「地球温暖化についての個人的意見」 について



 温暖化については時々、驚くことがあります。
 その事実そのものを否定する人がいて。
 この前も、テレビを見てたらそんなことがありました。その人によれば、二酸化炭素なんて空気中のたかだか数パーセント(1%以下)でしかない、それがちょっとくらい増えたからって、たいした問題になるわけがない、というわけです。
 どういう知見にもとづくのかは、よくわかりません。気持ちはわかるけど、数字を都合よく曲解しているだけなんじゃないか、という気がします。
 これを聞いて思い出すのは、やっぱり例のカエルの話です。
 
 ――カエルの話をしましょう。
 まず、熱湯を用意します。昔々、盟神探湯(くかたち)とかに使われてたくらい、熱いやつを。
 ここに何の罪もないカエルを放り込みます。
 当然ながら、カエルは驚いて飛びだします。これが人間だったら、裁判沙汰になるところです。
 次に、常温の水を用意します。
 ここに、やっぱり何の罪もないカエルを放り込みます。いや、罪はあるのか?
 水を火にかけて、徐々に温度をあげます。
 すると、どうなるのか?
 カエルは逃げることもなく、茹であがります。
 いい湯だな、なんて呑気なことを言ってたかどうかは、不明。あとでスタッフが美味しく食べたかどうかも、不明。
 
 人間にも、これとまったく同じところがあります。
 現状で何の問題もなければ、それで問題なし、というわけです。例え、あとあとまずいことになるとわかっていても、それに目をつむってしまう。
 煙草をすう人間は肺がんのことは考えないし、不摂生を日常にしている人間は生活習慣病なんて怖くないし、国債は日銀が発行してるから心配いらない、というふうに。
 布団をかぶれば幽霊なんて怖くない、という幼児と同じで。
 たぶん人間は、三年先のことを考えるようにはできていないのだと思います。そういう思考は、進化の役には立たなかったんだ、と。
 
 もちろん、僕自身にしろ、温暖化の詳細を理解しているわけじゃないです。
 そこまで暇じゃない――というほど、暇じゃなくはないですが。
 平均気温が上昇しているのは、かなり単純な事実ではあると思います。
 けど、その算定方法を詳しく知っているわけでもないのです。地球の平均気温て何だよ、とも思うし、それが意味するところも、はたしてそれが本当なのかどうかさえ。
 僕らにできるのは結局のところ、グラフを眺めることくらいでしかありません。誰かが、何らかの理論と観測にもとづいて用意した、たぶん確からしいグラフを眺めることくらいでしか。
 
 とはいえ、それと同じことなら山ほどあります。
 訳のわからない数学の証明(ポアンカレ予想とか)、意味のわからない科学の実験(二重スリット問題とか)、重要だし実生活にもかかわっている技術の数々(GPSとか)。
 でも普通、そんなことは気にしません。理解できなかろうが、意味がわからなかろうが、本当は重要なことだろうが、問題にはしない。
 それなのに何故、温暖化にかぎって、人々の意見は激しく対立しているのでしょう。
 
 温暖化にある種の反感がともなうのは、いくつか理由があるのかもしれません。
 特に、温暖化の副題として唱えられる「私たち一人一人の問題」というやつは、けっこう大きな部分を占めているように思います。
 それによって、ある感情がひきおこされるわけです。
 身に覚えのない罪を着せられる、不安感。
 行動の自由を制限される、不自由感。
 そういうのが耐えられない、という人はいるのだと思います。
 気持ちとしては、わからないでもないです。
 
 まあそうは言っても、温暖化そのものは事実だと思います。
 反論やら、疑問やら、感情的な拒否反応はともかくとして。
 科学者というのは、バカじゃないです。少なくとも、僕らが考えるのと同じくらいのことは、もうきちんと検証してるはずです。
 科学史的には、数々の不祥事や、捏造や、問題はありました。
 けど、概ねのところしては、やっぱり信頼していいのだと思います。
 
 で、温暖化にはいろいろ困った問題が付随しています。
 環境の変化、生態系の混乱、農業への打撃、各種災害の頻発、etc。
 中には全然、想像もつかないような変化もあります。
 例えば、永久凍土の融解。気温があがると、当然氷は溶けます。植物の生育範囲が広がるじゃないか、と浅はかに考えるだけですめばいいんですが、そうもいきません。
 この永久凍土が蓋をしてきた底から、未知のウイルスやら、メタンガスやらが発生してきます。
 メタンガスは、二酸化炭素以上の温室効果ガスとして知られているやつです。
 ちなみにこれは、牛のげっぷに多く含まれてもいます。
 牛肉は環境負荷が高い、というわけです。ハンバーガーなんて食ってる場合じゃない、というわけです。
 
 
 ところで、どう考えても温暖化の原因は人間にあります。
 各種資源、エネルギーの大量消費。森林、海洋、湿地、その他の大規模開発。あまたの生物を絶滅へと追いやってきた歴史。
 大きくなりすぎた社会、小さくなりすぎた世界。
 そうして、人間が何千年もかけて、こつこつ何をしてきたかというと――「テラフォーミング」です(註:本来は「地球化」の意味ですが、ここでは「生物による惑星改造」という解釈をしています)。
 
 生物によるテラフォーミングとして僕が思いつくのは、ストロマトライトです。
 シアノバクテリアが作った岩状の塊で、こいつが地球上に大量の酸素を作りました。僕たちが呼吸できるのは、こいつらのおかげというわけです。
 それと同じことを、人間もしています――逆に、二酸化炭素を排出して。
 ちなみに、ストロマトライトは現在、オーストラリアの沿岸などに現役で細々と存在しています。酸素のおかげで発生した生物に、あらかた食べられてしまったからです。
 
 ともかくも、地球規模の変化は、それほど珍しいわけじゃありません。地球というのは、けっこう波乱万丈の人生を送っています。
 そしてもちろん、地球はそんなことは気にしていません。
 地上がすっかり凍りついてしまおうと、恐竜がそこらじゅうを闊歩しようと、巨大隕石がバカでかい穴を開けたとしても、磁極がすっかり入れ替わってしまおうと。
 その辺は、寄生獣のミギーの言うとおりなわけです。

寄生獣 10巻 145P


 それに、問題はもう一つ。
 環境がどれだけ変化したところで、次の世代にはそれが当然のことになってしまう、ということです。
 これは、簡単に想像がつくことだと思います。僕たちは、生まれたときにそうであることを、当然のこととします。
 川がきれいだろうが、汚かろうが。ビルが林立していようが、深い森に覆われていようが。
 未来の世代にとっては、夏が酷暑であることは、当然のことになりかねないわけです。むしろ、それが普通である、ということに。
 これには、基準推移症候群というたいそうな名前さえついています。
 人間は本質的に、短期的な生物なのかもしれません。
 環境を長期的に変化させるより、変化にそのまま適応するほうが進化的に有利だった、というわけです。
 
 正直なところ、地球を守ろうという言葉は、ほとんど意味なんて持ってはいない気がします。
 それは、一種の欺瞞ですらあるのです。
 前にも書いたと思うのだけど、地球を壊すのも、守るのも、人間中心の思想でしかありません。どちらも同じくらいに、傲慢でしか。それはどちらにせよ、地球が人間のために存在している、という思想でしかないのです。
 実際には、困るのは人間自身でしかありません。動物にしろ、植物にしろ、例え自分たちが絶滅したところで、それを人間のように気にしたりはしないでしょう。
 少しくらいは、悲しむかもしれないにしろ。
 
 もっとも、この欺瞞が善か悪か、というのはわかりません。結局のところ、人間にはそれだけの力があるわけです。幸か、不幸か。
 なら、その力をなるべくコントロールする必要があります。慎重に、できるだけ賢く。
 何にせよ、環境問題を巡る意見対立は 案外同じ穴の狢なのかもしれません。同じくらい、人間中心の思想でしか。
 だからこそ、議論が余計に紛糾しているのかも。
 人は同じ価値観にしたがった異なる意見ほど、許せないものはないのです。宗教の歴史を見れば、それはすぐにわかるとおり。
 
 
 ――で、ここからが個人的な意見です。
 地球温暖化における、本当の問題とは何か?
 それは温暖化防止にかかる、「コスト」にあるのだと思います。
 つまり、「よりよい未来 > 温暖化防止にかかるコスト」であるか否か。
 もちろん、温暖化による変化はあります。温暖化だけでなく、すべての環境変化については、何らかの影響がある。
 しかし、そこにはデメリットとともに、メリットもあります。
 例えば、北極海の航路。温暖化によって本来は氷に閉ざされていたその海域で、人間の活動が可能になります。採掘できる資源が増えるかもしれません。気候変動によって新たな生態系が生まれ、それが人間に有利に働くこともありうる。
 極端な話、温暖化対策を完全に諦めてしまって、それに適応する方法を模索したほうが正解である、という可能性もある、というわけです。
 だから問題は、地球温暖化の事実そのものではなく、それが適応可能な変化なのか否か、という判断にあります。
 
 ただ、変化するにしてもそのスピードが問題です。
 どう考えても、この時代の変化は急激すぎます。地質年代的にみても異常で、普通はそういう変化は大絶滅を招く。
 これに人類が適応できるかどうか、というのはけっこうな賭けになると思います。
 早すぎる変化は、多大な混乱を生みだす。
 最近の技術革新を考えてみても、それはわかると思います。新しい技術に対して、人間の意見……コンセンサスの成立が追いついていない。
 解決すべき問題が山積しているのは、事実です。新しい病気の治療法、産業の効率化、自然に関するより深い知識の必要性、etc。
 しかし、イノベーションは本当に善なのか? という疑問はあります。
 人間が技術に追いついていない。手段と目的の関係を見失って、迷走してしまう。
 まあ、これは別の話ですね。
 
 何にせよ、論点にずれがある気がするのは事実です。
 人々はあたかも温暖化を、倫理面VS経済面のように話している。
 実際は、すべて経済の問題でしかありません。
 ただしここでいう経済は、人間が生活していける、という意味での経済です。
 人類滅亡はSF的なシナリオでしかないとしても(残念ながら――というべきなのか、人間を絶滅させるのは難しいと思う)、それは間違いなく大きな混乱と、犠牲と、不和を生じさせる。
 温暖化を過剰にアピールする人間は、倫理面を重要視しすぎている。
 温暖化を過少に軽視している人間は、経済面の問題を甘くみすぎている。
 要するに、そういうことなのだと思います。
 それに、防止の具体的な対策と効果がはっきりしないことも、議論紛糾の一因になっている気がします。レジ袋の廃止が、環境負荷にどれほど貢献しているのか?
 人間には正しいことができます――それが、正しいことだとわかってさえいれば。
 
 もっとも、これも個人的な意見としては、倫理的(もしくは、心理的)な問題のほうが重要な気はします。
 人間には責任があります。自分たちの愚かさとか、過去の過ちとか、未来への影響とかに対して。
 しかしあくまでそれは、個人的な問題として。
 政治的判断に必要なのは、倫理や宗教ではなくて、広い意味での合理性なのかもしれません。現実的に可能な施策、妥協的な意思統一、最低限の要求を満たす程度の実効性。
 高邁な理想をかかげる政治ほど、大きな混乱を生みやすいものです。
 
 もしも温暖化を完全に防ごうと思ったら、社会システムそのものどころか、根本的な思想そのものを変える必要があるのだと思います。
 百八十度、というほどじゃないにせよ、百度から百二十度のあいだくらいには。
 それは、誰にも手がだせる問題じゃない気はします。ある意味では、人間性そのものをどうにかする必要があるからです。
 あるいは、進化の仕組みそのものをどうにかする必要が。
 たぶん温暖化の解決には、革命が必要なのかもしれません。それも、もしかしたら暴力的な。前世紀にはやったようなやつが。
 もしくは、奇跡が必要なのかも。キリストが起こした以上の――

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