「ゼルダの伝説 夢を見る島」 について


 以前に、「これって怖いよね」というふうなことを言われたことがある。
 怖い……。
 そう言われた時は、なんだかぴんと来ないところもあった。確かに独特な雰囲気だったが、「怖い」と言われると、言い過ぎのような気もした。
 『夢を見る島』は、任天堂のゼルダシリーズの初のGB版である。SF版の『神々のトライフォース』が91年の11月発売で、『夢を見る島』が 93年の6月発売だから、その間だいたい一年半くらいということになる。
 ストーリーを簡単に言うと、嵐で船が難破し、島に流れ着いたリンク(注:主人公のこと。念のため)が、島を出るために不思議なフクロウに導かれながら、「風のさかな」を目覚めさせるための楽器を集め、最後には「風のさかな」の目覚めと共に島はなくなり、元の世界へ戻る、という話である。
 「怖い」というのは、要するにそのラストのことあたりをいっている。
 『夢を見る島』では(というかゼルダシリーズは)、主人公はしゃべらない。つまり、ドラクエ型の、主人公=プレイヤー型のゲームということになる。主人公に特定のキャラクター性を与えずに、プレイヤーの感情移入を誘うのである。
 さらに、『夢を見る島』では、奇妙に閉鎖的な世界観が用意されている。村人たちは何故自分たちがここにいるかを知らないし、そのことに疑問も持たない。
「えっ? おいらたちは、いつからこのしまにすんでいるかって・・・? 「いつ」ってなんだろう? そんなこと、わかんねえや。」
 後半に進むと、そんなセリフも聞くことが出来る。
 普通、RPGといえば、主人公が旅に出て(その理由はいろいろだが。宿命とか、偶然とか)、ラスボスを倒し、平和を取り戻す、というような流れになる。そうでなくても、なんらかの「問題」(セルダ姫がさらわれる、とか、バラモスが世界を支配するとか)が生じ、最終的にそれを「解決」することでエンディングを迎える。
 「問題」―「解決」。
 それが基本的な流れである。
 ところが、そういう流れからすると、『夢を見る島』は少し奇妙な構成になっている。「怖い」といわれてから、僕自身の違和感ともあわせて、ずっと引っかかっていたのだけれど、最近になって急にはっとしたことがある。
 それは久々にSF版の『神々のトライフォース』をやっていて、ゼルダみたいな世界を作れないかなと思って、地図を作ってみたり(僕は「世界」を作るときには、大体まず地図を作る)している時に、『夢を見る島』の通常のRPGとの決定的な違いに気づいたときだった。
 それは、このゲームでは主人公が「破壊者」であることだ。
 ゲームのラスト、リンクは「風のさかな」を目覚めさせ、それによって島はなくなり、リンクは島を出ることができる。魔物たちは自分たちの世界を守るために(存続させるため、といったほうが正確である)、「風のさかな」が目覚めないようにしていたことが明らかになる。
 エンディングで世界は霧が晴れるように消滅していき、そこで暮らしていた人々も、同時に消えていく。リンクが気づいたときには、海の中を帆柱のようなものにつかまっていて、その上を「風のさかな」が空を横切っていく……(どうでもいいのだけれど、あの後リンクはどうやってハイラルに帰ったのだろう?)。
 つまり、普通なら調停者、解決者、平和をもたらす者であるはずの主人公が、その実ゲームの世界を消滅させてしまうのである。
 そのことは、ゲームの最初から暗示されている。
 まず第一に、それは主人公が「異邦者」である点である。リンクは島に流れ着いただけで、島の生活とは何の関わりも持っていない。さらに、リンクの目的は「島を出ること」で、「問題」―「解決」の「問題」が、ごく個人的なものとして提示される。島に「魔物」が出てくるが、それを退治することでもない。
 結局のところ主人公=プレイヤーは、最後までこのゲーム世界にとって、異分子、異邦者なのである。その立場は、現実にプレイする僕たちにかすかな違和感を与える。まるで地面からほんの少しだけ浮かび上がって、違う層でゲームをやっているような違和感である。
 そして、「異邦者」である限り、プレイヤーには世界を救うことは出来ない。あまつさえ、「解決」のために世界を壊してしまう。
 しかも、主人公は「異邦者」であるが故に、その事を「悲しむ」こともできない。基本的にその世界と自分には、何のつながりもないからである。感情の帰結もないまま、「違和感」だけを抱えてプレイヤーはゲームを終えなければならない。
 「怖い」というのは、つまりそういうことなのだろう。プレイヤーはこのゲームの世界を破壊しただけで、しかもそのことに何らかの感情的な帰結すら持つことは出来ないのである。
 さらに、こんな深読みをすることも可能である。
 すなわちこの『夢を見る島』の世界が、プレイヤー自身を暗示している、という見方である。
 閉鎖的な世界観は、「子供の夢」を暗示している。ずっと子供でいたい、というプレイヤーの願望である。「風のさかな」を眠らせておこうとする「魔物」はプレイヤー自身の「大人になりたくない」という願望の現われになる。
 ところが、ゲームではその「魔物」を自分自身で倒さなくてはならない。エンディングで「風のさかな」は言う、
「だが、ユメは覚めるもの。それが、自然の定めなのだ」(原文はひらがな、漢字は引用者による。以下同)
 すなわち「怖い」というのは、自分で自分自身の夢を破壊してしまう怖さであるのかもしれない。
 「風のさかな」はさらに続けて、
「わたしが、目覚めると、コホリント島は消えるだろう。しかし、この島の思い出は現実として、心に残る。そして・・・キミはいつかこの島を思い出すだろう。この思い出こそ、本当の夢の世界では、ないだろうか」
 この辺は、あたかも製作者自身がプレイヤーに何かを語りかけているような観さえある。「この思い出こそ、本当の夢の世界では、ないだろうか」といっているのが少し違和感があるが、それを「この思い出こそが、本当の『夢を見る島』というゲームなのだ」と、とることも出来る。
 つまるところ、このゲームはゲームの中だけで完結していないのである。そうでなければ、「風のさかな」の後半のようなセリフは生まれない。誰がゲーム内部のキャラクターに「思い出」を求めるだろうか。求めているのは、プレイヤーの「思い出」である。製作者は、ゲームの中から、現実のプレイヤーに語りかけているのである。
 してみると、『夢を見る島』の「怖い」といのは、現実とゲームの世界の壁を巧妙に崩されている、そんな怖さもあるのかも知れない。

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