「非実在よつば」 について
『よつばと!』は2003年から月刊コミック電撃大王で連載されているマンガである。 というかまず言っておかなくてはならないが、これは『よつばと!』についての話である。
一応、『よつばと!』について概括しておくと、2003年3月から連載中、単行本は9巻まで発売、大体一年に一冊くらいのペース、か。ジャンルとしては、ほのぼの日常系ギャグマンガ、というようなくくりになるかと思う。『らき☆すた』とか『GA
芸術科アートデザインクラス』とか、そんな感じ(たぶん)、四コマではないけれど。詳しいことはWiki参照(こちら)。 ついでに、作者あずまきよひこのブログ(こちら)と、よつばとスタジオのホームページ(こちら)も参照。よつばとスタジオではマンガの試し読みも可(9話と28話)。 直接は関係ないが、前作『あずまんが大王』もかなり面白かった。「うっかり笑った人だけ面白い」は相当に秀逸で的確なコピーに思える。そう、この人のマンガは、「うっかり」笑ってしまうところがすごいんだと思う。 それは、バナナの皮にすべるようなものかもしれない。本当はすべるはずもないし、すべらないと知っているんだけど、それでもすべってしまう。何故かは分からないけれど、すべってしまう。 よつばとも、最初の頃はどちらかというとあずまんが大王的な組み立てだったと思う。少なくとも僕は、四コマではなくなったけど、これは同じものだな、と思っていた。つまり、「笑わせ方」とか「笑いのあり方」とかいう点において。「うっかり」笑ってしまうことにおいて。 が、それは関係ないので、省略する。
ここで話をするのは、よつばとと、そのあり方について、というようなことになる。具体的には、主人公である「よつば」の逆説的な非実在性ということについて(何のことだ?)。 よつばと(=マンガ)の実在性が逆によつば(=マンガ)の非実在性を暴きだすというか、同じマンガという平面にありながら、ちょっとややこしいそのあり方について、というようなことになる。 いや、本当はややこしくもなんともないのかもしれないが。
以下の話は、基本的にマンガを読んであることを前提にしたものなので、ネタバレとか、説明不足になるところがあるかと思う。が、あまり細かい説明はしない。 一方、Wikiによつばとの前身についての話とかあるけれど、僕はそれを知らないし、ここではあまり関係もないので省略する。これから話すことは、細かい考証がされているわけではない。あくまでよつばとを読んだ僕個人の感想になる。 そんなら書く必要なんかないじゃないか、というような気もするが……僕にもそれはよく分からない。何故、書くんだろう。
一応、話の前にもう少しよつばとのアウトラインを解説しておくと、よつばとの主人公は5歳の女の子の「よつば」。話はこのよつばと「とーちゃん」が町に引っ越してきたところからはじまる。以降、一話ずつ「よつばと○○」という題名でよつばと、よつばの周辺の日常が切り取られていく。 基本的には、よつばの突飛な、けれどいかにも子供らしい行動がメイン。ほろりとするとか、はっとするとか、胸を打たれるとか、そういうことはない(あるかもしれないが)。あくまで日常な、日常すぎるくらいのストーリーになっている。 ところで、よつばは出自が曖昧である。緑色の髪で、どこかの外国で拾われたことになっている。1巻では、「俺が外国でひろってしまって、なんだかわからないうちに育てる事になった」と書かれている。詳しいことは語られないし、おそらく語られることはない。語られる必要も。 それは単純にマンガとしての設定の問題だといえば、そうなのだけど、よつばとというマンガのあり方から言えば、「設定の問題」では必ずしもすまされない。 少なくとも僕は、そんなふうにも感じる。
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この話を書こうと思った基本的なところは、BSマンガ夜話を見ていたときのことに遡る。 日付は、2008年9月18日。もちろん、とうの『よつばと!』の話のとき。 例によって例のごとくというか、まあ半分だらっと、半分鋭く話が進んでいって(どんなふうに進んでいったかはいまいち覚えていないが)、そのうち、「よつばの世界ってほんとにきらきらしてるんだよね。というか、本当は俺たちの世界ってこんなふうにきらきらしてるはずなんだよね」というような発言がなされた。 で、それに続いてのセリフ。「でも現実はそうじゃないんだよね。もっとどろっとしててさ、嫌なこととかいっぱいあるんだよね」 もちろん、詳しくは覚えていない。でも基本的にはそういう流れだった。ちなみにそれは漫画家のいしかわじゅんさんの発言。例の、柔らかいカラスの鳴き声みたいな感じのかすれた声で、そんなことを言った。 で、その前だったか後だったか忘れたけど、5巻の表紙の話になって、これ、電車の向こうにいるよつばが、表紙をとってみるといなくなっている、というふうになっているが(図を参照)、そのことで、「これなんかもよつばは本当は存在しない、みたいな感じで、考えてみるとちょっと怖いですよね」というような話になった。 僕はその「怖さ」が、確かにそうだな、と思って、でも考えてみると何故「怖い」んだろう、とも思った。 それが今回の基本的な話しのテーマである。
註)補足的に言っておくと、5巻のこれは別にそんなこと(つまり、よつばの非実在を表現したもの)ではなくて、たんによつばがマンガの中に駆け込んでいる、というだけの話だと思う。 タイトルページから目次ページにかけて、よつばが浮き輪姿で駆け込んでいる。 つまり、表紙→表紙裏→タイトルページ→マンガの中、へとよつばが移動している、というだけのことだろうとは思う。だから司会の大月隆寛さんの発言は、その意味では間違っている。たぶん。 少なくとも作者はそんなつもりはなかっただろう(そしてたぶん、そのことがよつばとの一番重要なところだろうと思う)。
――さて、それでは何故よつばは「怖い」のか?
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その話の前提として、よつばとを少し詳しく見ていく必要がある。 まずは、よつばとの舞台設定である。 何気なく読んでると何気なく読んでしまえるけど、よつばとの設定はかなり曖昧である。もちろんそれは、マンガとしての必要性や約束事の範囲内であって、設定そのことの問題があるわけではない……はずだ。 それはともかくとして、よつばとの舞台設定を見ていこう。
1)まず、とーちゃんとよつばは町に「引っ越し」てくる。 しかしこれは、引っ越しては来たが、「何故」引っ越してきたのかは、基本的に語られていない。町にはとーちゃんの知りあい(ジャンボややんだ)がいるが、「だからこの町に来た」にしても「何故元の家を離れたのか」という理由にはならない。 僕の読んだ範囲では、その理由はやはりよく分からない。仕事上の理由にしては、とーちゃんはいつも大体、家で仕事をしている。8巻の53話(よつばとるすばん)で仕事で出かけているが、それなら以前はどうしていたのかというと、よく分からない。 ついでに言うと、とーちゃんの仕事もかなりあやふやである。翻訳家だが、大体家にいる。編集者との打ち合わせとか、原稿を取りに誰か訪ねてくるとか、仕事の依頼が来るとか、そういうのがあってもよさそうだが、基本的にはない。9巻56話(よつばとよてい)で「おそくなってどうもすみません!」のよつばのセリフに対するやりとりがあるが、その程度である。Wikiによると、「翻訳家」といっても、どこの言語、という設定はないらしい。勝手に英語だと思っていたのだけど。 引越しに関しては、あるいは単によつばを賑やかな(元いたところよりは)ところに連れて来たかった、とかそんなものかもしれない。6巻の36話(よつばとじてんしゃ)で学校についてのセリフがあるから、少なくとも学校がないから越してきた、というわけではないらしい。 たぶん、その辺の設定は存在しない。作者にとって、それは語る必要のないこと、だったのだろう。だとしても、別に問題ではない。 とはいえ、やや謎を残すのは事実である。
2)次に、よつばの出自について。 出自というと少々大げさだが、それでも読んだ人は誰でも、「よつばは一体誰なのか?」という問いを一応は抱かずにはいられないだろう。作中では、「どこか外国」で「とーちゃんに拾われ」、いったん「ばあちゃんの家にいてから」、マンガの舞台の町に「引っ越してきた」というようなことになる。よつばの髪が緑だったり、外国人に見られるシーンがあったりと、とりあえず日本人ではないらしい。 この辺の設定としての意味は、よつばの「キャラクター」のためのものだろう。要するに、とーちゃんにも周りの人にも「変な奴」と思われて、それを読み手にすぐに納得させることができる、という設定である。それ以上の意味はない。問題にもされない。 しかしそれでも、いくつかのディテールは気になってしまう。 例えば、よつばの年齢。「拾われた」ということになっているが、一応よつばの年齢はわかっているらしい。ということは、知ってる人がいた、ということだ。しかし実の両親はいない……ような気がする。とすると、いったいよつばの年齢を知っていたのは誰なのか? とーちゃんは誰かからよつばを「ひきとった」のか? しかしそうすると、それはいったいどんな状況だったのか? ついでに言うとよつばの国籍・戸籍はどうなっているのか、エトセトラ、エトセトラ。 もちろんマンガなんだから、そんな細かいことはどうでもいいのだろう。どうでもよくはないが、少なくともよつばとの中で、そのことは問題にはされない。イメージとしてあるのは、それこそ3巻の15話(よつばとおみやげ)でよつばが「四葉のクローバー」を摘んでくるみたいに、とーちゃんがよつばを拾ってきた、というだけのことである。まるで幸運とか幸福をたまたま拾ってしまった、というように。 もっとも、この「外国」はどうも「ハワイ」をイメージしているらしいことは分かる。もちろん、はっきりと、というわけではない。それでも、作者の中での「個人的設定」はおそらくハワイだろう(むしろ四国のどこかなんじゃないかという気もするが)。 いちいち言うのも阿呆らしいところはあるが、まず2巻の14話(あさぎのおみやげ)にある「島にいた」「ハワイかしらね」発言、ちょっと強引だが、みうらやジャンボがわざわざ「ハワイ」に行ったこと、4巻の四コマにハワイアンぽいかっこうのよつばと風香が描かれていること。 しかし、実は5巻の31話(よつばとほし)では、よつばは「とーちゃんはハワイいった?」と発言している。とーちゃんは「あー昔一回行ったよ」とごく簡単に答えているのみ。このコマからは、あまりよつばが「ハワイ」にいた、というニュアンスはない。ぎりぎり、とーちゃんがハワイに行ったことはある、という保証しか得られない。 要するに、よつばは「ハワイ的」な「どこか」から来たのである。イメージとして。 それがジャマイカとか、カリブ海のどこかの島とか、インドネシアでもいいのだけど、少なくとも作中から受けるイメージは、やはりハワイである。
3)舞台設定というわけではないが、マンガそのものの特徴について。 よつばとを読んで一番印象的なのは、やはり背景の細かさだろう。 1巻のときはそうでもないが、9巻まで来るとその特徴はくっきりと現われている。景色だけじゃなくて、小道具まできっちりと書き込まれている。メニューの文字からお菓子のパッケージまで本当にきっちりと。まるで「実物」みたいに。 ブログを読むと分かるが、作者も背景には相当こだわっているらしい。何度もアシスタントに書き直させたりとか。牧場や気球のシーンは、当たり前といえば当たり前だが、実際に足を運んで見たりしている。 ちなみに僕が背景の描かれかたで一番好きなのは、8巻52話(よつばとたいふう)の雨が窓を打つシーン。いいですよね、これ。 ただし、ブログでの言及によれば、いくら具体性のある背景でも、特定の町をモデルにしたものではない、ということ。都市近郊、ということらしいが、それ以上の設定はない。 ちなみに、背景の細かい(身近な景色を丁寧すぎるくらいに描く、という意味において)マンガといえば、浅野いにおの『ソラニン』を思い出す。作品の種類は全然別ものだが、しかしこの「背景の細かさ」という共通点は、それなりに意味があるような気がする。 それは、最近のアニメでも時々、非記号的・具体的な背景が描かれること(例えば『DARKER
THAN BLACK』や『魔法遣いに大切なこと
〜夏のソラ〜』や『東京マグニチュード8.0』、『東のエデン』などなど)とも関連して、大きな流れみたいなもののような気もするが――しかしそれは必ずしもここでは関係がない。
よつばとでもう一つ特徴的なのは、コマわりがしっかりしていること。 ほとんどが縦横の直線で(というかすべて?)、斜め線どころか枠線を壊しているところすらない。9巻のよつばの夢のシーンですら、枠線はきっちりと引かれている。 普通、マンガにおける枠線の役割は、「時間」の経過である。これがきっちりしているほど、作品の感じは「固く」、「まじめ」になる。そのほうが「約束事」をきちんと守っていることになるからだ(たぶん)。 よつばとがギャグマンガ(一応。少なくとも笑わせること、が目的にされている)だということを考えると、これはちょっとそぐわないと言えるかもしれない。少なくとも、よつばとの大きな特徴だと言うことはできる。
つまり、背景=空間軸、コマわり=時間軸、とすると、よつばとはこれが「きっちり」しているのである。 時空間というのは、カントを持ち出すのもあれだが、ア・プリオリ(先天的)な認識だといわれる。要するに、世界そのものの「前提」のようなものだ。カントはこの二つを「経験則」によらない、それ以前の絶対的な認識だとする。 とすると、よつばとは時空間、つまりは「世界」が、きっちりと存在していると言えるのかもしれない。このことは、作品世界の在りかたにかなり大きな影響があるんじゃないかと思う。
4)時空間ついででいうと、「日付」のことがある。 よつばとは、読んでみると分かるが、時間の流れがわりとはっきりしている。いきなり冬になったり、春になったりはしない。 日付は1話目からずっと、不可逆的に進行していく。1話が大体一日毎に経過していき、所々「今日の日付」が明示される(敬老の日、とか九月になった、とか)。 これを厳密に考証すると、第何話が何月何日なのかが分かる。 と思って自分で数えてみたのだが、その前にWikiにちゃんと書かれていた。あと、同じように日付を調べたサイトがありました(こちら)。 よつばとの日付は、8月末までは公式に日付設定があるようで、それ以降もブログでの言及などがあったらしい。細かく知りたい人はWikiを参照のこと。
ちなみに、僕が調べたところでは、1巻7話のよつばとおおあめは少しおかしなことになっている。洗濯物を見るかぎり、とーちゃんの昨日のパンツが干してあるのだが、作中の会話では一昨日干したまま、ということになっている。同じパンツが二枚あるのかもしれない。そうでなくても、パンツばっかり干してある上に、とーちゃんの服は無地の白いTシャツばかりという状況。 洗濯物ついでにいうと、実はここにはあるべきものがない。それは、よつばの下着である。たぶん、生々しすぎて書かなかったんだろうが、この辺もよつばとの実は少しねじれた″ンり方を露呈しているような気がする。 あと、よつばの服は、最初は毎回変わっているのだが(たぶん洗濯ローテーションも考えた上で)、次第に統一されていく。とはいえこれはマンガの制限上、ある意味まっとうなことだと思う。 いずれにせよこの「日付設定」もよつばとの大きな特徴になる。曜日を見るかぎり、作中時間が何年かも、一応特定できる。 曜日があうのは1997年、2003年、2008年、2014年だが、連載開始時間から考えて、おそらく2003年で間違いないだろう。これもおそらくだけど、作者の机には2003年のカレンダーが用意されていると思う(もしくはPCに)。 この「日付設定」が読み手にもたらすものは、作品世界の「実在性」である。あるいは、「作者の中での作品世界の『実在性』」である。読み手はそれを想像する。そして、何故かそれを知りたいと思う。 何故、知りたくなるのかは分からない。
5)巻数による話の変化についても。 1巻と最新9巻のよつばの絵を比べると、かなり違う。髪の後ろの二本の毛もなくなったりしている。目の位置はやや下がって間は広がり、顔の輪郭は丸くなっている。 これは絵だけじゃなくて、言動についてもかなり違う。最初の頃は、よつばはしょっちゅう「おー」と驚いたり、「すげー」と感心したりしている。いつも大声でしゃべっている。簡単にいうと、行動がかなり賑やかだった。1話目のブランコなんかは、その最たるものかと思う。 これが、9巻になると相当「大人しく」なる。大人しくなるというのは、別によつばが静かになるとか、落ち着いて行動するようになるとか、そういうことではない。 マンガ的に「大人しく」なる。あるいは、逆に子供っぽくなる、といってもいい。「現実的」に。 初期のよつばにあったものが「賑やかさ」や「面白さ(マンガ的な)」だったとすると、9巻のよつばにあるのは「あどけなさ」や「子供的な可愛らしさ」である。行動はより幼児的に、リアルになっていく。口調は舌足らずに、動作は不器用に、心は危うい凹凸を持って。 焼肉の場面なんて、1巻のよつばだったら肉をひっくりかえそうとして、天井に投げ飛ばしてしまいそうなんだけど……。 しかしそれに比べると、周りの人物の変化は少ない。性格や言動はほとんど変わっていないし、絵柄の変化はよつばに「引っぱられた」結果のように思える。
背景についても、1巻と9巻では相当違う。よりリアルに、より稠密に。 それはまるで、背景が登場人物と同じレベルで存在しているようにさえ見える。 というより、おそらく「同じレベル」で存在している。背景と登場人物は、同じ「世界」の「存在」として、差別を受けていないのである。僕ら自身が、その辺のPCや机や鉛筆と同じくらい確かに「存在」しているの同様に。 もっと簡単に言ってしまうと、よつばとの中では、背景が独立しているのである。それは登場人物のためには存在しない。背景はそこにあるのではなくて、そこに「あった」のだ。 よつばとの世界では、登場人物がみんないなくなっても、おそらく背景だけは残り続けるのだろう。
これらのことは、より丁寧な仕事をするとか、緻密な絵の構成をするとか、そういうことを目指したものではなく(それもあるとは思うが)、むしろよつばを描いていく上での方向性みたいなものが要求したことだと思う。 その方向性とは、よつばと「距離を置く」こと。 よつばをリアルに存在させ、「実在」させようとした結果、なのだと思う。 あたかも、よつばがこの世界のどこかに本当に存在しているかのように。
さて、以上長々と設定を見てきたが、これらの設定が何故「怖い」を呼び起こすのか?
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見てのとおり、よつばとの世界はかなり現実的である。日付があり、細かい背景があり、それぞれの生活がある。釣りをしたり星を見たり気球に乗ったりする。 7巻47話(よつばとしゅっぱつ)の高速道路に乗るシーンでは、「よつばなら通行券を何枚もとってしまうかも」ということで、作者はわざわざ高速にそれを確認しに行ったそうである。券は一枚しか出なかったとのこと。 こんなことから考えても、よつばとはかなり「現実」に立脚している。現実的、という意味ではなく、方向性が現実的なのだ。
いっぽうで、その設定は細かく見ていけば空中楼閣のように頼りない。あるいは、幻想世界のように儚い。 不安定なよつばの過去、二人の頼りない町での存在理由。 すべてをメタファーのようにとらえることもできる。よつばはとーちゃんによって翻訳された、別の世界の存在である、とか。 つまり、マンガ的によりリアルに「実在」的になっていくいっぽうで、その設定はあくまで幻想的、「非実在」的である。この差異が、あたかもよつばが「本当は」存在していないかのような怖さ、不安さを呼び起こすのだと思う。 しかしマンガというのは本来「非実在」的なものである。それが何故、よつばとでは不安にさせられるのか。
余談に近くなるが、よつばとと同じような(ではないが)設定のマンガに、宇仁田ゆみの『うさぎドロップ』がある。 状況はかなり違うが、独身の男が小さな女の子を育てることになる、という点では基本的に同じである。しかしこっちは会社勤めの身の上で、「緊急一時保育」とか、送り迎えの時間とか、相当現実的な問題を抱えることになる。よつばととはえらい違いである。 しかしうさぎドロップには、よつばとのような「怖さ」は感じない。あくまでそれは、マンガとしての領域に留まっている。状況的には、つまり物語的には、よつばとよりもよほどリアルだというのに。
この点からいっても、よつばとの「怖さ」は単に現実的であることに立脚したものではない。 それはやはり「実在」的であることに問題があるのだと思う。 よつばとの「実在性」を保証するものは大きく言って、背景画の書き込み、日付設定である。 そしてよつばとの「非実在性」を証明するのは、その舞台設定と、そして「よつば世界」の在りかたである。 「よつば世界」とは何か? よつばの日常は、きらきらしている。世界はついさっき出来たばかりみたいに新鮮で、驚きに満ちている。 そしてよつばは、それを楽しめる。だからよつばは「無敵」だ。 ……さて、それは本当だろうか?
よつばとのマンガの特徴は、誰も「傷つかない」ことである。少なくとも、よつばは傷つかない。 それはよつば自身の強さとか、特性ではなく、どちらかといえば「そういうふうになっている」。 もちろん、それだけというわけではない。よつばが特権的に誰からも愛される立場を享受している、というわけではない。そこには一応の、「存在保証」のようなものがある。 例えばそれは、3巻18話(よつばとお盆)で交通課のお姉さんに花をあげたり、4巻休憩(よつばと4コマ)で「べんしょうします」と泣いて謝ったり、7巻48話(よつばと牧場)で牛を誉めたり、8巻51話(よつばと文化祭)で「おねえちゃんはすぐびょういんいけ?」と心配したり、そんなところに表れている。
よつばは基本的に素直なよい子である。ひねくれていないし、辺に大人びてもいないし、明るく元気でストレートである。 だが2巻8話(よつばとおえかき)が端的に示しているように、よつばの行動は楽しかったり、愉快だったりするだけではない。どちらかというとみうらが「正常」で、実際にあったとすればいらいらするようなものも多い(と思う。それは僕が狭小なだけかもしれないが)。 他にも、実際にはよつばが「傷ついて」もおかしくない場面は多い。綾瀬家での行動の数々もそうだし(毎度毎度アイスもらったり、勝手に冷蔵庫開けたり)、絵を描けば必ず誉められるし、コンビニに行っても周りの人が助けてくれる。「このまま帰ったら一生後悔する!」ようなことはない。 よつばがわがままだったり間違ったりしても、周りの人間は素敵によつばを傷つけない。よつばの一日はしょんぼりしたまま終わる、ということはない。 よつばとの世界では、よつばが受けるべき傷は、自動的に回避されるのである。そしてそうでしか、「よつば世界」は存在できない。 とはいえ、スターをとって無敵になったマリオだって、実際には穴に落ちれば死んでしまうのだ。
「よつば世界」は不思議と傷つくことがない。 よつばは愛されている。ラーメンを食えば卵をおまけされ、絵を描けば「うまいなぁ」と感心され、花キューピットになれば天使だと言われ、怖いおっちゃんに話しかけてもきちんと答えてもらえ、エコよりもよつばちゃんの夢のほうが大事だと言われ、ぬいぐるみを買えば、「もう名前もらったのかー」と優しく対応される。 もちろんマンガなんだから、そんなこといちいち気にしても仕方ないとは言える。 しかし言ったとおり、よつばとは「実在」的なマンガである。少なくとも、それを目指しているマンガである。そしてそれに、ある意味で成功している。 だからこそ、そのことが僕らに(少なくとも僕に)「怖さ」を突きつける。 それは「よつば世界」が本当は存在しないことを、ほとんど逆説的なまでに突きつけてくるのである。よつばとが面白ければ面白いほど、その事実がくっきりと浮かび上がってくる。 そして「よつば世界」の「非実在性」は、同時に僕たちのこの世界が本当は「きらきら」していないことを、否応なく証明する。 もちろん、作者はそんなことを主張しているのではない。よつばのテーマや方向性は、どう考えてもそんなこところにはない。 けれどそのことがもっとも逆説的に、「怖さ」を呼び起こしている。悲しみや切なさを、読み手の現実にもたらす。 それが、よつばとの「怖さ」の正体なのだと思う。
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さて、こんな感じで一応この話を終わることにして、もう一つ。 よつばとで僕がもっとも印象的なのは、6巻である。40話「よつばとはいたつ」。 この話では、よつばは風香の学校まで自転車に乗って、一人で牛乳を届けにいく。危ない道路を進んだり、山のような橋を渡ったり、お城のような学校に入ったり――子供時代の冒険にあふれている。 もちろん、牛乳は届けられる。よつばが「傷つく」ことはない。 でもそれで話は終わらない。よつばはとーちゃんに……いや、とーちゃんはよつばを怒る。本気で怒る。怒鳴ったり、くどくどと叱ったりはしない。でも本気で怒る。 このシーンは、とても印象的だった。 まるで僕たちが無責任に「よつば世界」を見ているだけのような、面白がっているだけのような、そんな気分にさせられる。「よつば世界」が決して無敵でないことを、「本当のこと」を教えられるような、そんな気分。 そして「よつば世界」を守っているのは、「僕たち」なのだと。よつばが「無敵」なのではない。僕たちが「敵」にならないだけなのだ――と。
「よつば世界」は傷つかない。 でもそれはいつか必ず壊れてしまうものである。必ずとまでは言わなくても、大部分の人間には高確率でその世界との別れが待っている。 何故なら、人はそれを成長と呼ぶから。 よつばとがこれからどんな方向に向かうのか、どんなふうに終わるのかは分からない。個人的にはたぶん、よつばが小学校に行くところで終わるんじゃないかと思っている(たぶん、それ以上は作者の手に余るだろうから)。 あるいはそれは、「よつば世界」の終わりを意味するのかもしれない。 そして別の新しい世界がはじまる。「新しいよつば世界」が。そうなったとき、もしかしたらよつばは5巻の表紙みたいに本当にマンガの中から消えて、この世界に「実在」することになるのかもしれない。
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