〜高瀬通しの果たした役割〜

        



【高瀬通し以前の高梁川の川舟交通】
岡山県内の三大河川では、すでに16世紀初期・室町時代も末ごろから、自然の河川を利用して高瀬舟の原形にも似た小型の川舟で中流あたりまでの運行がなされていた。

高梁川では、河口の酒津・船穂付近から松山(現高梁市市街地・海抜65m)までの約40Kmの間で、川舟の運行が盛んに行われていたようである。また、支流の小田川では矢掛まで,成羽川では成羽までが開かれていて、それぞれの地方の物資輸送にとって大切な流通路となっていた。

約100余年後の江戸時代の初め,備中松山藩主となった水谷勝隆によって、玉島港及び問屋街の建設、そして「高瀬通し」が開かれ、玉島と松山の間の幹線水路が整備された。

引き続いて2代藩主勝宗・3代藩主勝美と50年間にわたって莫大な経費と多くの困難の中で、藩営事業としてさらに北へ、高梁・新見間約30Kmの舟路を開き、高梁川を大々的に人工整備して船の運行の便を図った。

【高瀬通しの開通】
築造は備中松山藩の藩営工事として行われたが、干拓によって高梁川から玉島港への水路が絶たれた代わりとして、この用水路に舟を通すことを考え、初代藩主水谷勝隆によって手直しと補強が施され、万治2年(1695)に開通したと伝えられる。この頃から「高瀬通し」と呼ばれるようになった。


【高瀬通しの概略】
幅・長さ 川幅:5〜7m  総延長:約9Km
起点 一の口樋門(又は水門)・・船穂町堅盤谷(かきわだに)・・酒津公園の対岸あたり
経路 船穂・長尾・爪崎
終点 阿弥陀山(羽黒山)の東側の「舟だまり」
用途 当初は玉島新田等の用水路として、その役目を果たしていた


【高瀬通しの特徴】
この運河の大きな特色は、起点の「一の口樋門」とその300m下流の「二の樋」との間に水を溜めて、10数隻の高瀬舟を一気に流す方法。(いわゆる閘門式運河と呼ばれ、2つの樋門の間の水面を下流よりもずっと高くして、下流の樋門を開けて水が流下する勢いにのって高瀬通しへ押し流す)が工夫されていることである。

この方法は約240年後に完成したパナマ運河にも採用されているもので、当時の日本としては世界的にも優れた土木技術の先駆けであったと言われているものである。

また、洪水で水門が壊れて被害が出ないようにと、一の口樋門には予備の樋門を設けるなど、随所に知恵と工夫がなされている。


【高瀬舟の構造】
松山〜玉島間を運航していた船についてその構造を紹介する


【運航とそのシステム】
米作りの期間となる夏の間は灌漑用水路として活用され、船穂・長尾・玉島・阿賀崎方面への水の供給路となった。

したがって毎年秋から翌年の春までの期間に限って、長さ10m幅2m程の舳先の長い小型の舟(高瀬舟)が、10隻程度の船団を組んで、松山城下の川港から玉島港までの物資輸送にあたった。その運用システムはどんなものであったのだろうか。


輸送営業(舟稼ぎ)上のきまり・・松山で舟を継ぐこと
高瀬通しの利用は松山藩により寛永20年(1643)に定められた『玉島湊問屋株定書』によって厳しく守られてきた。特に松山より下流の舟稼ぎを侵害しないために設けられた「継ぎ舟制(新見〜玉島間直通運航は禁止、必ず松山で積替える)」により、上流と下流の高瀬舟の舟株が定められていた。

江戸時代の約200年以上もの間にわたって、継ぎ舟制は厳守されたのである。明治以降になって、やっと新見・玉島間の直通が認められ、高梁川全体で350隻もの高瀬舟が、大正時代の終わりまで稼動するようになった。


運航の実態
<新見〜松山(高梁)の運航システム>
  • 毎月6回の定期便であった
    3と8の日に運航を行なっていた。そのほかに臨時便も出ていた。
  • 松山向け(川下り)の様子
    船積みは前日に行ない、出航当日は午前8時に出発し、その日のうちに高梁の舟問屋に荷揚げする。
  • 戻り便(川登り)
    帰りは高梁で上り荷を積み、2日がかりで舟を曳いて新見へ帰る。(往復5日を限度とするきまりがあった)

<松山〜玉島の運航システム>
  • 江戸時代を通じて「継ぎ船制」が厳重に守られていた明治以降には直通(新見〜玉島間)できるようになった。
  • 高梁の舟問屋では上流からの船荷全部と松山藩内の
    陸路で運ばれた荷物を加えて、高梁付きの舟で玉島の舟問屋に荷揚げした。
<玉島から大阪・北九州方面へ>
  • 瀬戸内海航路の中継基地として出入りする千石船に積替えて大阪・北九州方面への物資輸送にあたった。





街並保存活動
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