「太陽は地球のまわりを回っているか? ―本質と価値―」 について


 太陽が地球のまわりを回っているのではなく、地球が太陽のまわりを回っているのだ――
 物事の考え方が180°転換する、いわゆる「コペルニクス的転回」。言いだしっぺはゲーテだっけ、と思ったらカントだったらしい。辞書にもちゃんと、そう書いてあった。
 ともかくも、一種のパラダイムシフトを象徴する言葉ではある。
 物事の本質と価値は、こんなにも簡単に、しかも劇的に変化する。

 ――でも、ちょっと不思議なことがある。
 それは、「事実そのものは変化していないのに、認識だけが変わる」――という点。
 太陽と地球の関係は、「転回」の後にも先にも、変わってはいない(もっとも、相対的に考えれば、太陽と地球のどっちが回っていようと、あまり意味はない。地球から見れば、太陽が回っているし、太陽から見れば、地球が回っている。惑星の軌道を説明する上では、そのほうが合理的だった、というだけのことでしかないのだから)。
 けれど、事実そのものは同じにもかかわらず、僕たちはそれをまったく違うものとして受けとることになる。
 地球はもう宇宙の中心ではないし、ついでに言うと、太陽だって宇宙の中心ではない。
 だとしたら――
 はたして、それは本質的≠ネことなんだろうか?


 ――事実そのものは変化していないのに、認識だけが変わる。

 そういう事例は、けっこう存在する。
 例えば、ニュートンによる光の実験。プリズムを通して、光を七色(どうでもいいけど、この七という数字に必然性はないらしい)に分解するこの実験に対して、けっこうな批判があったらしい。光の神秘が奪われてしまった、と。
 それから、パリのエッフェル塔。世界的な観光名所のこの鉄塔も、建設時は非難の的になったりしている。そのうちの一人だったモーパッサンは、大嫌いだと公言していたエッフェル塔に、足しげく通ったそうである。何故なら、「そこだけが唯一、エッフェル塔を見ずにすむ場所だから」

 物事の変化(形而上的にしろ、形而下的にしろ)は、ある種の嫌悪感、不快感、喪失感を引きおこすことがある。もちろん、それ自体は理解できる。
 ちょっと残酷な例えをすると、こういうこともある。
 ある子供にとって、自慢の父親がいる。強くて、優しくて、賢い。でもその父親が、工場で働くただの下っ端労働者だと知ったときの衝撃――とか。
 政治、芸能、スポーツ――そんな例は、いくらでもある。
 何らかの情報によって、それまであった価値や本質までもが変化してしまう。その人や、物が、本当はどんなに優れていても、どんなに善いものであったとしても。
 事実は何も変化していないはずなのに、価値だけが相対的に低下してしまう。そこにあったはずの本質が、損なわれてしまう。

 この価値の低下は、一体何なのか? どうして、それは起こるのか?
 あなたが大切にしていた宝物や、風景や、遊びや、人や、信じていたものが、もうそれほど価値を持たなくなってしまうこと――
 そのことに、どんな意味があるのか?

 もちろん、それはおかしなことじゃない。実際には、よくある話でしかない。
 人間は物事や人物や事象を比較し、情報を更新する。
 それが、生存上有利な能力なのは間違いない。どんな動物でさえ、その能力を持っている。
 数や、重さや、距離や、色や、においや、安全性や、安定性の比較。
 より多くの食料が得られる場所、より快適に過ごせる環境、より便利な道具、より良い未来――それを手に入れるために。
 そうやって新しい知識を得ることによって、当然ながら、物事の価値は変化していく。

 けれど、その中には本人が望まない価値の変化もある。
 比較すべきでないもの、する意味のないもの、害のあるもの、そうすることで何かが損なわれてしまうもの。
 憧れていた夢、好きだった食べ物、長年の習慣、喜びを与えてくれた出来事、愛した人、確かにあったはずの心の震え――
 それが失われてしまうことを、僕たちは望んだわけじゃない。
 望んだわけじゃない、はずだ。

 ここでふと不思議に思うのは、事実そのものは何も変化していない、ということ。そこにあったはずの本質は、本当は何も変わってなどいない。
 見ためも、手触りも、味も、景色も、遊びのルールも、何一つ変わったわけじゃない。
 本に書かれた文字も、写真に映った景色も、音楽が奏でるメロディーも、映画のストーリーも、風の吹きかたも、夜の空気も。
 にもかかわらず、そこにあったはずの感じ方≠ヘ変わってしまっている。


 本質にしろ、価値にしろ、それはどちらも主観的なものでしかないのだろう。そのことは、事実である。
 ある意味では、本質というのは危うい。固体よりは、液体に近いのかもしれない。
 たぶん本質≠ニいうのは、それが取りのぞかれたときに、別のものとして認識されるような何か≠フこと、だろう(ただし、その「何か」は主観によって決定される)。
 座ることのできないイス、物を置けないテーブル、音の鳴らない楽器、透明な絵画、意味のない意味――
 それらを、通常的な意味で「イス」や「テーブル」や「楽器」や「絵画」や「意味」として捉えることはできない。それはただの木材か、ガラスの板か、ただの思わせぶりな言葉でしかないだろう。
 そこからは、本質が抜け落ちてしまっている。

 加えて、そもそも本質は複数の要素を持つものでもある。
 猫の本質を考えたとき、そこにはいくつもの要素がある。尖った耳、アーモンド型の瞳、特徴的な鳴き声、音のない歩きかた、柔らかな身のこなし、いくつかの習性(咽を鳴らす、しっぽを立てる、気まぐれ、etc)。
 そのどれかを持っていた場合、僕たちはそれを「猫」として認識しうる。あるいは、「猫」によく似たものとして。
 プラスチックの果物、動物のぬいぐるみ、絵に描いた景色、役者の芝居、子供が振りまわす剣という名前の棒――
 例え本物ではなかったとしても、そこに本質のいくつかの要素さえ備わっていれば、僕たちはそれを一目で「本物」として認識できる。それと同等のものとして。
 たぶんそれは、論理性とは関係のないことなのだろう。僕たちはそれを、疑問に感じたりすることはないのだから。

 僕たちが本質≠ニして捉えているものは、おそらくはあくまでも感情に直結している。
 ダニエル・カーネマンのいう「ファスト」、あるいはウォルター・ミシェルのいう「ホット」のほうである(人間にそなわっていると思われる、二種類の情報処理システムのこと。直感⇔論理のうち、直感のほうの意味)。
 リンゴを見たとき、僕たちはただちにそれを「リンゴ」だと思う。どうしてそれが「リンゴ」だとわかるのか、とは思わない。
 プラトンはそれを、イデアによるものだと説明した。リンゴはリンゴのイデアを持っているから、「リンゴ」だと認識される。
 何にせよ、本質というのは認知システムの一種にしかすぎないのだろう。

 もう少し敷衍すると、本質というのは「決定された価値」と言っていいんじゃないかと思う。
 それが備わっていれば、僕たちは即座に、思考を介さず、それが「何」なのかを決定する。多少、形が変わっていても、色が違っていても、あくまでも、イスは「イス」としての価値を持つ。
 その「価値の決定」が長い時間と経験によってなされたものを、たぶん文化というのだろう。それは時間的・空間的に均された≠烽フでもある。いくつもの試行錯誤、何度かの衝突、問題と解決の繰り返し、その結果として。
 本質は、だからあくまで「強度」の問題でしかない。それが妥当であるという、一種の妥協の産物。それは、絶対不変ということはない。
 けれど、もしもそれが揺らがされたとき、人はそこに理不尽さや、不安感や、不快感を覚える。長く不都合のなかったシステムに、不具合が生じたかのように。
 まるで自分自身の存在が脅かされ、不安定にされているかのように。
 ――だから、それは感情的な反応を引きおこす。
 マイノリティの問題や、女性蔑視、いくつかの主義、何らかの好み、科学的なパラダイムでさえ。


 それでも、重要なのは本質≠ェあくまで主観的な産物でしかない、ということだろう。
 つまるところ、どのような価値を本質とするかは、自由裁量に任されている。何らかの出来事によって、相対的な価値を低下させるかどうかは、僕たち自身の問題でしかない。
 客観的に見るかぎり、事実そのものは不変なのである。本質は、事実とは無関係のところで成立しうる。
 光は光でしかなくて、パリの街はパリの街でしかない。その神秘も、景色も、損なわれてしまったわけじゃない。
 太陽と地球の関係は、少しも変わってなどいない。
 少なくとも、自分を中心にして考えているかぎりは――

 たぶん、価値の揺らぎとは、本質をよりよく知るための機会でもあるのだと思う。
 それを新しく創造するにせよ、部分的に修正するにせよ、完全に放棄するにせよ、一時的に回避するにせよ。
 価値とは結局のところ、「ある瞬間における心の強さ」でしかない。
 空腹時の食事、旅先の出来事、偶然の邂逅、ある特殊な条件の一致、夕暮れ時の一言。
 それは、ある瞬間に起こった特別な時間や経験であって、必ずしも十分な強度は持っていない。簡単に失われ、忘れられ、二度と取りもどすことはできない。
 でも、それに価値がないわけじゃない。
 それを本質として捉えるかどうか、本質まで高められるかどうかは、僕たちの自由なのである。
 価値にどれだけの強度を与えられるか、自分の心をいつまでも再生産していくことができるか――それを決めるのは、僕たち自身の手に委ねられている。
 たぶんそれが、本質の持つ問題のすべてなんだと思う。

 □

 僕はしょっちゅう、価値の揺らぎにさらされている。
 ある時に感じたもの、確かにあった心の震え。風の感じ、空の青さ、夕暮れの寂しさ。読んだ本、見た映画、ちょっとした体験。自分が書いたものの大切さ。
 それを、うまく感じとれなくなる(あるいは、感じとれなくなることを気にしすぎる)。
 ある時、それは世界に意味を与えるすべてのものであり、ある時、それは何の意味も持たないゴミ以下のものになる。
 ――そういう時は、本当にしんどい。
 僕はその価値を何度も認識し、何度も否定する。同じものを作っては壊し、壊しては作るみたいに。
 永遠に穴を掘り続け、同時にそれを埋め続けるみたいに。

 でも、結局のところ本質そのものは自由なのだろう。
 何を大切なものとし、心の中に保管し、決定された価値とするかは。
 ある瞬間でしかなかったとしても、その時に感じた心の強さは確かに存在している。それがどれだけ失われやすく、忘れられやすく、二度と感じることのできないものだったとしても。
 その本質自体は、あくまでも残り続ける。すべてのものが終わってしまう、その時にでさえ。
 それは、世界に意味を与えてくれる。世界に、強度を与えてくれる。
 この世界が、生きるに値するところだということを――

 きっと、僕はこれからも、何度も苦しむのだろう。すべてが無意味になって、生きていることが苦痛で、「何のために……?」と自分や世界に問いかける。
 でもたぶん、その苦しみを否定する必要はない。
 それを避けることはできないし、ある意味でそれは自然なことで、必要なことでもある。情報は更新され、物事の価値は変化し、そこにあった本質もその影響を受ける。
 でもそれによって、むやみに自分の存在を否定したり、不安定になったりする必要はない。
 本質は、それでも確かに存在しているのだから。それがどれだけ苛まれ、損なわれ、蝕まれたとしても。そこにあったもの、あるものが、信じられなくて、感じとれなくて、すべてが無意味に思えたとしても。
 そしてもしかしたら、そこにある苦しみ≠アそが、僕の本質≠ネのかもしれないのだから。

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