<高梁川改修工事のいきさつ>
高梁川は江戸時代から明治にかけては、都窪郡清音村古地付近で酒津山によって東西2つの流れに分かれていた。そして高梁川が長い年月にわたって上流から運んできた土砂を下流に堆積させながら、河口をぐんぐん南下させていくとともに、流れの両側に自然堤防を作ってきた。

江戸時代初め頃から、この自然堤防の外側に広がる干潟の干拓に目をつけた人々は、自然堤防を利用しては、300年にわたって漸次、潮留堤防として整備築堤してきた。しかし当時の土木技術では、規模の極めて貧弱な堤防であったようである。さらに、江戸時代以前から中国産地で隆盛を極めていた備中鉄生産のための「かんな流し」による砂鉄の採取が、大量の土砂をを高梁川に放流させ、下流で堆積して川底を浅くし、洪水を起こさせる原因ともなっていた。

明治25年から27年にかけての高梁川下流域の大洪水にともなう災害の中で、地元はもちろんのこと県議会でも大きな問題となり、高梁川下流の大規模改修工事を要望する声が強くなり、国への陳情など猛運動の結果、明治39年帝国議会で議決され、翌40年から内務省の直轄工事として着手されることとなった。そして実に19年という長い歳月をかけて、現在に見る巨大な堤防が完成したのである

【改修工事を記念して建てられた碑】
酒津公園の北端にある 裏面には工事の経緯が記されている


<工事の基本構想>

工事は次の3本柱を目標に計画された
@ 堤防を築く
   堤防の長さ 東岸約21Km・・・総社市湛井(たたい)〜倉敷市連島町西岡崎
           西岸約23Km・・・総社市豪渓秦橋(ごうけいはだばし)〜倉敷市乙島高崎
   川幅     当時としては思い切った広さにした。
           ・湛井付近 400m    古地付近 509m
           ・酒津付近 320m    水江付近 436m
           ・上成付近 600m    河口    1200m

   堤防の形  下図参照
A 東西2本の流れを1本にする
   基本的に東大川を締め切り、西大川に統一する。具体的には
   A 小田川の水を酒津方面へ流す(西大川を柳井原の上手で締め切る)
   B 酒津で東大川を締め切る
   C 酒津の下手に新しい川筋を開設し、水江で西大川に合流させる
   D 酒津から下流の東大川跡は廃川地として利用を考える

B 柳井原貯水池並びに酒津配水池及び合同取入れ樋門などを造成する。
   農業用水の確保を図ることが目的である。   


<工事の経過>
   明治39年(1906)   岡山県の請願にもとづき帝国議会で議決
   明治40年(1907)   改修工事の測量開始
   明治44年(1911)   国費による改修工事起工式
   大正4年(1915)    東西高梁川の一本化案発表
   大正5年(1916)    高梁川東西用水組合設立
   大正14年(1925)   改修工事完了
<その他>

   工事総額   約800万円(当初予算は500万円、10年計画で大正7年完成の予定であった)
   土地買収面積   約500ha(5Ku)
   移転家屋      910戸
   労働人口      延300万人(1日平均200人)
            人夫賃 馬1日当たり・・・1〜1.5円
                  人1日当たり・・・25〜90銭

<改修後の状況>
  1. 洪水による被害を防止できた昭和9年(1934)9月室戸台風の襲来では、県下3大河川は出水大被害を起こした。しかし高梁川下流では、最高水位が明治の洪水時よりも、1m以上も高い6.7mに達したが堤防はびくともせず大風水害に耐え、被害を最小限にくいとめたという。
  2. 農業用水の確保と安定した供給が出来た江戸時代初めから新田開発に伴って拡大する農地の用水をめぐっての水争いが、310数年に亘って絶えなかった。(新玉島歴史散歩・第6話参照)
    しかし、総社市井尻野の湛井堰(たたいせき)及び酒津配水池の設置や用水路の改良、東西用水組合の設立による管理運営などにより豊富な水が供給されるようになり、水争いの問題も解消された。
  3. 広大な廃川跡地が利用出来るようになった酒津から水島にかけての東高梁川の河川敷470haの土地が新しく誕生した。この廃川地の新しい土地は、クラレ酒津工場とその社宅、中州小学校、倉敷野球場などの敷地に、そして中島付近から以南は農地としての利用が展開され、酒津から水島までの約12Kmにわたって幹線用水路(八間川)や、道路も新設された。
    そして昭和18年(1943)水島に航空機製作所が建設され、次第に水島の市街地が形成されて、現在の水島臨海工業地帯の基盤となった。