[二つめの奇跡]
1
学園にある放送室では、放送部の部長である末島尚吾(すえじましょうご)が苦りきった表情で座っていた。 放送室はごく一般的な形式のもので、編集用機材の置かれた機械室と、防音ガラスの向こうにある録音室で構成されている。スタジオというほど立派なものではなかったが、それなりの広さはあった。 アキはその部屋の機械室のところで、末島尚吾と向かいあっていた。小太りの末島を前にすると、手狭な機械室はますます狭く感じられてしまう。 「……原因は不明、ですか?」 例の音楽について聞きにきたアキは、まずはじめにそう言われていた。 「まあね」 太り気味の放送部部長は、底意地が悪そうな返事をする。高等部の末島はネクタイを締めていたが、それが変に息苦しそうに見えた。 放課後にかかる音楽が放送部によるものではないとわかるのに、時間はかからなかった。どうやらそれは、無許可で流されているものらしい。にもかかわらず、今日もやはり同じメンデルスゾーンの『真夏の夜の夢』が放課後になって放送されていた。 「でも、音楽は間違いなく校内スピーカーから流れてるんですよね……?」 「そういうふうには聞こえるね」 末島は拗ねた子供みたいな皮肉っぽい口調で言う。どうやらこの件に関しての言及を、露骨に避けたがっているらしい。 「末島さんは、必ずしもそうじゃないと思ってるんですか?」 アキはできるだけ相手を刺激しないように、丁寧な訊きかたをした。 「そりゃあ、そうだろ。だってうちでは、あんな放送はしていないんだから」 けれどそれなら、いったい誰があの音楽を流しているというのか。 「知らないね、少なくとも僕じゃないことだけは確かだ」 駄々っ子のような表情で、末島は憤慨した。 「放送部員の誰かが行っているということはないんですか?」 「僕もそう思ってみたけどね」 セリフからして、あまり部員のことを信用している部長ではないらしかった。あるいは、部員に信用されていないせいでそうなるのかもしれない。 「全員、何も知らないとしか言わない。それに音楽がかかっているあいだは、放送室には誰もいなかった」 「……誰も?」 「今日は僕がずっとここで見張りをしていたけど、怪しいやつは来なかったし、おかしなことも起きなかった。それでも、やっぱり音楽は放送された」 忌々しそうに言う。 「機器に問題はなかった、ということですか?」 「問題も何も、電源だって落としてあったんだ」 「…………」 アキは少しのあいだ黙考した。放送室の誰にも気づかれず、機器だけを操作するなどということが可能なのだろうか。 「末島さんは、一人で放送室に?」 「は、僕を疑ってるなら、それは無駄だよ。その時は顧問の先生もいたし、その先生だって何も気づかなかった。第一、放送されていてそれがわからないなんてことはありえない」 狼狽気味の末島を見ながら、アキは心の中で一人つぶやく。ということは、犯人は放送室を使わずに音楽を流した、ということだろうか。 「放送室以外で、校内スピーカーを利用することはできるんですか?」 「無理だね……」 末島はせせら笑うように断言した。 「少なくとも僕は、そんな方法は知らない。直接ケーブルをいじってやればできるのかもしれないけど、誰がそんな面倒なことをするんだ? 第一、何の得があって?」 得かどうかの問題ではない気もするけれど、と思いながら、アキはとりあえず訊いてみた。 「末島さんは、今回の件はどんなふうにして行われたと思いますか?」 「さあね、きっと大量の無線スピーカーでも持ちこんで、それを使ったんじゃないかな。これなら校内スピーカーとは関係がない」 アキは最後に、一つの質問をした。 「去年にあった、四つの奇跡≠ノついては知っていますか?」 「――ああ、あの下らないやつだろ」 いかにも軽蔑したような口ぶりである。 「今回のことも、それと同じようなものだと思いますか?」 「だとしても」 と、人望の薄そうな放送部部長は言った。 「僕には関係がない」
放送室をあとにして廊下を歩きながら、アキは考えている。 末島尚吾が嘘やごまかしを言っているようには見えなかった。たぶん彼は、本当に何も知らないし、本当に下らないと思っているのだろう。 だとすると、犯人が放送室を利用したということはなさそうだった。何かほかの方法で、音楽だけを流したのだ。 例えば末島の言うように、スピーカーの近くに別のスピーカーを用意した、というのはどうだろう。たぶん透明なスピーカーでもあれば、それは可能かもしれなかった。音源はあきらかに、校内放送用のスピーカーなのだ。あるいは、校内スピーカーそのものに何らかの細工を施せば、そんなふうに見せかけることはできるのかもしれない。 だがどちらにせよ、そんなことは不可能そうだった。まともな人間にできることではない。 なら、犯人はまともな人間ではないのだろうか。 けれど―― アキはふと立ちどまって、考えている。 (でもあれは、魔法なんかじゃない――) 何故か、アキはそう思っていた。理由はわからない。それでも渡り鳥が正確に営巣地にたどり着くような感覚で、アキはそのことだけを確かに思っていた。 一年前の四つの奇跡≠ニ、今回起こった謎の校内放送。 それらに、何か関係はあるのだろうか。あるいは今年も、同じ四つの奇跡≠ェ繰り返されるのかもしれない。 アキは再び、歩きだしている。ある場所に向かって。
2
「生徒会の記録?」 と、生徒会長の倉持賢道(くらもちけんどう)は怪訝な顔をした。 場所は、生徒会室である。二つある会議室の小会議室のほうで、生徒会役員が五人ほど集まっていた。おそらく文化祭のことで相談しているのだろう、会議用の長机を囲んでいる。 アキがこの会議室を訪ねて、「実は昔の記録を調べたいんですが」と言うと、返ってきたのが冒頭の言葉だった。 「何でまた、そんなものを?」 倉持はちょっと量りかねたような口調で言う。アキの腕に新聞部であることを示す腕章がなければ、もっと粗略な扱いをしていたところだろう。 「去年と、それから今年の文化祭について、何か関係性があるのか調べたいんです」 アキがそう言うと、生徒会長は傍らの女子生徒のほうを振り返った。たぶん、副会長か何かなのだろう。中等部の生徒のようだった。 「――生徒会の記録は要請があれば、誰にでも公開することになっています。閲覧を断る理由はないようです」 と、彼女は整然とした口調で言った。うん、と生徒会長もうなずく。 「君は新聞部の?」 「あ、はい。中等部一年の、水奈瀬陽と言います」 アキは慌てて答える。 「一応、閲覧目的だけ聞かせてもらってもいいかな?」 倉持の言葉に、アキは少しだけ考えてから答えた。 「奇跡が本当にあるのかどうか調べるため、ですかね――」 生徒会長はさきほどの女子生徒と、もう一度目配せをした。 「……私が彼女を案内します」 と言って、彼女は立ちあがる。 「先輩たちは、企画会議を続けてください」
小会議室の隣には、資料室が附属していた。学校に関する一連の記録を集めたもので、かなりの量がある。壁面には、セピア色に変色した旧校舎の写真や、誰かの直筆らしい校歌、校旗などが飾られていた。少し埃っぽいようでもある。あるいはそれは、堆積した時間から漏れだすにおいなのかもしれなかった。 部屋には閲覧用のものらしい机が置かれ、パソコンが一台だけ忘れられたように設置されていた。動物園の檻に似た、決して広いとはいえない室内は、ほとんどが本棚やキャビネットに占領されている。 女子生徒は窓を開けて、「――少し換気をしないとね」と笑った。ごく自然な、嫌味のない笑顔である。 彼女の名前は、古賀唯依(こがゆい)といった。生徒会の副会長を務めていて、中等部の三年生。 さっぱりとしたショートカットに、きれいな形の眉をしていた。縁なしになった眼鏡の奥に、小さな星みたいにして瞳が輝いている。自己主張の強そうな雰囲気ではないのに、その内部には確固とした密度をもった意志の存在が感じられた。 「――さて、何を調べましょうか?」 と、彼女は気軽な様子で言った。 「去年の文化祭について知りたいんですが」 アキがそう言うと、古賀は「うん」とうなずいて、キャビネットの前に移動した。会計資料や各種報告書のあいだから、一冊のファイルブックを取りだす。 「これは、昨年度分の生徒会の活動日誌なんだけど、主だったことはこれに書いてあると思う」 アキは礼を言ってそのファイルを受けとると、机に座ってページをめくった。ワープロで作ったものをあらためて普通紙に印刷したもので、日付順に並んでいる。 「……文化祭のあったときだから、この辺の月から調べればいいんじゃないかな」 古賀は九月分のページをめくって、アキに示してやった。 「水奈瀬さんは、どんなことを調べてるの?」 「去年あった、四つの奇跡≠チて知ってますか?」 ファイルに軽く目を通しながら、アキは言った。 「そりゃあね、何しろけっこうな騒ぎになったから」 「あれには誰か犯人がいたんじゃないかと、わたしは思ってるんです」 「――奇跡を起こした?」 アキがこくんとうなずくと、古賀は難しそうな顔をした。 「でもあれは、誰かに起こせるようなものじゃないと思うけど……」 「誰かが起こさないと、ああはならなかっただろうって、わたしは思うんです――そのためのヒントが、記録に残っていないかと思って」 答えるあいだも、アキはぱらぱらとページをめくっていく。日誌には文化祭の進捗状況や、各種トラブル、今後の展望などについて丁寧に書かれていた。が、めぼしい記述は見あたらない。 「どうなのかな……」 古賀はやはり、難しそうな顔をしている。 「だとしたら、その日記を調べてもたいしたことはわからないかもしれないね」 「どうしてですか?」 顔をあげて、アキは訊ねる。 「勘で、かな。どちらかというと」 アキは四つの奇跡≠フあった当日の記録も調べてみたが、古賀の言ったようにたいしたことは書かれていなかった。その場の状況について簡単に報告されているだけで、原因やその後の経過についても詳しいことは記されていない。 当てが外れてしまって、アキは険しい表情を浮かべた。 「生徒会では、このことを問題にしなかったんですか?」 と、アキは古賀に向かって訊いてみた。 「私は去年も生徒会に参加してたけど――」 古賀はひどく昔のことでも思い出すようにして言っている。輪郭線のぼやけた、古い絵でも眺めるみたいに。 「たぶん、ほとんど気にしなかったと思う。何故かはよくわからないんだけど……でも問題になるとは思ってなかった。問題というより、何かもっと別のものとして……」 そこまで言ってから、古賀は軽く首を振ってごまかすように笑った。 「ごめんなさい、何だかうまく覚えてないな。けっこう大変なことだったはずなのに、ちょっと変だね。どうしてだろう――」 この少女は何故か、ひどく寂しそうな顔をした。 何だか、アキはその顔に見覚えがあるような気がした。どこで見たのかは覚えていないけれど、確かにはっきりと。それは突然、空の色が変わってしまっていることに気づいたような、そんな―― アキはどこか胸の奥で、何かがちくりと痛んだような気がした。 「――最近、また同じようなことが起きてますよね」 それをごまかしたかったわけでもないのだろうけれど、アキは無理に話題を変えるようにして言った。 「生徒会では、どう対処するつもりなんですか?」 「それは新聞部としての質問?」 少しからかうようにして、古賀は訊いた。 「……どちらかというと、個人的にです」 アキは軽く首を振って見せた。オフレコ、ということだ。古賀はくすりと笑って言った。 「そうね、生徒会の人間としてこんなことを言うのもどうかとは思うけど、私としては面白いかなって思ってる。BGMとしては悪くないし、今のところ深刻な問題というわけでもない。たかが十数分のことでもあるし、ね。ちょっとした魔法の時間、というところかな」 「……魔法の時間、ですか?」 「恋人同士がどこかのテラスで語らいをするには、短すぎるのかもしれないけど」 古賀はそう言って、目だけで笑ってみせる。案外、少女趣味でロマンチックな一面も持っているようだった。 少し考えてから、アキは訊いてみた。 「先輩は、もう一度同じことが起きると思いますか? つまり、今年の文化祭でも四つの奇跡≠ェ……」 その質問に、古賀唯依はすぐには答えずしばらく黙っていたが、 「もし、そうだったら」 と、壊れやすい何かにそっと手を触れるようにして言った。 「――それこそ、奇跡なのかもね」
3
休日が終わって最初の日の放課後、アキはクラスで文化祭展示の準備を行っていた。 すでに仕上がったグループは教室にはいなくて、半数ほどの生徒が残っているだけだった。机をどかして床で作業をする者や、大きな模造紙に鉛筆で下書きをしている者もいる。時間は空中分解してしまったみたいに、とりとめもなく動いていた。夏が終わってから、放課後の時間はゆっくりと流れているらしい。 アキは机の上で、できあがったパネル展示の紙に飾りつけをしていた。短冊切りにした色紙を貼って、枠を縞模様にしていく。地道な作業だった。 「そういえばアキちゃんて、ステージ演奏を頼まれてるんだっけ?」 向かいあわせに並べた机の上で、鹿野ひのりは言った。ひのりは鋏を使って、色紙を縦長の切片に刻んでいる。この少女がそれをすると、どこかのお姫様の雅な手遊びに見えてくるから不思議だった。 「うん、まあね――といっても、添え物として伴奏を頼まれただけなんだけど」 スティックのりを色紙につけながら、アキは言う。こちらは、あくまで工場労働者的だった。 「美乃原(みのはら)さん、だっけ?」 「そう、うちの部長と知りあいだったみたいで、それで頼まれたんだ。前にわたしの演奏を見たことがあるみたい」 「ヴァイオリンの?」 こう見えて、アキは子供の頃からヴァイオリンを習っている。 「――うん。前に吹奏楽部に助っ人を頼まれて、校内で演奏したことあるでしょ。それを覚えてたみたい」 そうしてしゃべっているあいだも、二人は手元で作業を続けていた。まわりでも、同じようにしゃべったりふざけたりしながら作業が行われている。 「美乃原さんて、確かピアノコンクールで優勝したことがあるんだよね?」 と、ひのりは訊いた。 「全国でも二位とか三位の実力だって」 空中でのりづけしながら、アキは答える。 「すごいね、そんな人の伴奏なんて」 「急に頼まれて、一曲だけだけどね。今度、一回弾きあわせすることになってる」 アキは手についたのりを、しかめっ面をしながら紙の上で拭った。 「でもアキちゃんなら大丈夫だよね、ヴァイオリン上手だし」 「先輩の足をひっぱらないようにがんばります」 アキは冗談ぽく笑った。基本的に、その手のプレッシャーとは無縁の少女である。 「――ところで、例の奇跡のことはどうなったの?」 新しく色紙を取りだしながら、ひのりは訊いた。 アキはのりといっしょにくっついた色紙を指先から引っぺがしながら、 「あんまり捗々しくはないなぁ」 と、嘆息した。 「先生や知りあいの先輩に片っぱしから聞いてみたんだけど、みんな何も知らないって。ほとんど問題だとも思ってないみたい」 「被害みたいなものは出てないもんね」 「どれも不可解なんだけど、不可能ではないっていうか――」 「最近、放課後にかかってる音楽も?」 例の『真夏の夜の夢』は、今日も放送されていた。このまま順調にいけば、おそらく文化祭の前日か当日まで続けられるのだろう。 「そうだね、いったいどうやってるんだろう……」 アキは声を落として、考えこんでしまう。 「――実は、耳よりな情報があるんだよ」 そんなアキに向かって、ひのりは不意にからかうような口調で言った。 「耳よりな情報?」 「うん、二つめの奇跡のこと……」 アキはきょとんとして、それからすぐにその言葉の意味を理解する。 「もう一つ、ほかにも何かあったの?」 「――うん。あのね、大廊下があるでしょ」 大廊下というのは、教室棟と特別棟を結ぶ連絡通路のことだ。 「あそこにいろんな掲示物があるのは知ってるよね」 「そりゃあ、知ってるよ」 通路の壁には大きな掲示板があって、そこは主に部活の勧誘や催し物に関する広告などが貼られていた。 「文化祭が近いから、そういうのは全部、舞台発表の告知なんかに使われてるんだけど、その中に演劇部のポスターがあったんだ。でね、そのポスターにおかしなことが起きたんだって……」 「おかしなこと?」 「当ててみて」 アキは腕組みをして、真剣な顔で答えた。 「生徒の一人がポスターの中に閉じこめられてしまった」 「ぶー、外れ……それじゃ、怖い話だよ」 ひのりは少し不満そうな顔をする。もっと違う話を期待していたらしい。 「――で、本当は何があったの?」 アキは頓着せずに訊いた。ひのりは仕方がなさそうに教える。 「そのポスターは『ロミオとジュリエット』だったんだけど、左下にロミオ、右上にジュリエットっていう構図だったの。それがね、よく見たらちょっとずつ近づいてるんだって」 「絵の中で動いてるってこと?」 「みたいだね」 「……それも怖い話なんじゃないかな?」 「ロマンチックでしょ」 ひのりは笑顔を浮かべる。乙女の幻想の前では、どんな異議も認められないようだった。 「わからないな、演劇部でそういう演出をしてるんじゃないの?」 あくまでも常識的見解にしたがって、アキは意見を口にする。 「そこまでは私も知らないけど、詳しいことは演劇部の人に聞いてみるしかないんじゃないかな。たぶん、本番に向けて講堂で練習中だと思うけど」 「――ふむ」 確かに、そうするしかなさそうだった。 アキがそのロマンチックだか怪談ちっくだかのポスターについて考えていると、不意に紙ひこうきが机の上に乗っていた。その辺の紙で折られた、ごく普通の紙ひこうきである。間違っても、ジェットエンジンが描きこまれたりはしていない。 手に取ってあたりを見まわすと、教室の端で男子生徒の一人が自分の存在をアピールしていた。そばかすが顔に残る、ちょっと剽軽そうに間の抜けた感じのする少年である。 「――悪い、ちょっと手元が狂った」 「遊んでる場合じゃないでしょ」 「俺んとこはもう終わったんだ。何だったら、手伝ってやろうか?」 「余計なお世話です」 言いながら、アキは紙ひこうきを投げ返している。 ふわりと風に乗った紙ひこうきは、やがて自分の重さを思い出したみたいにして地面へと落下した。男子生徒は大儀そうに腰を曲げて、それを拾いあげている。 「……あの子、アキちゃんのことが好きなんじゃないかな」 作業に戻ったアキに向かって、ひのりはつぶやくように言った。 「いくら何でも乙女すぎだよ、それは」 アキは笑って、まるでとりあわない。 「どうして?」 意外なほど真剣に、ひのりは言った。 「だって、そんなのおかしいよ。あれくらいのことで」 「――そうかな?」 何故だか納得のいかなそうな顔を、ひのりはする。そして、彼女は言った。 「誰かが誰かを好きになるのは、そんなにおかしなことじゃないよ」 それは物怖じも強がりもせず、まるで神様から預かった言葉でも告げるような口調だった。この少女はきっといつだって、ためらいもせずに同じ言葉を口にするのだろう。 「…………」 アキは何となく、そんなひのりをまぶしそうに見つめている。この子のすごいのは、こういうところなんだよね、と思いながら。 そしてアキが口にしようとした言葉は、もうどこかへ消えてしまっていた。それは秋の透明な光の中にでも、溶けてしまったのかもしれない。
大体のところで作業を切りあげると、アキは二階部分にある大廊下へと向かった。もちろん、例のポスターを確認するためである。 校内はどこも文化祭の準備で忙しく、ざわめいていた。できあがったばかりの、ミツバチの巣みたいな騒がしさである。みんな何かしらの仕事に追われていた。 アキが渡り廊下までやって来ると、そこにはちょうど人がいなくて、ちょっとした時間の空白みたいな静けさに包まれていた。窓から見える中庭では、作業や飾りつけが行われている。 掲示板は廊下の窓と窓のあいだを埋めるように設置されていて、学校からの各種通知のほかは、今は文化祭に関する広告でいっぱいだった。ここだけは、もう文化祭がはじまっているような賑やかさである。 (これかな……?) 問題の演劇部によるポスターらしきものは、すぐに見つかった。 一つの掲示板の半分を占めるような大きさで、それは貼りつけられていた。四隅を画鋲で留められ、縦長の画面は伝統的な『ロミオとジュリエット』のイメージを忠実に再現している。古風な衣装を着た二人が、ひのりの言うように左下と右上に分かれていた。有名なテラスの場面かもしれない。余白には、公演時間やキャスティングが記載されていた。 絵の人物が動いたというけれど、そもそもアキは元々のポスターを知らなかった。二人の後ろにやや空白があるとはいえ、それが移動の証拠だとはいえない。最初からそうだったのかもしれないのだ。 「ふむ……」 アキはとりあえず、じっくりポスターを観察してみた。どうやら手描きによるもののようだったが、演劇部で作ったのか、美術部に頼んだのかはわからない。人物はミュシャ風に描かれていて、かなりの腕前を感じさせた。 しばらくそうやって観察していたが、それで何がわかるというわけでもない。肝心のロミオとジュリエットは虚しく手をのばしたまま、互いを見つめあうばかりで何も教えてはくれなかった。恋人同士なんて、そんなものだ。 「――やっぱりここは、直接聞いてみるしかないかな」 と、アキはつぶやいた。取材の基本は、やはりおろそかにするわけにはいかないようだった。
4
学園には新築の講堂施設があって、全校集会や講演会、その他のイベントに利用されている。アリーナ風の観覧席は二階部分まであって、クッションつきの折りたたみシートが設置されていた。もちろん、音響設備や照明器具、冷暖房が完備されている。 現在、その入口には演劇部練習中につき、開放はご遠慮下さい≠ニ書かれた紙が貼られていた。アキはそれを確認して、そっと扉を開ける。 中は薄暗い照明に照らされていて、舞台上にだけ強い光があった。ちょうど練習中らしく、ジャージ姿の演劇部員たちが演技をしたり、セリフを読みあげたりしている。『あの軽やかな足どりでは、硬い敷石は永久に磨り減る日はあるまい』 (どこだろう……?) と、アキは客席を見渡してみた。当日ともなれば満席になるのだろうが、今は誰もいない。 空席の中で行われる劇というのは、何だか不思議な感じがした。それは自分の頭の中からいつのまにか出現した、見知らぬ記憶のようにも思える。自分の知らない自分が、そこで再現されているようにも。 アキの探している人物は、客席の中央付近に一人で座っていた。たぶん、そこから見える景色を舞台の基準にするためだろう。 (邪魔しちゃ悪いよね……) あまり音を立てないようにして、アキはその場所に向かった。舞台は場面が変わったらしく、背景の書き割りが忙しく交代していた。どこかの僧院から、街中へと転換する。 「――すみません、神坂(かみさか)先生」 アキはできるだけ目立たないように、静かに声をかけた。 呼ばれて、その男は驚くそぶりもなく振りむいている。アキのことに気づいていたわけでもなさそうなのに、ひどく落ち着いていた。 神坂柊一郎(しゅういちろう)は演劇部顧問の、数学教師だった。二十代後半というまだ若い教師で、どことなく貴族的な風貌をしている。二重の涼しげな瞳をしていて、眼鏡の向こうにあるその目は容易に感情をのぞかせない。何もかも悟りきったように自若として、冷徹そうな雰囲気をしていた。いかにも、趣味の良さそうな格好をしている。中等部の担任だったが、アキのクラス担当ではないため、直接の面識はない。 「何だ?」 視線のほとんどを舞台に戻しながら、神坂は言った。 「――ちょっと、お聞きしたいことがあったんです。ポスターのことで」 ひそひそと囁くように、アキは告げる。 神坂はもう一度、アキのことを見た。どうやら、新聞部の腕章に気づいたらしい。 「取材か」 「……そんなところです」 「どこのクラスだ?」 「中等部一年の、水奈瀬陽といいます」 「……水奈瀬?」 何か、心当たりのあるような口ぶりだった。 「もしかして、星ヶ丘の小学校に通っていた生徒か」 アキは、きょとんとした。 「……どうして、知ってるんですか?」 「その小学校で昔、劇をやったことがあるだろう。その劇の脚本を書いたのは、俺だ」 神坂は別段、面白くもなさそうに言った。 「あれって、先生が書いたんですか?」 意外なことに、アキは驚くよりも呆れてしまっている。 「ちょっと頼まれたもんでな」 「……何だか、世間て狭いですね」 アキは嘆息した。こんなところで、小学校時代の出来事とつながっているとは―― 「それはともかく、何の用事だ」 神坂はやはり、何の感興もなさそうに訊いた。アキのことは、単に自分の記憶力を確認するためだけのことだったらしい。 「――大丈夫なんですか、今聞いても?」 アキはふと、前のほうに目をやった。舞台ではマキューシオとベンヴォーリが、漫談めいたかけあいを繰り広げている。 「練習の邪魔になるようなら、あとでも構いませんけど……」 「舞台に立ったときの具合を見るための通し稽古だ、別に問題はない。俺がいなくても大丈夫なように指導してある。それに話しながらでも、演技のチェックは可能だからな」 当然のように、神坂は言う。 (――わたしだったら、とてもそんな余裕はないけどな) とアキは思ったが、もちろんそんなことをいちいちしゃべったりはしない。 「では、例のポスターについてお聞きします」 「渡り廊下のやつか」 神坂は舞台から視線をそらさずに言った。本当に舞台のチェックも平行してやるつもりらしい。 「何でも、ポスターの絵が動いているとか」 アキが訊くと、 「そのようだな」 と神坂は簡単に認めた。 「事実ですか?」 「絵が動いたかどうかはともかく、絵が変わったのは事実だ」 「演劇部の演出なんですか?」 「さあな、少なくとも俺の指示ではない。部員たちにも問いただしてみたが、誰も知らないということだった」 舞台上では、キュピレット家のティボルトがロミオの友人であるマキューシオを殺害していた。報復と報復による、悲劇のはじまりである。 「そもそも、あのポスターは誰が作ったものなんですか?」 「うちの部員に絵の上手いのがいてな、その生徒が描いたものだ」 「――じゃあ何枚も絵を用意しておいて、二人が近づいていくように見せかけることは可能なわけですね?」 「いや、それは少し難しいだろうな」 神坂はごく冷静な口調で告げる。 「手描きの絵を、そう何枚も用意できるとは思えん。それに例のポスターは、紙も含めて構図以外はまったく同一のものだ」 「どうしてそう言いきれるんですか?」 アキは首を傾げた。 「あのポスターの裏には演劇部員全員の署名が入れられてる。舞台の成功を祈った、ちょっとした願かけのようなものだ。俺の名前も書きこんである」 「……それは確かに、コピーしにくそうですね」 「俺の見るかぎり、あれは同じものだよ。絵を切り張りした跡を完全に消せる、というならともかくな」 舞台は再び変わって、どこかの庭園へと移っていた。ジュリエットが言う、『もしもロミオ様がお亡くなりになれば、お前にあげる。切り刻んで、小さな星屑にするがいい。そうすれば、夜空はどんなに美しく輝きわたることだろう』 「聞きたいことは、それだけか?」 「――そうですね、とりあえずは」 アキは考えこむように、言わざるをえない。結局、一つめの奇跡と同じように、今回のこともわからないことだらけだった。 「なら、俺のほうからも質問させてもらおう」 と、不意に神坂は言った。 「何ですか……?」 予想外のことを言われて、アキはちょっと慌ててしまう。 「――どうしてお前は、そんなことを調べている?」 神坂はアキのほうに向きなおって、何故かこの教師には似あわない、強く詰問するような調子で言った。 「えと、それは去年あった四つの奇跡≠ノついて調べていて……」 「何故、そんなことに興味を持つんだ?」 「どうしてって言われても、気になるからとしか――」 舞台上ではちょうど、ジュリエットがロミオの追放を聞いて嘆いているところだった。 「…………」 神坂は何気ない様子で、手をのばした。空中の見えない糸でもつかむような具合に、アキの頭部近くのほうへと。 それは本当に自然な動作で、だからアキは何の不審も抱かなかった。神坂の手がゆっくりと、氷でも融かすように近づいてくる。その手がアキの頭に触れそうになって―― けれど―― 不意に何か音の響きのようなものを、アキは感じた。振動というか、地震の揺れというか、そんなものを。それはずっと昔に感じた何かに、とてもよく似ていた。 (何だろう、これ……?) と同時に、神坂の手は元に戻っていた。目の前で、神坂はちょっと不審そうな顔をしている。アキがそんなことを思ううち、音の響きのようなものは消えてしまっていた。 「――えと、先生?」 何となく不得要領のまま、アキは神坂のことを見た。 「いや」 と、何故かごまかすように言って、神坂は舞台のほうへと視線を移している。 「髪に小さなゴミがついていた、それだけだ」 「そう、なんですか――」 釈然としないものを覚えながらも、アキは引きさがらざるをえなかった。問いただしたとしても、この教師がまともに答えてくれることはないだろう。 それに正直なところ、アキには自分が本当は何を訊きたいのかがわからなかった――
5
次の日も、やはり放課後に音楽が聞こえた。今までと同じ、『真夏の夜の夢』。たぶん放送室では、部長である末島尚吾が苦虫をかみつぶしたような顔をしているのだろう。 アキは何度もその音源を特定しようとしてみたが、うまくはいかなかった。どう聞いても、校内スピーカーから放送されているようにしか思えないのだ。別の音源が存在しているとは考えにくかった。 とはいえ生徒たちのほうでは、もうすっかりその曲に慣れてしまっている様子だった。アキが廊下を歩いている今も、音楽のことを気にする生徒はどこにもいない。軽く口笛をあわせている生徒もいた。 (……でも、問題はどうしてそんなことが起きているのか、なんだけど) そんなことを思いながら、アキは大廊下に向かっている。もちろん、例のポスターを調査するためだった。 登校時をはじめとして休憩時間ごとに調べたところでは、絵の位置は変わっていない。絵が動くとしたら、それは放課後なのかもしれなかった。犯人(がいるとすれば)は、授業終了後に何らかの細工を行っているのだろう。 そうしてアキが渡り廊下に到着してみると、そこにはすでに誰かがいて、問題のポスターをのぞきこんでいた。少し待とうかと思って立ちどまったとき、アキはふと、それが葛村貴史だということに気づいている。 葛村は、今日は弓道衣を着ていない。一人で、あたりには誰もいなかった。この少年は熱心というよりは、どこかぼんやりした表情でそれを眺めていた。水底に沈んだ、透明なガラス玉でも探すような具合に。 ちょっと迷ってから、アキは結局声をかけてみることにした。もしかしたら、二つめの奇跡について何か知っているのかもしれない。 「――こんにちは、葛村先輩」 と、アキは呼びかける。 葛村は驚くでもなく、ゆっくりと顔を向けた。そしてアキのことを視認すると、「ああ」という表情を浮かべる。誰だか気づいたのだろう。 「水奈瀬さん、だっけ。鹿野と同じクラスの」 「はい――先輩はそんなところで、何をしてるんですか?」 アキはポスターのほうに視線を移して訊いた。見たところ、絵が動いたかどうかは判別できない。 「いや、この絵が動いているとかいう噂を聞いてな」 相変わらずのさっぱりとした態度で、葛村は言った。やましいところがあるようには見えない。 「それを確認しに?」 「なんだけど、こうやって見ても元の絵を知らないからな……」 苦笑しながら、葛村は前回のアキと同じことを言った。 「水奈瀬も、同じことを調べに来たのか?」 「はい」 「でも今日は腕章はしてないんだな。取材じゃないのか」 「ポスターのことは、もう昨日調べてあるんです」 「仕事が早いんだな……で、今日はその代わりに何を持ってるんだ?」 アキが肩に担いでいるものを指さして、葛村は訊いた。 「これはヴァイオリンです。文化祭で伴奏を頼まれて、これから練習なんです」 「なるほど」 そうしてあらためて、葛村はポスターを見つめた。 「けど、妙なものだな。本当に去年と同じようなことが起きるだなんて」 アキは葛村の表情をそっとうかがいながら、訊いてみた。 「――犯人がいるとしたら、同じ人物と動機によるものだと思いますか?」 「どうかな」 葛村は特に動揺することもなく言っている。 「あの時、葛村先輩は言いましたよね。これは魔法なのかもしれない、って」 「言ったな、確か」 「あれは、どういう意味だったんですか?」 訊かれて、葛村は困ったような表情をする。 「たいした意味はない、ってのはあの時も言ったよな。まあ同じだよ。ただの思いつきだ」 「でもどうして魔法なんです? ほかにいくらでも言いようはあったはずなのに……」 葛村は腕を組んで、黙って考えこんだ。 「そうだな、俺もちょっと不思議に思ってるよ。どうしてあの時、急に魔法だなんて言いだしたのか。でもどうしてだか、それが心に浮かんだんだ。トランプのカードをめくって確かめるみたいに、不意に」 まるで他人の記憶でも語るような調子で、葛村は言った。 「…………」 アキには葛村貴史が何かをごまかしているようには見えなかった。彼は本当に、自分でもどうしてそんなことを言ったのか、わからないのだろう。 それでもアキには、この先輩が何かを知っているのは確かなように思えた。葛村貴史だけでなく、今までに話を聞いたうちの何人かも。でもそれが何なのかは、誰も教えてはくれない。 (いったい、何が起きているんだろう) と、アキは考えてみる。 あるいは―― 何が起きたのだろう、と。 葛村が行ってしまうと、アキはメジャーを取りだしてポスターの絵を調べてみた。計測してみると、二人のあいだは確かに数センチだけ縮まっているようだった。このままのペースでいけば、文化祭当日にはちょうどその距離はゼロになるだろう。例え悲劇に終わるとしても、その瞬間だけは二人とも幸福でいられるはずだった。 アキはどうにも思案のまとまらない顔で、小さくため息をついた。
中等部三年の美乃原咲夜(さや)のことを、アキは詳しくは知らない。何かのコンクールに入賞して校内で表彰されて、それを見たことがあるだけだった。演壇に立つその姿が、すらっとしたきれいな人だった、ということは覚えている。直接会ったことはない。 「――ちょっと頼まれたことがあるんだけど」 と、新聞部の部長である小菅清重に声をかけられたのは、先週末のことだった。ちょうど放課後に音楽が鳴りはじめた、二日目のことである。 小菅と美乃原は家が近所で、学年は違うが古くからの知りあいだという。文化祭でピアノ演奏をすることになっていた美乃原咲夜は、小菅を通してアキに伴奏を依頼した、ということだった。 子供の頃から習っているとはいえ、アキはヴァイオリンの腕前にそれほどの自信があるわけではない。少なくとも、コンクールに出場するほどの十分な練習は積んでいない。 けれどこんな機会は滅多にないのだから、見過ごしてしまう手はなかった。ある意味では単純に、アキはそう思っている。それに曲目は比較的簡単なものだった。 アキは指定されたとおりに、第二音楽室に向かっている。本番前の顔あわせと、演奏の打ちあわせのためだった。 音楽室に近づくと、ピアノの音が小さく聞こえている。特別棟のこのあたりに人はほとんどいなくて、廊下は眠ったようにしんとしていた。 演奏されているのはおそらく、ショパンのエチュードのようだった。複雑な、けれどどこまでも優雅で気品にあふれた旋律である。誰もいない廊下に響くその音は、まるで古い鉱石の結晶みたいに聞こえた。世界のはじまりからずっと、そうだったというように。その音はきっと、どうやっても壊すことはできない。 音楽室に着くと扉は開いていて、中をのぞくことができた。室内に人影はなくて、ピアノの前に一人だけ誰かが座っていた。 たぶん彼女が、美乃原咲夜なのだろう。 「――――」 アキはできるだけ邪魔にならないようにそっと、部屋の中に入った。ピアノの音はまだしばらく続いて、やがて雨あがりの虹みたいにふっと消えてしまう。鍵盤から重さのない動きで指を離すと、彼女はアキのことを見た。 美乃原咲夜は上品なたたずまいをした、大人びた雰囲気の少女だった。セミロング程度の、ふわっとした黒い髪をしている。手折ったばかりの花みたいな口元に、絹で織ったような繊細な顎の線をしていた。星の光をたくさん集めてきれいな箱に入れたらそうなるかもしれない、という感じの少女だった。 彼女は窓ガラスでほんの少し光が屈折するように首を傾げ、微笑しながら言った。 「水奈瀬陽さん、よね?」 その声は、さっき消えていった音の続きみたいにも聞こえる。 「あ――はい、そうです」 アキは何だかぼんやりして、返事が遅れてしまう。耳を澄ますと、まだどこかでピアノの音が鳴っているような気がした。 「私が美乃原咲夜です。よろしくね、水奈瀬さん――」 そんなアキには構わず笑顔でそう言うと、咲夜は手を差しだした。自然な動作で、アキはつい誘われるようにその手を握る。何だかそれは、手の平で蝶を摑んでしまったような感触だった。 (まるで、ピアノの音がそのまま指になってるみたいだな……) と、アキはそんなことを思っている。 「――急にこんなことを頼んだりして、ごめんなさい。迷惑じゃなかったかしら?」 手を離すと、咲夜は礼儀正しく質問した。 「いえ、そんなことないです」 アキはまるで、こちらが弁解するように慌てて言った。 「わたしなんかでお役に立てるのかな、とは思いますけど……」 「大丈夫よ、それは」 咲夜はふっと、目だけで笑ってみせた。 「あなたは何となく、私に似ている気がするから」 「……似てる?」 とてもそんなふうには、アキには思えなかった。彼女ほど演奏も上手くなければ、美人でもない。 アキの考えていることが何となくわかったのだろう、咲夜は軽く微笑んでみせた。 「普通の意味で似ているというわけじゃなくて、何ていうか……気持ちとか、見ているものとか……そういうものが、かな。それにヴァイオリンの演奏が気に入ったと、いうのもあるし。よく晴れた日の空みたいな、いい弾きかただった」 誉められると、アキは何となく赤くなってしまう。何しろ、あの演奏を聞かされたあとなのだから。それにアキにはやはり、自分に彼女との共通点があるようには思えなかった。 一通りの自己紹介がすんでしまうと、二人でちょっと演奏をしてみよう、ということになった。アキは持ってきたヴァイオリンの蓋を開けて、準備をする。標準より小型の、子供用のものだったが、こちらのほうが使い慣れていた。最近では、少し体にあわなくなりはじめてはいたけれど。 「曲は、何を――?」 楽器を肩のところに当て、アキはそう訊いた。 「じゃあ、バッハのメヌエットを」 「……バッハの?」 「本当は違う人のものだったって言われてるけど」 咲夜はそう言って、その旋律を軽くピアノで弾いてみせた。 それは、手の平で丸い毬を転がすような曲だった。フランス舞曲と呼ばれる、小節ごとに強い音を重ねていく形式。聞いていると、空気に軽く色が着いてしまいそうだった。 「メヌエットでいいんですか?」 曲としては、ごくごく簡単なものだ。 「パガニーニがよければ、それでも構わないけど」 「……バッハでお願いします」 ヴィルトゥオーソなんて、言葉だけ知っていれば十分だった。 「一応、スコアも用意してあるけど、いるかしら?」 おそらく音楽室の備品だろう。咲夜はピアノの上に置いてあったヴァイオリン用の楽譜を手に取った。 「大丈夫です」 軽く弦の具合を確かめながら、アキは答える。 「――覚えてる?」 「忘れてるところは、適当にごまかして弾きますから」 その言葉に、咲夜はちょっと間をとってから、笑って言った。 「大変、よろしい――」 それから鍵盤に指を乗せると、咲夜はアキに向かって声をかける。 「……それじゃあ、水奈瀬さんが好きなように弾いてみて。私はそれにあわせるから」 アキはちょっとうかがうように、咲夜のほうを見た。 「いいんですか、それで? メインはピアノのほうなんじゃ……」 「水奈瀬さんが私にあわせてくれる?」 いたずらっぽく、咲夜は言った。 「……あわせてもらうほうがいいです」 「じゃあそういうことで、やってみようか」 「…………」 ――アキは一呼吸置いてから、弦に弓を置いた。 それから空中に浮いた風船に手をのばすみたいにして、最初の一音を奏でる。左手を動かして、次の音を弓で引きだす。曲が流れはじめると、体は覚えたとおりの滑らかな動きで演奏を続けた。 ヴァイオリンの音に、いつのまにかピアノが加わる。籠の中から零れ落ちてしまったものをそっと拾いあげていくような、そんな感じだった。あわせてくれているというより、部屋に明かりをつけてあたりを見えやすくしている、というふうでもある。 (何だか、すごい――) もちろんアキは、レッスンでピアノの伴奏をしてもらうことはあったが、それとはまるで違う種類の経験だった。音を直したり良くしたりするのではなくて、自分の出す音が一つ増えたという感じである。 ――それは世界が少しだけ、組み変わってしまうことに似ていた。 短い演奏が終わると、二人とも顔を見あわせて笑った。申しぶんのない合奏だった。咲夜の言うとおり、不思議と相性は悪くないらしい。 二人はついでに本番の曲も何度かあわせてみたが、細かいところをのぞけば何の問題もないようだった。 「これなら、あとは練習しなくても大丈夫そうね」 咲夜がごく気軽な口調で言って、演奏は終了した。 そのあと、アキはヴァイオリンを楽器ケースにしまいながら、 「――あ、そうだ。先輩は四つの奇跡≠チて、知ってますか?」 と、何気ない調子で訊いてみた。機会があるごとに、アキは同じ質問をすべての人間に繰り返している。 「……去年の文化祭のことね」 「そうです、何か知りませんか?」 咲夜はぽん、と鍵盤の一つを叩く。 「さあ、どれも噂みたいなものだし」 「でも校内新聞にも残ってますし、今年も同じようなことが起きてますよ」 「…………」 それには答えず、咲夜は不意に別のことを訊いた。 「もしも願いが叶うとしたら、水奈瀬さんは何をお願いしたいかしら?」 「願い、ですか?」 急に話題が変わって、アキはきょとんとした。 「――そう、あまり大げさなやつじゃなくて、ちょっとしたこと。明日は天気にして欲しいとか、誰かと話をするのにちょっとしたきっかけが欲しいとか」 「ずいぶんささやかなんですね」 「本来はね」 彼女は少し奇妙な言いかたをした。 「一つだけですか?」 「本当はいくつでもいいんだけど、そうね、今は一つだけにしておこうかしら――それから、このことは神坂先生には内緒で」 「……?」 どうしてここで、神坂柊一郎の名前が出てくるのだろう。 けれど冗談めいた笑顔を受かべるこの少女にそれを訊いても、まともには答えてくれそうになかった。 「…………」 とりあえず、アキは考えてみた。できるだけ真剣に。彼女が何を考えているのかはわからなかったが、ただの気まぐれでこんな質問をしているわけではないのだろう。 「わたしは――」 だからアキは、ずっと心に思っていたその願いを口にしてみた。 けれどその言葉を口にしても、アキは本当に自分がそのことを望んでいるのかどうか、自信が持てなかった。それは本当にささやかな願いではあったけれど、たぶん叶うことはないだろう。 「――なるほど」 咲夜はそんなアキのことを知ってか知らずか、一人で納得したようにつぶやいている。 「やっぱり、あなたは私に似ている」 「……先輩は」 と、アキは何故か自分だけがそれを言わされたことが不公平な気がして、逆に質問した。 「先輩は、どうなんですか? もしも願いが叶うとしたら」 「私だったら、か」 美乃原咲夜は、冷たく澄んだ泉にでも手をひたすようにして言った。 「――私の願いは、もう夢の中に消えてしまったから」
6
「咲夜とはもう会ってみた?」 と、訊かれたのは、アキが新聞部で古い記事を漁っているときのことだった。 机から顔をあげてみると、部長である小菅清重が隣に立っている。彼女は執筆の進捗状況でも確認するような口調をしていた。癖になっているのかもしれない。 「会いました」 アキはバインダーを繰る手をとめて、簡潔に答えた。 「……どうだった?」 「いっしょに演奏してみました。美乃原さん、すごく上手でした。想像していたより、ずっと」 「うん――」 うなずきながら、小菅はイスを引いてアキの隣に座る。 「問題はなかったわけだ」 「はい、とりあえずは」 「あの子、ちょっと変わってるでしょ」 「そうですか?」 アキが疑問符つきで返すと、小菅はくすりと笑うような目つきでアキのことを見た。 「あんたも変わってるから、気づかなかったのかもね」 「わたしはごく普通ですよ」 傷つけられれた名誉に対するささやかな抗議は、完全に黙殺されたようだった。 「――さあは、あの子はどんな感じだった?」 小菅は机の固さでも確かめるようにして、その表面をとんとんと指で叩きながら言った。抗議のことはいったん置いて、アキは答える。 「すごく落ち着いてて、大人っぽい感じでしたよ。気品があって、物腰が柔らかで――」 「何か妙なことは言ってなかった?」 訊かれて、アキは例の「願いごと」の話を思い出したが、小菅には黙っていた。何となく、彼女はそれを人にしゃべって欲しいとは思っていないような気がした。 「……親切に優しくはしてくれましたけど」 アキがそう言うと、小菅はひどく深刻そうな顔をしている。 「部長?」 「あたしとさあは、幼なじみみたいなものだったんだけど――」 と、小菅は急に話しはじめた。火のついたロウソクが融けていくのを眺めるみたいな、ゆっくりとした口調で。 「あの子、ちょっと変わった子だったんだよね。人とあまりつきあいたがらなくて、どうしてだかいつも何かに怯えてるみたいな感じだった。エドガー・アラン・ポーの怪奇小説に、いつも生き埋めにされることを怖がってる人が出てくるのがあるでしょ? あんな感じかな。いつひどいことが起こるかはわからない。そしてそれは、決してよくなったりはしない」 ほとんど独り言でも口にするような調子で、小菅は続けた。 「さあは七夕とか、クリスマスみたいなイベントが大嫌いみたいだった。というか、嫌いとかいうレベルじゃなかった。例え一分一秒でも、そんなことは早く終わってしまえばいいのにっていう感じだったから。あたしはどうせ願いごとなんて信じてなかったから、特にそれがおかしいなんて思ったりはしなかった。でもそのせいで、さあのまわりにはいつも人が少なかった。星の光が、見かけよりずっと遠くにあるみたいに。あの子はあの頃、ピアノばかり弾いていたような気がする」 「…………」 「中学に入ってしばらくすると、さあは変わった。前より明るくなったし、新しい友達もできたみたいだった。秤の片方にだけ積んでた重りが、すっと消えてなくなるみたいに。子供の頃からあの子を見てきたあたしとしては、それは本当に喜ばしいことだったんだけどね――」 小菅はまるで時間の重みでも量るみたいにして、言葉を切った。そして砂時計を引っくりかえすように、話を続ける。 「でもね、二年になった頃、さあはまた変わった。いや……前よりひどくなったわけでも、元に戻ったわけでもない。むしろずっと落ち着いて、よくなってた。人とも普通に接してて。でもあたしには何だか、それが見かけ通りのことじゃないような気がしてた。あの子は、ずっと守ってきた大切なものをすっかり諦めてしまったんじゃないかって、そんな気が。まるで誰かに、魔法でもかけられたみたいに」 小菅はそう言って、話を終えた。時間の重量が、ゆっくり元に戻っていくような感じがした。 「美乃原さんに、何かあったんですか?」 時間がいつも通りに落ち着くのを待ってから、アキは言った。 「わからない。少なくともあたしは、何も気づかなかった。その頃には、高等部にあがっていたし」 力なく首を振る小菅を見ながら、アキはふと美乃原咲夜のことを思い出していた。 あの典雅で落ち着いた身ごなしや、相手のことを常に配慮する態度、奥の深いピアノの響き。それは何かを手離してしまった、諦めのようなものだったのだろうか―― 「ごめんね、急にこんな長話なんてしたりして」 急に謝られて、アキは慌ててしまった。 「いえ、そんなことないです。わたしも気になりますから」 「……人なんて時間がくれば変わっていくんだから、こんなのはあたしの愚痴みたいなものかもしれないね。たださあにそのままでいて欲しいっていう、歪んだ願望なのかも」 アキはその言葉に、何も答えられなかった。 「――ところで」 と、小菅はアキの手元にあるバインダーをのぞきながら言った。 「例の四つの奇跡≠ノついて、何か進展はあった?」 アキは首を振って、答える。 「全然です。何が起きてるのかさっぱりで」 「でも本当に今年も妙なことが起きてるから、何かあるのかもしれないね」 「音楽とポスターのことについて、部長は何か知りませんか?」 「さあ? あたしは全部、水奈瀬に任せたから」 新聞部部長は無責任に笑った。 「元々の記事を書いたのは部長ですよ」 冗談のつもりで抗議すると、小菅は、「そうか――」とつぶやいて、何故か急に真剣な顔をして立ちあがった。 どうするのかとアキが見ていると、小菅は棚の引き出しから何かを持って来ている。机の上に置かれたのは、部の備品であるフラッシュメモリだった。 「何ですか、これ?」 「その中にちょっと変わった記録が入ってる」 「変わった記録?」 「そう――幸福クラブ≠チていう、グループについてのね」 言われて、アキは意味もなくフラッシュメモリを見つめてしまう。もちろん透視能力があったとしても、その中身を知ることなどできはしない。 「何ですか、それ?」 と、アキは当然の質問をする。 「慈善団体というか、非営利組織というか、よくわからない正体不明のグループ。二年くらい前に現れてね、活動してたんだ。今はもう解散してるみたいだけど」 「そのクラブって、何をしてたんですか?」 「人を幸福にする活動、というところからな。学校のサーバーにスペースを作って、校内のパソコンからしか利用できないような掲示板を設置したの。で、何か困りごとや悩みごとのある人間がそのことを書きこむと、事情や経緯を聞いたうえでそれを解決してくれる、というわけだ」 「どこかの印籠を持ったお爺さんみたいですね……」 アキは言葉に困ったように嘆息した。 「実際、それに助けられた生徒も多かったみたい。溺れる者は藁をもすがるけど、これは当世風かもね」 「部長も経験があるんですか?」 「まさか、あたしは星に願いごとを捧げるようなタイプじゃないよ。そんなことするくらいなら、自分で何とかすればいいんだから」 身も蓋もない真理ではある。 「けど、その幸福クラブ≠ニ四つの奇跡≠ノ何か関係があるんですか?」 アキはメモリを指先でいじりながら訊いてみた。 「それはなんとも言えないけど、時期的には重なってるんだよね。クラブが消滅したのは、例の奇跡が起きてからしばらくしてのことだった。裏づけも何もありはしないんだけど、当時から気になってはいたんだ」 少なくとも方針の一つとしてはその線もあり、ということだろう。 「わかりました」 「――それと、もう一つ。こっちはさすがに関連があるとも思えないけど、その頃に起こった事件という点でだけは共通してることだから」 そう言って、小菅は置いてあったバインダーの記事をめくった。 「ほら、ここ。一年前、当時うちに通ってた男子生徒の一人が行方不明になってる。二年三組の出席番号三十一、杜野透彦(もりのゆきひこ)。校内でも情報を募ったけど、結局詳しいことは何もわからなかった。事件性については否定されてるけど――」 記事には少年の身元や情報募集についての報知が載せられ、写真も小さく添えられていた。サイズのせいでよくはわからなかったが、空の切れ端でも身にまとっているような、儚げな雰囲気の少年である。 「部長は、本当はこのことを自分で調べたいと思ってるんじゃないんですか――?」 メモリとバインダーの記事を見ながら、アキは何となく訊いてみた。 「……何度か言ったけど、あたしは願いごとっていうのがあんまり好きじゃないんだ」 「わかります」 アキは素直に同意している。小菅清重というのは、そういうタイプの人間だった。 「でもね、そういうことを差し引いても、何だか釈然としないものが残るんだ。変な言いかたかもしれないけど、あたしはそこに非難みたいなものを感じるんだよね。非難というのが言いすぎなら、泣きじゃくって抗議している子供の姿みたいなものを。どこかの誰かに、この世界がひどく間違った場所だって、主張されてる気がして――」 だから正直なところ、この件には深く関わりたくないんだ、と小菅は言った。 「…………」 この部長の言うことが、アキには何となくわかる気がした。時々、世界というのはそういう場所になってしまう。大切なものは失われ、それが回復することは二度とない。 (世界はどうしようもなく、不完全になってしまう――) アキはいつかの冬に見た出来事を、そっと手ですくうみたいにして思い出していた。
7
窓の外で風景が動きだして、路線バスはいくつめかの停留所を通りすぎていった。 空はまだ明るいとはいえ、すぐ隣に座っているみたいな、はっきりとした夕暮れの気配があった。海底に向かうようにして、空気や光の圧力が変化していく。 「…………」 アキはシートに腰かけたまま、ぼんやりと外の景色を眺めてた。カバンを膝の上に置いて、窓枠に頬杖をついている。 時間帯のせいか、乗客の姿は少なく、学園の生徒も片手で数えるほどしかいなかった。町の中心部で多少の人数が乗ってきたが、糸が解けていくみたいにしてその数は減っていく。まるで、黄昏の中に溶けていってしまうかのように。 そのあいだ、アキは窓の外を見ながら考え続けていた。今、何が起こっているのか。かつて、何が起こっていたのか。 ――四つの奇跡≠ニ同じように、学園では現在、二つめの奇跡まで起こっていた。順当にいけば、残り二つも遠からず起きるのだろう。でもそれは、本当に奇跡と呼べるようなものなのだろうか。そこに作為や、何者かの意図が存在することはないのだろうか。 アキにはやはり、それが誰かの意志によって行われているのだとしか思えなかった。誰か、本物ではない魔法使いの手によって。そこにどんな目的があるのかは不明にしても。 そうやって奇跡について調べているうちに、アキはたくさんの人間に会いもした。そのうちの何人かは、普通とは違う特別な反応を示したように思う。でもそれは、何故なのだろう。その人たちに、どんな理由や事情があるというのだろう。 「……ふう」 アキはちょっとため息をついて、背筋をのばしてみた。一人で考え続けるのは、ひどく疲れることだった。 けれど今は、すぐそばで助けてくれるような相手はいない―― どこか別の場所に行ってしまうように色あいを変化させはじめた空を見ながら、アキは再び思考を続けた。 新聞部で小菅からもらったフラッシュメモリと、古い記事。謎の幸福クラブ≠ニ、学園の失踪者―― アキはカバンからメモリを取りだして、やはり意味もなくそれを見つめる。 時期的には文化祭と重なるそれらの事態には、本当に何か関係性があるのだろうか。一見したところ何のつながりもない、三つのこと。そもそも、それがパズルのピースになり得るのかどうかさえ、判然とはしない。 あたしはそこに非難みたいなものを感じるんだよね 小菅清重の言葉を、アキはぼんやりと思い出していた。 そこに存在する、どこか見覚えのある手触りを感じながら。 「思へば遠く来たもんだ=c…」 教科書に載っていた誰かの詩をふと思い出して、アキはそっとつぶやいてみた。窓の外にある夕暮れの気配は引き返すこともなく、ますます濃くなりつつある。 ――空に輝く星の運行と同じように、路線バスはいつも通りの道をたどっていった。
※
旧校舎の音楽室には、いつものように五人の生徒が集まっていた。 「――でも、何で四つなんだ?」 と、少年の一人が言う。髪をごく短く切ったほうの少年だった。 「俺たちは五人いるのに」 「別に数にこだわる必要はないと思うけど」 眼鏡をかけた少女が答える。 「同じ意見」 カメラをいじっていた少女も同意した。 「でもなあ……」 と少年がなおも言いつのろうとするのを、もう一人の少年が抑えた。 「僕たちの中に一人だけ、偽物が混じっているからだよ」 「ニセモノ?」 「そう、その一人だけは、本物の魔法使いになれないんだ。だから、奇跡は四つまでしか起こせない」 髪の短いほうの少年は、肩をすくめてみせた。 「じゃあまあ、そういうことにしておくか」 「……僕たちの中に、偽物が一人いてもいいの?」 「友達に本物も偽物もないしな」 儚げなほうの少年はにこりと笑っている。 「きっと、そう言ってくれるだろうと思ってた」 「――どういたしまして」 二人の会話が終わると、ピアノの前に座っていた少女が口を開いた。背中まである髪の長い少女だ。 「二つめの願いはもう叶えられてしまったし、これからどうするの?」 「でも、ちょっと地味じゃなかったかな――」 眼鏡の少女が、まるで申し訳なさそうにぽつりと言う。 「俺たちの活動目的は有名になることじゃないだろ?」 「まあ、そうなんだけど……」 少女は少しためらうように言った。 「私たちのこと、もっとみんなに知ってもらったほうがいいんじゃないかと思って。それだけで救われる人だって、いるはずなんだから」 「目立つのは、どうかと思う」 小柄な少女が機械的な口調で言う。 「そうだね、僕もそう思う。僕らのことが喧伝されるような事態は避けるべきだから」 「いざとなったら、雲隠れでもするしかないな」 髪の短い少年は陽気な感じに、冗談ぽく言う。 「でも最近、ますます私たちの正体に近づかれてる気がする。今日だって……」 ピアノの少女は思案げな様子で言った。 「例の暗号に気づく人間がいれば、俺たちのことはすぐにばれちゃうだろうしな」 「簡単には、気づかないと思う」 カメラを持ったまま、少女は感情のない声で言った。 「でももし、仮に悪の組織なんかに解読されてしまったらどうするんだ?」 「悪の組織?」 眼鏡の少女が、目をぱちくりさせる。 「そんなのいるの?」 「いたとしたらの話だよ、あくまでな。けど何にしろ、俺たち目をつけられてるんじゃないのか」 「もしそうだとしても――」 と、儚げな雰囲気の少年は言った。 「大丈夫だよ」 「どうして?」 ピアノの少女に訊かれて、少年はどこか真剣な顔で答えた。 「……僕が、何とかするから」
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