[三つめの奇跡]
1
――メモリの中には新聞部に関するファイルがいくつも収められ、その中の一つに「幸福クラブ関係(掲示板)」というものがあった。 中身は小菅の言ったとおり、幸福クラブ≠ノよって運営されていたという掲示板である。もちろん、実際にはそれを丸ごとコピーしたものだった。 開いてみると、ごく一般的な掲示板の形式と同じもので、表題ごとに一つずつスレッドがわかれている。表題名には「叶えて欲しい願いごと」がつけられているようだった。閲覧は自由だが、それぞれパスワードが設定されていて、スレッドを作った本人にしか書きこみができないようになっている。 画面をスクロールしていくと下のほうほど投稿が古いものになっていて、一番最初には掲示板に関する注意書きが記載されていた。表題は「幸福クラブ運営規則」、投稿者は「幸福クラブメンバー」になっている。 内容は大体、次のようなものだった。 (1)当クラブは人々の幸福を叶えることを活動目的とする。 (2)書きこまれた願いはメンバーによって審査され、実現の当否を決定する。その際、投稿者は所属するクラスと出席番号、実名を使用しなければならない。 (3)メンバーに関する情報は、すべて秘密とする。 ほかにもいくつか細々としたものはあるが、大筋としてはそんなところだった。実際、書きこまれた願いごとのすべては、実名で行われている。真剣な願いしか受けつけない、ということなのだろう。 最初の投稿である注意書きの日付が、二年前の六月頃。クラブの解散を告げる最後のそれは、去年の文化祭から少したった頃のものだった。 小菅に聞いたところでは、その解散宣言のあとしばらくして、掲示板は削除されたのだという。小菅がコピーして残しておいたのは、その時期のものだった。彼女はそれまでずっと、クラブの活動を注視してきたのだろう。 掲示板の書きこみを具体的に見ていくと、ほとんどの願いごとはごくささやかな、個人的な種類のものだった。大切な落し物を見つけて欲しいとか、明日の遠足を無事に迎えたいとか、友達と仲直りがしたいとか、そんなものである。主として、学校生活に関わるものだった。 小菅が実名をたどって調査したところでは、そうした願いごとの多くは確かに叶えられていたという。どうやったのかは不明だが、それでも間違いなく―― 願いごとの中には叶えられなかったものもある。実名を明かさないものや、明らかにいたずらを目的としたもの、あるいは即物的すぎたり、自己利益のみ追求したようなもの。例えば、宿題を少なくして欲しいとか、テストの点をあげて欲しいといった類のものである。 どうやらそうした願いは、クラブの規準と趣旨に反するらしい。 掲示板についてもう少し詳しく見ていくと、メンバーと呼ばれる人間がおそらく五名なのだろうということもわかってくる。同一のハンドルネームが使われているのだ。 「火星人の孤独」「長靴をはいた猫」「こそ泥事件」「冬に響いた汽笛」「太陽とアンドロメダ」――どういう理由でつけられたのかはわからないが、それらは管理者権限によって使用され、それぞれが明確な違いを持っていた。現実的に考えれば、すべて別々の人間によるものだと推定して構わないだろう。 そうしてハンドルネームをチェックしていくと、アキはあることに気づく。 四月頃から、その名前が変更されているのだ。新しいハンドルネームもよくわからないものだったが、中には「ほんものの魔法使い」というのもあった。 進級に際してメンバーが交代したのだろうか、とアキは思う。 ただ、人数は五名のままで異動はなく、中身も何となく同一人物のような気がした。とすればクラブの人員に変化はなく、名前だけを変えたことになる。それはいったい、何のためだろう。メンバーが同じなら、名前を変更する必要などないはずだった――
アキは自室の机に置いたノートパソコンから目を離すと、大きくのびをした。 掲示板を調べはじめて、いつのまにか数時間が過ぎようとしていた。さすがに疲れて、目の奥が少し痛い。窓の外には、研磨されたような夜の闇が映っていた。 (……結局、よくわからないな) 手帳に書いたメモをのぞきこみながら、アキは考えている。幸福クラブ≠フ活動、その依頼者たち、正体不明のメンバー、叶えられた願いごと。 (たぶん、このメンバーの人たちも学園の関係者だとは思うけど――) とはいえ、それが生徒なのか先生なのか、生徒だとして中等部なのか高等部なのかも、わからなかった。学園関係者だというだけなら、卒業生という可能性だって考えられる。 アキは腕を組んで、背もたれに体を預けた。 それにクラブのメンバーは、いったいどういやって願いごとを叶えていたのだろう。書きこみを見るかぎりでは、その具体的な方法はわからなかった。ただ、それが実現されたとわかる感謝の言葉が残されているだけである。 あるいはそれは、文化祭の不思議な奇跡と同質の現象なのだろうか。 実際のところ、このクラブと文化祭の奇跡には何か関係があるのだろうか、とアキは考えてみる。こうして調べてみたかぎりでは、そこに直接的なつながりは見つけられなかった。さらには、小菅に言われた失踪者のこともある。 (本当に、誰かが魔法みたいに解決してくれればいいのに――) アキはため息をついて、けれど自分が期待していることに気づいて首を振った。それは考えても仕方のないことだった。 フラッシュメモリを抜いてパソコンの電源を落としてしまうと、アキはぬいぐるみの一つを抱えてベッドに向かった。ぬいぐるみは例の、棒っきれから作られた人形を模したものである。寝ころがって、そのぬいぐるみを見ながら、アキは自分にも魔法が使えればな、と思ってしまう。 電灯の光に目を細めながら、アキはスイッチでも入れるような感じに、ぽんとぬいぐるみの頭を叩いてみた。
2
三つめの奇跡が起きたのは、次の日の朝のことだった。 ポスターの絵が少しずつ近づいていくのとは違って、それはひどく目立つものだったから、生徒の中で見落としたものはいなかっただろう。正門を入ってすぐに見えるその光景は、確かに奇跡というにはふさわしいものだったかもしれない。
「――すごいね、これは」 正門から玄関に向かう途中で、鹿野ひのりはため息をつくようにして言った。 「うん、そうだね」 隣でアキも、素直にうなずいてしまう。確かにそれは、たいした光景だった。 かなりの数の生徒たちが、二人と同じように足をとめて、その光景を眺めていた。教室の窓に身をよせて、校舎の中から見物している生徒の姿もある。何人かの先生も、生徒たちから少し離れた場所で物珍しそうにそれを眺望していた。 全員の視線の先には、ほぼ満開になった一本の桜の樹がある。 朗々と咲き誇る桜の花々は、空気にうっすらと色が滲んでしまいそうな薄い淡紅色をしていた。花弁は樹の全体を覆って、枝に残った緑の葉もほとんどが隠されてしまっている。いわゆる、狂い咲きというやつだった。 「私、初めて見たよ、こんなの」 半分くらい呆然としながら、ひのりは言う。 「満開だね」 アキも大きく息をついた。これも奇跡だとすると、さすがにため息をつくしかない。 「……昨日までは何ともなかったよね?」 ひのりの言葉に、アキはうなずく。 「一晩で花が咲いちゃったみたい」 「私たちの知らないうちに春が来たのかな? 探せば、その辺をツバメが飛んでるかも」 「まだ、ちゃんとした秋にもなってないけど」 二人が眺めているあいだにも、あとからやって来た生徒たちが足をとめたりしている。 「でも、きれいだね」 「――うん」 ひのりに言われ、アキはもう一度うなずく。 「文化祭の当日まで、このまま咲いてるかな?」 今日を含めれば、あと三日ほどの時間がある。 「どうかな、さすがにすぐ散っちゃうような気もするけど」 「私は文化祭が終わるまでは咲いてると思うけどな」 何故か笑顔を浮かべて、ひのりは言った。 そうこうするうちに人も多くなってきたので、二人は玄関へと向かうことにした。桜の樹は依然として、霞を集めたような花びらを身にまとっている。 歩いている途中で、アキは大きくあくびをした。 「どうしたの、寝不足? あんまり大きな口を開けてると、魂が抜けちゃうよ」 言われて、アキは目に涙を滲ませながら返事をする。 「――昨日、ちょっといろいろあってね」
昼休みの時間になって食事を終えてしまうと、アキは一人で桜のある正門付近へ向かった。 朝からずっと騒がれていたこともあって、この時間になるとさすがに話題性を失ってしまったのだろう。桜の周囲に人影はなくて、校舎から顔をのぞかせる者もいない。そこにはただ、季節外れの桜が静かに咲いているだけだった。 道の途中に一本だけ、桜の樹は生えている。それなりに立派なものだったが、樹齢を気にするほどのものではない。春の入学式の時にも、この桜はきれいに花を咲かせていたはずだった。 「…………」 アキは近くまで歩いていって、じっくりと桜を観察してみる。 それはごく普通のソメイヨシノで、五つの花片と萼が小さくまとまって一つの花を作っていた。その完全花はあまりにささやかで、生命の細工物というよりは、ただの色の塊か何かが接着されているようにしか見えなかった。手で触れてしまえば、すっとどこかに溶けてしまいそうに思える。 花の影に隠れるようにして、緑の葉がのぞいていた。昨日まで、この桜にはその枝葉しかついていなかったはずだった。いったい何を間違えて、花を咲かせたりしたのだろうか。 植物も勘違いすることはあるんだろうな、と思いながらアキは樹のまわりをぐるりと一周してみた。 とりあえずのところ、樹木自体におかしなところは見つけられない。樹皮に異常があるわけでも、枝ぶりや根元がおかしなわけでもなかった。地面だって、何の変わりもないようである。そっとその幹に触れてみても、固くて温かな感触があるだけで何もわかることはなかった。もちろん専門家なら、そのかぎりではなかったのかもしれないけれど。 アキがそうしていると、不意にシャッター音が聞こえている。 「――?」 音のほうを振りむくと、誰かがカメラを構えて立っていた。小動物的な体格で、中等部女子の制服を着ている。頭にはヘッドフォンを装着していた。 写真部三年の、和佐葵である。この風貌で見間違えるはずがない。 (……桜が咲いているのを撮りにきたのかな) 特におかしなことではなかった。写真部の人間としては、ごく自然な行為に思える。アキは桜のそばを離れると、葵のほうに近づいていった。 「写真ですか?」 見ればわかることではあったけれど、一応の礼儀として訊いておく。 「そう」 相変わらずのぶつ切り加減で、葵は答えた。 「季節外れでちょっと変ですけど、きれいですよね」 「あなたは、取材?」 訊かれて、アキは首を振る。興味などなさそうに見えたが、彼女は一応アキのことを覚えているようだった。 「どちらかというとただの野次馬です。奇跡といっても、これじゃ調べようがなくて」 「…………」 葵は風に揺れる色をとらえるように、ファインダーをのぞいてシャッターを切る。 ポケットサイズのデジタルカメラとは違う、重量感のある本格的な一眼レフだった。この少女の手の中にあると、それは精巧な写真機というよりも、もっと別の目的のために作られた特殊な機械装置みたいにも見える。 「それ、アナログですよね?」 アキはふと、前から気になっていたことを訊いた。初めて会ったときに部室で化学実験のようなフィルムの現像をしていたのは、もちろんフィルム式のアナログカメラを使っているからだろう。 「そう」 と、葵は簡単に答える。 「どうしてデジタルにしないんですか?」 素人としては、そのほうがずっと簡単な気がする。 「たいした理由はない」 「本格的な写真を撮るには、やっぱりそのほうがいいから……?」 うるさく思ったわけでもないのだろうが、葵はカメラから手を離してアキのほうを向いた。 「アナログだと、見えないものが見えるから」 「……見えないもの?」 「プリントしてみるまで、何が撮れてるかわからない。だから、そこにいたときに見てなかったものが見える」 「でも、その場で確認できたほうが便利じゃないですか?」 「それは、私が見たものでしかない」 葵はどんな構図にするかを考えるように、桜のほうに目をやった。 「私は、私以外の人がどんなふうに世界を見てるのかを知りたい」 「アナログだと、見れるんですか?」 「手続きとしては」 「そうすれば、自分の見たものとは違うものが写るから……?」 こくん、と葵はうなずく。 「……でもそれは、葵さんが見たものそのままでもいいような気が」 「私は、違うから」 何故か、葵はすばやく否定した。 「私が見ているものは、みんなと違う」 「違う?」 「――アリマキ」 聞きなれない言葉に、アキは首を傾げた。 「アブラムシのこと。よく葉っぱの裏側や茎にくっついてる」 いわゆる、蟻牧のことだった。よく知られているとおり、この虫は甘い露を貢納して蟻に身を守ってもらう。蟻の畜牧、あるいは蟻が集まることで、蟻巻とも呼ばれる。植物に群生している姿は、あまり審美的とは言えない。 「そのアブラムシが、どうかしたんですか?」 言われてみれば何度か見たことのあるその光景を思い出しながら、アキは訊いてみた。 「子供の頃、よく見てた」 「アブラムシを……?」 葵はうなずく。とはいえ、子供が喜んで観察対象に選ぶようなものでもない。 「アリマキは卵胎生の単為生殖でどんどん増えていく。ほとんど移動はしなくて、いつも群生しているのはそのため」 「それであんなにいっぱいいるんですね」 「でも数が多いだけで、アリマキは脆弱な虫。いろんなものに食べられる。ヒラタアブとかクサカゲロウ、テントウムシの幼虫や成虫。まるで抵抗もせずに、ただただ食べられていく。まるでそんなこと、たいしたことじゃないみたいに」 「…………」 「私はそのアリマキたちが何を考えているのかわからなくて、よく見てた。ただ食べられるためだけみたいに、どんどん増えていく。じっとして、抗いもせず。そこに、どんな意味があるんだろうと思って」 葵は不意に、アキのことを見る。半分眠ったようなその瞳の奥で、けれど何かが揺れているようでもあった。 「私がそうやってじっとしていると、みんなが私のことをおかしいと言った。何を見てるんだって。何が面白いんだって。でも私はそう言われて、みんなのほうこそ何を見ているんだろうと思って、それから、理解した。みんなの見ているものと、私の見ているものは違うんだ、って――」 そう言うと、葵は何か大切なものにでも触れるみたいにしてカメラを抱えた。 つまるところそれは、彼女にとって世界に小さな穴を開けるための道具、なのだろう。他人を、他人の見ているものを理解するのに必要な道具――そうすれば、自分もその仲間になれるんじゃないのか、と。 「…………」 アキは何を言っていいのかわからなくて、ただ黙っていた。 「――水奈瀬さん?」 と、そこに声がかけられている。 アキが振りむくと、後ろには生徒会副会長である古賀唯依の姿があった。相変わらずの和やかで、信頼感のある雰囲気をしている。 「古賀さん、どうしたんですか?」 ちょっと意外そうな顔で、アキは訊いた。 「生徒会のほうの宣伝で、この桜のことが何か使えないかと思って」 古賀は満開の桜に目をやりながら、彼女らしい落ち着いた様子で答える。 「――ああ、なるほど」 「水奈瀬さんこそ、新聞部の取材か何か?」 「えと、わたしのほうはそういうわけじゃなくて……」 葵にも似たようなことを訊かれたな、と思いながら答えようとしたとき、アキはふと妙なことに気づいた。 さっきから、葵がじっと古賀のことを見ている。その視線は、ただ相手のことを見るだけにしてはひどく真剣な種類のものだった。まるで、星の軌跡を撮るために露光したカメラみたいに―― 「……葵さん?」 アキは不思議に思って、声をかけてみた。 「――!」 すると葵は、クラッチをつなぎそこなった車みたいなぎこちなさではっとした。何故だか、その頬はかすかに紅潮しているようでもある。 「――私、もう行く」 唐突にそれだけを言うと、葵はとてとてと小走りで校舎のほうに行ってしまった。まるで何かを隠すみたいに、慌てた様子で。 「どうかしたの、彼女?」 古賀は驚いた様子の顔で訊く。いきなり声をかけたせいで、何かまずいことでもあったのかと思ったのだ。 「えーと、何でもないとは思いますけど……」 言ったところで、アキにだってわかりはしない。逆に質問してみた。 「古賀さんと葵さん、知りあいなんですか?」 「いえ、そんなことはないと思うけど――」 言いながら、古賀は首をひねっている。確かに、そんなことはないはずだった。ないはずなのだが、しかし―― 「……桜も葵さんも、よくわからないですね」 アキは渋面を浮かべて、腕を組んだ。 古賀は桜を見て、「確かに、そうね――」とつぶやく。 「普通、狂い咲きって台風なんかで葉っぱが落ちちゃったときになるものなんだけど」 「そうなんですか?」 「うん、ホルモンのバランスの問題。次の春まで花が咲かないように、葉から休眠ホルモンが出るんだけど、それが十分じゃないと、こうやって秋のよく似た気温の時に咲いてしまうんだって」 聞いて、アキは目をぱちくりする。 「じゃあホルモンバランスの調節さえできれば、人工的に花を咲かせることはできるんですか?」 「まあ原理的には、そういうことになるんじゃないかな」 多少自信のなさげな様子で、古賀は言った。 「…………」 アキはもう一度、桜の樹を見た。だとしたら、この奇跡もやはり人為的に演出されたものなんだろうか?
3
その日の放課後、アキが図書室にあった桜についての本を読んでいると、確かに古賀唯依の言ったとおりのことが書かれていた。 桜は花が散ったあとに葉をつけはじめ、夏頃には来年に咲く花芽が用意される。そのあいだ、葉からはアブジシン酸と呼ばれる休眠ホルモンが分泌され、花芽が活動することはない。葉を落とし、冬の冷たい気温にさらされたのちに春を迎えると、桜は目を覚まして開花する。 ところが、何らかの理由でこの休眠ホルモンの不足と気温の変化が起きると、桜はそのメカニズムにしたがって花を咲かせる。これがいわゆる、狂い咲きというやつだった。休眠ホルモンの不足は、例えば台風や虫害で葉量が十分でない時に生じる。 「……ふむ」 と、アキは一通りのことを読んでしまうと頬杖をついた。 その本にはほかに、冬に咲く種類の桜や、ジベレリンなどの開花促進剤、ヒマラヤ原産の桜が本来は秋に咲くものだったという考察についてなどが載せられていた。 とはいえ校庭の桜はありふれたソメイヨシノの樹で、枝についた葉もほとんど落ちてはいない。薬で開花を促進するにしても、限度というものがある。 (まったく別の理由、なんだろうか……) アキはぱらぱらとページをめくってみた。世の中には、実にたくさんの種類の桜が存在しているようだった。 最後のページをめくってぱたんと本を閉じると、図書室用の管理バーコードが貼られた裏表紙だった。黒い線と数字が実務的に並んでいる。 アキは本を戻しに行くために、立ちあがった。 図書室はしんとして、荒野の雑草みたいにまばらにしか人がいない。文化祭前で、いろいろと忙しいせいだろう。吹き抜け二階建てになった図書室にはPCブースや視聴覚コーナーが設置され、生徒たちによる利用率は高かった。 アキは自然科学系の棚に本を戻すと、そのまま本棚のあいだを歩いていった。頭の中では満開の桜や、演劇部のポスター、放課後の音楽について考えながら。 ずらっと並んだ本のタイトルだけを目で追っていくと、こんなにもたくさんの本があることに、アキは少しだけ混乱してしまう。それぞれの本に、それぞれの内容があり、それぞれの著者がいるのだった。いっそすべてのことが書かれた一冊の本があればいいのに、とアキは思ってしまう。世界を一冊の本によって記述する―― 外国文学の前を通っているとき、アキはふと足をとめた。そこに『ほんものの魔法使い』という題名の本を見つけたからだ。例の掲示板に使われていたハンドルネームと同じものだった。 アキは何気なく本を手にとって、開いてみる。それは手品師の都市に本物の魔法使いがやってくる、という筋書きだった。けれど彼のほうでは、手品のことを自分の使うのと同じような魔法だと思っている―― いったん本を閉じて、アキは表紙や裏表紙を眺めてみた。あのクラブの一人は、この本から名前を借りたんだろうか。その人は、この著者のファンだったのかもしれない。 そんなことを考えていると、アキの中で何かがほんのかすかな音を立てた。 (――?) それは、溶けたガラスの細い線が、ぷつんと切れるのに似ていた。その糸のつながっていた部分で、何かが起きたのだ。 アキは苦労して、その糸をまたつなぎあわせてみる。金属線にわずかだけ通電するみたいに、糸が接触するたびに記憶のどこかが刺激されていた。 (……本……『ほんものの魔法使い』……ハンドルネーム……学年で変わった名前……裏表紙……バーコード――) ――そう、バーコードだった。 本の裏表紙に貼られたバーコードの下五桁の数字「20331」。 その数字には、どこかで見覚えがあった。 アキは試験中でもそこまではしたことのない真剣さで、記憶の底まで深く潜りこむ。 ――「20331」――二年三組三十一番。 (杜野透彦だ!) アキははっとした。 あの行方不明の少年の学籍番号と、それは同じだった。アキが念のためにメモ帳を開いて確認すると、記事に書いてあったそれとバーコードの数字は、やはり一致していた。 (どういうことなんだろう……?) 偶然、なのかもしれない。たまたまハンドルネームと同じ本があって、たまたまその本のバーコードが行方不明の生徒と関連する数字を示しただけなのかも。 けれど―― ここから、いくつかの仮説が成り立つのだった。 まず、掲示板のハンドルネームは図書室の本と対応していた、という仮説。つまりあのハンドルネームは実在の本に対応していて、その本のバーコードは学籍番号に対応していた。順番を整理すると、クラブのメンバー、その学籍番号、バーコードの数字、図書室の本の題名、という順番でハンドルネームが決定されている。 そして、ハンドルネームが変更されたのは、クラスが変わって対応するバーコードが使えなくなったためである、という仮説。 (本当に、そうだろうか……?) アキは疑ってみるが、これには確認する方法があった。 実際に、調べてみればよいのだ。 図書室の検索端末で、アキはメモしておいたハンドルネームを一つ一つ入力してみた。ヒットしたデータの中から、バーコードの数字を抜き出す。メンバーに二種類あるハンドルネームの、両方ともを。 数字がわかれば、あとは学園の名簿をたどっていけばいい。学校関連のコーナーで名簿を見つけると、アキは去年と一昨年のものを調べてみた。 結論からいえば、それは完全に一致していた。 二種類のハンドルネームは、それぞれ同一人物を指している。確率的に考えれば、偶然ということはありえないだろう。メンバーはやはり五人で、中等部の同じ学年に所属していた。 (でも、これって――) アキはその五人の名前を見て、途方に暮れてしまう。何故だかそれは、全員がアキの知っている人物の名前だった。 彼らが幸福クラブ≠フメンバーだったとして、何のためにそんなものを作ったのだろうか。彼らはそこで、何をしていたのだろうか。 去年、クラブを解散したのは何故か。どうしてメンバーの一人である杜野透彦は、行方不明になっているのか。 そして、文化祭の四つの奇跡≠ニの関係は――? (……やっぱり、わからないことは聞くしかないよね) アキはそう思って、けれど何故だか気が重かった。 そこにはいつか見たのと同じ、この世界の不完全さに関わる出来事が待っているような気がして――
4
弓道場からは何かの機械部品を組み立てるような、独特の弦音が聞こえていた。 アキは近くまでいくと、格子窓から中をのぞく。弓道衣姿の生徒が何人も射場に立って、行射を行っていた。弓弦から離れた矢が命中するたび、乾いた音が一度だけ響いた。 道場内を見まわして、アキは目的の人物を発見する。ついでに、後方の控えで正座するひのりの姿も見つけた。弓道衣姿の鹿野ひのりには、月から降りてきたお姫様みたいな雰囲気があった。 格子窓の場所を変えて、アキは小さく声をかける。カクテルパーティー効果が立証されて、その声はひのりの耳に伝わったらしい。彼女はきょろきょろとあたりを見まわし、アキのことに気づいた。 立ちあがって、窓のところまで来るとひのりは訊いた。 「アキちゃん、こんなところで何してるの?」 「悪いけど、呼んで欲しい人がいるんだ」 アキが言うと、ひのりは首を傾げた。 「誰を?」 「――葛村貴史」 不思議そうな顔はしたが、ひのりは理由を訊かなかった。その程度には、アキの表情は真剣だったのである。 「わかった、ちょっと待ってて」 そう言うと、ひのりは射場のほうへと向かった。 ――射場では、葛村貴史がちょうど二本目の乙矢を構えているところだった。弓道でいうところの射法八節に従って、一連の動作を行う。姿勢を制御し、弓を引き絞り、狙いを正しく定める。やがて馬手から離された矢は、一個の光線のようにして宙を走った。 矢は命中したらしく、乾いた音が高々と鳴り響いている。 残心の終わった葛村にひのりが話しかけるのを確認すると、アキは弓道場から少し離れた。学校の外れにあるその場所には、ししおどしに似た弓音が響いている。 しばらくして、葛村が現れた。さっきまで弓を射ていたせいか、何となく若武者といった風情でもある。 「すみません、練習中にお邪魔して」 まずはじめに、アキはぺこりと頭を下げた。 「いや、大丈夫だよ。今日は……取材で来たみたいだな」 新聞部の腕章に気づいて、葛村は言う。 「はい」 「弓道部のことで、というわけじゃないんだろ。例の奇跡のことか」 「そうです」 葛村は軽く肩をすくめた。 「俺は何も知らないよ」 「でもあなたは、幸福クラブ≠フメンバーだったはずです」 「――――」 アキは注意深く、葛村の表情を目で探った。 「――何のことだ、それ?」 嘘をついているようには、見えない。アキは説明した。 「二年ほど前に、一年間だけ活動していた非合法の集まりです。葛村さんはそのクラブの一員だったはずです」 「……わからないな。俺にはそんな記憶はないし、そんなクラブのことも知らない」 「本当ですか?」 「俺の記憶が間違っていなければな」 葛村は困ったような顔つきでお手上げのポーズをとった。もしもこれで嘘をついているとすれば、たいした演技力である。 「じゃあ、杜野透彦という人に心当たりはありませんか?」 アキは質問を変えた。 「いや、知らないな。誰なんだ、それ?」 葛村貴史はやはり、何かをごまかそうとしたり、隠そうとしたりしているようには見えなかった。そんな腹芸のできる人物にも思えない。 「もう一度確認しますが、本当に何も知らないんですね?」 「悪いけど、な。どっちのことも、少なくとも俺の記憶にはないよ」 その表情からして、葛村は本当に何も覚えていないようだった。 アキはお礼を言ってから葛村と別れると、そのあとで大きくため息をついた。話はそう簡単には解決してくれそうにないようだった。 とはいえ、今は次の人物のところに向かうしかない。アキは校舎のほうへと歩き続けた。
和佐葵を訪ねて写真部のドアをノックすると、知った顔のクラスメートが顔をのぞかせて、アキは少し驚いた。 「清本(きよもと)くん?」 アキは意外そうに、その名前を口にする。いつぞや、ふざけて紙ひこうきを飛ばしてきた少年だった。清本啓(けい)という。 「何だ、水奈瀬か」 少年は何故かぎくっとしたように、慌てて言った。 「写真部だったんだ、清本くん」 クラスメートとはいえ、案外知らないものである。 「ああ、うん――」 清本はもごもごと、歯切れの悪い返事を口にする。アキは特に気にせずに、訊いた。 「葵さん、部室にいるかな?」 「和佐先輩?」 「うん、ちょっと用事があるんだけど」 清本はちらっと部屋の奥を見てから、「暗室で作業してるところだから、今は無理かもな」と言った。 「ん、じゃあまたしばらくしてからでもいいんだけど」 「……いや、ちょっと聞いてきてやるよ」 意外と親切に、少年は部屋の奥にあるドアのほうへと向かった。 扉ごしに何度かやりとりがあったのち、清本はアキのところに戻ってくる。 「もう作業は終わるから、こっちに来てくれていいってよ」 「ありがとう」 アキがそう言うと、清本啓は少し照れるような表情を浮かべた。どことなく憎めない感じのする顔つきではある。 暗室の前まで案内されると、アキは声をかけてから扉を開けた。中に入ると、酸性のつんとしたにおいが鼻をつく。とても広いとはいえない部屋で、人が二人もいれば息苦しく感じるほどだった。すでに電気はつけられていて、部屋の中は明るい。後ろで、扉の閉まる音がする。 和佐葵は、洗い場の前に座っていた。蛇口から水があふれて、パッドの中に注がれている。流水で薬品を除去しているのだろう。 「これが引伸ばしですか?」 アキはすぐ近くにあった、顕微鏡を巨大にしたような装置を見ながら訊いてみた。 「そう」 言いながら、葵は洗い場のほうから目を離そうとはしない。耳には、相変わらずヘッドフォンを当てていた。 「――もしかして、それって昼の?」 アキが訊くと、葵はうなずいてパッドから印画紙を取りだした。 まだ水滴に濡れたその写真には、モノクロの桜が鮮やかに写しとられていた。艶やかなその画面は、ついさっき誕生したばかりのような瑞々しさにあふれている。色など着いていないはずの花びらには、ほんのりと桜色がにじんでいるようにも感じられた。 「すごいものですね、やっぱり」 葵は水滴を払ってから、乾燥させるために写真を吊るした。 「それで、何か用?」 訊かれて、アキはちょっと真剣な顔で葵のことを見つめる。 「実は二つ、聞きたいことがあってきました」 「?」 「葵さんは、幸福クラブ≠チて知ってますか?」 「知らない」 何のためらいもなく、葵は首を振った。 「じゃあ、『長靴をはいた猫』の名前には?」 「ペロー?」 「まあ、そうなんですけど」 かつて彼女のハンドルネームだったはずの名前を聞かされても、葵は不思議そうな顔をするだけだった。 「本当に何も覚えてないんですか?」 「何のこと……?」 感情に乏しい彼女の表情ではあったが、逆に嘘をついているようには見えなかった。 「じゃあ、杜野透彦という生徒のことは?」 その名前に対して、葵の顔にはかすかに反応するような何かが浮かんだ。 「確か、同じ小学校に通っていたはず」 「幼なじみなんですか?」 けれど、葵は首を振った。 「覚えているのは、それだけ。別に親しくはなかった」 「…………」 アキは沈黙した。和佐葵の反応も、葛村貴史のそれとたいした違いはなかった。二人で、アキをからかっているのだろうか。 (二人ともクラブのメンバーだったことは間違いないのに……) アキは仕方なく写真部をあとにすると、廊下を一人で歩いていった。何にせよ、残る二人の話も聞いてみなくてはならない。
生徒会室には誰もいなかったので、アキは三年生の教室へと向かった。目的のクラスをのぞいてみると文化祭の準備中らしく、賑やかで忙しそうな雰囲気に包まれている。何かを料理しているらしく、甘いにおいが漂っていた。 人ごみの中に古賀唯依の姿を探していると、教卓のところで何人かの女子生徒と話しているのを見つけた。アキは入口から、「――すみません、古賀さん」と小さな声で呼びかけてみる。 「……?」 気づいたらしく、彼女は入口にいるアキのほうを向いた。 アキが手を振ると、古賀唯依はいっしょにいた女子生徒たちに何か言って、入口のほうへと歩いてきた。アキは廊下に移動して、彼女がそばに来るのを待つ。 「どうかした、水奈瀬さん?」 古賀は別に迷惑そうでもなく、ごく普通の様子で訊いた。 「ちょっとお聞きしたいことがあったんです――」 二人は通行者の邪魔にならないように窓際に移動して、話を続けた。 「文化祭の取材じゃなくて、例のことについて……だよね?」 さすがに生徒会副会長は話が早かった。 「たぶん、関係しているんだとは思います」 アキは静かにうなずいた。今のところ、ほとんど確証と呼べるものはなかったけれど。 「どんなことが聞きたいの?」 「――古賀さんは、幸福クラブ≠ノ参加していたことがあるんですよね?」 実のところそれは、半分ほどは必然的なことだった。学校のサーバーを利用している以上、それにアクセスする権限のある生徒会関係者がクラブのメンバーに加わっているのは、自然なことである。 けれど―― 「それ、何のこと?」 前の二人と同じように、古賀唯依は首を傾げた。やはり、それが演技のようには見えない。 「一年ほど前まであった、学園の秘密クラブです。学校のサーバーを利用して掲示板の運営もしていました」 「それに、私が?」 本人にそう言われてしまうと、アキも断言することはできない。 「……違うんですか?」 「思いあたることはないけど」 古賀は困ったような顔で言う。これでは、前の二人とまったく同じだった。 「それじゃあ、杜野透彦という生徒のことは?」 「杜野……?」 懸命に頭の中を探るような表情を浮かべる。 「杜野、杜野――うーん、やっぱり覚えはないかな。誰なの、その人?」 「一年前、学園で行方不明になった生徒の名前です」 「行方不明? 学園の生徒で?」 言いながら、古賀唯依には本当に思いあたるふしはないようだった。 (……でも、そんなことあるんだろうか) と、アキは思う。生徒会の役員で、サーバーを無断利用していたクラブのことや、行方不明になった生徒のことをまったく耳にもしない、などということが。 アキは前の二人と同じように釈然としないものを覚えたが、これ以上は何を質問しても収穫はなさそうだった。だからお辞儀をして、行ってしまおうとした。が、 「――あ、ちょっと待って、水奈瀬さん」 と呼びとめられている。 「はい?」 「ついでで悪いんだけど、試食していってくれないかな」 古賀が言うには、彼女のクラスでは保護者会と合同で喫茶店のようなものを開くことになったらしい。メニューはいくつかあるが、そこで出すパンケーキについてアキに味見して欲しい、ということだった。 当然ながら、この場合アキに断る選択肢は用意されていない。 三年生の教室に通されてイスに座ると、面白おかしく料理の準備をしてくれた。やがて紙皿に乗せられて、パンケーキが運ばれてくる。 市販のホットケーキミックスを使ったもののようだが、ブルーベリーとイチゴジャムをトッピングして、上から溶かしたチョコレートが格子状にかけられていた。なかなか凝っている。 「いただきます――」 と、とりあえず言って、アキは添えられていたプラスチックのフォークで切り分けた。 食べてみると、案外おいしいものである。 「どうかな……?」 と古賀がやや不安そうな面持ちで訊ねる。 「おいしいです、ちゃんと焼けてるし」 「よかった――」 と、古賀は笑顔で言った。 「うちのクラスの企画、『愛がなければパンケーキを食べればいいじゃない』っていうんだよね」 名前以外のことは問題なさそうだった。
同じ階にある別のクラスを、アキは訪ねた。 その教室も、文化祭の準備で忙しそうだった。廊下のスペースまで使って、何やら作成している。アキが教室をのぞいてみると、目あての人物はどこにもいないようだった。買い物にでも出かけているのかもしれない。どうしようかとアキが迷っていると、不意に声をかけられている。 「うちのクラスに何か用事かな?」 振りむくと、廊下に女子生徒が一人立っている。ひどく優しい感じのする人だった。 「えと、美乃原さんを探しているんですけど……」 「咲夜を?」 口ぶりからして、どうやら知りあいのようだった。 「たぶん彼女なら、旧校舎の音楽室にいるんじゃないかな。ピアノの練習をするからって理由で文化祭の準備をさぼってるから」 笑顔でそう言われて、アキも苦笑するしかない。 礼を言ってその場をあとにすると、アキは旧校舎のほうへと向かった。いったん校舎の外に出てから運動場をまわり、小道にそって進むと、古い木造校舎の前に出る。大正時代に建てられた官庁社を移築したという建物で、モダンな外観をしていた。 玄関から入ると、靴の泥を落としてそのままあがった。入ってすぐ大きな階段があって、両翼に廊下がのびている。木の壁や床は、太陽の光を何度も塗り重ねたような飴色に輝いていた。 最低限の掃除くらいはされているが、もう頻繁には使われることもないので、廊下の隅や窓枠にはうっすらと埃が積もっていた。階段に足を置くと、まるで眠っていた時間が目を覚ますような、軋んだ音が聞こえる。 アキは三階まで昇ると、まだかかったままの表札から音楽室を探した。見つけて、左翼の廊下に向かう。窓からは第一グラウンドと新校舎の姿を、はっきりと見ることができた。 そういえば昔、似たような場所に隠れてた女の子がいたっけな、とアキは思う。もちろん、あの時と今とでは状況はだいぶ違っていた。相手は隠れてなどいないし、アキは一人だった。音楽室の前に立つと、扉は開いていて、中の様子を簡単にうかがうことができた。 壇上には、黒漆のグランドピアノが置かれている。 そこに、一人の少女が座っていた。 「美乃原さん――」 と、アキはそっと声をかける。 美乃原咲夜は時間の外から意識を呼び戻すような緩慢さで、ふと顔をあげた。そうして砂を使って絵でも描くみたいにゆっくりと、アキのことを認識する。 「……ああ、水奈瀬さんね」 「少し話をさせてもらってもいいですか?」 「ええ、別に構わないわよ」 まだどこかぼんやりとした声で、咲夜は言う。 アキはピアノのそばまで近づいて、ふと窓の外を見た。廊下側と違ってそこには雑木林が広がるだけで、人に見られるような心配はなさそうだった。 「――ここにはよく来るんですか?」 とりあえず話の枕として、アキは訊いてみる。 「まあそうね。一人になりたいときなんかは、よく来るかな」 皮肉というわけではないのだろう。咲夜はかすかに笑ってみせた。 「このピアノ、使えるんですか?」 「少し調律の狂ってる音もあるけど、ちゃんと使える。かなり古いものだけどね。新校舎には新しいピアノを購入したから、これはそのままにされてるみたい」 「…………」 アキはちょっとピアノを見てから、話を続けた。ピアノの蓋は閉まったままだった。 「先輩に、いくつか確認したいことがあって来ました」 「何かしら?」 その答えについてはもう予想はできていたが、それでもアキは訊いた。 「幸福クラブ≠ノついて知っていますか?」 「……さあ、知らないわね」 ひどくどうでもよさそうに、咲夜は言った。 「噂にでも聞いたことはありませんか?」 咲夜は首を振った。やはりほかの三人と同じで、彼女も何も知らないようだった。 「じゃあ、杜野透彦という人については?」 「……誰のことかしら?」 「一年前に、行方不明になった人です」 「そんな生徒のことは聞いたこともないけど」 「誰かから話にでも聞いたりは?」 再び、咲夜は首を振った。 予想通りの回答に、アキは肩の力を落としてしまった。これでクラブのメンバーだったはずの四人が四人とも、関与を否定したことになる。そして最後の一人には、話を聞こうにも聞くことができない。 「――ところで、そんな話いったい誰に聞いたのかしら?」 咲夜は、話のついでにといった感じで訊いた。 「小菅部長が教えてくれました。学校の古い記事が残っていて……」 「なるほど、新聞部だからそういうことも知ることができた、というわけだ」 「……?」 つぶやくように言う咲夜のその様子に、アキは何となくひっかかるものを覚えたが、それが何なのかはわからなかった。
5
下校時間、アキはたまたまひのりといっしょになったので、同じバスで帰ることにした。 ブザーが鳴ってドアが閉まると、大型犬めいた緩慢さでバスは動きだしている。部活帰りや文化祭の準備で遅くなった生徒が乗車する中で、二人は一番後ろの席に並んで座っていた。 「――どう思うかな?」 と、アキは一通りのことを説明してから、ひのりに意見を求めた。 「どうって?」 ひのりはいつものほんわかとした調子で、話を理解したのかどうかも判然としない。 「だから、五人は本当に幸福クラブ≠フメンバーだったのかどうかってこと」 「ああ、そのことか……」 にこっと笑って言う。案外、煮ても焼いても食えないところが、この少女にはあった。 「――だって、暗号の解読は間違ってないはずだった。それなのに、質問してみた四人はみんなそろって何も知らないって言う」 「四人とも嘘をついてる、ってことはないんだよね?」 ひのりは小首を傾げてみせた。 「たぶん、ね」 「だとしたら、一年間もいっしょにいてそのことを忘れちゃう、なんてことはないんじゃないかな?」 「…………」 まさしく、そのとおりだった。忘れてしまうなんてことはありえない。とはいえ、四人がそのことをごまかしているようにも思えない、というのも事実だった。 「四人――というか、その五人はお互いのことは知ってたのかな? 掲示板でやりとりしてただけで、実際には顔をあわせたことはなかったとか」 訊かれて、アキは掲示板のやりとりを思い出してみる。 「知ってたとは思う。頻繁に会ってたかどうかはわからないけど、実際に会ってないとわからないような文章もあったし」 「じゃあますます、忘れてるなんておかしいよ」 やはり、それが正論だった。 「でも、暗号の五人は間違いなくあの人たちのはずなんだよ」 アキは結局、そこに戻らざるをえない。 「わからないけど、偶然てこともあるんじゃないかな?」 「確率的にはありえないよ。図書室の蔵書数と全校生徒の人数を考えれば、二つの暗号がたまたま同じ人物を指していたなんて。それも五人も」 「だとしたら――」 と、ひのりは靴を飛ばして天気でも占うような調子で言った。 「カモフラージュじゃないかな」 「……カモフラージュ?」 アキはきょとんとしてしまう。 「そう、そのメンバーの人たちは、秘密が漏れてしまうといけないから、わざと別人を使って暗号を作った。本物のメンバーはどこかほかにいる」 「――でもそれなら、最初から暗号なんて作らなきゃいいはずだけど?」 「じゃあそうだね、例えばそうやって偽の餌をまいて、自分たちを探している人間を見つけようとしている、っていうのはどうかな」 この少女は時々、無造作に突拍子もないことを発言する。 アキはひのりのカモフラージュ説を検討してみたが、それはそれで一理あるような気がしないでもなかった。本当のメンバーである五人(かどうかもわからない)が、偽装のために別人の学籍番号を借用する。しかもそれを、自分たちを探している人間を発見するための囮として利用する。 ――これではまるで、スパイ小説だった。 「でも、そのうちの一人が行方不明になってるのは?」 「そんなこと訊かれてもわからないよ、私には」 ひのりは当惑気味に、もうお手上げといった顔をする。 「そもそも、その幸福クラブ≠ニ文化祭の四つの奇跡≠ノ何か関係があるのかな? 聞いたところだと、あんまり関連性はなさそうだけど」 「……わたしは、あるような気がしてる」 アキは弱々しく肯定した。 「どうして?」 「……何となく」 ひのりは別に非難するふうでもなく、ただ少しだけ不満そうに言った。 「今回のことを最初に教えたのは私だけど、どうしてアキちゃんがそこまでこだわるのか、私にはよくわからないな。そこまでしてこのことを調べようとする、どんな理由がアキちゃんにはあるの?」 「…………」 アキはそう言われて、けれど反論はしなかった。それを言ってしまうと、アキは自分の密かな願いが叶わなくなってしまうような気がしていた。願いはきっと、口に出してしまった途端に叶わなくなる。流れ星は決して、人のために待ってくれたりはしない。 だったらいっそ、すべてを諦めてしまうべきなのかもしれなかった。今までだって、ずっとそうしてきたように―― けれど―― 時間をあわせるためか、バスは停留所にとまってからなかなか出発しなかった。低く唸るようなエンジン音だけが、世界を小さく揺らしている。 「……わたしね、会いたい人がいたんだ」 紙の船をそっと水面に放すように、アキは言った。 「昔、すごく仲の良かった男の子。ちょっとしたことがきっかけで、わたしはその子と友達になった。ううん、本当はわたしはその子と友達になりたかったから、友達になった。その子を見ていると、世界はそんなに悪い場所じゃないような気がした。その子といっしょにいると、いろんなものがきれいに見えるような気がした」 前のほうで、手すりにつかまって話をしていた男子生徒の一人が笑った。もう一人が何か面白いことでも言ったのだろう。 「でもね、時間がたって、いろんなことが変わっていって、わたしはいつのまにかどうしていいのかわからなくなってた。本当はいっしょにいたかった。でも何故だか、いっしょにいちゃいけないような気がした。変わらなくちゃいけないような気がした。受験とか、違う中学に行くこととか、世界やわたし自身が今までとは同じでいられなくなって……その子までの距離が、世界の裏側に行くのより遠い気がした。手をのばしても、もう届かないくらい」 軽いクラクションの音とともに、バスは何かを思い出すようにゆっくりと、再び路線にそって走りはじめた。 「今度のことを聞いたとき、わたしはその頃のことを思い出してた。その頃にあった、いくつかの不思議なことを。それでもしかしたら、またその子に会えるような気がした。あの頃と同じみたいに。わたしが今度のことで本当のことがわかったら、その子に会える資格みたいなものを、また取り戻せるような気がした。わたしは――」 アキは消えない流れ星に向かって願いを捧げた。 「わたしはもう一度、その子に会いたいんだ」 「――うん」 鹿野ひのりはいつものこの少女らしい、羊毛のような柔らかさでアキの言葉を肯定した。 「会えるよ、きっと。夢を叶えるには、まず夢を見なくちゃいけないもんね」 何の屈託もなさそうなひのりの笑顔を見て、アキは自分でも笑ってしまう。それは心を魔法みたいに軽くしてしまう、そんな笑顔だった。 「やっぱりすごいよ、ひのりちゃんは」 ため息をつくようにして、アキは言った。 「アキちゃんだって、十分すごいけどね」 ひのりはおかしそうに笑ってみせる。 窓の外には一日の終わりを告げる黄昏が、世界の見る夢みたいにゆっくりと迫りつつあった。
6
アキはもう一度図書室にこもって、暗号について再確認してみた。 ハンドルネームから、本、バーコード、学籍番号と追っていくと、結果はやはり同じである。図書室の蔵書数は約四万冊。その管理番号が偶然、学籍番号と一致し、さらにもう一冊の本がそれと同じ人物の学籍番号を示す確率というのは、大雑把に見て百六十万分の一。しかもそれが五人全員となれば、やはり偶然ですませるには難しい数値だった。 それとも、アキの気づいていない何か別の法則があるのか、あるいは、ひのりの言うようにある種の隠蔽工作にすぎないのか。 (……さっぱりわからないな) アキは十冊の本を机に置いて、頬杖をつく。図書室の管理用バーコード以外に、暗号につかえそうなものはなかった。内容に共通性は見られない。出版社、発行年月日、著者名、ページ数、価格――どれも何の意味もなさそうだった。 本を一冊とって、アキはページをめくってみる。それは例の、『ほんものの魔法使い』だった。 読んでみると、内容はメルヘンチックな小説だった。けれどある種の価値転倒が起こっていて、複雑なところもある。登場人物である本物の魔法使いは、自分たちのまわりにこそ魔法はある、という。たった一つの小さなドングリから育った樫の古木、草からミルクを作る牝牛、丘の上で形を変える雲、想像力という名前の不思議な箱のつまった人間の頭――そんな彼に向かって、手品師たちは鵜の目鷹の目でそのトリックを探ろうとする。 アキがぼんやりと本を読んでいると、不意に隣のイスが動いて誰かがそこに座っていた。 顔をあげると、見覚えのある先生の姿があった。神坂修一郎――いつぞや、アキが演劇部のポスターについて質問するために訪ねた数学教師だった。 「……どうしたんですか、先生?」 まわりを見渡して、アキは訊く。図書室は昨日と同じくがらがらで、テーブルはどこも空いていた。 「ちょっと、お前に聞いておきたいことがあってな」 神坂は傍らに分厚くて難しそうな本を置いて、そう言った。どうやら、本来の目的はその本を調べに来ることだったらしい。 「ここは談話室じゃありませんよ」 「心配するな、俺は教師だ」 何を心配しなくてよいのかは、アキにはわからない。 「じゃあ、怒られたときは先生が言い訳をしてくれるとして、わたしに聞きたいことって何ですか?」 「――素直だな。聞かれたくなければ、断ってもいいんだぞ」 「わたしのほうからだって、一度質問してますから」 「フェアなんだな」 神坂はほんの少しだけシニカルに笑った。 「前にも一度言ったが、どうしてお前は今度のことについて調べているんだ?」 「文化祭のことですか」 「ほかにもいろいろ調べているようだがな」 少し疑問に思ったが、アキはそのことは訊かずにおいた。 「……個人的な興味です。前にも言いましたけど」 「なら、もう少し正確に訊こう。どうして個人的な興味≠持った?」 アキはそっと、神坂の様子をうかがう。以前のように、その手をのばしてくる気配はなかった。 「それは説明しにくいです」 「誰かに頼まれたのか?」 ちょっと予想外の言葉に、アキは首を傾げる。「――頼まれた?」 「お前と同じように、そういうことに個人的な興味≠持っている誰かにな」 「新聞部の人間としては、校内で起きた事件に興味を持つのは自然なことだと思いますけど」 質問の意図を量りかねたまま、アキは正直に答えた。 「……そうか」 神坂は思考を読みとらせない表情でつぶやく。この数学教師が本当は何を知りたいのかは、アキにはもちろん想像のしようもない。 「――ついでに、わたしのほうからも質問していいですか?」 その代わりに、というわけでもないがアキは訊いてみた。 「まあいいだろう」 神坂は鷹揚な感じにうなずく。 「先生は、うちの学校にあった幸福クラブ≠ノついて知っていますか?」 「噂くらいなら、な」 と、神坂はごく気軽な様子で回答している。 「クラブの掲示板のアドレスは生徒のあいだで秘密にしていたようだから、教師である俺も実物は見たことがない。どんな活動をしていたのかも詳しくは知っていない」 「学校は問題にしなかったんですか?」 「現実的には何の問題も起きていなかったからな。俺がこんなことを言うのもなんだが、学校というのはそんなものだ」 アキはもう一つ質問をした。 「杜野透彦という生徒が失踪したことについては?」 「……フェアというには質問が多すぎるようだが、まあいい答えてやろう。生徒がいなくなった以上、学校としては問題だし、警察にも連絡したが、結局は行方知れずのままだ。神隠しとでもいうしかない。家出をするような生徒ではなかったそうだが」 「先生は、宮藤晴という少年のことを知っていますか?」 まるで関係のないことを不意に訊かれて、神坂は一瞬計算間違いでもしたかのように口を閉ざした。 「……いや、知らないが」 「そうですか」 アキは表情もなくそれだけを言って、あとは黙ってしまう。 「…………」 神坂はしばらくその様子をうかがっていたが、アキにはもう口を開く気がないようだった。そう判断すると、神坂は立ちあがって、「邪魔をして悪かったな」と声をかける。 「どんなことにでも興味を持つのは構わんが、ほどほどにしておけよ」 最後にそう言うと、神坂は本の貸し出し手続きをすませてそのまま図書室をあとにした。あたりはさっきまでと変わらない、壜の中で保存されていたような沈黙に覆われている。 アキは開いたままの本に再び目を落としながら、 (――どうして先生は、あんな嘘をついたんだろう?) と、一人で考えていた。
自宅のノートパソコンで掲示板の画面を眺めながら、アキは一つの仮説を検証してみた。 ――もしも、幸福クラブ≠フ活動が魔法によるものだとしたら。何らかの魔法で、人の願いを叶えているのだとしたら。 そんな魔法が実在していたとしたら、どうなるだろう。 アキが昔聞いたところでは、一般的に魔法の使用は魔法委員会≠ニいう組織によって管理、制限されているそうだった。世界に揺らぎを起こし、その一部とはいえ作り変えてしまう魔法は、場合によっては危険なものになりうるからだ。 けれど中にはそうした制約を嫌って、秘密裏に魔法の使用を行う者もいるという話だった。それがどんな動機や、目的によるものかはわからない。実際、アキもそんな一人に会ったことがあった。彼らは世界を変えてしまうことを、むしろ望んでいる。 もしもそんな連中に、願いを叶える*v@が見つけられたとしたら? クラブが解散して、杜野透彦が消えたのは、あるいはそうしたことに関係があるのだろうか――? アキは一つ一つのことを、ゆっくりと考えてみる。 ――神坂柊一郎が嘘をついたのは、何故だろう。 あの先生が、ハルのことを知らないはずはなかった。何故なら、ハルも小学校の時、神坂柊一郎のつくった劇にキャスティングされていたのだから。神坂はおそらく、配役された生徒の名前をすべて覚えていたのだろう。でなければ、アキのことを知っていたはずがない。 問題は、神坂が嘘をついた理由だった。 それはあるいは、幸福クラブ≠竅A文化祭の四つの奇跡=A杜野透彦の失踪に関係しているのかもしれない。 かなり想像を飛躍させれば、魔法使いである杜野透彦を、秘密組織の一員である神坂が誘拐した、というふうに考えることも可能だった。教師という立場は、そのためにはかなり有利に働くようにも思える。ほとんど証拠といえるほどのものはなかったが、少なくとも思考のうえでは不可能ではない。 けれどすべては、今のところ仮説でしかなかった。 アキは何かのヒントを探すために、掲示板の文章をチェックしていく。クラブのメンバーである五人は、ずいぶん仲が良いように見えた。暗号が示しているはずのこの五人が、どうしてあんなふうに何もかも忘れてしまっているのか、アキには訳がわからなかった。 掲示板の最後のスレッド、クラブの活動終了を告げる文章を開いてみる。そこには杜野透彦のハンドルネームである「ほんものの魔法使い」によって、クラブの解散が報告されていた。いたって事務的な文章で、定型的なものである。 (あれ……?) 画面をスクロールしながら、アキはふとあることに気づいた。普通より、この最後のページだけ余白が多いようだった。画面を下に動かしていくと、何も書かれていない部分まで表示される。 まるで何かを、隠しているみたいに。 アキはポインタを操作して、適当なところにカーソルをあわせる。ついで、それを画面の下いっぱいまでドラッグしてみた。 文字色の反転したその部分には、数字の羅列が浮かびあがっていた。 (もう一つの、暗号――) アキは反射的に、そのことを想像する。 そして―― もしかしたらこれは、いなくなった杜野透彦のメッセージなんじゃないか、とも。
7
文化祭の前日になって、校舎や教室の一部ではすでに飾りつけが終わっていた。空気の手触りまで変わって、見慣れたはずのその場所が、まるで違った様子を見せている。 「――魔法みたいだね」 と、ひのりはスプーンを口にくわえながら、やや乙女チックな口調で言う。 同じように中庭を眺めながら、けれどアキは何も言わなかった。言っても仕方のないことだったからだ。もしかしたら、この学校には本当に魔法が使われたのかもしれないよ、とは。 昼食後の休憩時間を、二人は食堂のテラスですごしていた。陽射しが澄んでいて、建物の外には秋らしい風が吹いていた。二人の座るテーブルには、コンビニで買ってきたデザートが置かれている。中庭ではCDプレイヤーの試験でもしているのか、かなりの音量で音楽がかかっていた。交差点で誰かの姿を探している、そんな歌詞が聞こえる。 「とうとう明日だね、文化祭」 ひのりは小さな手でプリンをつつきながら言った。乙女らしく、彼女は甘い物好きだった。 「――うん」 対するアキのほうは、どこか上の空である。目の前に置かれたチーズケーキにも、ほとんど手がつけられていない。 「それ、いらないならもらってあげるよ?」 やや恩を着せるような口ぶりで、ひのりは言った。 「……じゃあ、そのプリンちょうだい」 「私が食べてからでよければ、あげてもいいけど」 「容器だけもらっても」 アキは仕方なく苦笑するしかない。ひのりはにこっとして、今も飾りつけの進む校舎や中庭を見ながら言った。 「それにしても、四つめの奇跡が起こるのは明日なのかな?」 「――そうだね」 去年と同じように、すでに三つの奇跡は起こっていた。カボチャが馬車に変わって、ネズミがそれをひく馬に変わって、灰かぶりの姫は美しいドレスとガラスの靴を手に入れて……そして彼女は、王子様と会うことができるのだろうか。 「何だかアキちゃん、それどころじゃないって感じだね」 「わかるかな……?」 「友達だから、ね」 ひのりが笑顔を浮かべたので、アキもつられるように笑ってしまう。 「実は、ちょっとわからないことがあって悩んでるところなんだ。これなんだけど……」 そう言って、アキはメモ帳を開いてひのりのほうに渡す。 メモ帳にはページいっぱいに数字が並んでいた。一見したところ、その数字に規則性のようなものは見られない。数字を区切る記号の違いから、それが三つずつの組に分かれているらしい、というこが推測できる程度だった。 「例の幸福クラブ≠フ掲示板にあったんだ。これも何かの暗号だと思うんだけど、さっぱりわからなくて」 ひのりは説明を聞きながら、じっと数字を見つめている。 「三つの数字が何か一つのことを表してるんだろうけど、全然見当もつかなくて。一つめの数字は三百以下、二つめは十六以下、三つめは四十以下。わかるのは、それくらい。あと、最後だけ四つの数字が並んでる」 しばらくして、ひのりは口を開いた。 「これ、もしかしたら書籍暗号かもしれない」 「……は?」 何の暗号だと。 「特定の本を鍵にした暗号。あってるかどうかはわからないけど、三つ並んだ数字はそれぞれ、ページ数、行数、文字数を表してるんじゃないかな。ほら、本の書式って大体それくらいでしょ?」 アキはひのりから返されたメモ帳を受けとる。 「最後の数字は?」 「それはわかんない。何か別の数字なのか、鍵になる本を探すヒントになってるのかも」 「書籍暗号……」 あらためて、アキはその数字をのぞきこむ。ひのりの言うとおり、確かにその数字は一冊の本に準拠しているのかもしれない。だとすれば、その本は―― そこまで考えてから、アキはため息をつくようにして肩の力を抜いた。あとは、実際に調べてみればいいだけのことだ。それよりも、 「……ひのりちゃん、何でそんなこと知ってるの?」 と、アキは呆れた。 「乙女のたしなみ、かな」 可愛らしく笑顔を浮かべながら、ひのりはそんなふうにうそぶいてみせる。 「どこの乙女かは知らないけど、そういうことにしておくかな」 「それよりアキちゃん、もっと大変なことがあるよ」 「何?」 「私のプリンがもうありません」 いつのまに完食してしまったのか、ひのりのプリンはもう容器が空になっていた。 「……わたしのチーズケーキをあげるよ」 「じゃあこの容器と交換ね」 もうゴミになってしまったプリンを受けとり、アキはため息をつくしかない。目の前で幸福そうにケーキを頬ばるひのりを見ながら、アキは訊いてみた。 「それもやっぱり、乙女のたしなみなのかな?」 「――もちろんだよ」 迷いもなくうなずく彼女を見て、アキはくすりと笑ってしまうしかなかった。
文化祭準備のための短縮授業で、午後の時間はカットされている。 アキはクラス展示の手伝いを、「緊急の用事」のためという理由で同じ班の生徒に託すと、図書室に向かった。穏当な言葉を使えば、さぼったということになる。 図書室は開いていて、アキは中に入るとさっそく目的の本を探した。杜野透彦が一年前、失踪直前に暗号の鍵に使用したであろう本―― 『ほんものの魔法使い』は、前と同じ場所にきちんと収まっていた。もしかしたら、一年前からずっと。 アキはその本を手に取ると、机の上においてメモ帳といっしょに開いた。ひのりの言うとおり掲示板の数字が書籍暗号で、これがその鍵になる本で間違いがなければ、杜野透彦のメッセージがわかるはずだった。 まず最初の三つの数字「159・14・25」は「ぶ」、次の「185・13・16」は「ん」――そうやって照会していくと、「ぶんげいぶのロッカー」という文字が現れた。最後の数字「4816」は不明。 (文芸部のロッカー……?) 杜野透彦は文芸部だったんだろうか、とアキは思った。そこのロッカーに、何かがある? アキは本を戻すと、すぐに文芸部のある部室棟に向かった。そのあいだずっと、図書室の二階から見られていたことに、もちろんアキは気づいてもいない。 部室棟には各部で文化祭のための看板やオブジェが出されていて、文芸部の場所を見つけるのに苦労はなかった。扉は開いていたので、アキはそこから中の様子をうかがってみる。 部屋には中等部とおぼしき女子生徒が一人いるだけで、ほかには誰もいなかった。もう準備は終わってしまったのか、別の用事にでも向かっているのかはわからない。静かに本を読んでいた彼女は、ふとアキのことに気づいたみたいにして顔をあげる。 目があって、アキは軽い会釈をした。何故だかアキは、その女子生徒に見覚えがあるような気がした。 「――こんにちは。文芸部に何か用事でもあるの?」 と女子生徒は、ひどく感じのいい笑顔を浮かべて訊く。 アキはちょっと迷ってから、入口のところに姿をさらした。この人なら話しても大丈夫だと、ふとそんなふうに思えたのである。 「すみません、実は杜野透彦という人について調べているんですが」 「杜野くん?」 知っているような口ぶりだった。 「たぶん、文芸部に所属していたと思うんですが――」 アキが訊くと、彼女はこくりとうなずいている。 「うん、そうだね。杜野くんはうちの部員だよ」 過去形で話さないのは、そういう性格だからだろうか。 「それで、杜野くんにどんな用事? 残念だけど、今はここにはいないよ。というか、どこに行ったのかは誰にもわからないんだけど」 「――あの、杜野透彦さんのロッカーって、残ってますか?」 「あるけど、それが?」 「……ちょっと、調べたいことがあるんです」 細かい事情を説明していると長くなりそうだったので、アキはそれだけを言った。 彼女は少し逡巡する様子だったが、結局はアキのことを見て問題ないと判断したようである。 「うん、いいよ。こっちに来て」 立ちあがって、案内するそぶりを示す。アキはちょっと頭を下げてから、彼女のあとに従った。 文芸部だけあって、部屋の中には本がいっぱいに詰めこまれた本棚が並んでいる。部員それぞれの趣味を反映して蒐集されたらしいその本棚は、種々雑多な本でまとまりもなく埋められていた。ひっくり返ったおもちゃ箱を急いで元に戻した、という感じでもある。 女子生徒は部屋の奥に並んだロッカーのところに、アキを連れてきた。そこには靴箱のようなスチール製のロッカーが置かれている。名札を確認すると、「杜野」と書かれたものが一つあった。 ただ、そのロッカーには南京錠がかけられている。 「見てのとおり、鍵がかかってて開けられないんだけどね」 「外せないんですか?」 「暗証番号を知らないから。四桁の数字なんだけどね」 四桁――「4816」 「ちょっと、やらせてみてください」 アキはそう言って、鍵の番号を回してみた。「4」「8」「1」「6」……カチンと音がして、鍵が外れる。アキが顔を向けると、彼女はこくんとうなずいた。開けてもいいだろう、ということだ。 「――――」 アキはゆっくりと、ロッカーの扉を開けてみた。 空っぽですかすかのその箱の中には、ノートが一冊だけ置かれている。 「これは?」 訊くと、彼女はそのノートを横から無言のまま手に取った。 「たぶん日記じゃないかな……」 「日記?」 「正確には、日記という名前の小説かな。といっても私小説とかじゃなくて、だからやっぱり日記かな。とにかく、杜野くんがずっと一人で書いてたものね――」 どこか懐かしむような顔で、彼女はノートの表面をなでる。 「うん、杜野くん言ってたな。いつかこれを取りに来る人がいるかもしれないって。その時はよろしく、って」 「……これ、見せてもらってもいいですか?」 「そうだね。たぶん、そういうことになるんだと思う」 彼女は手に持ったノートを、アキに渡した。月夜の海岸で拾ったボタンを、そっと手渡すみたいに。 ノートを受けとって、アキはイスに座らせてもらう。そうして、杜野透彦の日記を読みはじめる前に、アキは質問をした。 「ところで、えと……名前を聞いてもいいですか?」 「私の?」 「――はい」 「牧葉澄花(まきはすみか)、一応ここの副部長。ちなみにみんなはクラスのほうで忙しいとかで、たぶん今日は来ないんじゃないかな」 「わたしは水奈瀬陽といいます――澄花さんは、美乃原さんと同じクラスですよね?」 訊かれて、澄花はちょっと笑った。 「よく覚えてるね。うん、そうだよ。教室に彼女を探しに来たとき、会ってるよね」 そう、どこかで見覚えのある人だとアキは思ったのだ。牧葉澄花はついこのあいだ、美乃原咲夜を探しに教室を訪ねたとき、旧校舎にいるだろうと教えてくれた女子生徒だった。 「――ということは、杜野さんとは同級生ですよね。同じ文芸部でもあった」 「クラスは違っていたけどね」 「その……杜野さんは、どんな人でしたか?」 と、アキは訊いた。日記を読む前に、多少のイメージを作っておきたかったのだ。物語のあらすじに目を通しておくみたいに。 「――そうだね」 と澄花はちょっと目を落として、考えている。昔に読んだ大切な本をもう一度開こうとするのに、それは少し似ていた。 「もの静かな性格で、自分から前に出るようなタイプじゃなかったな。いつも静かに微笑ってて、人を傷つけてしまうことを恐れてた。たぶん、優しかったんだろうね――杜野くんの場合は、少し残酷なくらいに」 「残酷、ですか?」 何だか不穏当な言いかただった。 「……そう。時々、いないかな? 優しすぎるせいで、生きていくのが大変そうな人。いろんなことに混乱して、いろんなことがうまく処理できなくて。杜野くんはたぶん、そういう種類の人だった。空のどこかから、その欠片を一つ取ってきたみたいな、そんな人――」 アキは目の前に置いたノートに視線を落とした。 そこにはタイトルも、名前も、何も書かれてはいない。それはできるだけ、この世界に何の痕跡も残さないようにしているかのようだった。できるだけ、すべてを透明なままそっとしておきたいかのように―― 何だか―― 何だかそれは、アキには悲しいことみたいに思えた。 そうしてアキは、そっとノートを開いてみる。降ってきたばかりの雪にも似た、壊れやすい何かに手を触れるようにして。
※
「先生は味方なんだよね?」 と、眼鏡の少女はやや不安そうに言った。 いつもの、ピアノが置いてある旧校舎の一室である。五人はいつものように、けれどいつもよりも真剣な顔で、それぞれの場所に立っていた。 「先生自身の話によれば」 小柄な少女が、正確を期するようにして発言する。ヘッドフォンは、あらかじめ首にかけられていた。 「魔法……だっけ?」 髪の短い少年が、半信半疑といった感じで口を開いた。「信じられるか?」 「話そのものに疑わしいところはなかったと思う」 もう一人の少年が、冷静な口調で応答する。 「でも疑わしくないからって、それが本当とはかぎらないでしょ」 眼鏡の少女は反問した。 「……だよな、それに魔法って何だ? 揺らぎとか、世界を組み変えるとか、言葉を得て失った力とか」 あくまで懐疑的に、少年は言う。 「でも、嘘じゃないかも」 小柄な少女は海に向かって石でも放るみたいに、ぽつんと言った。ただしその口調は、ほとんど力のないものではあったけれど。 「――魔法でも何でもいいけど」 それまでずっと黙っていた少女が口を開く。彼女はいつものように、ピアノの前に座っていた。 「じゃあ、私たちがやってたことって何なの? 魔法? 奇跡? どうして私たちは、そんなに都合よく人の願いを叶えてあげるなんてことができたの?」 彼女は何かを叫びだしたいのを、ぐっとこらえるような口調で言った。 「それは、そうだけど……」 髪の短い少年は、気おされたように口ごもってしまう。 「本当は、私たちのほうがおかしかったんだよ。こんなふうに、世界を簡単に幸福にできるだなんて思って。最初からおかしかった。そんなことを信じられることが。世界はそんな場所じゃないのに。先生の言うことが本当かどうかなんて、問題じゃないのよ。問題なのは、私たち自身のほうだった」 「――おかしくなんてないよ」 儚げな少年のほうが、静かに告げた。 「僕たちのやろうとしたことは、おかしくなんてない」 「でも普通じゃない」 「だとしたら、間違ってるのは世界のほうだ」 少年がそう言うと、少女は言葉を失ってしまったように黙った。 「僕たちのやるべきことは、今までと何も変わらない。それが魔法だとしても、人に知られてしまったとしても、やるべきことは同じなんだ。誰かが、それをしなくちゃいけない。この不完全な世界で、せめて誰かがそれを」 「でも……」 眼鏡の少女が何か言おうとするのを、少年は首を振ってとめた。 「今はもう、これ以上話をしてても仕方がないと思う。大丈夫、前にも言ったけど、僕に考えがあるから。続きはまた明日にしよう――」 必ずしも納得したというわけではなかったが、三人はとりあえずその言葉にうなずいて、教室から出ていった。 あとには、少年と少女の二人だけが残っている。まるで、幕引き後の舞台に立ち続けるみたいにして。 「……もう、時間は残ってないみたいだ」 と、少年はさっきまでとは打って変わった、ひどく沈んだ調子で言った。 「ずっと、このままでいられたらよかったんだけど」 「――無理よ、そんなの」 少女は言いながら、拳を小さく握っている。本当は、何も手放したくないというように。 「遅かれ早かれ、いつかはこうなるはずだったのよ。先生とか、魔法とか、そういうこととは関係なく」 「そうだね」 「だって――」 少女はずっと握り続けてきたものを、そっと地面に捨ててしまうようにして言った。 「私は、あなたのことが好きなんだよ?」 「――うん」 少年は少女の手放したものを、優しく拾いあげるようにして言う。 「本当は、知ってた。そして僕の好きなのは、別の人だ。その人はやっぱり、別の人が好きで――その人が好きな人も、別の人が好きで」 「どこにも行きつかない」 うん、と少年はうなずく。 「たぶん、だから僕たちはチームでいられたんだ。誰かが誰かを留めようとしてた。でもいずれは、ばらばらになる。互いの手をつなぎあうことができなければ、月だって地球から遠く離れていってしまう。どうしてって、それをとめることなんてできはしない」 「だったら、どうして――」 少女は今にも泣き出してしまいそうな顔をしていた。 「どうして、終わりにしようって言わなかったの?」 少年は空の欠片を手の平に乗せるようにして言った。 「僕はこのクラブを終わらせるつもりはないんだ。誰かが、それをやらなくちゃいけない。それに僕らが終わりにしたところで、もう状況は変わらないよ。このまま放っておけば、本物の魔法使いはきっと、何かのために利用されることになる」 「でも、もうどうしようもない――」 少年はけれど、首を振った。 「一つだけ、方法があるんだ。クラブを続けて、誰も傷つかずにいられる方法が」 「……そんなこと、私は聞きたくない」 「それは、僕の願いを叶えることなんだ。そうすれば、みんなを守ることができる。叶えられる願いは、一度に一つだけ。だからこれは、クラブの最後の活動になる」 「……そんな願い、私は叶って欲しくない」 「願いを叶えるのは、自動的なことだ。そこに強い思いがあれば、誰にもどうすることはできない。この不完全な世界じゃ、どうすることも」 「――私はこのままでいい。いつかばらばらになったとしても、誰かに利用されるとしても」 少年は時間が止まってしまったみたいな、そんな静かな微笑みを浮かべた。
「……でも、僕はこの場所を守りたいと思うんだ」
その瞬間、最後の願いは叶えられた―― 少女の小さな思いを、犠牲にして。
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