「勇者が職業になる日」 について


 2009年7月11日、『ドラゴンクエストIX 星空の守り人』が発売された。発売後三日で出荷本数300万本以上、8月5日時点で販売台数338万本を越えたらしく、えらい売れ行きである。
 ちなみに、これまでのドラクエ本編シリーズの売り上げは以下の通り(トルネコシリーズやモンスターズなどはのぞく)。

タイトル 発売日 販売台数 リメイク分を含む
販売台数
ドラゴンクエストIX 星空の守り人 09/07/11 3,390,230
ドラゴンクエストVIII 空と海と大地と呪われし姫君 04/11/27 3,680,000 3,825,524
ドラゴンクエストVII 〜エデンの戦士たち〜 00/08/26 4,140,000
ドラゴンクエストVI 幻の大地 95/12/09 3,190,000
ドラゴンクエストV 天空の花嫁 92/09/27 2,790,000 6,031,888
ドラゴンクエストIV 導かれし者たち 90/02/11 3,040,000 5,520,440
ドラゴンクエストIII そして伝説へ・・・ 88/02/10 3,770,000 5,740,559
ドラゴンクエストI・II 93/12/18 1,150,000 1,889,653
ドラゴンクエストII 悪霊の神々 87/01/26 2,410,000
ドラゴンクエスト 86/05/27 1,500,000

 数値はGEIMIN.NETより(http://geimin.net/)

 こうしてみると、とりあえず5の販売台数が最も多い。PS2、DSとリメイクが多いせいもある。次いで多い3、4にしても、リメイクされて販売台数をのばしたようである。
 それにしても、9の売り上げはやたらに好調である。
 ちなみに、今までで一番売れたゲームはポケットモンスター (赤・緑・青・ピカチュウ)で1007万7166本。ファイナルファンタジーシリーズでは7の459万6353本が最も多い(同じくGEIMIN.NET より)。

 ――しかし、正直よくわからん。
 ドラクエ9は面白いのだろうか?
 プレイしてないのでなんともいえないが、公式HPwikiをちろっとのぞいてみると、キャラメイクや通信プレイ、クエストなどなど、ネットゲームに似た雰囲気が強い(オンラインゲームを意識してたらしいが)。その他、転職システムや3のルイーダの酒場システムなどがシリーズシステムの踏襲となっている(魔法やら技はいうまでもなく)。
 プレイしてない人間がこんなことをいうのはなんだが、あえて言おう。
 こんなのはドラクエじゃない!
 というか、
 6以降はドラクエじゃない!!
 以降っていうか8と9はプレイしてないのでかなり偏狭な主張になるが、それが個人的な実感である(というわけで、これは主に6と7を念頭に置いた感想になる)。
 5までは、面白い。どこに出しても恥ずかしくない(どこに出すのかは知らないが)。
 しかし6以降は、ドラクエとしての何か≠ェ失われてしまっているような気がする。

 個人的には、6はシステムが煩雑で、めんどくさく、プレイ時間が無駄に長いことに特徴がある。
 具体的に言えば、ファイナルファンタジーの下手なパクリみたいな転職システム(いちいちダーマ神殿にいくのがめんどくさい)、戦闘中の無駄に時間のかかる敵の動き、世界が広いわりには高速での移動手段がない、上と下の世界をルーラで移動できずいちいち井戸に入る必要がある、魔法・技の増加で戦闘中どこにどのコマンドがあるのかわからない、正直不必要でしかない「おもいだす」「もっとおもいだす」「ふかくおもいだす」呪文、etc、etc。
 かなり一方的ではあるが、それが6に対する大まかな印象である。
 これは7でもそんなに変わらない。簡単に言ってしまえば、プレイ中の軋みが大きすぎるのだ。二歩進んでは石にけつまづくとでもいうような、システム周りのストレス。
 しかしゲーム性はともかく、もっと別のところで6以降は変化してしまった気がする。
 ドット絵の具合とか、音楽性とか、ストーリーのほどあいとか。
 そういうのはともかくとして、ただ一つ、どうしても気になることがある。
 それは、「勇者が職業になったこと」である。

 これはやはり、大きい気がする。
 ドラクエにとって、勇者というのは本来「主人公」のことのはずだ(5では勇者の父親というトリッキーな仕掛けになるが)。
 その勇者が、あくまで選択肢の一つでしかなくなってしまう。
 この事実が、ドラクエという世界観にどれだけそぐわないことだろう。
 ドラクエにおける主人公は、プレイヤーの唯一の分身である。プレイヤーは主人公そのものであり、他のキャラにはなりえない。
 5でも視点はずっと主人公から変化しない。だから石になった後も子供たちになって主人公を探すというようなことはなく、石になったまま動けない主人公をじっと見ていることになる。いわば、動けないということで、石になった主人公すらロールプレイしている。
 そう、ドラクエの一番の特徴はまさしく「ロールプレイ」にあったはずだ。
 ドラクエでは、プレイヤーはゲーム内の主人公になりきることができる。主人公になって、モンスターを倒したり、ゴールドを稼いだり、宿に泊まったり、新しい武器を買ったり、フィールドを冒険することができる。
 では、何故プレイヤーはゲーム内の主人公になれるのか。
 ゲーム的にいえば、それにはいくつかの仕掛けがある。
 まずはじめに、ドラクエでは主人公は基本的にしゃべらない。要するにあらかじめ付与されたキャラクターを持たない。プレイヤーは熱血漢にも、冷血漢にも、義人にも、悪漢にも、(基本的には)なることができる。
 ただし、それはあくまでプレイヤーの想像≠ノゆだねられている。開発者が行うのはキャラ付けを行わない≠ニいう欠如を作り出すことだけだ。だからドラクエ3のリメイクみたいに「性格」を登場させるのは、かなりなお門違いということになる。

 プレイヤー=主人公の仕掛けは他に、選択肢のなさ、がある。
 ドラクエでは基本的に、選択肢「はい」「いいえ」が登場しても、実際には一つの選択肢しか存在しない。「いいえ」を選んだところで待っているのは無限ループである。主人公は旅立たなければならないし、村人のお願いは聞かなければならない。
 ではこの選択肢には意味がないのかというと、意味はある。少なくとも、効果はある。
 それは、「選択した」という事実をプレイヤーに与えることだ。もしこの「選択肢のない選択肢」がなければ、プレイヤーはただ用意されたシナリオを消化するだけ――いわば、見るだけ≠ノなる。ことドラクエにおいて、見るだけのことをゲームプレイしている、とはいわない。この選択肢は、プレイヤーの参加≠強制する装置なのだ。

 しゃべらない主人公、選択肢のない選択肢。
 プレイヤーとのかかわりで言えば、この二つがドラクエの特徴になる。他にもそういうゲームはあるが、やはりこれはドラクエの基本的な性格だと思う。というか、ドラクエに対してはそれを求める。
 しかしこういう装置があればプレイヤーはゲーム内の主人公を完全な自分の分身≠ニしてロールプレイできるかというと、そうでもない気がする。
 げんに、6でも7でもこういうところは基本的に変わっていないのに、5までとは決定的な断絶を感じる。ストレートにいうと、そこには小学生的なゲームに対する自動的なまでの感情移入が存在しない。冒険の主人公になれない。
 それはドラクエが変わったのではなくて、こっちが変わったからだろうか?
 ――それもあるかもしれない。でもそれだけとも思えない。
 やはり問題は、「勇者が職業になったこと」にあると思う。
 5までのドラクエでは、何故プレイヤー(少なくとも僕)はゲームの主人公をロールプレイすることができたのだろうか?
 逆説的になるが、それはプレイヤーが主人公以外の人間になれなかったからだと思う。
 プレイヤーは強制的に主人公にさせられる≠フだ。

 それは主人公が勇者でしかいられないことと二重構造になっている。主人公が勇者でしかいられないように、プレイヤーは主人公でしかいられない。
 勇者をロールプレイするには、勇者をロールプレイさせられるしかないのだ。いわばそれが、主人公=プレイヤーを保障する「宿命」として機能したのである。
 ところが、勇者が単なる職業の一つになってしまうと、主人公が主人公である保障が壊れてしまう。同時に、プレイヤーが主人公である保障も、壊れてしまう。
 何故、勇者は職業になったのだろう?
 だが例え勇者が勇者でなくなったとしても、同じことは起きていたかもしれない。プレイヤーはもう「ロールプレイ」することができなくなってしまう事態が。
 たぶんそれは、もっと大きなこととも関わってくる話だと思う。社会の動きだとか、多様な他のゲームの登場とか。
 つまり、そういったドラクエ的ゲームが、もはやナンセンスになってしまったのだ。ロールプレイをすることへのためらいとか、勇者という存在への不審感とか、そういうものがプレイヤー側に生まれてしまったのかもしれない。

 たぶん誰もが「特別な物語」を信じられなくなったのだ。プレイヤー=主人公というドラクエ的「特別な物語」を。プレイヤーはもう譲歩なしにゲーム内に自己仮託することができなくなったし、開発者もまた、そういう「特別な物語」を無批判に信じてゲームを作ることができなくなった。
 つまるところ、ドラクエは失われたのだ。
 ドラクエ的な、プレイヤーとロールプレイングゲームの関係性は。
 それは大量生産・大量消費という社会にあって、「特別」が存在しにくいことと関係さえしている気がする。ゲームを自分だけの特別なもの、いわば子供の頃の特別な絵本のようなものとして存在させることは、もうできないのかもしれない。それは共有され、自分の手の平をはなれ、遠くから眺めることしかできなくなる。
 しかしだとすれば、ゲームがもはやロールプレイの場であることは不可能なのだろうか。ゲームに対してドラクエ的「特別な物語」を求めることはできないのだろうか。
 もしそうなら、ドラクエ9がネットゲーム的なシステムを採用したことは、あるいは正しいのかもしれない。
 「特別な物語」が用意できないなら「普通の物語」を用意するしかない。
 つまりそこではプレイヤーは主人公ではなく、ゲーム世界の一登場人物にすぎないのである。現実世界を限りなくゲームに反映させたこのシステムは、勇者が職業でしかないことを、まったく矛盾させない(9に勇者職はないらしいが)。物語はプレイヤー個人のものではなく、不特定多数の人間が共有する、「公共のもの」としてしか機能しない。プレイヤーの個性を保障するのは、ステータスやアバターの違いだけなのである。
 正直、ドラクエ的なゲームは、もう不可能なのかもしれない。
 それは単純にゲームのスペック的な問題でもあるからだ。華麗なグラフィック、作りこんだストーリー、膨大なプレイ時間、隙間なく提示される設定、過剰なくらいのやり込み要素――
 それらを排除することは、たぶんできないだろう。そしてそれらを排除できない限り、ドラクエ的な世界(プレイヤー=主人公)は成立しない。成立はするかもしれないが、結局それは何らかの新しい形にしかなりえないだろう。

 正直言って、どうして世間の人間がドラクエ9をそれほどまでに求めているのかは、僕には分からない。
 ただ「ドラクエ」というブランドを後生大事に抱えようとしているだけではないのか。「ドラクエ」でさえあればなんでもいいのではないか。
 ……もっとも、そんなのはこっちが歳をとっただけのことかもしれないけれど。

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