「ピンポンとZERO」 について


 松本大洋について、詳しく知っているわけではない。
 作品を全部読んでいるわけでもないし、どういう人なのかも知らない。顔も知らないし、どこでいつ生まれたのかも知らない。どういう生活を送っていて、どんなものが好きなのかも知らない。
 だから、これから言うことが正しいかどうかも知らない。たぶん、ただの僕の独断と、たわごとのようなものだろう。でも意見や感想というのは、本質的にそういうものだとは思う。
 で、どうして松本大洋の描いたもので、『ピンポン』(小学館.1996)と『ZERO』(小学館.1995)が出てくるかというと、単に僕がそれを読んだことがあって、その二つがとても対照的に思えたからである。
 『ZERO』のほうが先に書かれているが、僕の読んだ順番が先に『ピンポン』だったので、とりあえずそちらから説明しよう。
 『ピンポン』は題名の通り、卓球をモチーフにしたマンガで(『ZERO』はボクシングである。何となく松本大洋は、「チーム」とか「団体」を題材にしにくそうな人のような気がする)、二人の高校生、星野裕(ペコ)と月本真(スマイル)が主人公である(今、思ったけど、星と月と松本大洋――太陽 ――なんだろうか……?)。
 簡単に言うと、卓球をめぐる葛藤の中で、ペコがヒーローとして帰還し、スマイルが救われる、という話である。
 ……それ以上言うととても長くなるので、やめる。
 気になる人は、実際に読んでもらったほうが早い。下手をすると訳が分からないまま終わってしまう可能性もあるが、素晴らしくよく出来たマンガではある。
 僕がはじめて『ピンポン』を読んだ時は、ともかく絵にびっくりした。
 線がガタガタしていて、妙に写実的に描かれている。歯や顔のしわがしっかり描かれて、とても違和感があった。おまけにフキダシの先が矢印で描かれていたりする。
 個人的な話をすれば(すでに個人的だが)、僕がこのマンガを読んだ時は、ちょうど高校に入った頃で、ついでに卓球部だった。タイムリーだったのだ。
 そういうこともあって、『ピンポン』はごく素直に面白く読んでいたし、これのせいも少しあって、前陣速攻に憧れたりもした(ただし、僕はごくオーソドックスな中陣ドライブ型だったけれど)。
 実のとこと、スコンク(0点で完封すること)だとかテンハン(十点以内で勝つこと)だとかいう言葉は、いまだに聞いたことがない。はっきり言って弱っちい選手でもあったし、それほど熱烈に卓球をやっていたわけでもないので、その辺は何とも言えないが。
 それに、時々「ボン」とかいった効果音が出てくるが、そんな音はまず出ない。というか出ない。「カコン」とか「コツ」とかいうのが普通だろう。もちろん、そんなことはマンガの出来とは関係ないし、読んでいて迫力があっていいと思っている。
 コマの使い方にも、独特のものがある。
 最近のマンガは(特に少年誌は)、コマの枠をかなり自由に使っている。キャラが枠をはみ出したり、枠の部分を外したり、コマの中にコマをつくったり。
 正直に言えば、僕はマンガの絵的なものよりも、コマの使い方のほうに興味がある。それは作者のマンガのリズム感や、考え方のようなものがより強く出てくる気がするからである。
 コマとは、一つの時間枠を現していて、次のコマにいくまでにいくらか時間が流れていることを示す。
 その意味で、コマの使い方を工夫すると、作品の時間的なもの、ひいては存在感そのものが左右されることになる。コマ枠を自由に扱っていれば、柔軟でポップな感じになるし、コマをあくまできっちり使えば、時間に対して厳正で硬質な感じを出せる。
(と、思う。実際に描いたことがあるわけでないので、そう思う、というだけである。)
 で、松本大洋のマンガを読んでいると、その辺がとても面白いと思う。
 『ZERO』の時もそうだが、『ピンポン』になると、コマの使い方がいっそう独特になる。
 特に試合中がそうだが、まるでステンドグラスのように斜めのコマ枠がいくつも走って、それが時間のスピーディーな流れを表現している。それも試合だけに視点を絞るのではなくて、周りの視点が混じり、複雑に構成されている。
 だからあれはじっくり見るのではなく、さらりと全体を見るほうが面白いと思うし、そのほうが行間――コマとコマの間にある時間――を感じることが出来る。
 第一、見るとなると相当ちゃんと見ないと、コマがどっちからどっちに行ってるのか分からないのだ。何度か見返して、「あれ、これこっち行くのか」と気づくことが多い。
 ところで、最近になって気づいたが、最終巻(5巻)のP156で小泉(スマイルのコーチ)が驚いているコマがある。
 話ももう終わりの部分だし、別に気にしなかったが、これはスマイルがペコの膝の傷を攻めるようなコースを打っていることに驚いているのだ。つまりこのシーンで、親友との勝負に全力を尽くせなかった小泉に対する、ある種の救いがもたらされているのである。
 真田や猫田といったキャラが3巻で突然出てきたりするので、設定に対しては大雑把なのかと思っていたが、案外細かいところまで作っているのだな、と思った。
 ついでにいうと、『ピンポン』は映画化されているし、実際に僕も見たりしている。
 でも正直なところその映画はあまり好きになれなかったし、基本的には原作の切り張りで出来上がっていたので、マンガを読んだ人間としては面白くもなかった。
 僕は映画には全然詳しくないし、先にマンガを読んでしまっているというところもあるので、適切な評価が出来ているとは思えない。が、ともかく動きは何だか変てこだし、試合場もあんまりリアルに出来てると思えない。
 マンガの実写化というのは、あんまりやるべきじゃないのかもしれない。どうせなら、アニメ化して欲しかったと思う。
 大分長くなったが、ここらで『ZERO』の説明に入る。
 『ZERO』はボクシングマンガで、ミドル級のチャンピオンである五島雅というのが主人公である。なにせ26回もタイトルを防衛しているというから超人である。年もくっている。
 彼はその比類なき強さから「ゼロ」と呼ばれている。ただし、その強さは彼を救わない。強すぎる彼はその分孤独で、孤独な分、むしろより強くなろうとした(この辺は『ピンポン』のスマイルやドラゴンと同属性になっている)。
 彼には、自分の強さに見合っただけの相手がいない。ずっと、そうである。「五島はね、かけ違えたボタンなんだよ。僕等とは別の世界で生きている。」(上、P22)。
 そんな彼に、彼に見合っただけの相手が現われる。もはやこれ以上強さを維持できなくなった彼は、死に向かうようにその相手とタイトルマッチを行う。
 下巻がそのタイトルマッチで占め、最終的には五島は狂気の中で勝利することになる。「哀れな人」(下、P216)。それが五島への評価だった。
 僕が対照的、と思うのは、このラストである。
 『ピンポン』では、スマイルは救われたが、『ZERO』では五島は救われない。救うべき相手さえ、いない。それは単にハッピーエンドかサッドエンドか、というような問題でもない。
 マンガの発刊は一年しか違わないので、よく分からないが、二つの作品は作者の変化を感じさせる。昔話の、「行きて帰りし」物語なのだ。
 絵に関しても、ひどく違っている。『ZERO』の絵は、漫画的というか、『ピンポン』に比べて「もったりしている」といった感じで、『ピンポン』はそれに比べて洗練されている。フキダシに矢印もないし、コマの使い方もまだ『ピンポン』ほどになっていない。
 けれど、両作品を通して、松本大洋がどういう描き方をしているか、ということでは同じことを感じる。
 それは「高み」である。
 『ZERO』のほうがそれを直接的に前面に出している。タイトルマッチ中、五島の狂気に捕らわれた相手は、「ここは高過ぎる」(下、P183)という。
 強さ、や何らかの到達すべき心境的なもの、そういうある種の方向性は、大体、「高み」や、「こことは違う場所」、というふうに意識される。もっと高い場所へ、ここよりも深い所へ、というふうに。
 そうすれば、どこかへたどり着けるような気がして。
 松本大洋は、そういう精神性のようなものをマンガの中に持ち込んでいる気がする。登場人物たちはそれぞれがそれぞれの高みを目指して苦闘し、あるいは苦悶している。
 僕は松本大洋のマンガがとても好きである。それは松本大洋自身が、「より高いところ」を目指しているような気がするせいかもしれない。
 ――最後に、『ピンポン』4巻のP185の見出しに「我が海王学園に栄光あれ!!」と書いてある。
 ……ガルマ・ザビである。

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