「絶滅」 について


 このまえ、『生き物地球紀行』の再放送を偶然見てると(確か朝の四時くらいにやっていた気がします)、ヨーロッパのビーバーの話をしていました。
 ヨーロッパのビーバーは第二次大戦のあおりやらなんやらで、一時期絶滅したらしく、その後ウクライナかどっかのビーバーを運んで繁殖させた、というような話でした(正確に覚えてません)。
 それを見て、前々からずっと不思議に思っていた「絶滅」というものについて考えてみました。テレビなんかでもよく絶滅の危機に瀕している、という表現を聞いて、人間は絶滅しそうな動物の保護をしていますが、一体「絶滅保護」というのはどういう行動なんでしょうか?
 トキでも、オラウータンでも鯨でも、それこそめだかでも、それを保護することにどういう意味合いが含まれているんでしょうか。
 地球環境というのは意外なバランスのとられ方がしているから、一つの種の絶滅で重大な変化がおきるかもしれない、というような複雑系的な理由でしょうか。
 それとも、人間が破壊した環境に対して、そのつけは人間自身がつけなければならない、ということでしょうか。
 それとも、単純に性善説的な理由によるものでしょうか。
 僕はどうにも自分をうまく納得させる理由が見つかりませんでした。
 環境に与える影響とすれば、確かにそれはあるのだろうし、時にはそれが意外な変化を起こすこともあるかもしれませんが、現地で働きでもしてない限りはその影響は実感できないし、理由としてはいまいちぴんときません。日本にいてオラウータンが絶滅しそうですって言われても危機感に襲われることはありません(じゃあ行けよって話ですが、そんな行動力は僕にはありません)。
 人間自身のつけとすると、まあこれはこれで納得がいくといえば行くんですが、これだとなんだか自己否定的すぎる気もして、ひどい重荷になってしまいます。
 人間の本能的な愛だ、なんていうのは僕には賛成しかねます。それはそれで崇高なものかもしれないんですが、そうすると自分勝手すぎて、極端に言うと地球の管理は人間がしなければならないんだ、みたいな発想に近づいていく気もします。
 ビーバーの話に戻すと、数が増えて復活してきたビーバーは人間が木材用に育てた木をかじるとかなんとかで、問題も出てきているそうです。それに対してビーバーの生態の調査を進めて、より整合性の高い状態にもっていこうとしている、というようなことでした(『生き物地球紀行』自体むかしのですし、今はどうなってるかは知りません)。
 要するに、絶滅から回復したらしたで、また別の問題が発生した、というわけです。
 いったい、絶滅から救うというのはどういうことでしょう?
 僕はふと、これって「自分たち人間を生かすための方便なんじゃないのかな」と思いました。
 トキやオラウータンも絶滅しますが、人間自身だって絶滅する可能性があって、その意味では他の生物と人間というのは何の違いもありません。文明の寿命というのは一万年くらいだと言う人もいるくらいだし、人間という種だっていつまで行き続けているかは分かりません(そういえば藤子・F・不二雄の短編に『絶滅の島』というのがあって、それでは人間の肝が薬になるとかで宇宙人に狩り出されて、保護生物に指定される、とかいう話がありました。僕はアニメで見ただけなので原作のほうは知りませんが)。
 つまり人間自身が「保護」される理由を必要としているんじゃないか、と。
 そうすると、人間は「自分達が生きていること」を正当化するために絶滅しそうな種を保存しようとしているということになります。絶滅していい種はない。だから俺達人間も生きていくのだ、と。
 ある意味かなり人間をエゴイスティックに見た感じもしますし、なんだか少し「生きる」ということにこだわりすぎた考えのような気もしますが、今のところこんなところかなあ、という感じです(でもまだ、すこししっくりこないところがあります)。
 一体、生きて行くってのはなんなんでしょうかねぇ。

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