「自然は美しいから守るべきか」 について


 自然を守ろう、と言ったとき反対する人はあまりいないと思います。少なくとも、自然こそ人類の敵だ、撃滅すべきだ、という人はいないと思います。……いや、いるのか?
 まあ、そういうのは「自然」の定義によるのだから、何とも言えないところもあります。例えば疫病や飢饉を「自然」ととらえるかどうか、とか。
 ここでは一般的なイメージというか、ごく普通な概念としての「自然」として話を進めます。森の空気はおいしいな、とかそんなレベルです。
 で、何故、自然を守ろうという主張に反対する人はいないのか?

 高度成長期はいざしらず、今の時代にあって自然破壊に無関心である人間は少ないでしょう。
 それは度重なる公害やら、乱開発やらといった、ガンダムでいうところの「人々はみずからの行為に恐怖した」結果なわけです。
 とはいえ、直接的に人間の生存や、資源確保に関係のないような、つまり精神的涵養というやつを目的にした自然保護も存在します。
 つまり、「この美しい自然を守っていくべきだ」というやつです。

 ――ところで、自然は美しいから守るべきでしょうか?

 そのことをふと思ったのは、レイチェル・カーソンの伝記を読んでいるときのことでした。ポール・ブルックスによる伝記『レイチェル・カーソン(上・下)』(新潮社.2007)。
 『沈黙の春』は一応読んではいたけれど、特にレイチェル・カーソンについて興味があるというわけではありませんでした。というか、今でも特別には興味ないのです。
 それはともかく、この本ではカーソンのことを科学的な知識と詩人の心を持った、というふうな感じに表現というか、位置づけ――まあ実際そういう人だったのだとは思います――していて、彼女自身の本からかなりの分量を引用しています。それは科学書としてではなく、作家の書く本として、です。

 この引用された文章を読んでいると、読みかたが悪いのもあるし、こちらの態度が悪いのもあるのだろうけど、どうも「読みにくい」感じがしました。
 その辺は翻訳の問題かもしれないので、何ともいえないところではあるんですが。
 あと、サイエンス・ライターの書くものとは種類が違うというところも、読みにくく感じた一因ではあるかと思います。つまり、一般人の興味本位を主目的にして書かれてはいないのではないか、と。
 レイチェル・カーソン自体については、癌に侵されながら『沈黙の春』を書き上げたこととか、農薬会社のいわれない攻撃だとか、その人生の最後の短い勝利だとか、けっこう劇的で感動的なんですが、ここではそういうことについてはいったん脇に置いておくことにします。

 ともかく、その本の「読みにくさ」がどうも自分でもよくわからなくて、いったいどうしてなんだろう、と考えていました。
 で、思ったのは、それがあまりに主観的で、あまりに美しさを前提にしすぎているから、のような気がしたのです。
 つまり僕は、「自然てそんなに美しいのか?」という、一種のいちゃもんに近い感情を持ったらしいのです。

 そのいちゃもん自体は、ようするに個人的な自然体験の貧しさとか鑑識眼のなさに由来するのだろうけれど、それとは別に「美しい」という主張、というか前提自体の難しさがあるのだとも思います。
 引用箇所から感じられる印象には、その場所が「私」にとって大切な場所である、という心情の吐露がありました。丹念な描写や、個人的な解説には、それが感じられます。
 けれどそのことは、つまり他人にこの場所に入ってほしくない、汚して欲しくない、という無言の主張であるようにも思えます。
 どうもそこに、反感のようなものを覚えるらしいのです。

 美しい、というのはある意味で、本質的には他人を拒絶することで成立する主張なのだと思います。誰がなんと言おうと、これは美しいのだ、と。この美しさを理解しない人間は愚か者なのだ、と。
 そして自分の一番大切な場所に、他人を土足で入れるようなことを望む人間はいません。それを共有するには、それなりの作法とか、礼儀、経験知が必要とされます。それが欠けた場合には、その相手への攻撃、もしくは本人への自傷じみた心の傷を引き起こすことになります。
 レイチェル・カーソンへの反感は、要するに僕にはそれらを共有する何かが欠けていたために、その美しさの主張を一種の攻撃として受けとったのではないか、と。

 しかし問題は、「自然」は誰のまわりにもある、ということです。
 「私」にとって「美しい」からといって、それが「私」だけのものになるわけではありません。

 自然が美しいかどうかはともかく、環境問題としてその保護が自明であることは多くあります。
 カーソンが告発したような農薬の問題、ガラパゴスのゴミ、保水地としての山林、人にとって有益な動植物・昆虫の保護、海洋汚染、etc。
 毛沢東がスズメの駆除を指示して、結果として害虫が繁殖して大飢饉になった、というような話があるらしいんですが、そういうのを聞くと、環境問題はおおむね人災としての側面があるなぁ、と思ったりもします。
 一方で資源の開発、観光地としての整備、ダムや農地の問題、というふうに必要悪というか、人間が生きていくうえで避けては通れないような問題もあります。
 その辺のことは国際会議やら国内会議やらで話しあわれているので、とりあえず置いときます。基本的には最適収量とか環境収容力とかいわれる、要するにこの辺までならやっても大丈夫、という基準を決めていくことになるようです。持続可能性、というやつ。

 ここで一つ押えておきたいのは、細かな点はともかく、環境保護というのは自然のためではなく、あくまで人間のためのものだ、ということです。というか、そこを離れることは、かえって傲慢さにつながります。
 地球を救う、なんてことはできません。そうしたいなら、とっとと人類自体が自殺でもしたほうが賢明です。
 村上春樹ふうに言うなら「もちろん、地球はぼくたちを笑わせるために身を粉にして太陽の周りをまわっているわけではない」ということになります(どこで読んだかは忘れてしまったけど、そんな文章があったはず)。
 この点ははっきりさせておきたいと思います。「地球のために」と聞くたびにうんざりさせられるのだから。いい加減、くだらないCMやらテレビ番組をつくるのはやめてほしい。
 それに、ウナギの例がある。
 知っていますか? ウナギの一部は絶滅危惧種に指定されています。というか、詳しく知らないけれど、もうほぼ絶滅しているらしい。
 そもそもウナギの旬は冬だし、正直うまくもない。何でこんなものをありがたがって食わなきゃならんのだ、と夏のある時期になると毎度ばかばかしく思います。
 ……結局のところは、個人の嗜好の問題でもあるのだけど。

 ウナギはともかくとして、環境保護というのは資源という観点でみると、わりと技術的な問題というか、「答えの出る」問題であるように思えます。それはあくまで数値的に表すことができます。
 ただ、やはり現実的にはわかりにくいところもあります。
 例えば、イエローストーン国立公園では山火事も自然サイクルの一環として、人為的な介入はしないというのが方針らしいんですが、場合によってはそんなこともいっていられず、消火活動に乗り出すこともあります。
 あと、少し話は違うんですが、昔テレビのドキュメンタリー番組で、サメに片足だか片腕を食べられた(外国の)人が、生態系という点で子供たちに授業を行う、というのがありました。
 で、子供の一人がこんな質問をしました。「サメに食べられちゃう魚はかわいそうじゃないですか?」
 その人は微妙に困った感じで、「でもサメが魚を食べるから生態系が、云々」という話をしました。僕としては、これは子供のほうが正しいな、とぼんやり思いました。生態系がどうのなんて、当事者にしてみれば何のたしにもならない話ではあるわけです。

 自然と人間の関係性というのは、もうそれほど単純ではいられない状態になっています。
 どういう状態が「自然」なのか。人はどこまで自然に介入すべきなのか(例えばトキの復活は自然なのかどうか、とか)。人間が環境に対して無関係になることができない以上、それはけっこうな問題として残ります。
 自然はペットや箱庭のような愛玩物ではないし、かといって、ただ放置しておけばいいというものでもありません。
 人間はどこまで手を触れて、手を離すべきなのか。

 とりあえず、自然は美しいから守るべきか、という話に戻ります。
 結局のところ、環境保護は人間のためのものである以上、それは必然的な問題になります。
 ですが、「美しさ」は環境保護の必然になりうるのでしょうか?

 そもそも、美しさに定型はあるのか、というけっこうな問題があります。古代から連綿と続く、真・善・美というやつ。
 有名なコンラート・ローレンツの研究にあるような、赤ん坊の「かわいらしさ」の定型みたいなものが「美しさ」にもあるんでしょうか。精神的というよりは、生物的・遺伝的なものとして。
 それはある程度は可能だろうけれど、結局は個人的な問題にしかならない気もします。コーヒーやピーマンが好きな子供があんまりいないように、嗜好も美的観念も、年齢や経験によって大きく変化します。
 美しさを共有することは、どう考えても難しいことです。例え「センス・オブ・ワンダー」のようなものがあったとしても。

 美しいから自然を守る、というのは、少なくとも生物的には必然ではないように思えます。
 生態系の微妙なバランスなんて、しょっちゅう崩れています。
 アメリカ大陸の大型動物は、古代に大半を人間に狩りつくされたと推定されているし(まあ人間はその頃から「自然」ではなかった、という話かもしれないけれど)、生物的には「結果としての生態系」しか存在しなくて、それらは「目的」として維持されていたわけではありません。
 というか、それを「自然」というのだから、生態系の維持というのは見方によっては不自然ともいえるわけです。
 仮に人間がまったく存在しなかったとして、生態系を自然状態に任せたところで、地球環境は確実に(どんな方向にであれ)変化するのだから、自然を守る、というのは自然とはいいがたいところがあります。
 地球はかつて全体が凍結していたり、巨大隕石が落下してきたり、比較的近くの年代でも中近東がかつては緑地帯だったりとか、かなりの変化をしています。
 まあ、だからこそ現在の地球を、という話になったりもするわけだけれど。

 自然を守る、というのはあくまで恣意的なものです。
 それは地球のためなんかではなくて、人間のためのものです。
 だからこそ、自然保護というとき、それは盲目的であることも、無知であることも望ましくありません。

 で、自然は美しいから守るべきか?

 長々話してきてなんなんですが、結局のところそれは「Yes」と言うしかない気がします。
 正直、そのための動機は、環境保護とは別のところで成立するものであるようにも思えます。海岸線の美しさとか、緑のリラックス効果とか、数値化しようと思えばできないこともないのだろうけど、それとは別のところで、もっとシンプルな、心のありようとして成立するところのものなんじゃないか、と。
 とはいえ僕としては、そのほうがわかりやすくも思えます。
 つまりそれは、「守るべきだから守る」という同義語反復にも似たものとしての動機です。
 それは無意味かもしれないし、誰かを納得させることも、論争を終結させることもできはしないけれど、でもやはりそれでいいんじゃないかと思うのです。

 星野道夫が著作の中で、旅をするようになった理由の一つをこんなふうに説明してました。

『多くの本を読みながら、いつしかひとつのことがどうしようもなく気にかかり始めていた。それはヒグマのことだった。大都会の東京で電車に揺られている時、雑踏の中で人込みにもまれている時、ふっと北海道のヒグマが頭をかすめるのである。ぼくが東京で暮らしている同じ瞬間に、同じ日本でヒグマが日々を生き、呼吸をしている……確実にこの今、どこかの山で、一頭のヒグマが倒木を乗り越えながら力強く進んでいる……そのことがどうにも不思議でならなかった。』(『旅をする木』文藝春秋.1999)

 あるいは同じ本の中で、友人の女性の言葉としてこんなふうにも言っています。僕たちがこうしているあいだにも、アラスカの海ではクジラが宙を舞ってるんだ、と。


 冬のある日、世界が一面の白色に覆われるとき、僕たちは不思議な解放感を覚えます。そこには誰にも踏まれたことのない雪があります。世界をほんのわずかな厚さでリセットしてしまうものが――
 たぶん僕たちは、自然を必要としています。
 生物的にとともに、人間的にも。
 自然の、その美しさを。今この瞬間にも、アラスカの海にいるクジラを。

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