[不完全世界と魔法使いたちB 〜アキと幸福の魔法使い〜]

「――つまり、子供たちは走ってるときにどこを通ってるかなんて見やしないだろう。そんなときに僕は、どっからか、さっととび出して行って、その子をつかまえてやらなきゃならないんだ。一日じゅう、それだけをやればいいんだな。ライ麦畑のつかまえ役、そういったものに僕はなりたいんだよ」

J.D.サリンジャー『ライ麦畑でつかまえて』(野崎 孝・訳) 

[プロローグ]

 幸せな夢を、見ていたような気がした。
 誰かの手がそっと心を温めてくれるような、そんな夢だった。何もかもが奇跡みたいに優しくて、体がふわりと軽くなってしまって、空さえ簡単に飛んでしまえそうな、そんな気持ちにさせられる夢――
 でも、それは透明な水に溶けていく砂糖みたいに、あっというまに輪郭をなくしてしまう。手をのばしてみても、もう原型すら失ったその形が曖昧に感じられるにすぎなかった。
「…………」
 水奈瀬陽(みなせあき)はベッドの上に身を起こして、ぼんやりと夢の断片のようなそれを眺めていた。
 まだ一日のはじまりという気配は遠くて、目覚まし時計さえ鳴っていない。カーテンの向こうの光は弱々しくて、部屋の中は夜の残した足跡みたいな闇に沈んでいた。
 中学一年になったアキは少し背がのびて、体つきも変わりはじめていた。短かった髪は長くのばされて、いかにも中学生らしい感じがした。全体に、大人びたようでもある。
 それでも、この少女の基本的な部分はあまり変わっていない。手ですくった水の上にきらめく光みたいな、そんな相変わらずの明るさがあった。透明なシャボン玉を思わせる瞳の中で、世界はくるくると回っている。
 そうしてアキがぼんやりしていると、不意に頬の上を一雫の涙が流れていた。
「あれ……?」
 アキは手で触れてみて、ようやくそのことに気づく。
 どうして泣いているのかなんてわからないのに、泣いていることそのものが悲しくなったみたいに、涙がぽろぽろと零れていく。
 人は悲しいから泣くんじゃなくて、泣くから悲しいんだ――
 アキはふと、そんな言葉を思い出した。
(……でも、これは違う)
 アキは朝露みたいな涙をそっと拭って、考えてみた。
 世界に対して、わたしが本当に幸福でいられたのは、いつ頃までだったろう――
 一日のはじまりが待ち遠しくて、どんな明日が来るのかわくわくして、眠ってしまうのさえもったいなかった、あの頃。
 それを失くしてしまったのはいつ頃だったろう、とアキは考えてみる。
 あんなに欲しかった玩具がもういらなくなって――
 いつか行きたいと思っていたあの場所を、もう覚えてもいなくて――
 世界からどんどん奇跡が失われていった、あの頃。
(……でもそれは、おかしなことなんかじゃない)
 誰だって成長するし、それは可能性を少しずつ現実に置き換えていくというだけのことだ。マントを身にまとっても飛べないことを理解したり、サンタクロースの正体を知ったり、自分がそれほど特別ではないことを認識するみたいに。
 手足が大きくなって、摑めるものはずっと多くなり、体や精神も徐々に変わっていく。人は大人になっていくのだ。大昔から決められているとおり。
 それは何かを失くしたわけでも、何かが壊れてしまったわけでもない。
 ただ、成長していくというだけのことなのだ。世界がずっと、そうだったように。
 けれど――
 それはどうして、こんなにも悲しいのだろう?
 アキはそっと、膨らみかけた胸に手をあてる。そこには夢が残していった締めつけられるような痛みがあって、変に苦しかった。
 まるで、悲しみがその居場所を知らせようとするみたいに。
 そうするうちにも、カーテンの向こうはゆっくりと明るくなって、一日がはじまろうとしていた。
 空気は何かの予感に震えるように、日が経つにつれて冷たくなりつつある。季節はもう秋の半ばを過ぎようとしていた。
 アキはベッドから床に足を降ろして、立ちあがる。まるで敵意でも持っているかのように、床は素足をひやりとさせた。それから窓を開けて、手の平を秋の空気に浸してみる。
「冷たい、な――」
 そっと、アキはつぶやいた。季節はいつだって、人の気持ちになんてお構いなしに、変わっていくのだ。
 時間によって、決められたとおりに。
 けれどそれは――
 やっぱり、ほんの少しだけ悲しいことだった。

 もしもすべての願いが叶うなら、人は幸せになれるのだろうか?
 悲しみも苦しみも、どんな小さな痛みさえも、その人を傷つけることはできない。
 ――それはきっと、完全な世界だ。
 けれど魔法を失ったこの世界で、そんなことは起こりえない。この世界は、不完全だから。人はもう、そのための力を失ってしまったから。
 だがもしも、魔法が使えたなら。
 すべての願いを、叶えることができたなら。
 ――人は、幸せになれるのだろうか?
 いつかの後悔や、ほんの些細なすれ違い、かつて思い描いていたささやかな未来を取り戻す、そんなことが。
 青い鳥をもう一度籠の中に入れてしまって、もう逃がすことはない。
 魔法さえ、使うことができれば。
 けれど――
 この不完全な世界では、魔法を使ってさえ人は幸せになることができない。幸せそのものが、不完全でしかいられないのだから。
 ――ほんの小さな幸福。
 これは、ほんの小さな幸福を願った魔法使いの話だ。
 そこには報われることのない思いがあり、孤独な秘密があり、黄昏に消えていった光のような寂しさがある。
 そして何より、本物の魔法と偽物の魔法が。
 これは、ちっぽけな話だ。
 最後にただ、少年と少女が出会うだけの、何でもないような話。零れ落ちた貝殻を、もう壊れてしまった物語を、一人の少女がただ拾い集めていくような、そんな話。
 世界は不完全なまま、何も変わりはしない。あの時の悲しみも、痛みも、傷も、癒されることはない。それは変わることなく、あり続けている。ささやかな願いは叶えられず、ほんの小さな幸福さえ手に入れることはできない。
 世界はあまりに、不完全だから。
 けれど――
 それでも確かに、奇跡はそこにあった。
 
[一つめの奇跡]

 朝食はいつも通りのトーストだった。
 テレビで天気予報がはじまる頃、トースターが目覚まし時計のなりそこないみたいな音を立てて、パンを吐きだす。こんがりと焼き色のついた食パンは、甘くて香ばしい匂いを漂わせていた。
 アキはパンを取ると、薄くバター塗ってかぶりつく。母親がどこかの自然工房で見つけたというそのパンは、普通のものよりふっくらして柔らかい感じがした。
 朝食の同じテーブルには、アキの両親と弟の姿がある。小学校四年の弟である水奈瀬蓮(れん)は、朝陽にあわせて起きるのが遅くなっているらしく、パジャマ姿に変てこな寝癖をつけていた。まだ夢の中にいるみたいに、半分眠ったような目をしている。
 アキのほうではすでに身支度は終えて、制服に着替えていた。長くした髪は二つにくくって、試運転まで完了してしまったような元気さである。寝起きのいいのが、この少女の特徴でもあった。
「――しばらくお天気が続くみたいね」
 天気予報をのぞきこんでいた母親の幸美(ゆきみ)が言った。エプロン姿だったが、すらりとした身ごなしで、どことなく猫っぽい雰囲気をしている。
「文化祭まで続くかしら?」
 と、彼女は首を傾げてみせた。
「うん――」
 言われて、アキもテレビ画面に注意する。週間予報では、週末あたりまで晴れマークが続いていた。
「だといいんだけど」
「アキのところは、何をするんだっけ?」
 幸美は訊いた。
「……展示」
 アキは面白くもなさそうに返事をする。
「メインは高等部の出し物だから、クラスでやる気がないとそうなっちゃうんだよね。展示なんて、やることもあんまりないし」
「――何だ、お前のところはもう準備が終わってるのか」
 新聞に目を通していた父親の慎之介(しんのすけ)が、ふと顔をあげて言った。大手の商社に勤めるアキの父親は、朝食の席では大抵新聞を読んでいる。読みながら、家族の会話もちゃんと聞いている。
「まだだけど――」
 アキはやはり不満げに言った。
「あと二、三日もあれば終わるくらい。調べたことを紙に書くだけだから」
「なら、もっと手の込んだことをすればどうだ?」
 訊かれて、アキは軽くため息をついた。
「……クラスの総意ってものがあるから」
「はは、中学生もなかなか大変らしいな」
 と慎之介は笑って、新聞に目を戻した。
「――お姉ちゃんの文化祭って、ぼくも行っていいの?」
 トーストをもぐもぐかじっていた蓮が、まだ眠そうな声で訊いた。
「もちろん、いいわよ。蓮はお母さんといっしょに行こうか?」
 幸美が手早く話をまとめてしまおうとする。
「……別にいいけど。家族が学校に来るのって、何だか抵抗あるな」
 アキは気の進まなそうな顔で、おおかたの中学生が思うのと同じことを口にした。
「あら、大丈夫よ」
 と幸美は朗らかな笑顔を浮かべる。
「私がアキの母親だって、みんなに宣伝してあげるから。それに私は全然恥ずかしくないしね」
 アキはため息をついて、わたしは確かにこの人の娘だな、と再確認した。
「どうせ、お母さんには何を言っても無駄なんでしょ?」
 精一杯の皮肉で、アキはそう言ってみた。が、幸美はあくまで朗らかである。
「じゃあ決まりね。お父さんは仕事があるから無理だけど、文化祭には私と蓮で遊びに行くから」
「……歓迎します」
 言ってから、アキはトーストの最後の一口を飲みこんだ。時計を見ると、そろそろ出かける時間が近い。
 立ちあがって、アキは学校に持っていく物をもう一度確認した。いい加減なようでいて、この少女にはそういうところではわりとまじめなところがあった。
「――忘れ物なし」
 つぶやいて、リボンと服の裾を直す。家を出るのはアキが一番だったので、家族はまだテーブルで食事中だった。アキはカバンを手に持って、「いってきます」と声をかけてから玄関に向かう。
 学校指定の革靴を履いて、アキはドアを開けた。九月下旬の、ほとんど夏の抜け殻みたいな空気が、そこには待っている。
 アキは小さく深呼吸をして、体を外の世界に慣らす。次第に透明さを増していく陽射しや、変わっていく空の色、そんなものに対して。それからコツンと靴音を立てて、一歩を踏みだす。
 ――すべては他愛のない、いつも通りの日常だった。

 アキの通っている私立衣織(きぬおり)学園は、天橋市のやや外れたところに位置していた。
 市の中心部を抜けてその場所に向かうバス路線には、途中まで同じ学校に通う生徒の姿はほとんど見られない。乗客は大体、会社員か他校の生徒だった。
 そのあいだはすることもないので、アキは窓の外を眺めたり、退屈しのぎに本を読んだりしている。通学時間のおかげで、読書習慣がしっかり身につきそうだった。
 窓の外が賑やかになって、ビルやデパートがいくらか見えるようになってくると、乗客が入れ替わって学園の生徒が増えるようになる。知りあいがいれば、そこからはおしゃべりをして時間をつぶした。
 ただ、学園に通う生徒の多くは電車通学で、バスの中でクラスメートと顔をあわせることは少ない。その日も、乗客の中にアキの見知った顔はなかった。そのため目的地に着くまでの残り時間を、アキは適当に本を読んで過ごすことにする。
 窓の外に緑が増えはじめる頃、バスは目的地に停車した。ほとんどの人は降車して、同じ方向に向かう。アキもバスを降りて、それに従った。
 季節は秋になったとはいえ、木々が紅葉するにはまだ遠く、本格的な涼しさがやって来るのはこれから先のことだった。衣替えの時期になってはいたが半袖姿の人間も多く、アキも長袖にしただけで上着は着ていない。まるで蜥蜴の尻尾みたいに、残暑はしつこく存在していた。
 それでも、不意に吹いてくる風は驚くほど冷たいことがあって、季節の移ろいを感じさせた。秋は上空から、ゆっくりやって来るつもりらしい。
 しばらくすると道が合流して、登校する生徒の数はいっそう多くなった。もう大学受験を控えた高等部の三年生と、まだ小学生の雰囲気が残る中等部の一年生。その中間で様々な成長度合を見せる生徒たち。中高一貫ならではのグラデーションの大きな人間模様だった。
 アキが校門をくぐると、委員と担当の教師が服装のチェックを行っている。チェックといっても特別に厳しいということはない。ただ声をかけて襟元やシャツの具合を直させるだけだった。アキも一度注意されたことがあったが、それは単に髪に糸くずがついていただけのことだった。
 前庭を抜けて玄関に入ると、靴をはきかえるために生徒がそれぞれのロッカーを開いていた。まとまりのない楽団みたいに雑多な音が響きあって、いつもながらの騒々しさである。
 アキは靴を内履きに替えると、校舎に足を入れた。玄関のすぐそこには中庭に通じるピロティがあって、今は文化祭の作り物でいっぱいだった。普段なら生徒の休憩所に使われるその場所には、看板や動物型のオブジェ、完成が危ぶまれるような骨組みだけのハリボテなんかが転がっている。生命をもらう前の物体とでもいった、奇妙な感じがそこにはあった。
(……そのうちこういうのを作ることになるんだろうな)
 と思いながら、アキは中等部の教室へと向かった。廊下や階段には、子供がひっくり返した玩具箱みたいな、雑然としたざわめきが満ちている。校舎も生徒もすっかり変わったとはいえ、その雰囲気だけは少しも変わっていない。
 大きなガラス窓から射す光に目を凝らしながら、アキはふとその頃のことを考えてみる。
 あの星ヶ丘小学校で起きた、いくつかの事件。その中で知った、魔法のこと。
 冬の日に体育館で行われた対決。
 完全世界――
 あれから一年以上も経っているというのに、アキにはそれがつい昨日のことみたいに思えた。手をのばしさえすれば、簡単に触れられそうな気がする。懐かしい思い出として心にしまい込んでしまうには、アキにとってその経験は特別すぎたのかもしれない。
 階段を昇って、アキは一年の教室に向かう。やがて彼女の所属する「103」の教室が見えた。
 開いたドアから入って、知りあいと挨拶しながら自分の席に歩いていく。
「…………」
 その途中で、アキはすぐ近くの座席によく見知った顔があることに気づいた。
 小学校時代からの友達で、今でもしょっちゅう話をする相手だった。通学バスでいっしょになるのも、その人物である。たぶん今日は、部活で朝連か何かでもあったのだろう。同じ小学校から進学した相手なので、アキにとっては一番の友達でもあった。
 アキが自分の机にカバンを置くと、その相手もアキのことに気づいたようだった。振りむいて、にっこりと笑う。
「――おはよう、アキ」
 と、その相手はいつもと同じ口調で言った。
「おはよう」
 アキも、同じように笑顔を浮かべる。
「――ひのりちゃん」

 アキが衣織学園に入学したのは、基本的には親の勧めによるものだった。
 県下では数の少ない私立校で、充実した設備や優秀な実績、高い評判を誇っている。私立の通例で中高は一貫、共学で、最近になって新しい講堂も完成された。
 もちろん私立なので、公立とは違って入学には試験が課されている。
 少し遅れてとはいえ、アキも塾に通って学習に専念することになった。放課後の時間はほとんどがそれに費やされて、おかげで小学校時代の最後は、アキには勉強ばかりしていた記憶がある。ある意味でそれは、密度の濃い時間だった。
 元々、勉強はそれほど苦手ではなかったので、プレッシャーはあっても神経症にかかるほどではなかった。アキにとっては、塾で同じ目的の子たちと席を並べるのも楽しかった。鹿野(かの)ひのりと出会ったのも、その頃である。
 入試当日は、勉強の成果があったのか運が良かったのか、答案にはまずまずの手応えがあった。そして後日送られてきた結果通知には、合格の文字が記されている。
 アキはさすがにほっとして緊張が解けたし、両親も喜んでお祝いをしてくれた。

 ――それでも、入学してしばらくのあいだ、アキは体の半分をどこかに忘れてきたような、そんな感じがしていた。とても長い紐のついた風船が、たった一つで空を漂っているみたいな、そんな感じが。
 同じ小学校から学園に進んだのは、結局アキとひのりの二人だけだった。

「――クラスの展示って、もっと何とかできないかな?」
 と、アキはひのりに向かって言ってみた。
 昼休憩の時間で、二人は学校のカフェテリアにいる。
 広い食堂のテーブルは、大勢の生徒たちで埋まっていた。天気がいいので、屋外のテラスで昼食をとる生徒の姿もあった。休憩時間になったばかりで、券売機の前にはまだかなりの人だかりが集まっている。
「何とかって、何が……?」
 きつねうどんを念入りに冷ましながら、ひのりは訊きかえした。彼女は極度の猫舌である。
「もっと……有意義なこととか?」
 アキは定食のササミフライをつつきながら、曖昧に訂正した。
 二人が座っているのは長机の端っこで、中庭に面している。ガラス張りの壁面からは石畳が全面に敷かれ、いくつかの緑に囲まれた校庭を眺めることができた。
「――有意義なこと、か」
 アキの言葉に、ひのりは「うーん」と考えこんでいる
 鹿野ひのりは前にも書いたとおりアキの同級生で、同じ小学校の出身でもあった。古風なおかっぱふうの髪型で、和服を着せると似あいそうなところがある。どことなく世間ずれのしない、間延びした性格をしていて、本人はそれをいっこうに気にしていなかった。狐の手袋でもはめられそうなくらい小さな手をしている。
「どうなのかな、実行委員の二人に相談してみないと」
「いや、ひのりちゃんはどう思ってるの?」
 訊きながら、アキはサラダを口にする。何となく、高級そうなドレッシングの味がした。
「さあ、私は文化祭ってはじめてだから――」
 のんびりした口調で、ひのりは答えた。
「そりゃあ一年生はみんなはじめてだよ」
 アキは怒りもせず、平然と話を続ける。この程度のことで目くじらを立てていれば、鹿野ひのりとまともな会話などできるはずもなかった。
「でもさ、もっとやる気というか情熱というか、そういうのがあってもいいんじゃないかな。つまり、何ていうか、こう……」
「有意義に?」
「……まあ、そんなところ」
 アキは肩を落として、ごはんを口にする。アキにしたところで、たいしたプランがあるわけでもなかった。
「うーん、でも私としてはクラスのみんなにはあんまり反対したくないな」
 ひのりは丁寧に裁縫でもするような手つきで、箸を動かしている。はたからそれを見ていると、この少女が食べているのが本当にうどんなのかどうか、疑わしくなるほどだった。
「保守的だなあ、ひのりちゃんは」
 と、アキは嘆息してみせる。
「知らないの? 革命は壊すだけで、何も生まないんだよ」
 鹿野ひのりはさらりと、そんなことを口にした。
「けど――」
「みんなすてきなひとりぼっち」
「は?」
 急に何を言いだすのだろう、という顔でアキはひのりのことを見た。
「そうだおれにはおれしかいない、おれはすてきなひとりぼっち=Bそういう詩、あるでしょ?」
「ふむ」
「みんなすてきなひとりぼっちなんだよ。だから、無理をすることはないんじゃないかな」
「…………」
 何故だかよくわからないけれど、アキは反論する気をなくしてしまった。灰色のことを、白なのか黒なのか議論しても仕方がないみたいに。
「……やっぱり不思議だよ、ひのりちゃんは」
 アキはしみじみとした口調で言った。
「よく言われる」
 ひのりは悪びれもせずに、にこりとした。
「――でもアキちゃん、クラスでだめなら部活のほうでがんばればいいんじゃないかな?」
 新年に屠蘇でも飲むようにうどんの汁をすすってから、ひのりは口を開いた。
「部活で?」
「うん、私たちの弓道部でもいろいろ企画してるよ。行射の体験とか。クラスでやるだけが文化祭じゃないから」
「ふむ」
 アキがやや真剣な顔で黙考していると、ひのりはふと思い出すようにして言った。
「そういえば、うちの文化祭にはちょっと面白い噂があるんだよ」
「噂?」
「うん、四つの奇跡≠チていうんだって」
 アキは首を傾げた。
「……七不思議じゃなくて?」
「三年の先輩から聞いた話だと、そう言ってた。去年、うちの学校にはそういうのがあったんだって。消えない虹が現れたり、空から飴が降ってきたり――」
「何それ?」
 アキはきょとんとした。本当にあったとしたら、ずいぶんな話だ。
「私は聞いただけだから、詳しい話は何とも。だからさ、調べてみるといいんじゃないかな? アキちゃんがそのことを」
「うーん……」
 ひのりの提言に、アキはあまり気のりしない顔で小さくうなっている。

 アキは学園では、新聞部に所属していた。
 中高あわせて部員は十四人。隔月と、不定期の校内新聞を発行していて、マイナーな種類の部活のわりに活動は盛んだった。週に二回ほどの活動だったが、それ以外の日にも人がいることは多い。
 一般の文化部と同じ広さの部室には、中央に長テーブルが置かれ、新聞編集用のパソコンが隅に一台設置されていた。壁際には長年の活動で堆積した古い記事や資料が、旧石器時代の遺物めいた格好でスチール棚に保管されている。
 放課後、その部室でアキは古い記事を引っぱりだしていた。記事は臨時で発行された、去年の文化祭に関するものである。そこにはひのりの言ったとおり、四つの奇跡≠ェ特集で掲載されていた。
 奇跡の内容は大体、次のようなものである。
 (1)校庭にかかった消えない虹
 (2)空から降ってきた大量の飴玉
 (3)休み時間に突然現れた、中央階段のペイント
 (4)第二グラウンドに迷いこんできた象
 アキは机に座ったまま、数面にわたって書かれたその記事を丁寧に読みこんでいく。詳細に記述されたその内容は、もちろんエイプリルフールみたいなでたらめではないだろう。それに文化祭があるのは、四月ではなく十月である。
 とはいえその記事が本物だとしても、アキは簡単に信じてしまう気にはなれなかった。どれもあやふやで、指で弾けばそのまま飛んでいってしまいそうなくらい現実離れしている。文化祭が盛り上がったことは想像に難くないが、こんなことが偶然で短期間に集中して起こるものだろうか。
 それに、これではまるで――
「…………」
 そうしてアキが新聞を片手に考えこんでいると、
「昔の記事に興味あるの?」
 と、後ろから声をかけられている。
 振りむくと、新聞部部長である小菅清重(こすがきよしげ)が立っていた。室内にはほかに、アキしかいない。
 清重という名前ではあるが、小菅は女子生徒だった。高等部二年で、ずっと新聞部で活動している。ひっつめ髪で、秀でた額をしていた。どことなくオールドミスふうなところがあったが、身ごなしは颯爽としている。
 部長は同時に編集長という立場でもあって、記事が採用されるかどうかは彼女の一存にかかっていた。それだけに、部員たちからは密かに恐れられる存在でもある。
「えと、友達に聞いて少し気になったんです」
 アキは軽く緊張しながら、そう答えた。部長という階級がなくとも、高等部の先輩といえば年齢もずっと上だった。
「……懐かしいな、この記事」
 言いながら、小菅はアキの手からそっと記事を取って、感慨深げに眺めている。
「知ってるんですか?」
 アキが訊くと、小菅はあっさりうなずいた。
「そりゃ、これ書いたのあたしだもの」
「部長が?」
「その時にはまだ平の部員だったけどね」
 小菅は軽く、微笑を浮かべる。部員の一人いわく、普段の部長は天使のように優しいけど、記事の原稿を前にしたときは鬼に変わる
「これ、本当にあったことなんですか?」
 部長を疑うような発言はしたくなかったが、アキは一応そう訊いてみた。
「――うん、本当のことだよ」
 と小菅は気にした様子もなく、その記事をアキの手元に返した。
「でも、こんなのって」
「――信じられない?」
 発言を先回りして、小菅は言った。アキはこくりとうなずく。
「まあ、そうかもしれないね……」
 もう一度記事のほうを見ながら、小菅はつぶやくように言った。紙面には、実際の写真も載せられている。にもかかわらず、そこにはどこか現実感が希薄だった。手品の空中浮遊でも見せられた感覚に、それは似ている。
「何しろ、奇跡だから」
 と、小菅は諦めたように言った。そんな小菅に向かって、
「誰かがやった、っていうことはないんですか?」
 とアキは訊いてみた。
「……誰かが?」
 そんなことは考えもしなかった、という顔を小菅はする。
「面白いこと言うね、水奈瀬は」
「いえ、その――」
 アキはちょっと言葉に困ってしまう。まさか、昔同じようなことを経験したことがあるんです、とは言えない。それに言ったところで、小菅は信じたりはしなかっただろう。
「――あくまで、仮定の話です」
「仮にそうだとしても」
 と小菅は渋面を作った。
「実際には難しいだろうね。どれも突飛すぎる。階段のペイントはさすがに誰かがやったんだろうとは思うけど、それにしたって短時間すぎる。ほかのものに関しては、推して知るべしってところだし」
 だとしても、この話は何だか――
 アキはもう一度、その記事を見つめた。どこか見覚えのある、そんな出来事を記した古い記事を。
「……これ、わたしが調べてみても構いませんか?」
 アキは自分でも思いがけず、そんなことを言っていた。
「水奈瀬が?」
「――はい」
 しばらくのあいだ、小菅はアキの意見を吟味するように考えていたが、
「そういうアプローチも面白いかな……」
 と、つぶやくように言っている。
「一年前のことだから、調べるのは難しいかもしれないわよ?」
「じゃあ……」
 立ちあがって、アキは小菅のほうに体を向けた。
「ほかの部員は忙しくて手伝えないだろうけど、一人でもよければ取材は許可します」
 そう言ってから、小菅はいたずらっぽくつけ加えた。
「――それにもしかしたら、今年も同じようなことが起きるかもしれないしね」
 どうやら取材許可は、編集長としての決定らしい。
 小菅はそれから、編集長用のデスクからあるものを取りだしてアキに渡した。青地に白抜きで「衣織学園新聞部」の文字が書かれた腕章である。つまりこれで、アキの活動が部としての正式なものであると認可された、ということだった。
「それを見せれば、まあ大抵の人は協力してくれると思うから」
 小菅はあまり当てにはしないように、という感じでそれをアキに託した。
「――がんばります」
 アキは直立姿勢になって、腕章を受けとった。先輩のアシスタントとしてそれを身につけたことはあったが、単独で取材活動をするのは今回がはじめてだった。さすがに少し、緊張している。
「……一つ、聞いてもいいかな?」
 それから、参考までにという感じの何気ない調子で小菅は訊いた。
「水奈瀬は、どうしてこの件に関して調べてみようと思ったの。つまり、取材動機みたいなものについてなんだけど」
 その問いに、アキは自分でもあまりはっきりしない様子で答えた。ただ砂浜を歩いていたらきれいな貝殻が落ちていた、とでもいうふうに。
「――魔法みたいだから、ですかね」

 学園には大きなグラウンドが全部で三つあって、それぞれ陸上、野球、サッカーを主として使われている。ほかにテニスコートや弓道場が、屋外施設として存在していた。
 そのうち校舎の北にある野球用の第二グラウンドとテニスコートの境界付近に、アキは立っていた。
 文化祭で忙しいのか、どちらにも生徒の姿はない。空っぽのグラウンドには、よく整備された黒い土が広がっていた。今年の野球部は、夏の大会で地区予選準優勝のはずだった。惜しくも甲子園には届かなかったが、大健闘には違いない。アキ自身、先輩に連れられてそれを取材していたので、よく覚えていた。試合会場の陽射し、スタンドの声援、金属バットが硬球を打つ乾いた音――
 そんな夏の記憶も、今は面影さえ残ってはいない。誰もいないグラウンドは、収穫後の小麦畑みたいに寂莫としていた。
「ふむ……」
 アキは腰に手をあてて、小さくうなった。
 おそらく一年前の今頃も、ここはこんな景色だったのだろう。文化祭のあいだに使用されるのは、主に陸上用の第一グラウンドだった。そちらのほうが、校門から近い。
 アキはコピーして持ってきた記事を、もう一度確認する。モノクロでわかりにくくはあったが、そこには現に目の前にしているのと同じ光景を写した写真が載せられていた。
 ある意味では死者の大地みたいなこの場所に、消えない虹がかかったのだ。
 文化祭の三日前、この付近にある屋外消火栓に亀裂が入り、内部から水が漏出した。噴霧状の水流に太陽の光が反射して、虹を作る。どういうわけか、故障は文化祭終了まで放置され、そのあいだはずっとグラウンドの上に虹がかかっていた。
 アキが問題の消火栓を探してみると、テニスコートの端にそれらしいものが確認できた。
 破損した消火栓は撤去され、新しいものと取り替えられている。そこにあるのは記事にあるのと同型の物だが、もちろん亀裂など入ってはいない。叩くと、鐘のような金属音がした。さすがに頑丈そうである。
 小菅部長の記事によれば、消火栓は比較的新しいタイプのもので、設置されてまだ日も浅かったと書かれていた。前回の点検時にも、異常は見られなかったという。
(だとすると、誰かがわざと壊した……?)
 と、アキは思考を巡らせてみた。
 あたりに人影はなく、大がかりな工具を使ったとしても見咎められる心配はなさそうだった。もしも犯人がいたとすれば、犯行はそれほど苦労せずに可能だったかもしれない。
 けれど――
 いったい誰が、何のためにそんなことをしたのだろう?
 記事によれば、亀裂は何らかの劣化作用によるものとされ、詳しい原因は不明と書かれていた。人為的な痕跡は認められなかった、ということだろう。
「ふむ……」
 何か適当な推理を考えてみようとするが、アキには何も思いつかなかった。
 空を見あげても、そこには透明な秋の空が広がるばかりで、虹の痕跡などどこにも見あたらない。それは空の青さの中に、もうすっかり溶けてしまったのだろう。

 次にアキが向かったのは、校舎の中央にある階段だった。
 中央階段は教室棟の、ちょうど中等部と高等部を結ぶあいだに作られている。ほかのものより若干大きめで、格が一つ上という感じだった。玄関から一番近いこともあって、学年を問わず利用率は高い。
 一階にある玄関前のピロティでは、たくさんの生徒が文化祭の準備を行っていた。何となく、でき損ないの遊園地みたいな賑やかさである。そんな光景を見ていると、ここが学校だということをつい忘れてしまいそうだった。
「…………」
 アキはその脇を通りぬけて、中央階段へと向かう。その前に立つと、例の記事を広げてみた。
 掲載された写真によると、そこに現れたペイントというのは段差部分に施されていたらしい。階段下から見ると一枚の画面として構成されていて、角度が変わるとブラインドみたいに隙間ができる、ということだった。
 モノクロの写真では色彩まではわからなかったが、相当カラフルなものだったようである。段差部分の全体に着色され、ほとんど塗り残し部分はない。絵というよりはポップアートに近いもので、ちょっとおしゃれなポスターという感じだった。リズム感があって、音楽的な雰囲気が漂っている。
 アキは近づいて、段差部分を仔細に眺めてみた。階段を利用する生徒が不可解そうな顔をするが、アキは気にしないことにする。
 その時のペイントは、もうどこにも残ってはいない。文化祭後に、上から塗りつぶす形で消されてしまったからだ。表面を削ればそれが見られるのかもしれなかったが、さすがにアキもそこまでする勇気はない。
 記事によれば、ペイントが出現したのは昼休憩中のことだった。
 中央階段にはほとんど常に人がいるため、ペイントの実行が可能だったのは授業中だけだったということになる。とはいえ五十分のあいだに、五階まである階段のすべてに色を塗るなどということが、はたして可能といえるかどうか。
(うーん……)
 アキはゆっくりと、階段を昇ってみる。踊り場の向こうはガラス張りになっていて、中庭から秋の澄んだ陽射しが注いでいた。
 その踊り場までにある段差は、十四。つまり五階分で百四十段の段差面にペイントをした、ということだった。よほど用意周到に準備しなければ、時間内にその作業を終わらせることは不可能だろう。人数も必要だし、着色剤だって大量に消費することになる。
 ――ところが、この階段ペイントを誰が行ったのかはわかっていないのだ。
 記事によると、その時間に授業中にいなくなった生徒はいなかったし、欠席者は少数の上に全員が関与を否定している。教師による実行も同じく否定された。部外者によるものだというのも、かなり考えにくい。
 つまりは、犯人不在ということだった。靴作りの妖精(レプラホーン)よろしく、見えない誰かが人知れず階段に色を塗った、としか考えられない。
 アキは五階までやって来ると、そこでちょっと立ちどまってから、またゆっくりと階段を降りはじめた。
 消火栓同様に、この階段のことも奇妙な話だった。誰かがやったとは思えないが、誰かがやったとしか考えられない。
(もしかしたら、ペイントはもうされていたのかな……?)
 と、アキはふと想像してみた。
 別の時間にペイントをして、その上にシールのようなものを貼りつけて表面を隠しておく。問題の時間になれば、そのシールをいっぺんに剥がしてしまえばよい。これならペイントにかかる時間は無視することができるし、作業自体も短時間で終わらせることができる。
 とはいえ、本当にそんなことが可能なのかどうか、アキにはわからなかった。
 もしそうでないとすれば、やはり――
(……奇跡、なのかな)
 アキはどこか納得のいかない気持ちで、そう考えていた。

 アキがペイント偽装説の細部を検討していると、不意に階段の下から声をかけられている。
「――こんなところで何してるの、アキちゃん?」
 鹿野ひのりは、ちょっとした太陽みたいな朗らかさで言った。
「新聞部で、ちょっと……」
 思考を中断して、アキはひとまずは適当に答える。ひのりは、「ああ」という顔でその腕のところを見つめた。
「だから腕章つけてるんだ」
「――うん、ひのりちゃんのほうこそ、どうしたの?」
 アキは訊きかえした。今日はクラスでの作業はないはずだった。
「弓道部で、ちょっと……」
 さきほどのアキの言葉を真似て、ひのりは少し笑う。
 それから二人は踊り場の隅によって、ほかの生徒が通行するのを邪魔しないようにした。ガラスの壁面からは、小さくなった中庭を俯瞰することができる。
「今、四つの奇跡≠ノついて調べてるところなんだ」
 と、アキはまず説明した。
「新聞部で?」
「というよりは、わたし個人でのほうが近いかな」
 そう言うと、ひのりはちょっと訳知り顔の表情を浮かべている。
「やっぱり、アキちゃんなら興味を持つんじゃないかと思ってた」
 ――どうして、とアキは一瞬訊こうとしたが、何故かそれをためらってしまっている。代わりに、
「……ひのりちゃんは、この話でまだ何か知ってることはある?」
 と、訊いた。
「私は聞いただけだから、あれ以上のことはちょっと」
 言われると、アキは記事を取りだしてひのりに渡している。新聞部のものだと説明すると、ひのりは感心したように目を通しはじめた。少し待ってから、アキは話を続ける――
「わたしね、もしかしたらこの奇跡は誰かが起こしたものなんじゃないかって考えてるんだ」
 読みかけの記事から顔をあげて、ひのりは小動物ふうに首を傾げる。
「奇跡を?」
「そう――」
 ひのりは再び、紙面に目を落とした。
「人間技とは思えないけど」
「そうなんだけど、不自然じゃないかなやっぱり。こんなに立て続けに不思議なことが起きるだなんて」
 二人の前を、何人もの生徒に抱えられて、アニメに出てくるロボットの形をしたハリボテが通過していく。そのロボットは、何かもの言いたげな様子をしていた。
「……でね、その消火栓と階段について調べてみたんだ」
 ハリボテが行ってしまうと、アキは続けた。
「虹と、絵だね」
 ひのりは記事を見ながら確認する。
「物理的に不可能ってわけじゃないから、何か方法があるような気がして。象と飴玉のほうは、もう調べようもないけど」
「それで、何かわかったの?」
「たぶん犯人は――」
 と言ってから、アキは何故だかその言葉の続きを飲みこんでしまう。
「犯人は?」
「――超絶技巧の持ち主だったんだよ」
 アキの言葉に、ひのりは小さく肩をすくめた。
「何もわからないよ、それじゃ」
「うん……」
 アキはうつむいて、簡単に同意する。
「――この象、本当に学校に来たのかな?」
 記事につけられた写真を見ながら、ひのりは羨望するように言った。
「だとしたら、もう一度やって来ないかな。私、動物園の外で象なんて見たことないよ」
「……どうだろうね」
 写真には、生後一年に満たない小さな象が写されていた。動物園への搬送中、うっかり施錠をし忘れて、檻から逃げだしてしまったのだという。そうして迷子になった小象が、たまたま学園にやって来た――
 もう一つの飴玉も、似たような話だった。製菓会社がイベント用に空輸していた大量の飴が、単純な手違いから空中でばらまかれてしまった。飴のほとんどは学園に降り注いだが、幸いなことに負傷者は一人も出ていない。
 そうやって二人が記事をのぞき込んでいると、いきなり声がしていた。
「こんなところでサボってたのか、鹿野――」
 アキが顔をあげると、目の前に男子生徒が立っている。弓道衣を着て、すらりとした若木みたいなたたずまいの少年だった。格好からして、ひのりの先輩なのだろう。
 ごく短く切った髪からは、誰かが念入りに造形したみたいな姿のいい頭部がのぞいている。ひどく均整のとれた体つきをしていて、表面的というよりは骨格的な調性が感じられた。甘めの容貌のわりには弓道家らしい涼やかなところがあって、好青年の見本といってもよさそうである。
「水谷(みずたに)が探してたぞ、仕事を押しつけられたってな」
 と、その男子生徒は見ため通りの爽やかな調子で言った。
「あの、すいません。私、友達と話をしてて、それで――」
 ひのりはいつになく慌てた様子で釈明している。
「まあ息抜きは必要だよ」
 男子生徒はごく簡単に表情をゆるめて言う。どうやらこの先輩は、ひのりのことを叱りに来たわけではないらしかった。
「――そっちは、友達?」
「あ、そうです。同じクラスの、水奈瀬陽さんといいます」
「新聞部なんだな」
 腕章に気づいたらしく、ひのりの先輩は言った。
「俺は中等部三年の葛村貴史(かどむらたかふみ)。鹿野に取材でもしてたのか?」
「いや、そういうわけじゃ……」
 アキは曖昧に首を振るしかない。
「その前に先輩、どうして弓道着なんですか?」
 さっきから気になっていたらしく、ひのりが横から訊いた。文化祭のために、放課後の部活動は全面禁止になっているはずだった。
「――ん、いや、自主練習」
「先輩こそ、文化祭の準備があるんじゃないんですか」
「息抜きは必要だからな」
 葛村は悪びれもせずに笑顔を浮かべる。それ以上言及することが難しくなるような、そんな種類の笑顔だった。
「卑怯ですよ、先輩。それなら私だって練習したいです」
「なら、今度は鹿野も誘うことにするよ」
 無邪気にそう言われて、ひのりのほうでは何故か顔を赤くしている。葛村がそのことに気づく様子は見られなかったが。
 ひのりはそれから、ふと思いついたように、
「――先輩、四つの奇跡≠フこと知ってますよね」
 と訊いた。元々、彼女がこの話を聞いたのは、先輩である葛村からなのである。
「ああ、知ってるよ。去年のことだからな」
「アキちゃんは、新聞部でそのことを調べてるんです」
「……へえ、ずいぶん酔狂なことをしてるんだな」
 葛村は面白そうな目でアキのほうを見る。
「当時は、どんな感じだったんですか?」
 アキは実地に話を聞くいい機会だと思って、質問してみた。
「文化祭のイベントとしては、受けがよかったって感じかな」
 その頃のことを思い出すようにして、葛村は答えた。
「お祭りなんだし、先生たちもそんなに目くじら立ててる感じじゃなかったよ。文化祭の一環みたいな扱いで、怪しからんなんて怒るのはいなかったな」
「この階段にあったペイントなんかは」
 と言いながら、アキは踊り場から視線を巡らせてみる。
「犯人を見つけようとかはしなかったんですか?」
「一通りのことは調べたみたいだけど、それ以上のことはなかったな。『この絵は実に見事だから学校で表彰したい』とでも言えば、名乗り出たのかもしれないけど」
 アキの隣で、ひのりがくすりと笑う。
「誰か特に噂になった人とかはいなかったんですか? あいつは怪しい、とか――」
「美術部が一応は疑われたけど、それだけだったな。第一、どうやったのかもわかってないわけだし」
 葛村の言葉に、アキはついさっき思いついたことを訊いてみることにした。事前に描いておいた絵を隠しておく、という方法である。
「いや、どうかな――」
 と葛村は難しそうな顔をした。
「人通りが多いから、そうだとしても誰かが気づくんじゃないかな。それに、どっちにしても絵を描く時間は必要なわけだし。生徒でも先生でも、そんなに長い時間をかけて誰にも気づかれずにいられるかな?」
「……なるほど」
 せっかくの思いつきだったが、やはり無理があったらしい。アキはがっかりしたついでに、葛村に向かって訊いてみた。
「先輩は、どうやったと思いますか?」
 訊かれて、葛村はしばらくのあいだ黙っていたが、
「――魔法、かな」
 ぽつり、という感じで言っている。
「え?」
「いや、別に意味はない。何でだか、ふとそう思ってさ。忘れてくれていいよ」
「…………」
「今年ももう一度同じようなことが起こるなら、星でも降ってくると面白いんだけどな」
 冗談ぽく言うと、葛村は階段を降りていった。鹿野もそろそろ手伝いに戻っておけよ、と最後に言い残して。その行動には特に思わせぶりなところもなく、後ろ姿もすぐに見えなくなってしまっている。
「アキちゃんの参考にはならなかったみたいだね」
 と、ひのりは残念そうに声をかけた。
「――うん」
 けれどアキは、どこかぼんやりとした様子でうなずいていた。
「これからどうするの、アキちゃんは。やっぱり奇跡犯人説で追っかけてみる気?」
 言われて、アキはふと我に返ったようにして口を開いた。
「それには一応、考えがあるんだ」
「どんな?」
「わからないことは、人に聞けばいいんだよ」
 人さし指を軽く立てて、アキは得意そうに言った。
「それが、取材の基本でもあるんだから」

 翌日の放課後、アキは写真部の部室を訪ねていた。
 写真部は新聞部と同じ棟の、二階部分に位置している。広さ的には、どの部室もほとんど変わりはない。
 アキは写真部と書かれたプレートの下の、ほかと同じようなドアをノックした。
 ――返事はない。
 三度目にも何の反応もなかったので、そっとドアノブをひねってみた。施錠されていなかったらしく、ドアは簡単に開く。「――失礼します」と言いながら、アキは遠慮がちにドアを開いた。
 誰もいないのかと思ったら、案に相違して中には一人だけ生徒の姿があった。頭に大きなヘッドフォンらしきものを装着していて、それでノックの音が聞こえなかったらしい。部屋の中央には新聞部と同じような長机が置かれ、生徒はその上で何か作業をしているところだった。
「――すみません」
 と、アキはできるだけ抑えた大声で言ってみる。「――すみません!」
 二度目で、その生徒はようやくアキのことに気づいて顔をあげた。
 どことなく、ケージの隅っこにでもいる兎を連想させる少女だった。ほかの仲間が餌をねだりにいっても、一人でもぐもぐと草を食んでいる。たぶんその雰囲気と、小さな体のせいだろう。半分閉じられたような目は眠たそうで、たった今目覚めたばかりのいばら姫、という感じでもあった。
 制服の胸元を飾っているリボンの色から、彼女が中等部の三年生だということがわかる。アキには意外だったが、その少女は先輩ということになるらしい。
「――――」
 ちょっと怪訝そうな様子で、彼女はアキのことを見た。が、すぐに新聞部の腕章に気づいたらしく、何か操作をしてからヘッドフォンを首元に移動させた。コードの類は見られなかったので、プレイヤーと一体になったタイプのようだった。
「すみません、新聞部の者です。ちょっとお聞きしたいことがあって来たんですが」
 と、アキはとりあえずそう言った。
 相手は反応の薄いまま、目だけで先をうながしている。アキは何故だか、電話機の前で音声ガイドに従ってボタンを押している場面が頭に浮かんだ。
「この記事の写真を撮った人を探しているんですけど……」
 言って、アキは例の記事を女子生徒に渡している。
 記事に載せられた写真は、写真部の手で撮られたものだった。とすれば、少なくとも撮影者が現場にいたはずである。現場にいたなら、何か気づいたことがあるかもしれない。
 それがアキの考えた、「わからないことは、人に聞けばいいんだよ」作戦だった。
「…………」
 少女は無言のまま、渡された記事を見つめている。月の裏側で落し物でも拾ったような、そんな感じの無表情さだった。
「これ――」
 と、彼女ははじめて口を開いている。
「撮ったの、私」
 それが癖なのか、彼女は素材の形がはっきりとわかる、野菜をぶつ切りにしたようなしゃべりかたをした。
「……じゃあ、あなたが和佐葵(かずさあおい)さんですか?」
 ちょっと首を傾げながら、アキは訊いた。写真の撮影者として、記事にはその名前が書かれている。
「そう」
 こくん、と葵はうなずいた。
(……案外、悪い人じゃなさそうだけど)
 アキは多少、苦笑するような気持ちで考えている。とはいえ、少し変わっていようが大きく変わっていようが、別に問題というわけでもない。
「実はわたし、去年の文化祭で起きた四つの奇跡≠ノついて調べてるんです。それで、その時の話をちょっと聞かせてもらえたらと思って――」
 と、アキは丁寧に懇請した。
「構わない」
 相変わらずの鉈で割ったような口調である。それから、けど、と葵はつけ加えた。
「今、現像中だから、作業しながらにして欲しい」
 言われて、アキは机の上にある奇妙な箱のようなものを見た。
 横から手を入れる筒袋のようなものがついていて、バラエティ番組なんかによくある、中身のわからないものを触って当てる装置に似ていた。ほかには、薬品らしいボトルがいくつか並んでいる。
「忙しければ、作業が終わってからで構いませんけど……」
 とアキは遠慮した。
「現像だから」
 アキにはよくわからなかったが、大丈夫だ、ということなのだろう。葵にとってはもうそれで説明十分らしく、それ以上は何も言わない。
「――えと、それじゃあ、お聞きしますね」
 葵の隣に座って、アキは質問を開始した。
 そのあいだも、葵はごそごそと作業を続けている。暗箱の中に横から手を突っこんで、中で何かを動かしているようだった。ぐるぐると、何かを巻きつけるような動作をしている。
「まず、どうしてこの写真を撮ったんですか? 撮影したのは、頼まれたからじゃないんですよね」
「興味があったから」
 葵の答えは単純明快すぎて、かえってわかりにくかった。
「新聞部に写真を提供したのは、小菅さんに頼まれたからですか?」
「そう」
 何かを、鋏でちょきんと切る音が聞こえた。
「――記事の写真はどれもよく撮れてますけど、写真には詳しいんですか?」
「子供の頃から撮ってる」
 一段落したらしく、葵は箱から手を出して蓋を開けた。中からステンレス製の、細長い凸型をした容器を取りだす。
「……あの、聞いてもいいですか?」
「何?」
「さっきから、何をしてるんですか?」
「現像」
 その言葉を聞くのは、三度目だった。
「現像って、写真を焼くことじゃないんですか?」
「それはたぶん、引伸ばし」
「引伸ばし?」
「その前にフィルムを処理しないと、引伸ばしはできない」
「……それが、現像?」
 うなずいて、葵はボトルからビーカーに薬品を移し、それをさっき取りだした凸型容器に注ぎこむ。
「フィルムには感光剤として臭化銀が含まれていて、これに光線が当たると分解して銀になる。その銀の量を現像液で増やして、可視化する。放っておくと銀の結晶が増えすぎるから、停止液で反応をストップさせる。それから、定着液でもう必要なくなった感光剤を溶解する。そうしないと、フィルムをプリントすることができない」
 淡々と解説しながら、葵は作業を続けている。時計を見ながら、容器を横に振ったり、縦にひっくり返したりしていた。
「現像って、フィルムを処理することを言うんですか?」
「本当は」
 ふうん、とアキは感心した。結局のところよくはわかっていなかったが、一つ賢くなったような気がする。
 現像処理を進める葵を横目で見ながら、アキは質問に戻った。
「文化祭の時に撮った写真ですけど、何か変なものが写ったりはしなかったですか?」
「変なものが写真に写ることはない」
「いえ、その――普通とは違う、何か気になることとかは」
 質問に、葵はあっさりと首を振っている。
 ふむ、と腕を組んでから、アキは記事の写真をもう一度確認してみた。手で簡単に隠せるくらいの、ごく小さなものである。
「……この時の写真、実物を見せてもらっても構いませんか?」
 とアキは訊いた。紙面のために縮小されたものではなく、できれば大きなもので検証してみたかったのだ。
 葵は作業を中断すると、部屋にあった棚の一つからA4サイズ程度の封筒を取りだした。中の写真を何枚か確認してから、そのうちの数枚をアキの前に並べる。
 それは印画紙にプリントされた、モノクロの写真だった。
「――拝見します」
 と言って、アキはじっくりとその写真を観察させてもらった。
 それは確かに、記事に載せられているのと同じ写真だった。ただし画質はずっと鮮明で、実際的な迫力がある。モノクロなのがかえって、現実感を引き立てているようでもあった。色相のない濃淡だけで、これだけの表現力があるのだ。何か、かすかな声でも聞こえてきそうだった。時間の手触りまで写しとったようなその画面は、現実より現実らしくて、まるでその写真の世界こそ本物であるかのようだった。
 グラウンドにかかった銀色の虹――
 地面いっぱいに転がった、子供の夢から零れ落ちてきたみたいな飴玉――
 古代の壁画めいた階段のペイント――
 手品みたいに現れた小さな象――
 世界はその場所で、ほんの少しだけ変わってしまったようでもある。
 とはいえ――
 アキにはその写真を見ても不審なところは発見できなかった。アキにわかるのはただ、それがとてもシュールな、けれど現実の光景だった、ということだけである。
「撮影中、何か変わったことはありませんでしたか?」
 アキはあらためて、質問してみた。記録に残っていないのなら、記憶のほうを頼りにするしかない。
「さあ」
 容器に注いだ液体を回収し、葵はまた別の液体を容器に流しこむ。その光景は、何かの化学実験をしているようにしか見えなかった。
「何か、ほかの人と違った様子の人とか。ほら、犯人は現場に戻ってくるって、よく言うじゃないですか」
「犯人?」
 容器を振り回しながら、葵は乏しい表情で怪訝な顔をする。
「わたしはそうじゃないかと思ってるんです。これは誰かが周到に計画したことなんじゃないかって」
「…………」
 葵は何も言わなかった。見かたによっては、軽く肩をすくめたような気配がないでもない。
 そう都合よくはいかないものだな、とアキは心の中で嘆息した。人に聞けばわかるような、そんな簡単なことではないのかもしれない。アキは質問を終わりにして、帰ろうとした。
 けれど――
 その時ふと、アキは部屋に吊るしてあった写真に気づいている。洗濯物の要領で、五枚の写真が天井近くにかけられていた。何故だかアキには、それが和佐葵の撮ったものだという予感がしている。さっき見た写真と、同じような声が聞こえたからかもしれない。
「あれって、葵さんが撮ったものですよね?」
 アキは立ちあがって、その写真のほうへと近づいた。
 写真はどれもモノクロで、風景写真のようになっていた。校内のどこかを撮影したもののようだが、人は写っていない。どちらかというとそこには、本当はそこにいた人間が、金属から錆が落ちるように画面から剥離してしまった、という印象があった。
 そのうちの一枚には、ピアノが写っている。背景から見て音楽室ではなく、旧校舎の一室のようだった。ついさっきまで演奏が行われていたような雰囲気の中で、漆黒のピアノは静かに沈黙している。
「どれもうちの学校みたいですね」
 と、アキは訊いた。
「そう」
「写真部の部室もありますね」
 目の前の景色と同じだから、それだけはすぐにわかる。
「……それはどれも、失敗作」
 葵に言われて、アキはあらためてその写真に目をやった。
「どうしてですか? よく撮れてると思いますけど」
「何度プリントしても、思ったように仕上がらない」
 まるで、昔見た古い夢を思い出せないような、そんな口調で葵は言った。
「――私には、それが少し悲しい」

 アキは部屋を出ると、ドアを閉めた。
 結局、ここまで来てわかったのは、四つの奇跡≠ェ現実だったということと、おかしなことは何もなかった、ということだけだった。もちろんこんな情報では、何の役にも立ちはしない。
 アキは軽く、ため息をついてしまった。出だしからこんな具合では、先が思いやられる。大人しく諦めろ、ということなのだろうか。
(……でも、何かあるはず)
 アキにはどうしても、それがただの偶然だとは思えなかった。魔法に似たそんなことが、簡単に起こるはずはない。きっと、そこには何かがあるはずだった。ずっと昔にあったのと、同じような何かが――
 そんなことを考えながらアキが歩きだそうとした、その時だった。
 不意に、音楽が聞こえてきたのは。
 それはとても、小さな音だった。顕微鏡でも見るように耳を澄まさなければわからないくらいの、かすかな音の響き――
「……?」
 アキはきょろきょろとあたりを見まわすが、音源らしきものはどこにも確認できなかった。注意して聞いてみると、どうやらその音は校内放送用のスピーカーから聞こえてくるらしい。
 そのあいだにも、曲は進んでいる。
 夜のはじまりを思わせる導入部から、月の出を告げるような金管が鳴り響く。やがてヴァイオリンの弦が暗闇の気配を濃くしていき――
 そして、音楽が爆発した。
 妖精が踊りまわるような、騒々しい調子だった。賑やかな歌声や、陽気なステップ、月の光をきらめかせた透明な羽。ひどく祝祭的な音楽だった。
「これって……」
 アキは思わず、つぶやいている。
 聞き覚えのある曲だったが、名前までは思い出せなかった。クラシックの、何かの演劇につけられた曲のはずだった。
「――『真夏の夜の夢』」
 隣で、いきなり声がする。
 見ると、いつのまにか和佐葵がそこに立っていた。彼女も音楽が聞こえて、気になって出てきたのだろう。
「確か、メンデルスゾーンですよね」
 うろ覚えの記憶を引っぱりだして、アキは訊く。
「うん」
 葵は軽く、うなずいてみせた。
 校内スピーカーから放送されているなら、この音楽は全校舎に流されているのかもしれない。とすると、放送機器の点検か、文化祭に向けた準備の一環なのだろう。少なくともアキとしては、そう考えておくしかない。
 ――もちろん、アキにはわかるはずもなかった。
 それがまさしく、奇跡のはじまりを告げる曲なのだということが。偽者の魔法使いの手によって、もう一度四つの奇跡≠ェ再現されようとしているのだということが。
 今はまだ、彼女にわかるはずもなかった――
「――――」
 そうしているとアキは不意に、隣で和佐葵が泣いていることに気づいている。
「どうしたんですか……?」
 驚いて、アキは思わず葵の顔をのぞきこんでしまう。
 けれど彼女はまるで、車のワイパーが無造作に雨をはじくような具合にそれを拭うだけだった。
「何で、私は泣いてる?」
 不思議そうに、葵は言う。
「いや、わたしに聞かれても……」
 わかるはずなんてない、とアキは言うしかなかった。本当に、わかるはずなんてない。
 メンデルスゾーンが十七歳の時に作曲したという序曲は、そのあいだも鳴り続いていた。
 まるで世界そのものを、祝福するかのように――

「……俺たちのことを調べてるのがいるな」
 と、少年の一人が言った。
 そこは旧校舎の、ピアノが置かれた部屋である。
 五人の人間が、そこにはいた。少年が二人、少女が三人――
 新校舎完成後も、歴史的価値が高いということで残された旧校舎は、主に物置や特別授業の際に利用されていた。あまり人の出入りはなく、他人に気づかれないように会合をするには都合のいい場所だった。
「私も、そう思う」
 鉈でぶつ切りにされたような言葉で、少女の一人が答える。
「気づいているのかな、私たちのことに?」
 眼鏡をかけた少女が、心配そうに表情を曇らせた。
「――いや、そんな感じじゃないな」
 最初の少年が、すぐに否定する。その颯爽とした口ぶりには、妙な説得力があった。
「具体的に名指しできるほどにはわかってない、というところだろう」
「去年、少々派手にやりすぎたんでしょうね」
 ピアノに腰かけていた少女が、ぽつりと口にする。春の霞のようにふわりとした、長い黒髪をしていた。「あれで目をつけられたんじゃないかしら?」
「今年は大人しめにやれ、と。けど、最初の一つはもうやってしまったんだぜ」
 少年は面倒そうに肩をすくめてみせた。
「……たぶん、大丈夫だよ」
 窓際にいたもう一人の少年が、穏やかに発言した。風がかすかに、その髪を揺らす。それだけでふっと消えてしまいそうな、そんな儚げな少年だった。
「今年も、去年と同じでいいと思う」
「でも、本当に?」
 眼鏡の少女が不安そうに訊く。
「――うん、きっとね」
 少年のそれだけの言葉で、ほかの四人はもう納得してしまったようだった。そういう暗黙の了解のようなものが、この五人には存在しているらしい。
「でも、こんなことして、何になる?」
 小柄な少女が、無機質そうな声で質問した。別に反論しているわけではないのだが、口調からそれを読みとるのは難しかった。
 窓際の少年は不愉快そうな様子もなく、答えた。少女とは長いつきあいがある。
「もちろん、何かにはなるよ」
 そう言って、少年は少しだけ笑った。
「神様が奇跡を起こしてくれないなら、自分たちで神様をやるしかないんだから」
 もう一人の少年が、呆れたように首を振った。
「……お前って、時々すごく過激な発言するよな」
 その言葉に少年は何も答えず、ただ静かに微笑ってみせただけだった。

――Thanks for your reading.

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