「要するにそれは、死にたい≠ニいう感情なのだけど
 について


 前に書いた長い話のことについて、一応書いておこうと思う。
 何のことかというと、「留保されたうえでの、一つの答えとして」に書いたことの補足である。その後の結果、ということになる。
 簡単にいうと、作品は清書して、推敲して、印刷して、賞に送った(去年の十月の終わりのこと)。
 ――そうして、落選した。
 一次も通らなかった。
 十二月の、終わり頃のことである。
 
 当たり前だけど、長編だけでも年間に(たぶん)何万通だか応募作品があって、そのうち賞をとるのは数十とか、それくらいかと思う。
 つまるところ、選ばれるほうが圧倒的に少ない。
 落選することは、当然だけど予想はしていた。というか、そうなるだろうとは思っていた。
 それでも、建てつけの悪い家から雨漏りがするみたいに、都合のいい妄想をとめることは難しかった。その妄想が、かなりの借金としてあとあと自分を苦しめることになるのだと、わかってはいても。
 
 実のところ結果が出るまでのあいだ、僕は時々「これが全然ダメだったら、死ななくちゃならないな」と、わりと冷静な恐怖を感じていた。
 自信作、というわけじゃない。自分の作品に自信を持ったことなんて一度もない。
 ただ、この作品にかかった苦労のことを考えると、そういう結論を出すしかなかった。これがダメだったら、まるで見込みはないんだろうな、と。
 そしてそれは、自分には生きている意味も価値もないことを、証明することだった。
 書くことに何の意味もないなら、生きている必要なんてありはしないのだから。
 
 ――とはいえもちろん、僕は死にはしなかった。
 それも、予想はしていたとおり。
 結局のところ、僕は今までにも同じことを繰り返してきたのである。妄想と、落胆と、苦悩と、再起。例えそれが、地獄のような時間であったとしても。
 人はどんなことにでも耐えられるものなのだ。……どのようにして、と問わないかぎりは。
 
 何にしろ、幸いなことに時間はすべてを過去のことにしてくれる。記憶は必ず、風化していく。
 苦痛は和らぐし、悪夢は消えるし、悲嘆は薄れていく。
 それが、傷が癒されるということではなかったとしても。
 もしもそうでなかったとしたら、人類なんてとっく滅びてしまっていたかもしれない。
 
 今のところ、僕は概ね正常には復帰している。
 もしもそれを、正常≠ニ呼べるのなら。
 穴の開いた靴を、まだ履けるというだけの理由で使い続けることを、正常と呼べるのなら。
 そのための方法は、いたって単純である。

 できるだけ、何も見ないようにすること。
 できるだけ、何も考えないようにすること。

 小さな箱の中に閉じこもって、蓋をしてしまうみたいに。
 僕のしていることは、別に誰かの迷惑になっているわけじゃない。
 ほかに、できることなんてない。
 書くこと以外に、望むようなことはない。
 だから、書いていてもいいはずだ。
 ――そうやって、自分自身を納得させて。
 
 けど実のところ、それは血のあふれる傷口に絆創膏をはるような行為でしかない。あまり効果的とはいえないし、適切ともいえない。
 しかも困ったことに、そのちゃちな絆創膏はしょっちゅうはがれてしまっている。
 箱の蓋は開いて、僕は何かを見て、何かを考えてしまう。
 そうすると、自分が何のために生きているのかわからなくなる。
 何のために苦しんでいるのか、わからなくなる。
 
 たぶん問題の根本は、努力が報われないことにあるのだとは思う。
 すべてのうつ病の原因が、そこにあるように。
 お前が努力と呼べるような何かをしてきたのか、と問われれば、それまでではある。僕は自分に可能である以上のことは、しなかった。しようとしなかった。
 でもそれで、精一杯なのだ。
 これが、僕にできる精一杯なのだ。
 
 もちろん、こんなのは文句をいうようなことじゃない。
 誰もが同じような状態で、同じような経験をしてきている。
 この世界に何千万人くらい小説家志望者がいるのかは知らないけれど、その大半は、ほとんどすべては、誰にも読まれることのない小説を書いている。
 それは、実際に本になっている小説でさえ。
 
 だから僕は、書いていてもいいはずなのだ。誰にも読まれないからといって、小説を書いていけないわけじゃない。
 そのせいで、村が一つ焼け落ちたり、革命が五年遅れたりするわけじゃない。
 でも実際には、そう単純な話にはならない。
 何故なら、この世界のシステムは、一人で生きていくようには出来ていないから。
 
 人が一人では生きていけない以上、自分の行為に何かの意味を持たせる必要がある。
 つまりは、人の役に立つ必要が。誰かのためになっている必要が。
 人から必要とされる必要が。
 そうでなければ、その行為は誰からも許してはもらえない。そんなことをしているくらいなら、もっと別のことをしろ、と非難されてしまう。
 そうだ――
 僕は自分の行為に罪悪感を覚えている。小説を書いていることを、恥じている。
 
 誰にも、読まれなくてもいいですか?
 誰にも必要とされなくても、書いていていいですか?
 そう問えば、たぶん大半の人は答えるだろう。「別にかまわない」と。
 中には、励ましてくれる人もいるかもしれない。書いたものを、誉めてくれる人も。
 でもそれだけでは、とても足りない。
 それだけでは、とても「自分」をまかなえない。
 
 もしも僕に望みがあるとすれば、それはただただひきこもって、小説を書いていることでしかない。
 誰とも会わず、誰とも口をきかず、できるかぎり心を自由にして。
 たぶんそれは、死んでいるのとたいした違いはないのかもしれない。死体が生きているのと、たいした違いは。
 そこに救いはないのだけど――少なくとも、安寧と呼べるだけのものは存在してはいる。
 
 僕はただ書いていたいだけなのだけど、そのくせ、それだけでは自分にうまく言い訳ができないでいる。ただ書いていればいいのだと、そうして生きていればいいのだと、自分を納得させられるだけの言い訳が。
 それは葛藤とか、自問自答とかいうほどのものではなくて――
 たぶん、ただの「甘え」でしかないのだろう。
 本当は読んでもらいたい、誉めてもらいたいのに、実際に誰かに向かってそれを要求するのは怖い。自分がゴミみたいなものしか作れていないのだと、わからされてしまうのが怖い。
 自分には何の価値もないのだと、わからされてしまうのが怖い。
 
 もちろん、こんなことは中島敦がとっくに書いていることではある。臆病な自尊心、尊大な羞恥心。
 たいした悩みとはいえない。むしろ、凡庸すぎるくらいの、俗物の苦悩でしかない。
 けれど、理解していることと、納得していることは違う。
 僕は時々、どうして自分の心がこんなにぐちゃぐちゃしているのか、わからなくなる。
 自分がどうしたいのか、どうすべきなのか、わからなくなる。
 そうして、紙の上に書いた線がごちゃごちゃしていくみたいになって――死にたくなる。
 
 この苦しみの根っこにあるものは、何なのだろう?
 何故、自分でもバカらしくて無意味だと思うのに、自分のことをバカらしくて無意味だと思うのか。
 どうして、自分の存在に疑問を持ったり、無意味だと感じたりするのか。自分の存在を否定したり、蔑んだり、恥じたりするのか。
 僕は一人でしかいられなくて、そして一人ではいられない。
 その二つはほとんど同じ大きさと重さで、同じ場所を占めている。箱の中の猫が、死んでいるのと同時に生きているみたいに。
 そのせいで、僕は自分の心をどこにも置けなくなってしまう。
 心の置き場所がどこにもなければ、人は自分を存在させておくことさえできなくなってしまう。
 
 今の状況と状態を、僕は後悔しているわけじゃない。
 もっと別の、選択肢や可能性はあったかもしれない。
 もっとましな、未来や現在はあったかもしれない。
 でも、たぶん――
 もう一度過去をやり直すことになったとしても、僕は同じことを繰り返すのだと思う。
 結局のところ、僕は自分が望むことをしてきたのだから。それ以外のことを、しなかったのだから。
 書くことをやめてしまうのなら、僕は死んでしまうことしかできなくなる。
 それが、覚悟ではなくて諦念だとしても。
 それが、決意ではなくて逃避だとしても。
 やっぱり、書いているしかないのだろう。
 それがどれだけ、情けないものでも。それがどれだけ、拙いものでも。
 神が今以上の光を与えてくれないからといって、どうして不満を言うことがあるだろう。
 ――神学ではそんなふうにして、この世界を肯定しているそうである。


 追記:作品(『詩人にはなれない、もしくは何にもなりたくない』)は小説投稿サイトにもあげてみたけど、残念ながら反応はほとんどない。たぶん、それが現実なのだろう。結局のところその程度のものでしかなくて、それがすべてである。
 だからといって、僕に愚痴を言う権利がないわけじゃない。自分を憐れむ権利がないわけじゃない。
 いっそ虎になれたほうが、ずっとましだったとしても。

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