「留保されたうえでの、一つの答えとして」 について


  つい最近、といっても、もう二週間くらいたつのだけど、長い話を書き終えた。
 ――本当に、長かった。
 長いし、しんどかった。転がり落ちる岩を、何度も山の頂上まで運ぶみたいに。
 もちろん、その「しんどさ」は、実際にはたいしたことなんてないのかもしれない。本当に苦労して、努力している人からすれば、「何だそれくらい」という程度のものなのかもしれない。
 ……というか、まあそうなのだろう。
 でも、個人的な判断と範囲によれば、それはけっこうな「しんどさ」だった。
 もしかしたら、世界の西の果てで天空を支える、アトラスくらいに。
 本当に。
 
 簡単な注釈が必要だと思うけれど、僕は小説を書いている。もしくは、小説のようなもの、を。
 ずいぶん長いことそうしているし、そのことについては何度かここに書いてもいる。要するにそれは、どこにも行き着くことのない袋小路で、独りよがりな文章を書いていることでしかないのだけど。
 それはともかくとして、今回の小説は長かった。
 種になる最初のイメージが出てきたのが、去年(2021年)の12/2くらい。
 これで話を書きはじめよう、と思ったのが、12/20。
 実際に書きはじめた(一通りの話のプロットが出来た)のが、3/24。
 ――そして、書き終わったのが、6/17。
 
 もう少し詳しく書くと、文章を書いていたのは、3/24〜6/17の86日間。大体、三ヶ月ということになる。
 分量は、四百字詰め原稿用紙に約464枚。正確にわからないのは、ノートに手書きしているせい。おそらく、実際にはこれより一割くらいは多くなるはず。
 最初の一文字から、最後の一文字まで、そのあいだは一日も休まずに書き続けた。雨が降ろうが、槍が降ろうが……室内では関係ないけど。
 それは、神経を使う作業ではあったけど、基本的には満ち足りた日々でもあった。
 ただ、使える時間にそれなりに制限がかかっていたことと、使える時間のペースがけっこう乱れていたことには、かなり辟易した。
 もしも、というのはあまり意味はないのだけど、環境が違っていればもっと早く書けただろうし――もう少しは楽だったかもしれない。
 もしかしたら、もっとうまく書けていた可能性も……ないわけじゃない。

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 これは、一つのサンプルである。
 参考になるとは思えないけれど、とりあえずは一人の人間としての。
 ある程度は普通で、ある程度は普通でない、つまりはごく平凡な人間の。
 人がそこから何を読みとったり、考えたり、感じたりするのか、僕にはわからない。僕自身にしたって、自分のことをどう捉えていいのかなんて、わかっていないのだから。
 ただ――
 このことが、何かの参考になったり、ある種の手間を省いたり、何かの役に立つようだったら、僕としては嬉しい。
 そのことにも少しは意味があったのだと、思えるから。
 ここに書かれていることが、一つの定点として――夜にその位置を示す、小さな星のように――機能するとしたら、僕の望みと願いのすべては叶えられている、のだと思う。

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 さて、状況を整理しておこう。
 僕はスーパーの夜間のアルバイトとして働いていて、品出ししたり、レジを打ったり、その他の細々した仕事をこなしている。
 時間は朝の3時から8時まで。5時間。休憩は十五分。長いとは言えないにしろ、短いわけでもない。
 行き帰りは、自転車。片道、30分弱。距離、6キロ強。夜の闇の中を出発して、朝の光の中で帰る。
 睡眠は二回に分かれていて、夜中と、帰ってからの、それぞれ4時間と3時間くらい。
 実家で暮らしているので、幸いなことに家賃代はかかっていない。代わりというわけでもないにしろ、毎日の夕食を作っている(五人分)。買い物とそのぶんの費用は、僕が負担している。
 仕事に関しては、元々は週四日だったのだけど、今は五日になっている。
 おかげで社会保険がついて、年金と健康保険の負担は少し減った。
 それは、たいした進歩ではあるのだろう。月に最初の一歩を記すほどじゃないにせよ、打製石器が磨製石器に進化するくらいには。
 
 現状を羅列すると、こんなところである。
 ……まあまあごちゃごちゃしているし、もっとごちゃごちゃさせることもできる。
 けど、要するに「たいした人生は送っていない」の一言で片づけても、問題はない。
 南極点を目指しているわけでも、どこかの秘密計画に従事しているわけでも、強制収容所で働かされているわけでもない。
 ただのひきこもりが、何とかして日々をやりすごしているだけ――
 それだけの話でしかないのだから。
 
 働くのが週四から週五になったのは、特に必要性があってのことじゃない。
 細かい説明をすると面倒なのだけど、要するに、ほかの人が大変だったから、というのが理由。
 仕事が多くなると、しょっちゅう延長だとか早出だとかをさせられるのだけど、それがあんまり重なってくると、このままだと社会保険をつけなくちゃならない、ということになる。だから、仕事が終わってなくても帰ってくれ、と。
 僕が帰っても、みんなは仕事を続けている。みんながしんどいのに自分だけ帰る、というのが申し訳なかった。だから、社会保険もつくのだし、どうせだからと日数を増やした。
 それは、優しさだとか思いやりというよりは、むしろ疚しさとか後ろめたさのほうが強かった、と思う。
 働ける人間が働かないことに対する、働くべき人間が働かないことに対する。
 自責とか、自罰とか、卑屈とか、ごまかしとか――そんなものでしか。
 
 念のために言っておくと、僕は働くのが好きなわけじゃない。それは、大方の人間がそうであるみたいに。
 ――もしくは、それ以上に。
 そもそもが、知らない人間としゃべらなくちゃいけないくらいなら、砂漠の真ん中につっ立っていたほうがましだ、と思うような人間なのだから。
 もちろん、どんなことにだって喜びを見いだすことはできる。
 仕事が順調に片づいたとか、予想より早く終わったとか、うまいこと工夫して難しい作業をこなした、とか。
 それは、ソルジェニーツィンを読めばわかるみたいに。
 比喩が大げさだとか、不必要に誇張されている、と思う人がいるかもしれないけど、僕にとってそれは事実なのだ。
 僕はただ、「耐えられるから、耐えているだけ」にすぎない。
 そんなわけで、僕が基本的に考えていることは、大体二つのことでしかない。「早く帰りたい」と「今日を無事に生きのびれますように」ということ。
 心が傷つかずにすむように、心をややこしくせずにすむように。
 
 働くのが週五日になったせいで、思った以上に時間的にはきつくなった(それと、しんどいことが起こる確率も多少はあがった)。
 短編を書いているときも、それは実感としてあったし、数字で見てもそうだったのだけど、長編となると、思った以上にきつかった。
 書くときのスイッチが入った状態、みたいのがあって、それはわりと些細なことでオンになったりオフになったりする。接触の悪い、リモコンみたいに。
 だから、できるだけまとまった時間があったほうが有利ではあるのだ。一度オンになれば、その状態を維持することは、比較的簡単になるから。
 細切れになった時間を、狭い隙間から手をのばすみたいにして使っていくのは、あまり理想的とは言えないことではあった。たぶんそれは、ばらばらになった映画のフィルムを、苦労して毎回、いちいち順番通りに並びかえるみたいなことでもあったから。
 空白の時間――それもできるだけ遠くまで、永遠と同じくらいに遠くまで続く時間。そんなものが欲しかった。
 もちろん、それは贅沢で、非現実的で、本当は正しくない要求ではあるのだろうけど。
 
 ――この「きつさ」は、けれど一つの発見ではあった。
 おそらくフルタイムで働きながら、小説を書くことは(少なくとも僕の場合は)無理なのだろう。
 無理ではないかもしれないし、現実的にそうしている人はいるし、そんな苦労や困難を制圧できる程度の小説でなければ、意味なんてない、とも言えるのかもしれない。
 でも少なくとも、やっぱり僕の場合は、それは無理なことなんだと思う。
 それは、才能とか、情熱とか、覚悟とか、そんな問題なのかもしれない。意志の強さ、動機の確かさ、物語に対する本能的な欲求、そんなものなのかも。
 けれど――
 だから、どうしたというんだ?
 僕はそんな人間じゃないし、そんな人間になることもできそうにない。それは、クジラが陸にはあがれないし、ペンギンが空を飛べないのと同じくらい、確かだ。
 だから、もしもあなたが僕と同じような人間――優柔不断で、本質的に無責任で、考えなしで、現実世界ではどこまでも非有効的でしかなくて――
 それでも書きたい(何かをしたい)と思っているような人間なら、このことに関しては一考すべきなのかもしれない。
 諸々の能力の不足を補う唯一の手段は、時間をかけることだけなのだ、と。
 そのためには何より、空白の時間が必要なんだ――と。


 とはいえ、今回は書いていてわりと「楽しかった」というのも、事実ではある。
 正確に言うとそれは、もう少し厄介でややこしい感情だと思うのだけど、たぶんトポロジーなみに物事を簡略化すれば、そういうことになる。
 マグカップがドーナツと同じ意味しか持たないくらいにまで、単純化すれば。
 それはでも、手応えがあったとか、出来具合に満足しているとか、そういう話ではない。
 僕の場合、そんなに都合よく自分を好きになったりはできない。
 自分の文章を読んで嫌悪感を覚えたり、絶望的な気分に襲われたりするような人間が、そう簡単に自分を認められるわけがないのだ。
 
 現実問題としては、今回の小説は何より大変だった。
 主に時間的な問題と、精神的な問題で。
 自分の心を可能なかぎり安定させること、必要な時間の配分を考えること、可能なかぎり空白に近い時間を捻出すること――そんなことで。
 最高にがんばっても普通の日に確保できるのは四時間程度で、それもうまくいった場合だし、その全部が有効に活用されるわけじゃない。僕はそこまで頑丈じゃない。
 だから実際には、二時間くらいが平均値になっている。それで書けるのが、原稿用紙四枚分くらい。
 もちろん、毎回そうだというわけじゃない。どうしても調子が出ないとか、どうでもいい用事が発生したとか、腰だとか肩だとかが痛むとか、変な具合に頭痛がするとか腹痛がするとか。
 それに関しては、計画性とか、信念とか、根性とか、やる気とか、そういう問題だったのも事実ではある。僕は怠惰で、無気力で、不注意だった――たぶん、人並み程度に。
 多少の言い訳をすれば、いつもより二時間早く出てくれとか、一時間遅く残ってくれとか、そんなふうに時間があっちこっち伸び縮みして、まともなペースを維持するのは難しかったのだ。
 不規則に動きまわるハエを、何とか叩き落とそうとするみたいに。
 
 とはいえ書いていくうえで一番きつかったのは、時間的な問題より精神的な問題のほうだった。
 時間的な問題は、それの副次的な要素というか、問題を複雑化する余計な要因、という面が強かった、と思う。
 書いていくうえで一番問題だったのは、「書く気になれない」ということ。
 文章がまったく響きを失って、何の意味も持たなくなって、味のない料理を食べているみたいな、色のない絵を眺めているみたいな、音のしないピアノを聞いているみたいな、そんな無意味な行為になってしまうこと。
 どうしてそうなるのか、正直なところはよくわからない。
 意志の強さ、固さ、確かさ、自分に対する甘さ、ある種の覚悟の欠如、気力の不足――
 そんなものなのかもしれないし、全然そんなことは関係ないのかもしれない。
 ともかく、その調整は本当に神経を使うところだった。
 何しろそれは、足のがたついたイスみたいに不安定だったし、本当にちょっとしたことでピントがあったりずれたりするものだったから。
 自分の気持ちを、できるだけ固定しておくこと。可能なかぎり、「書きたい状態」を維持すること。それも、限られた時間の中で。
 心を乱さないように、余計なことを気にしすぎないように、体調に足をとられないように、つまらない用事を作らないように、安定した空白の時間を確保するように。
 それは本当に、微妙な操作だった。バランスの悪い棒を苦労して、無理やり立たせたままでいるみたいに。
 ――実際には、しょっちゅう倒れていたけれど。
 
 そんなわけで、書いているあいだの僕の基本的な態度は、「すべてを棚上げにする」だった。できるだけ頑丈な、広さのある、都合のいい棚に。
 でないと、とても書いていられなかったから。
 時間がとれないとか、調子が出ないとか、書いている文章の意味のなさだとか、拙さだとか、自分の未来のなさだとか、ひきこもりの問題だとか、いくつかの可能性とか選択肢とか後悔とか反省とか失敗とか。
 そういうすべてのごちゃごちゃを、ごちゃごちゃしたままで棚上げしてしまう。
 子供がたくさんの玩具を、そのまま押入れの奥につっこんでしまうみたいに。
 それが正しいことなのか、まともなことなのかはともかくとして――そうしなければ、とても書いてなんていられなかったから。
 ――そうしなければ、生きてなんていられなかったから。
 
 そして、僕は書き終えた。
 ――長かった、とても。地球のまわりを七周半するほどじゃないにせよ。
 でもそれで、いくつかわかったことがある。
 留保されたうえでの、一つの答えとして。
 それは――
 どうやら僕は、小説を書きたいと思っている、ということ。

 +

 たぶん最善は、作家になることなのだろう。もの書くことに、すべての時間を費やすためには。
 でも、本当はそうじゃないのかもしれない。
 僕はただ、僕の書きたいものが書きたいだけでしかないのだから。どんな責任も、要求も、期待も、負うことなく。
 そんなふうに考えているかぎりは、作家になんてなれないのかもしれない。商品というのは、消費者のことを一番に考えていなければ意味のないものだから。
 作家というのは、読者のことを一番に考えていなければ意味のないものだから。
 
 でも僕は、どういうわけか、そういうふうには思えていない。つまり、本質的な「サービス精神」みたいなものが欠けている。
 たぶんそのことで一番問題なのは、僕が「誰かに読んでもらいたい」と思っていないこと。
 ――それは、主に二つの理由によると思う。
 一つは、ただの無関心。誰ともいっしょにいたくないと思っているような人間が、他人に対してどんな関心を持てるというんだろう?
 もう一つは、「読んでもらう」というのが傲慢な望みである、と思っていること。少なくとも僕は、僕が読みたいものを読む。誰かが読ませたいと思っているものじゃなく。
 この立場だと、サービスというのは、ただの押しつけと同義になってしまわざるをえない。
 都合のいい効能ばかりを強調して宣伝する、よくある通販番組みたいに。
 
 もしも本当に作家になりたいのだとしたら、そんな考えは捨てるか、変えるか、コペルニクス的に解釈を転換すべきなのかもしれない。
 でも、そうなのだとしたら、僕は作家になんてなりたくはないのだ。自分が好きでもないものを、書かなくてはならないのだとしたら。
 たぶんそれは、極論なのだろう。
 実際には、妥協だとか、奉仕だとか、市場調査だとかは、悪いことじゃない。面白い小説を書く、といううえでは。
 僕の感情にしたところで、それほど純粋というわけじゃない。ただ格好つけてるだけ、ポーズをとっているだけ、そんなところだってある。
 誰かに読んでもらいたいと思えないのは、ただ批判を恐れて、現実を知る勇気がないだけ、そんなところも。
 
 だからこれは、留保されたうえでの、一つの答えである。
 書き続けること――自分の好きなことを、自分の書きたいことだけを。
 そのために、できるだけの努力をして、できるだけの工夫をすること。
 そうして最後は、意味もなく死んでいけばいいのだ。元々、意味なんてないのだから。
 ……ほかには、どうすることもできないのだから。

 +

 とりあえず、今回書いたものは清書して、どこかに送ろうと思う。せめてそれくらいは、してもいい気はするから。
 それにはまた、けっこうな時間がかかるわけなのだけど。
 何しろ、手書きのノートをパソコンに打ち直して、ストーリーを見直して、勘違いを修正して、細かい設定を調整して、文章を推敲して、そうして何度も何度も読みなおさなければいけないのだから。
 自分を嫌おうとする自分を、何とか抑えこみながら――
 本当はそうすることに、あまり気は進んでいない。行為自体がしんどいし、そんなことをしているくらいなら、別の話を書いていたい。
 それに加えて、特に意味があるとも思えない。たいした作品というわけじゃない。自信があるわけでもない。個人的には満足しているとはいえ、それだけの話でしかない。
 作品が落とされて、経験的にいえば、何しろ三ヶ月くらいはショックでしんどいままでいるのだから。
 それは、下衆な期待を持っている証拠ではあるのだろう。どういうわけか、作品を応募すると、いつも妄想が勝手に自動再生されてしまうのである。受賞して、本が印刷されて、云々。
 結局のところ、僕は俗物でしかない。不純で、格好ばかりで、弱くて、逃げてばかりで。
 
 ――だから今も、生きているのだろう。

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