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[笠岡と地福寺歴史縁起]

西ア 泰豪
地福寺の誕生と歌人

 その昔、笠岡港沖に光りものがあり、漁師の網にかかったのが石仏の「地蔵菩薩尊像」であった。それを本尊(伝・弘法大師御作)としている。それ故、古くより漁民の信仰が篤かった。今も木造地蔵菩薩の胎内仏(秘仏)とされている。地福寺の木造地蔵菩薩は、禅定のお姿をし、禅定印で如意宝珠を持たれている。釈迦が入滅後、56億7000万年後に弥勒菩薩が出現されるまで、現世の衆生を救って下さるのが地蔵菩薩。

 往昔、笠岡の地は大部分が海であった。長い年月の間に、隅田川、宮地川、葦田川等より流出した土砂が堆積したのと地殻の自然隆起によって陸地となった。古くは古城山を吸江山
(きゅうこうざん)と称し、地福寺も山号を吸江山ということであったのは、古城山と応神山はつながっていたのであったからで応神山は笠目山(かさめやま)と称していたのである。今の地福寺の地には多くの山吹が生えていて「山吹の丘」といわれていた。明応3年4月(室町時代末期)連歌師の飯尾宗祇(いいお そうぎ)が吸江山に登り、休み石に座し「山松のかげやうきみる夏の海」と句を詠んだ。その「うきみる」の語から、その後に吸江山を「海松が丘(みるがをか)」と称えるようになったのである。うきみる=浮かび上がるように広く遠く見えるの意。この語にかけて、みる=海松(みる)←海藻の古語。「海松が丘」周辺の海岸には、海藻が多く生えていた。その後、宗祇は、山吹の岡(丘)につながっていた丘陵(馬の背)を通って今の地福寺にて「山吹を心の色かほととぎす」の句を作り去ったことが判明している。
 ちなみに「伏越」というのは、「馬の背」を登り下りするとき、体を伏せた状態で越えねばならぬ故についた名称と考えられている。江戸中期の京都の歌人で正四位の下
()鴨祐為(かものすけため)が、宗祇の句を知って地福寺に来訪、十七首の短歌を残しているし、それとは別に「うすかすみたてるも春の名残とや夕日にはへる山吹のをか」という歌も詠んでいる。ところで、現在応神山と古城山が離れているのは、宮地川のつけかえで交通を便するために「馬の背」を掘って除いた為である。その結果明治24年に山陽鉄道を開通させるのに役立った。笠岡駅開始はそのとしの7月14日である。

 さて、笠岡という地名であるが、「日本書記」応神天皇の条に、古来この地方は、鴨別(かもわけ)に「波区芸県(はくきのあがた)」を治めさせていて、応神天皇が吉備に行幸した時、一日「加佐米山(かさめやま)=笠目山」に登ったが、突風が天皇の笠を吹きとばそうとして驚いたが、鴨別命(かもわけのみこと)が、それは神が天皇によい力を与えた現象であるといって、猟をしたところ天皇の得るところが多かったので、鴨別命に「賀佐」という名を与えた。これが「笠臣・笠朝臣(かさのおみ・かさのあそん)」の祖となり、代々この地のあたりを治めていて、「笠臣の国」と称していたが、小寺清先(こでらきよさき)が、笠臣が誤字によって「笠 (かさをか)」となり笠岡となったととなえ、関鳧翁(せき ふおう)も同じ説をとるのである。小寺清先は笠岡の人で江戸時代の国学者で歌人。敬業館を設立している。後者は笠岡は吉浜の人で江戸時代の国学者で医師であり、敬業館に学んでいる。

 ところで、笠岡には笠岡山(竜王山)に城があり、陶山氏が居たが、大内氏の支配となり退却し、毛利氏の配下村上隆重に代り、関ヶ原の役の前年まで続いた。村上氏は水軍であって、塩飽水軍の長として海の大名と称ばれ瀬戸内に活躍し、吸江山にもその城があったが、徳川時代にそれは壊された。『皇国地誌』の「備中国第壱大区小田郡小一区村誌笠岡村」によれば、「地福寺、東西二十八間、南北十八間、面積壱反六畝歩、真言宗遍照寺末派なり、本村の東にあり、創建年暦久遠にして考うべからず。中興の僧弘舜と言う。近古笠神社別当職たり」、又「古城山別当職を勤務せり」とある。遍照寺は、陶山義高が尊信し、吉田村に造営したが、天正年間に毛利氏の部将村上景広が命じて今の地に移している。しかし現在は多宝塔のみ残し移転している。遍照寺の山号は光明山となっているので、地福寺はその末派として昭和二十年代に「吸江山」を「光明山」に変更したのである。

 『水野記(福山藩水野氏の家臣吉田秀之が江戸期の宝永四年に完成したもの)』によれば、村上隆重・景広父子が、地福寺にも寺社領を寄進しているが、それは安土桃山時代の終わりごろであり、「笠岡市史」によると、地福寺の創建は「建久」となっている。建久は(1190〜1198)で鎌倉時代最初期である。古画に「山吹丘」を描いたものがあって、地福寺の石段や山門や本堂が描かれているが、石段の下の道は海潮が寄ってきているようになって、そのころの本堂は南面していた。現在の建物で本堂は元禄時代のものと伝承されている
地域への貢献
「笠岡市史第三巻」によると、明治6年5月15日から17日間、地福寺を第一会場とし、第二会場を玄忠寺にして「小田県展覧会」を開いている。出品数およそ500点で、個人や寺院所蔵の書画骨董、刀剣、奇石、奇木、珍品などのほか(地福寺は長い歴史の中で無住の時代も一時あり、残念ながら展覧会を思わせる品物は一切残っていない)、福山病院福山学校出品の人体骨格、胎児の標本、顕微鏡、医療器具に加え、仏国辞書、仏国パリ博覧会図、測量器械、ラテン語カルタ、メキシコ戦争図、西洋諸国写真、洋製船図、西洋製大地球図、普仏戦争図などがあり、県民は好奇心と驚きの目を見張ったと思われる。博覧会としては東京で政府が明治10年に「第一回内国勧業博覧会」を催しているが、それに先駆けるものであった。ちなみに「笠岡市史」による寺院の創建年最古は甲弩の神護寺と新賀の安養寺で天平(729〜794)の奈良期、次に真鍋の円福寺で(795)白石の開龍寺で大同(806〜810)走出の持宝院(829)山口の長福寺(877〜885)で平安期、わが地福寺は(1190〜1199)で第7番目の創建の古さとなっている.

史実へ思いをはせて
冒頭の笠岡の土地の出来方については昭和26年発行の「笠岡町沿革史」に依って葦田川からの流砂堆積とあるが、福山の草戸千軒を埋没せしめたその川の氾濫が影響したのかと想像したのだが、「笠岡市史」にはその記録はない。さて、昭和23年に貫閲講堂で笠岡西中学校生徒を相手に、岡山の郷土史家岡長平(をかちょうへい1879〜1942)が講演した時、笠岡の地福寺というところで岡山県では最初の解剖がおこなわれた。女囚の刑死体を使ったとの発言があってそれを後に岡山県の医学史に詳しい岡山大医学部の中山教授にも笠岡市史編纂室にも問い合わせてみたが不明であるとの事であった。先代の定正僧正の話では、寺の東方大磯辺に刑場があって、地福寺の阿闍梨栄厳(あじゃりえいごん)は教誨師として有名であったとのことであった。伝承によると、シーボルトの娘(オランダおいね)が伏越に住んでいたということであるが、大磯・伏越は八軒屋町に属していたから、女医おいねがどこに居たかは判っていない。彼女が地福寺の解剖に立ち合ったかどうか考えてみるのも面白いけれども、とにかく岡長平の言を信じて調査をしてみるのも笠岡市史に新しい1ページを加えることになるのではなかろうかと思えるのである。
その後の調査報告(2016年追記)・・・岡山県立図書館へ行き、岡長平氏の著作「巷説岡山開化史第一巻」に「学問的に骨サバキ(解剖)を執刀したのは、大阪以西では岡山が一番最初で、明治黎明の話題を大いに賑わしたもんだ。有名な(皇国医事大年表)にも、明治二年の頃に、岡山藩、門田村操山の麓に医学館及び大病院を興し、蘭医のロイテルを教師に聘(へい)す。明治12年県立に移管して岡山県医学校と改称す。今日の岡山医科大学の前身なりと採りあげているんだ」と書いてあった。ということなれば、明治2年頃に蘭医ロイテルが地福寺で解剖をしたことになる。

中山教授によると岡山県下最初の解剖は明治10年倉敷で行われたそうである。前述の博覧会にしてもこの解剖のことにしても、地福寺は笠岡地方の文化面で名が多く出てくる訳であるから、そのような古刹を関係者は大切に守っていかなければならないと思えるのである。古刹では、市で第4番目の開龍寺と地福寺は兄弟寺であると先代が語っていたが、その寺の、弘法大師が座ったと伝える石は、実は応神山から運んだものであるとその時、言っておったのである。「笠岡と地福寺物語」として更に調査を進めたく考えている。

先に中山教授の調査と書いた岡山県下最初の解剖が明治10年に倉敷でなされたというのは、天保6年に現在の井原市美星町で生まれた蘭医坂田待圓(さかたたいえん)が玉島に居て、岡山県病院の一等助診として診察にあたり、岡山公立病院から院長若栗彰らを呼んで病理解剖をしたものである。待圓は衛生知識の向上につとめ、沙美海岸に西日本で最初の海水浴場を開き、牛乳を奨励するなどした先進的な医師であった。その人の弟で天保10年に生まれた坂田警軒(さかたけいけん)は漢学者で教育家、政治家であるが、二代目興譲館長となった。明治6年に小田県巡教師となり、教育の発展につとめた。明治7年に民撰議院設立を希望し、臨時議院の開院を主張する。その年の8月に、わが地福寺で、県下初の小田県臨時民撰議会が開催された事が知られている。この人は、明治12年岡山県議会の初代議長となり、明治25年第一回、第二回の帝国議会議員に当選している。
さて、「民撰議会」が開催されるきっかけとなったのは坂田(本名、丈平じょうへい)の他に、小野亮、窪田次郎、北村七郎らの連署で七月「民撰議員(開設)ノ儀ニ付願書」を小田県権令矢野光儀(やのみつのり)に提出し、続いて、窪田、坂田の連署で「矢野権令ニ奉ル書」を提出した結果である。判っているところによると、窪田は福山市加茂町出身(天保6〜明治35)の蘭方医。北村は笠岡市富岡の出身で生没年は不明であるが、明治5年に小田県庁が笠岡に置かれた時代、啓蒙家として活躍し、窪田の提唱した書籍販売の細謹社の設立に参加し、また、小田郡の養蚕業の振興にも尽力した。勿論、小田県庁は、現在の笠岡小学校の敷地内にあったので、明治5年6月7日、深津県が小田県となり、明治8年12月10日小田県は岡山県に合併、明治9年7月24日笠岡小学校が前身の敬業小学校から校舎を移転してここに新しい歴史を踏み出したのである。

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