「それでも、そばにいてくれる人はいたはずです」
 例えば、小菅清重のような――
「きよちゃんみたいな人は例外だった」
 と咲夜は何かを懐かしむような口調で言った。
「でも結局、きよちゃん自身は一人じゃない。私といっしょになるために、きよちゃんにまでそれをさせるわけにはいかなかった。それに小さい頃はまだしも、二つ歳が違っていると会う機会も減っていってしまう。同じ学園にいても、すぐに高等部に行ってしまった」
「…………」
「その頃、わたしが学園に入ってしばらくした頃ね――幸福クラブ≠フみんなと出会ったのは」
 咲夜はまるで、古い本のページでもめくるようにして言った。その物語は、とっくの昔に途切れてしまっていたとはいえ。
「はじめに話しかけてきたのは、杜野くんだった。たぶんどこかで、私の噂を聞いたんでしょうね。いろいろ質問されたわ。私は本当のことをしゃべった。どうせ信じるわけはないと思っていたから」
「……でも、信じた?」
「ええ、意外だった。それに杜野くんは、私のことを悪くないって言った。誰かが悪いわけじゃないって――私はたぶんその時、彼のことを好きになっていたんだと思う」
 こんなにはっきりと誰かを好きだと聞かされると、アキはやはり赤くなってしまう。
「私たちは幸福クラブ≠結成し、それから杜野くんの幼なじみだった葵、生徒会の唯依、葛村くんとメンバーが集まった。それはちょっとした偶然みたいなものだったけど、あるいは四人のうちの誰かが望んだのかもしれない。それに私の魔法が反応した――」
 咲夜はそっと、宙をなぞるように指を動かした。
「クラブの活動はすごく楽しかったわ。みんなでわいわいやって、何より本当に誰かを幸福にすることができた。私はその頃、魔法の制御がある程度できるようになっていた。成長したせいかもしれないし、クラブにいるみんなのおかげだったのかもしれない。でもとにかく、私は自分の力で人を幸せにできることが、嬉しくてたまらなかった」
 そう言う咲夜の表情に嘘はなかった。彼女は本当に幸福だったのだろう。けれど――
「でもそれは、杜野くんが例の願いをするまでだった。もっとも、そうでなくてもいずれ、私たちはだめになっていたのかもしれない。私たちはみんな、どこにも行きつかない思いを抱えていたから。誰もが、自分を好きではない誰かを好きになっていた――」
 美乃原咲夜は、もうすっかり壊れてしまった何かを見つめるように言った。アキはそれでも、言ってみる。
「わたしの友達なら、きっとこう言うと思います。誰かを好きになるのはおかしなことなんかじゃない、って」
「……そうかもしれない」
 咲夜はくすりと笑った。
「けど、あなただって知ってるんじゃないかしら? この世界には、どうしても変わらなくちゃいけないものがあるってことを」
 そう――
 確かにアキは、知っていた。
 魔法使いでない自分、別の中学に行ってしまう自分、否応なく体の変化していく自分。
 だから、今までと同じではいられなくなってしまう。大切な人と、いっしょにはいられなくなってしまう。
「何にせよ、杜野くんは願った。そして私は……それを叶えてしまうことしかできなかった。私の願いはただ、みんなといっしょにいることだけだったのに。私にとっては、それが完全世界だったのに。どうしようもないくらい、彼のことが好きだったのに――!」
 他人の願いを叶え続けてきた少女の、それが報酬というわけだった。
「杜野くんの願いを叶えた魔法は、今でも続いている。彼は消えてしまった。この世界でないどこか、夢の中に溶けて。そして私の魔法は、もうすぐ完全でなくなる。そうしたら、たぶん彼は本当に消えてしまう。もう私には、それだけの力がなくなってしまう」
「――――」
「どうして彼は、そんなことを願ってしまったんだろう? どうして私は、それを叶えることしかできなかったんだろう? 人は結局、不幸になることしかできないとでもいうの? 魔法を使ってさえ、この世界は――」
 咲夜はじっと、まるで夜の闇でも見とおそうとするかのようにアキのことを見つめた。
「――ねえ、水奈瀬さん。あなたが私に聞きたかったのは、そんなこと? この世界がどれくらい不完全なのか、そんなことを?」
「違います、わたしはそんな――」
 アキは激しく首を振った。けれど、どんな言葉も出てきたりはしない。それはもう、真空中にでも吸いこまれてしまっている。
「それとも、あなたが私を救ってくれる? 私の願いを、叶えてくれる?」
 美乃原咲夜のその言葉に、アキは答えられない。答える資格がない。
 アキは――

「杜野透彦の本当の願いは、決してそんなことじゃありませんでした。だからそれは、偽物の願いでもあったんです」

 ――不意に、誰かが部屋の中に現れていた。
 アキは振りむいて、そしてそれが夢なんじゃないかと疑う。今朝見た夢の続きなんじゃないか、と。何しろそこには、アキがずっと会いたいと思っていた人がいたのだから。もう声も届かないと思っていた、その人が。
 ――宮藤晴が、確かにそこに。
「どうして、ハル君が……?」
 つぶやくと、ハルは話はあとだから、というふうにアキのことを目で抑える。アキは訳のわからないまま、うなずいてしまっていた。
「……何を言ってるの、あなたは?」
 この闖入者に対して、咲夜は臆することなく言った。
「いきなり現れて、あなたに何がわかるっていうの?」
「わかるんです。だって、ぼくとその人は少し似ているから」
「似ている?」
「――まず、杜野透彦がどうしてあなたとクラブを作ったのか考えてみましょう」
 咲夜はその落ち着いた話しぶりに、とりあえず口を閉ざしてみることにしたようだった。
「彼がそれをしたのは、誰よりも幸福を願っていたからです。この世界の、この不完全な世界の幸福を、それでも守りたいと。だからあなたと、クラブを作った」
「……結局それは、私を利用するためでしかなかった」
 ガラスを叩き割るようにして、彼女は言った。
「いいえ、違います――」
 ハルは静かに首を振る。砕けたガラスの破片を拾い集めるように。
「それは美乃原さん、あなたが世界の幸福を守っていたからなんです。あなたが誰より、それを守ろうとしていた。幸福の価値を。たった一人になったとしても、それを守ろうと。だから杜野透彦は、あなたとクラブを作った。彼は、あなたに誰よりも感謝していた」
 咲夜は何かを言おうとして、けれど言葉が出なかった。
「……なら、どうして杜野くんがあんなことを願ったっていうの?」
 しぼり出すように、彼女は言う。
「それは、あなたにもわかっているはずです」
「…………」
「あのまま魔法を使い続けていれば、あなたは必ず結社≠フ人間に見つかって、利用されるはずだった。その魔法は完全世界を取り戻すのに、あまりに都合のいいものだから。その時、彼らがあなたのことをどんなふうにしてしまうかは、簡単に予想することはできなかった。だから杜野透彦には、そうするしかなかったんです」
「でも、そんなの――もっと別の方法がいくらでもあったはずよ」
 ハルはけれど、首を振った。
「それは、あなたの魔法を発動させられるくらい強いものでなければいけなかった。それだけの願いの強さを満たし、なおかつあなたのことを救うには、それしか方法がなかったんです。彼は自分の願いをそんなふうに利用してでも、あなたのことを守りたかった……」
 美乃原咲夜は、そっと目をつむった。
 その胸の中で、空の欠片みたいな小さな種が芽を出すのを感じながら。ずっと前に受けとっていたその小さな種が、消えることのなかった固い殻を破って。
「――だとしても、もう遅い。もうすべては終わってしまったんだから」
 彼女の言葉に、けれどハルはこう答えている。
「もしもあなたがそれを望むなら、ぼくは終わってしまったこの物語を、もう一度始めてみたいと思うんです」
「……もう一度?」
「ぼくはこれから、二つのものを調律します。もしその二つに釣りあいがとれているなら、あなたの願いは叶えられるはずです」
 そう、宮藤晴の魔法〈絶対調律〉は、二つのもののバランスをとる魔法だった。
「?」
 けれどもちろん、咲夜にそんなことはわからない。この少年は何を言っているのだろう、という顔を彼女はする。
「――ぼくがゼロに戻すもの、それはあなたの願い≠ニ、あなたがこれまでに叶えてきたあなた以外の願い≠ナす。この二つを調律して、すべてをまたやり直す」
 ハルはそっと、手を差しだした。幸福を優しく、守ろうとするみたいに。
「美乃原さん、あなたの願いを教えてください。何よりもあなた自身が、一番望んでいることを」
「私は――」
 彼女は、美乃原咲夜は思い出していた。かつてこの場所にいた、仲間たちのことを。この場所にあった、彼女自身の幸福のことを。
 だから――

「私は、杜野くんにもう一度会いたい」

 彼女は、迷いはしなかった。それは間違いなく、彼女の願いだったのだから。
 その瞬間、世界のどこかで大きな揺らぎのようなものが生まれていた。それは季節が変わっていくみたいに、誰にも気づかれないうちに世界の成り立ちを組み変えてしまう。
 やがて一枚の木の葉が落ちるようにして、揺らぎは収まっていた。魔法が行われたのである。
 けれどしばらくのあいだ、何も変化はない。
 魔法は失敗したのだろうか――? 調律すべきバランスは狂っていたのだろうか――?
「……いや、大丈夫」
 そっと、ハルがつぶやいた。
 気づいたとき、部屋の入口には誰かが立っていた。何かの約束をはたすために、たった今到着したばかりというような格好で。
 その人物が誰なのか、アキには一目でわかっていた。いつか校内新聞の写真で見たのと、まったく同じ姿だったから。ふと目を離した隙にいなくなってしまいそうな、きれいな形をした雪の結晶みたいな人。空の欠片を心に溶かしたような――
「――杜野、くん」
 と、咲夜は今にも泣きだしてしまいそうな声で言った。
「――――」
 杜野透彦はしばらく黙って、それから少し照れたような笑顔を浮かべて言った。
「今年の文化祭は奇跡が一つ増えちゃったみたいだね、美乃原さん」
 そして、ひどく言葉に困ったようにして加える。
「――今まで長いあいだ、ごめん」
「うん」
「怒ってくれても、いいよ」
「うん――」
 けれど咲夜は、涙が零れてそれどころではなかった。

 物語はいつだって終わる。
 ――また新しく、はじめるために。あるいは、一人の少女の幸福のために。

 アキとハルは旧校舎をあとにして、グラウンドを歩いていた。
 杜野透彦やクラブの五人がこれからどうするのかは、わからなかった。行方不明になっていたことの説明や、三人の記憶が戻るのかといったことについては。
 けれど――
 それは、大丈夫だろう。新しい物語は、もう始まっているのだから。
 グラウンドには、空気の抜けた気球が巨大な包装紙みたいに広がっていた。風の具合が変わって空に戻ろうとしているのか、何人かがゴンドラの近くで動いている。文化祭に来た一般客や親子連れ、生徒たちがそれを見物していた。
 夕暮れの気配が近く、風はほんの少しだけ冷たく吹いていた。
「――どうして、ハル君がここにいるの?」
 校舎に向かって歩きながら、アキは訊いてみた。
「電話があったんだ」
 と、ハルは答えた。中学生になって、ハルの身長は少しのびたようだった。アキよりも拳一つぶんは高い。けれどその雰囲気は変わっていなくて、雨あがりの澄んだ空みたいなところがあった。
「電話……?」
 アキは首を傾げた。
「誰からかはわからないんだけど、この学園のことや魔法のことを説明されて――それから、アキのことについても知ってるみたいだった。もしかしたら、ぼくが力になれるんじゃないかって」
 ハルの話しかたは昔とまるで変わっていなかった。ゆっくりと、一言一言を丁寧に口にする。
「もしかしてその人、オベロンがどうとかって言ってなかった?」
 アキはどこか皮肉っぽいしゃべりかたをする、演劇部顧問を思い浮かべながら訊いた。
「オベロン? ううん、別に何も言わなかったけど」
「……そっか」
 たぶん、訊いても無駄だろう。あの先生がまともにとりあうとは思えなかった。
 二人はそんな話をするうち、校舎の端にたどり着いていた。気球はバーナーの熱で、ゆっくりとふくらみつつある。それはどこか、大きな花が開くのに似ていた。そんな光景を眺めながら、二人は足をとめる。
「本当のところはよくわからないけど、あれでよかったんだよね。電話の話と、途中から聞いてたアキの話で判断したけど……」
 ハルに訊かれて、アキは「うん」とうなずく。そしてそんな話をするこの少年に、アキはくすりと笑ってしまっていた。
「やっぱりすごいね、ハル君は。それだけで、あんなことをしちゃうんだから」
「アキだって、十分すごいと思うよ。一人であそこまで考えるなんて」
 言われて、けれどアキは首を振る。そうしてこの少女は大きくのびをして、冷たい空気を吸いこんだ。
「実のところ、わたしは全然推理なんてしてないんだよ」
「――どういうこと?」
「つまりね、わたしは全部を聞いたの」
 怪訝そうな顔のハルの前で、アキはふと地面に落ちているものに気づいた。
 それは、ロボットのおもちゃだった。昔流行った、スターチャイルドというアニメのものだろう。集まった見物人のうち、誰か子供が落としたものかもしれない。けれどみんな気球のほうに夢中になっていて、そのことには気づいていないようだった。
 アキは無言でそのおもちゃを拾いあげると、まるでスイッチでも押すような仕草でその頭に触れた。
 その瞬間、揺らぎが生じて世界は静かに組み変わってしまっている。
「……君の持ち主のところに行ってあげてね」
 と言って、アキはそのおもちゃを地面に置いた。
 おもちゃはしばらく自分の状況が理解できないようにじっとしていたが、やがてぎこちない足どりで歩きはじめている。携帯のカメラを構えた父親の隣にいた子供が、自分のほうに歩いてきたおもちゃに気づいて手の平に乗せた。
 子供はそんなことはたいして不思議なことだとは思っていないらしく、ただ大事なおもちゃが戻ってきたことを喜んでいるだけのようだった。隣にいる父親の袖をひっぱってそのことを伝えようとするが、父親のほうでは気球の撮影に気をとられてそれどころではないらしい。
「……今のは?」
 と、ハルは訊いた。
「わたしも最初は驚いたよ」
 と言うアキは、言葉のわりにはむしろ面白がっているようだった。
「何となく部屋のぬいぐるみがしゃべりたがってるような気がして、じゃあしゃべってみればって思ったら、本当に口をきくんだもの。青天の霹靂。ゼペットじいさんもびっくりだよね」
 それはいつかの、ひのりと時期外れの桜を見る前日のことだった。だからあの時、掲示板のチェックをする以上にアキは寝不足だったのである。
「だからね、わたしは聞いたんだ。旧校舎の古いピアノに、全部。美乃原さんが魔法使いだってことも、クラブで何があったのかってことも。ほら、言うでしょ――」
 アキは言って、にっこりと笑った。
「わからないことは、人に聞けばいいんだって」
「つまり、アキは――」
「……うん」
 と、アキはうなずく。
 考えてみれば、それは当然のことではあったのである。魔法の揺らぎがわかるのは、魔法使いだけなのだから。
 つまり、水奈瀬陽は――
「……わたしね、魔法使いになっちゃったみたいなんだ」
 アキは秘密のことを教えるみたいに、人さし指を唇に当てながら言った。
 その時、気球をふくらませる作業が終わって、ゴンドラがふわりと宙に浮いている。気球は重力を忘れたように、地面からゆっくりと離れていった。
 星が本来いるべき、空の上を目指して――

 物体に生命を吹きこむ*v@。
 ――水奈瀬陽の〈生命時間(ソウル・クロック)〉は、そうして誕生したのだった。


 正門付近を、アキはハルの少しあとについて歩いている。
 広場からは人がいなくなって、仮設テントでは片づけと明日の準備が行われていた。一日の終わりと、来たるべき冬の気配をかすかに感じさせるような光景だった。手の平から、何かがそっと零れ落ちていくような――
 気がつくと、ほんの小さな魂の欠片みたいに、桜の花びらが一枚だけ舞っていた。アキは足をとめて、手をのばしてみる。けれど、その欠片をつかむことはできなかった。花片は秒速五十センチという、ゆっくり歩くくらいの速さで地面へと向かっていく。
「どうかした?」
 少し先で、ハルが訊いた。
「……ん、何でもない」
 アキはそっと、音もなく首を振る。
 二人は立ちどまって、桜を眺めていた。たった一つきりで咲いた、季節外れの桜を。
「ねえ、ハル君――」
 とアキはぽつりとつぶやくように言った。
「ハル君は、いなくなったりしないよね? この世界が不完全だからって、世界の重みに耐えられなくなっちゃうことはないよね? この場所からいなくなってしまったほうがいいなんて、思わないよね?」
 ハルはしばらく黙っていたが、
「――エルガー」
 と、不意にまるで関係のないことを言った。
「え?」
「聞いてたよ、ヴァイオリン。すごく上手だった」
「――――」
 アキは一瞬、息を吸って――
 思わず、赤くなってしまっていた。
「……聞いてたの?」
「うん」
 ハルはにこりと、笑っている。いつもの笑顔で。それから、
「――ぼくは世界からいなくなったりなんてしないよ、アキ」
 と、少しだけ真剣な口調で言った。
「この世界の大切なものや、大切なことを、もう知っているから。それを教えてくれた人のことも。ぼくはその人たちに感謝して、それを守りたいと思う。例え明日が、今日と同じものではないんだとしても」
 アキはほんの少しだけ目をつむる。
 そうして、胸の奥に一粒の種に似たものが落ちてくるのを感じた。この不完全な世界でも、たぶんそれは――
「ねえ、ハル君……」
 と、アキはもう一度言った。
「お願いしても、いいかな?」
「何……?」
「手を、つないで欲しいんだ」
「――うん」
 ハルは笑った。
「友達だもんね」
 アキとハルのあいだには、短い距離がある。ほんの数歩という、小さな隔たり。
 でもアキは今、その距離を何のためらいもなく歩いていく。その距離は、きちんとつながっている。
「…………」
 アキはそっと、その手をつないだ。両手で、つかむように。
「ハル君の手、相変わらず少し冷たいね」
 と、アキは言った。
「アキの手は温かいよ」
 と、ハルは言う。
「――とても、温かい」
 少年と少女のそんな行動を、桜だけが見守っていた。
 アキはふと、こんな時間が永遠に続いていけばいいのに、と思ってしまう。
 もちろん、世界は変わっていく。良いほうにも、悪いほうにも。それはいつまでも同じ場所に留まったりはしない。そんなことが起こるのは、世界がどうしようもなく壊れてしまったときだけだ――
 けれどアキは、思うのだ。
 今はまだ、今だけは――
 わたしはハル君とこうしていたいんだ、と。
 ……小さな胸の鼓動が、確かにそれを教えていた。
 
[エピローグ]

 文化祭が終わって、時間は日常に戻りつつある。
 玄関を埋めていたオブジェも、校舎を飾っていた垂れ幕や看板も、すべて撤去されてしまっていた。教室や廊下の隅から時折見つかる小さなごみくずだけが、夢の名残りを感じさせる。
 今ではもう桜も散ってしまって、秋は深まりを迎えつつあった。もうすぐ、紅葉がはじまる。そうすれば、すべての記憶は本当に夢の中へと溶けてしまうはずだった。
 そして、やがては誰もが眠りから目覚める。
 アキは和佐葵から、例の桜といっしょに撮った写真をもらっていた。家族に見せると、母親が特に喜んでいる。「――一生の宝になるわね」というのが、彼女の言だった。
 あの五人がその後、どんなふうに学校生活を送っているのかはわからなかった。写真部にあった誰も写っていない写真には、今はきちんとふさわしい人物が収まっているのだろうか?
 けれど――
 すべては、明日の問題だった。良くも悪しくも、それは変わる。そしてもう、それが失われることはない。
「…………」
 放課後、アキは新聞部の部室でレポート用紙に記事の粗稿を作成していた。今年の文化祭の、四つの奇跡≠特集したものである。魔法が解けてしまった以上、それは最後の奇跡になるはずだった。けれどアキには何となく、来年も同じようなことが起こる気がしている。
 アキが鉛筆を動かしていると、部長である小菅清重が立ったまま横からのぞきこんでいた。そうして、少し首を傾げて訊く。
「――水奈瀬、髪切ったんだね?」
「はい」
 アキはそう言って、少しだけ短くした自分の髪に触れる。
「どうしたの、失恋でもした?」
「……そんなところです」
 からかうような小菅の口調に、アキは笑って答えた。
 文化祭からしばらくして、アキは髪を切った。一年前、美乃原咲夜がそうしたのを真似たわけではないが、ちょっとした心境の変化というところだったのかもしれない。その髪型はどちらかというと昔のアキに似ていたが、そのほうがこの少女には似あっているようでもある。
「ふうん――」
 と、小菅は文章の添削でもするようにそれを眺めていたが、「まあ、こっちのほうが水奈瀬らしいかもね」とまんざら冗談でもなさそうな口調で言った。
「あたしとしては、彼氏に振られようが何だろうが、記事さえきちんと書いてもらえればそれでいいんだけど……」
 そう言って、小菅は眠たそうにあくびをした。ここのところ忙しかったせいだろう。
「そんなに口を大きく開けてると、魂が抜けちゃいますよ」
 と、アキは注意した。
「大丈夫よ」
 小菅はうそぶいてみせる。
「あたしの魂は、そんなにやわじゃないから」
 そう――
 確かに、この人の魂はそれほどやわには見えなかった。何しろ幸福が感染する前に、それを防いでしまうのだから。
 人は誰しもが、その魂の深奥で幸福を願っている。
 けれど、この不完全な世界で、その願いが叶うことはない。そして叶えられたとしても、それは不完全なままだ。とはいえ、それを守ることはできる。幸福の本当の価値を守ることだけは――
 いみじくも、一つの魔法が教えているように。
 この話は、ここで終わる。最後に少年と少女が出会うだけの、このちっぽけな話は。
 ささやかな奇跡と、ほんの小さな幸福だけを残して――

 ――ここで一つだけついでに言っておくと、生徒会主催による企画の景品(万年筆と日記帳)を、アキは受けとっていた。
 とはいえ、その問題のほとんどはハルとひのりが解いたものではあったけれど。もちろん、この少女に言わせればこういうことになるのだろう。「――わからないことは、人に聞けばいいんだよ」と。
 いずれにせよ、キーワードの種類がある一つの単語を主題にした花言葉だと気づいたとき、クロスワードパズルは簡単に解けてしまっていた。ワレモコウ、バラ、ナデシコ、センニチコウ――
 何しろ今年の衣織学園の文化祭テーマは「愛」だったのだから。

――Thanks for your reading.

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