「幸せになるとはどういうことか?」 について


(注:この文章はなんというか、個人的なものです。散漫で、分かりにくくて、なんの役にも立ちません。おまけに長いです。それに、かなりイタイ文章です。ついでにいうと、ここには救いらしいものすらありません。これは僕≠ノついて書かれたものです。もし読むとしたら、読み方には気をつけてください……。)

1、

 唐突ですが、僕は今まで働いたことがありませんでした。

 ……要するにニートというやつです(でも僕はこの言葉はあんまり好きではありません。なんというか、不必要≠ニ言われているような気になるからです。Needと似てるからでしょうか)。
 大学時代も特にアルバイトをしたことはないし(仕送りで十分だったということもあります)、卒業してから何をするわけでもありませんでした(ただ、家でものを書いていただけです)。
 怠け者なのかと言われれば、そうなのかもしれません。少なくとも僕は最低限度の義務もはたしていないし、それをはたそうとする努力すらしていないのです。それを怠け者というなら、確かにそうです。
 実のところ僕は、就職活動すらまともにしなかった人間です。
 それは、大して理由があったわけではありません。怪我をしていたとか、重大な問題があったとか(ある意味あったんでしょうけど)、もっと別の目的があったとか、そういうわけではないのです。
 簡単に、正直に言ってしまうなら、「嫌だった」のです。
 ……言い訳にすらなりません。
 でも僕はその時、というか高校の頃から、「書くこと」だけを目標にしていました。それはまあいろいろ理由があるんですが、ここでは置いときます。
 とにかく、僕はいつも「書くこと」だけを考えていて、その他のことはほとんどろくに考えもしませんでした。どうしても、うまく考えられなかったのです。たぶん、ペンギンが空を飛ぶことをもう考えないように。

 僕はとにかく「書くこと」を最優先にしたいと思っていました。それに邪魔なことは極力避けるようにしておきたい、と(実際には、これはそううまくいくことではないし、少し違うような気もします)。他の事に関しては、ほとんど重要視しませんでした――というか、できなかったのです。
 就職するということは、基本的にそのついた仕事のことだけを考えること、と僕は思っています。これはもちろん言い過ぎなんですが、少なくとも僕の場合は、そうなのです。仕事というのは、自分のすべてを捧げるものなんだ、と。仕事というのは、その人間のすべてでもあるようなものなんだ、と。
 これが歪んでいるのか、ある意味では立派な心がけなのかは、よく分かりません。まあちょっと歪んでいるんだと思います。そうでなければ、僕はもっとまともに生きていたはずです。
 いずれにせよ、僕は「仕事=自己自身」という考えに立った上で、「仕事」と「書くこと」を両立させうるような精神状態にはなれませんでした。僕は「書くこと」を優先したいのです。
 それはあるいは、下らないただの言い訳なのかもしれません。実際問題として、働きながらものを書いている人はたくさんいるし(たぶん)、小説家の多くは一度くらい働いているからです。もしくは働きながら書いています。

 でも僕は、それをうまくできませんでした。自分で選んだ仕事(=自己自身)と「書くこと」(=自己自身)を止揚するような思考が、僕にはできなかったのです。
 とにかく就職してみること、働きながらでも書いてみること、というのは、僕にとっては恐怖に近い想像でした。それは高校時代にもう、うんざりしていた事態だったからです。
 僕は高校時代を、「早く終わって欲しい」という以外の思考をほとんど持たなかった人間です(念のために言っておくと、別にいじめられていたとかそういうのではありません。ただ、そうだった、というだけです)。
 その時の経験からいって、僕はたとえそれがどんなに「嫌なこと」でも、我慢することを選ぶ人間だ、ということを学んでいました。変える勇気も、やめる勇気も持たないのだ、と。
 だから僕は、一度働き出せば、それがどんなに不本意であっても、やめることをしないだろう(人に言われない限りは)、ということが分かっていました。これはどう考えても、そら恐ろしい想像でした。僕は「嫌なこと」をどうすることもできずに(というか、せずに)、じっと耐え続けているのです。
 その先に何があるのかは、分かりません。絶対にろくでもない何かであることだけは、間違いないと思います。
 僕はそんな、かなり抽象的な理由で就職活動をしないまま大学を卒業し、ひきこもってとにかく「書くこと」ばかりをしていました。
 とはいえ、僕はそれを是としたわけでも、自分の決断として受け入れたわけでもありません。第一、僕は決断をしたのではなく、しなかったのですから。……できるわけがありません。
 そんなわけで、僕は自分のことにかなりうんざりしながら……本当はかなり絶望しながら、家でじっとしていました。絶望することにさえ絶望しながら。僕はできるだけ先のことを考えないようにすることを覚えました。僕は時々、廊下に座りこんだり、押入れの中に閉じこもってぼんやりしたりしていました。

 要するに、ずっと苦しんでいました。

 正確に数えると、大学を卒業してからちょうど三年ほど。
 僕はどういうわけか働くことになりました。といっても、最初から半年の期限つきです。
(一応、詳しく書いておくと、市の臨時職員です。市のたよりにそういう募集があって、母親が見つけて僕に勧めたのです。で、筆記試験(高卒程度ということで、簡単でした)と面接(予想外にちゃんとした面接で、かなり焦りました。というか、あれでよく受かったな、と今でも思います)があって、それに受かると臨時職員として登録≠ウれます。配属されるかどうか、配属先がどこになるかは年度初めの臨時職員の枠組みしだいです。で、僕は前日に電話がかかってきて、それが決まりました。本当に、前日です)
 その頃、僕の精神状態はけっこう安定していて、ちょうどよいタイミングでもありました。睡眠時間はまともで、いい加減外に出たいとも思っていたのです。
 僕は背広を着て、ネクタイを締めて(どっちも成人式のやつですが)出かけました。
 もちろん、すごく緊張していました。
 仕事に関しては、そんなに難しいものではありませんでした。というか、臨時の事務にそんな難しいことをさせるわけがないのです。
 とはいえ、はじめて働く身としてはいろいろ失敗せざるをえませんでした。社会人としては、たぶんごく基本的なことで。
 それに僕は、人づきあいというのが致命的に苦手でした。簡単な会話すら、どうにも緊張してしまうのです。昼の食事は屋上に行って一人で食べていましたし、職場の人とあんまり無駄話とか世間話をしたわけでもありません。
 一応いっておくと僕は、仕事自体はとてもまじめにこなしていました。どうでもいいような雑事ばかりですが、けっこう大変なこともありました。夏の暑いさなかに荷物の整理をするだとか、延々データ入力を続けるだとか。
 それでも、そこはけっこういい職場でもありました。仕事的にはそれほど難しくないし、大体定時に帰れるし、下らないいざこざや、変に威張り散らす人だとか、どうしようもないろくでないしも(たぶん僕をのぞいて)いませんでした。
 こういう仕事なら、続けられるのかもしれない、と少し思っていました。
 でも半年がたって契約期間が終わったとき、僕はほっとしました。

 別に嫌なことがあったわけでも、仕事がきつかったわけでもありません。僕は職場でそれなりに僕の仕事をこなしていたし、それは全体としてそれなりに役に立っていることでもありました。
 でも結局、僕は僕の居場所ではないその場所にいつづけることが、耐えられませんでした。
 僕は、一人になりたかったのです。
 今までずっと、そうだったように。

 さて、この辺で僕は僕のことについて、いろいろ考える必要があります。
 僕はできるだけ正直に、自分のことについて語らなければなりません。でもそれは、とても難しいことです。正直になろうとすればするほど、それはかえって難しくなってしまう場合があるからです(それに正直といいつつ、けっこう技巧的な書き方もしています)。
 それでも僕は、僕について語る必要があります。
 言い訳をする意味でも、確認をする意味でも、僕にはそれが必要です。僕にはどうしても、僕がどういう人間であるかを、知る必要があるのです。とりあえずの定点として、僕は自分の立っている場所を見定めておく必要があります。
 たぶん、これからも生きていくために。
 そしてそれは、「語り」という形をとらなくてはなりません。
 僕はいい加減に、自分だけで自分を判断すること≠、やめる必要があります。やめるとまではいかなくても、ある場合にはそれを放棄する必要が。
 僕は誰かと、理解しあう必要があるのです。
 何かを共有すること――あるいは、共有できる可能性を持つことが、僕には必要なのです。
 それは直接言葉を交わしあうことや、手をつなぐといったことではなく――
 「どこか遠くにある青空をふと見上げた時に感じたもの」を、「誰かも同じように感じている」のだという、「慎ましやかな予感を持つこと」――そんなものです。
 それはとても遠回りで、まわりくどくて、不完全な理解のしかたです。
 でもそれが、僕にできる精一杯の世界の共有なのです。

2、

 さて、僕というのはどういう人間なんでしょう?
 僕は僕がどういう人間なのか、知る必要があります。

 けれどその前に、どういう人間≠ニはどういう意味なんでしょう。
 自分はこういう人間です、というとき、そこに含まれるべき情報とは、何なのでしょう?
 それは自分が人とどれくらい違っているか=Aということだと思います。
 ですが、違っている≠ニいう認識(もしくは判断)は、どうやって生まれるのでしょう?
 たぶんそれは、人というものに対する平均像≠ノよるのだと思います。人というのはこういうものだという、自分なりのイメージ像です。人として平均的な背格好や、性格、思想、生活パターン、信念……そういった諸々のことです。
 それはある程度までは誰でも同じようなものですが、巨大な洞窟がしだいに細く、小さく枝分かれしていくように、まったく同じということはありません。どんな人間でも、ある地点に立った時には、周りにほとんど人はいないのです。
 それは深く、小さく、暗い場所であるほど。
 平均像とは言いつつ、それは人によって違います。
 同じということはありません。
 人が経験できる物事の範囲、人が出会う人々の数・種類は、おのずから制限されますし、どれが正しい、ということはありません。
 ただし、確固とした平均像を作るための必要最小限といった数は、存在すると思います。必要なサンプルが少なすぎると、正しいものは出来ません。
 それに、平均像の平均像≠ニいう問題もあります。社会的な平均像≠ニいうのが存在し、それと自分の平均像≠ニの間に摩擦が生じる時もあります。
 場合によっては、そのためにマイノリティーとして生きざるを得ない、ということもあります(問題はマイノリティーであることではなくて、マイノリティーとして孤立することですが)。

 ところで、自分のことを変わっていない≠ニ思う人間はたぶんいないでしょう(社会的に許される範囲で、という意味でです)。僕は平均的な趣味を持ち、平均的な体格をし、平均的な思想を持ち、平均的な人生を歩んでいる――もしそんなことを思っている人がいたら(ある意味ではこれも個性なんですが)、それは自分が、差異が存在しないのと同義です。
 問題は、変わっている≠アとではなく、どう変わっているか≠ニいうことです。
 変わっていない人間など、一人もいません。

 最初の設問に戻ります。
 僕はどういう人間か?
 僕は人とどう違うのか?
 僕が持っている人の平均像≠ニは、どんなものか?

 けれど僕は、実のところ平均像というものをうまく形成することができていません。もちろん、厳密な意味でうまく形成している$l間など、存在はしません。平均的な人間が存在しないのと同じ意味において。
 けれど、僕は明らかに、単純に数という話で(ついでに質=密度、関係の濃厚性という意味でも)それを形成できていないのです。早い話が、友達が少ないということです。確固とした平均像を作るための必要最小限の数、それを満たしていません。
 たぶん、僕がいつも考えていたのは、僕が何を考え、何を感じているのか≠ニいうことです。そこには、別の人間だったらこれをこう感じるだろうな、というような想像や実感はほとんどありません。
 これは恐ろしく傲岸なことのようにも思えますが、恐ろしく孤独なことでもあります。
 僕は自分一人が思ったことは、自分一人しか思わないのだと考えています。そこには、それが人と違っているだろうとも、少しくらいは同じように思うだろう、という想像すら存在しません。共感というものが存在しないのです。まるで世界に、自分が一人ぼっちであるかのように(もしかしたら、そう思いたいだけかもしれませんが……)。
 たぶんそれは、僕が正しい平均像を形成できていないせいです。
 平均像=判断基準を持たないというのは、そういうことです。差異が存在しないというのは、そういうことなのです。それは人のことを想えない、ということです。

 そうはいっても、僕には僕なりの平均像があります。それはいろいろなところが間違っていて、いろいろなところが欠けまくっている、かなり不完全なものですが、ともかくもあります。ない人間はいません。
 その平均像によると、僕は一言でいってかなりのろくでなしです。
 僕の平均像は、たぶん人間としてかなり厳しいというか、容赦ないというか――窮屈なものです。その平均像では、人は困難にもひるまないことや、場の雰囲気を常に明るくすることや、いつでも正しく物事を理解することや、そんなことを要求されます。普通の人は、そういう人間であろうとしている、という平均像です。
 正直にいって、僕の平均像はかなり偏っていると思います。
 でも僕はそれが、どの程度・どんなふうに&マわっているのか、うまく想像できません。それは本当に、そうなのです。時々、自分の平均像が全然見当違いのものなんじゃないか、と思うことがあります。
 例えば、食欲に関していうなら、僕は腹は減っても食欲はあまり感じない、というところがあります。基本的に空腹≠ヘあってもそれは痛み≠ニたいして意味の変わらないものです。
 それは僕があんまり空腹を感じないせいなのか、それとも空腹は同じようなものだけど、ただそれを無視しているだけなのか、僕にはよく分からないのです。普通はどうなのか、変わっているのは僕なのか、それともみんなのほうなのか。
 というか、その辺の微妙なところが分かっていれば、僕はこんなことで悩んだりはしません。
 問題なのは、変わっていることではなくて、それがどの程度のものなのか――。
 でも僕には、それがよく分からないのです。
 僕には平均像≠ェないから。

3、

 ……僕は高校の時、ほぼ一人でした。
 休み時間が苦痛で、授業がはじまるとほっとしました。登校はできるだけぎりぎりにして、無駄な時間ができないようにしました。一人で昼食をとっている間、できるだけ周りを見ないようにしました。長い昼休みをどう過ごすべきか分からずに、大体図書室で時間を潰しました。テスト期間中になると、ほっとしました。学校にいる時間が短くてすむからです。
 僕は一人でしたが、その原因のほとんどは僕にありました。
 少なくとも、僕にはそうとしか思えませんでした。
 それはとても苦痛なことで、僕はとにかくこの時間が早く終わってしまうことを祈り続けていました(何故学校に行かないことを考えなかったのか、今考えると不思議なくらいです)。

 僕は高校時代、僕が一人であることを、当然の罰のように考えていました。
 何故なら、僕は一人でいなくなるような努力をしなかったからです。クラスメートの名前すら、ろくに覚えませんでした(覚える努力ができなかった、というべきかもしれません)。話しかけるというのも、基本的には埒外の行為でした。
 僕が一人でいたのは、当然でした。
 でも僕は、一人でいたくなかったのかといえば、逆でした。
 僕は一人でいたかったのです。でも学校という場所は、一人ではいられないところです。少なくとも、それが苦痛になってしまうような場所です。僕は僕が一人でいることに苦痛を感じて、そのくせ何もしないことを、自分で責め続けていました。
 苦痛→自責→苦痛→自責→苦痛→自責→苦痛……。その延々とした繰り返しです。
 僕がどうしてそうなったのか、僕には分かりません。
 本当に今でも、よく分からないのです。

 小学校・中学の頃、僕はあんまりそういうことを考えませんでした。
 世界は幸福で、自分という存在に疑問を持ったりはしませんでした。すべてのものに意味があって、僕はそこで安心して眠ることができました。
 でも高校にあがる頃、何だかいろんなことがよく分からなくなりました。
 それはよく分からなくなった、としかいいようのない状況です。
 高校に行く、というのがどういうことか分からなかった、というのもあります。大体、僕は県内にどんな高校がどれだけあるかすら、知りませんでした。僕の行動範囲はとても限られたもので、僕はその中で幸せでいられたのです。
 高校はかなり遠くにあって、僕としては別にそんなところに行きたくはありませんでした。どこでもよかったのです。できれば近いほうがいいと思ってました。僕は学歴に興味はなかったし、……学歴に興味がないというのがどういうことなのかすら、知らなかったのです。
 ともかくもその遠い学校に自転車で行くようになって(40分くらいかかりました)、僕はますますよく分からなくなっていきました。知った人間は全然いなくて、おまけに僕は混乱しまくっていました。
 その混乱はうまく紐解くこともできなくて、そもそも、それがどういう混乱なのかすら、分かりませんでした。
 僕はそうやって自分一人で混乱しているうちに(たぶん、その時僕がどれだけ正直にその混乱のことをしゃべっても、誰にも分からなかったでしょう。僕自身にも、分からなかったからです。……もっとも、しゃべるということはそういうことではないのかもしれませんが)、その混乱をどうすることもできなくなっていきました。
 そして僕は一人で、僕は僕を嫌い続けていました。
 今でも、たぶんそれはそうです。

 僕は努力すべきだったのでしょうか?
 僕は一人でいることをやめるべきだったのでしょうか?
 でも、どうやって?
 どんなふうにして?

 僕はその時、一人になるべきだったとも思うのです。
 そうすれば、こんなにも自分を嫌わずにすんだかもしれないから。

4、

 僕が僕のせいでこうなったのか、それとももっと別の理由でこうなったのかは、分かりません。けれどともかく、僕はこんな人間です。それは今も、変わりません。
 簡単に、極端にいってしまうなら、僕はみんなと一緒に生きていくような人間ではないのです(かといって、無人島に一人きりにされてそれで満足かというと、そういうわけでもない気もします。つながりの種類――たぶん、そこが一番問題なんでしょう)。
 それは、なんというか僕にはよく分からないことです。
 それでいいのか、悪いのか。
 けれどみんなと一緒にいるような努力を、僕はできないし、自分のそういう行動をうまく想像できないのです。
 それは僕の平均像≠ェ偏っているせいかもしれないし、案外やってみればできることなのかもしれません。僕のそういうところは、それほど極端なことではないのかもしれません。誰だって、簡単に人と仲良くなれるわけではありません。
 そうはいっても、僕はそれを――みんなと一緒にいることを、そもそも望めない≠オ、渇望することもありません。それが必要になった時、とても困りはするけれど。
 そして誰かがそれを許してくれたとしても、一緒にいようと言ってくれたとしても、僕にはそれをうまく捉えることができないのだと思うのです。それは、僕がその心のあり方を理解できないからです。僕の中に、それを望む心がないからです。
 目の見えない人に、赤や青を説明できないのと同じように。

 だから僕は、一人でいるしかない人間です。少なくともそう思ったほうが、僕にとってすごく安心できる気がします。
 けれどただ一人でいるのは、時々とてもつらいことでもあります。
 それはとてつもなく不安で、恐ろしいことです。僕はどうしようもなく困ってしまった時、誰を頼ればいいのでしょう?
 僕がどうしようもなく悲しんでいる時、誰がそれをなぐさめてくれるのでしょう?

 だから僕は――人は、その人なりのやり方で、誰かと一緒に生きていくしかないのだと思います。
 大切なのは、その人なりのつながりの在り方≠ナす。
 僕は誰かと手をとりあって生きていくような人間でも、誰かを励ましたり誰かに励まされたりして生きていくような人間でもありません。
 最初にも言ったように、「どこか遠くにある青空をふと見上げた時に感じたもの」を、「誰かも同じように感じている」のだという「慎ましやかな予感を持つこと」 ――たぶんそれが、僕なりのつながりの在り方です。
 お互いを見つめあうのではなく、遠くの空にある同じ星を見つめあう、というように――
 それは本当に慎ましやかなやり方です。そこには予感しかなく、確信といったものはありません。不安定で、不完全で、そのつながりはお互いさえ知らないものです。
 でも僕は、そういうつながりしか持てないような気がします。
 そしてそれでも、いいのではないかという気がします。
 問題は、僕自身が何を望んでいるか、ということなのです――

 もちろん、現実的に言えば、そうした種類のつながりだけでは困ることのほうが多くあります。場合によっては、そんなことを言ってる場合でなくなることもあります。
 すべての人が、自分の望むような在り方でいられるわけではないのだから。
 だから僕は、そうしたつながりが現実的にどういう形をとるのか、まだよく分かりません。けれどそれはただの概念ではなくて、確かなつながりなのです。それは現実的に存在しえて、誰かを助けられるものだと思うのです。
 このつながりの在り方で、生きていくことだってできると思うのです。
 少なくとも僕は、今のところそれ以上好ましいつながりの形というのを、想像できずにいます。

5、

 僕は書くこと≠望んでいます。
 ほとんどそれしか望んでいないような気もします。
 けれどだからといって何でも書いていれば幸せかというと、そんなことはありません。
 それどころか、僕は自分が書いたもののほとんどを――好きになれずにいるのです。
 これは、なんというか馬鹿馬鹿しい事実です。
 好きでないなら、やめてしまえばいい。むしろ、そんなことをいうくらいなら、他の事をしろ、とそんな気持ちになります。
 そしてそれは、もしかしたら僕が僕のことを嫌っていることと、関係があるんじゃないかとも思います。
 僕は、ある意味では、自分を好きになるために書いています。僕自身を好きになれなくても、僕が書いたものなら好きになれるかもしれない、と。それはささやかな祈りのようなものに似ています。
 けれど、もし今のままでは自分の書いたものさえ好きになれないとしたら――
 僕は僕が書いているものを好きになるために、まず自分を好きにならなければならないとしたら――
 それはまるで不可能なことのように思えます。
 ……でも僕は、書くのが嫌いなのではないのです。ただ、好きになれないだけなのです。

 どうして僕は、僕の書くものが好きになれないのでしょう?
 分かりません。
 分かっていたら、そんなことで悩んだりはしません。
 前述の、自分嫌い≠フ可能性を省くとして考えてみると、それはやはり自分の好きになる書き方をしていない≠ニいうことに尽きるような気もします。
 要するに、僕はまだ自分に満足のいく書き方ができていない・見つけられていないのです。
 十年近く書き続けてきて?
 ……でも事実として、そうなのです。
 それが僕に才能がないからなのか(ないとは思っていますが)、センスがないからなのか、努力が足りないからなのか、努力の仕方が間違っているからなのか、よくは分かりません。
 でも、きちんとした文体=スタイルさえ身につけられれば、僕は僕の書くものを好きになれるんじゃないか、とそう思ったりもします。文体というのは、例えば各種記号の使い方とか(「……」とか「――」とか、そんなもの)、構成の仕方とか、文章の特徴とか、思考・思想とか、抽象的なことから具体的なことまですべてを含みます。
 これに関しては、最近ようやく少し分かってきたような気もしています。
 もう少ししたら、僕は僕の書いたものを好きになれるかもしれない、そうとも思います。

 ところで、僕は何を書きたいのでしょう?
 どんなものを、どんなふうに書きたいのでしょう。
 これは、文体とも関わることですが、特に確固としたイメージがあるわけではありません。といって、ないわけでもありません。
 ただ、どんなものでも書きたい、とは思っています。硬いものから柔らかいもの、分かりにくいものから分かりやすいもの、馬鹿馬鹿しいものから馬鹿らしくないもの。
 とはいえ、僕がもっとも書きたいと思うものは、たぶん世界の美しさを確認できるような話、です。
 のような話、です。
 自分でも、その辺はうまく言えません。第一、人によって美しさ≠フ定義が全然違うので、これだけでは何も言ってないのと同じです。
 もう少し言うなら、僕の中の美しさというのは、儚いものとか、脆いものとか、繊細なものとか、そういうちょっと弱々しいものになります。叩きつけたり、ばん!
 とショックを与えたり、開いた口がふさがらないようなものとは、違います。
 それはいうなら、静かに耳を傾けるような種類のものです。
 でも時々、それだと誰も聞いてなんてくれないんじゃないか、と思ったりもします。何しろ誰も彼もが忙しくて、おまけにこれだけたくさんのものがあふれているのです。
 僕の書いたものなんていうのは、ただの小さな呟きにしか過ぎないんじゃないか、と。

 僕は、世界は物語でできている、と思っています。
 たぶん、そうなんだろう、と。
 それはつまり、こういうことです。
 サラリーマンにはサラリーマンという物語があり、恋愛には恋愛という物語があり、食事には食事という物語があり、靴には靴という物語があり、勉強には勉強という物語があり、学歴には学歴という物語があり、人生には人生という物語があります。
 僕には僕という物語があり、あなたにはあなたという物語がある。
 ここでいう物語というのは、一定の型のことです。サラリーマンにはサラリーマンだからこその物語があり、人はそれに従って行動したりもします。例えば、転勤とか、昇進とか、定年とか。
 そこには物語があって(情報の蓄積、といってもいいかもしれません)、人はその物語を理解したうえで、そのことに臨みます。冠婚葬祭、どれも物語です。
 物語というのは、状況を理解し、意味づけるためのツールです。
 運動会、という言葉に何かを感じるのは、そこにある物語を読み取っているからです。物語がなければ、それはただの物理現象にすぎません。運動会、という物語がなければ、それはただ走って疲れて無駄に時間を費やすだけの、むなしい行為でしかないのです。
 人は物語があるから、自分の行為を意味づけたり、理解することができます。
 掃除という物語がなければ、人はなにかをきれいにしようとする時、途方にくれるでしょう。音楽という物語がなければ、それはただの雑音でしかないでしょう。
 世界は物語でできていて、世界は世界という物語によってなりたっています。
 物語というのは、そういうものだと思うのです。

 だから僕は書くのか、というと別にそれは関係ありません。
 物語は世界を支配するほどの力を持っている、としても僕はそんな力を欲しいとは思いません。
 でも、物語がなにかを、そういう形で救えることはあると思うのです。
 だからもし、書くことで何かを救えるとしたら、それは素晴らしいことだと思います。

 実のところ、僕は僕という物語を失っています。
 失っていないのかもしれないけれど、見つけられずにいます。
 僕は僕をなんらかの物語でとらえることができずにいます(それは例えば、物書き志望で社会からドロップアウトしたひきこもり、とかそういう物語でもです)。
 物語を失うということは、すべての意味を失うことでもあります。
 それはとても生きにくいことです。
 もしあなたが何らかの物語を持っているのなら、それは大事にしてください。どんなにつまらないものでも、どんなに下らないものでも、それはあなたを助けてくれるはずです。下らないという物語でも、それはいいのです。
 何故なら、物語には必ず終わりがあるからです。

 さて、なんだかだらだら書いてきた感じもしますが、ちょっと話をまとめます。
 何が言いたいかというと、要するに僕は物語を書きたい、ということです。
 それも、世界を美しいと認識できるような物語、です。
 極端にいうと、僕は本を出したいのではなくて、物語を書く力が欲しいのです。せめて自分の書いたものを好きになれる程度の物語を書く力が。
 でもそのために必要なものが、僕にはまだ足りません。いつそれが手に入るのかも分かりません。
 ただし、僕はそれを手に入れるのを諦めるつもりはないのです。例えどれだけかかっても、僕は僕が望むだけのものを作れるようになりたいと、そう思います。
 ……そのことが許されるなら。
 僕にとって職業作家になるというのは、そういうことだと思っています。書くことを許される、書くことだけを考えていいのだと許されるようなことだ、と。
 たぶんその想像は、少し間違っているのだけれど。

6、

 ここで一つ、問題があります。
 それは僕がどうして「書く」のか、ということです。
 僕は、僕がこういう人間だから書く≠フでしょうか、それとも、書いているからこういう人間≠ネのでしょうか?
 僕は一人だから書いているのでしょうか、一人になるために書いているのでしょうか?
 前者にしろ後者にしろ、そこにはある問題があります。
 それは僕が書き続けるためにはこの場所≠ノいなければならない、ということです。

 この場所、というのは、簡単にいうと今まで僕が書いてきたような場所のことです。平和で静かで、恐ろしく孤独な場所のことです。いつも窓を通して外を見ているような、直接その場所に行くことはないような、そんな場所のことです。人と手を触れあうことも、言葉を交わすことさえもないような、そんな場所のことです。
 僕はそんな場所でしか、書くことができないのでしょうか?
 それはある意味では、幸せになれない、ということです。普通の意味で幸せになるための何かを、第一に放棄しなければいけない、ということです。少なくともそれは、生きていくうえではとても不都合なことでもあります。
 今のところ、僕はそんな場所でしか、書くことができずにいます。
 そして僕はいつも、そのことを疑問に思うのです。
 僕は書くべきなのか、書くべきではないのか。
 書く資格があるのかどうか……
 僕は書くことで救われているんでしょうか、それとも、ただ無駄な時間を繰り返しているだけなんでしょうか?
 僕には分からないのです。
 本当に、分からないのです。

 でも一つ、はっきりしていることがあります。
 それは、僕はこれからも「書く」だろう、ということです。
 例えそれで、幸せにはなれないとしても。それがもっと僕を悪くするだけだとしても。
 諦めるには、遅すぎるのです。
 僕はもう、その時間を見過ごすことはできないのです。
 スヌーピーで有名な「ピーナッツ」の作者、チャールズ・M・シュルツは、こんなことを言っています。
『――僕は、幸せになるのが恐いんだ』
 その言葉を、僕は分かる気がします。
 もしも幸せになることと書くことを選べといわれれば――
 僕はやっぱり、書くことを選ぶと思うのです。

 さて――
 僕にとって、幸せになるとはどういうことなんでしょうか?

7、

 ずいぶん長くなりました。
 なんだか何を書いているんだか分からなくなってきましたが、この辺で終わります。
 正直に語るといいつつ、全然そうじゃないような気もします。自分の中の考えを言葉にするというのは、やっぱり難しいものです。なにが難しいかというと、それは理解する≠ニいうことの根幹に関わることだからです。
 理解するというのは、難しいことです。それにはまず、何が分からない≠フかをはっきりさせる必要があります。そしてそのためには、どんな人がどんな状態で読むのか、ということを正しく想像する必要があります。
 それは、簡単にはいかないことです。だからこそ、諦めてはいけないこともあります。相互理解の努力、というやつです。

 それにしてもこれだけしゃべって、かえって混乱したような気さえするくらいです。本当に、これではただの独り言です。
 でも僕は僕なりに正直に語ったつもりです。
 この文章を不愉快に思うか、少しは共感してもらえるか、それは読み手しだい、読み方しだいだと思います。この程度のことで何を、という感じ方もあるだろうし、何を言ってるのかさっぱり分からない、という感じ方もあるはずです。少なくとも、分かりやすい話ではなかったとは思います。
 でもこれは僕の一つの形です。少なくとも、現時点での僕の。僕はここを一つの足がかりにして、先に進まなくてはなりません。それがどれだけ混乱していても。混乱しているということさえ一つの足がかりにして。

 さて、では最後に一つだけ、自分自身に言っておきたいと思います。

 ――分からないのなら、考えろ。

 僕には僕なりの、幸せの形があるはずです。
 例えそれが、幸せになることではないとしても。

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