「ペペロンチーノにケチャップをかけるということ」 について


 さて、僕は料理を作る。
 ペペロンチーノも、そのレパートリーの一つだ。
 とうがらし、にんにく、ベーコンを炒めて、茹でたパスタをからめ、塩コショウで味つけする――いたってシンプルな料理である。
 個人的には、トマト、素揚げしたナス、フライドポテト、青しそなんかを足したりもする。青しそとの相性はいいと思う。
 ……で、そのペペロンチーノを作ったとき、父親は高確率でケチャップをかける(トマトを使っていても)。
 そうして言うことには――「食べる側の勝手だろう」
 
 あなたがケチャップ好きなら(あるいは、酸味の利いたものが)、これはたいしたことじゃないかもしれない。ペペロンチーノにケチャップをかける――別にいいじゃないか、と。
 でも、僕にとってはそうじゃない。
 父親は別に悪意があってそうしているわけじゃないし、料理そのものが気に入らないわけでもない。ただ、そのほうが味の好みだというだけだ。
 ヤギがその辺の草を食っていたって、必ずしも「どうかな」と思う必要はない。パンダが笹しか食べないとしても、コアラがユーカリしか食べないとしても。
 もちろん、それはわかる。
 味の濃い、薄い。調味料の好み。それこそ五味(甘味、酸味、塩味、苦味、うま味)の強弱。それは食べる側の自由だ。
 とはいえ、ペペロンチーノにケチャップをかけるというのは、かなり頭に来る行為ではある。
 それは、何といっても料理のアイデンティティを否定する所業なのだから。
 
 実のところ、僕はペペロンチーノは二度と作らない、と決意している(実際に、そうしてもいる)。
 ペペロンチーノにケチャップをかけるくらいなら、自分で作ればいいのだ。
 正直、個人的には僕は「ナポリタン」というものを憎悪していて、とある喫茶店で「イタリアンパスタ」という名前のナポリタンを出されたとき、ここには二度と来るまい、と思った(実際に、そうしてもいる。そもそも外食をしない人間ではあるけど)。
 まあ、これは余談である。別にナポリタン好きの人間は地獄に落ちろとか、犬畜生にも劣るとか言ってるわけじゃない――本当に。
 それに、うちの父親はカルボナーラを作ったときもケチャップかけたので、これは何らかのオブセッション(妄執)なんだと思っている。たぶん、スパゲティに対して、本人も気づかない何らかのトラウマが存在するのだ。
 ……もっとも、それは僕も同じなのかもしれない。
 
 
 料理に関しては、似たような話がいくつかある。作る側と食べる側、その断絶についての話が。
 例えば、『美味しんぼ』のカツオの刺身にマヨネーズをつける回。『係長島耕作』で、ラーメンにこしょうを振って「誰が作ったのかわからないラーメンより……」と啖呵を切るシーン。あと、これは実際の話だけど、大阪のある店で寿司に大量のわさびを入れていた件。
 もっとも、最後の話は少しニュアンスは違うようではあるけれど。

 一応、一つ一つ細かく見ていくと、こんな感じになる。
美味しんぼ アニメ10話(『美味しんぼ』第10話「料理のルール」)
 『美味しんぼ』は三巻第三話、アニメでの第十話。たぶん、僕が見たのはアニメのほう。
 あるフランス料理を食べているときに、海原雄山がわさび醤油をつけて、「このほうがうまい」と難癖をつける。懐石料理ではそんなことはない、云々。で、それに対して山岡士郎の「カツオの刺身にマヨネーズをかけて食べるとうまい」という反論が行われる。
 実際にその通りで、ぐうの音も出ずに激怒(逆ギレ)する海原雄山の「カツオの刺身というのはそういう食べかたをするものなのだ」に対して山岡士郎は、「あのフランス料理もそうなんだ」という、かなりまっとうな反論を返す。
 これは文化的な文脈で語られてはいるんだけど、個人的には感心した話だった。
 僕も大体、同じ意見といっていいかもしれない。ペペロンチーノには、ケチャップをかけたりはしないのだ、と。
 ちなみに、カツオにマヨネーズをかけるとうまいかというと――人それぞれらしいです。うまいという人もいるし、特に変わらないという人もいる。細かい食べかたに問題があるという人もいる。
 人間がバベルの塔を築いたのは、やっぱり失敗だったらしい。
 
(『係長島耕作』第二巻STEP14)
 『係長島耕作』のほうは、第二巻の話。これは元々コラ画像で見かけたもので、話の文脈は違っている。食う側の自由とかそういう議論ではなくて、横柄な主人に対して、堂々と意見を言う、というのが主意。
 ちなみに、コラ画像のほうはこんな感じ。

 しかし、正直この人の言っていることは、かなり気持ちが悪い。相手が作ったラーメンをほぼ完全に、一方的に否定しているし、それならこしょう食ってろよ、と思ってしまう。
 ただ、そこまででもないとも言える。絵を見るかぎりでは、せいぜい少し多めにかけてるくらい――のような気もするし。
 ただ、少なくとも言いかたとしては最悪だと思う。見ず知らずの人間に、わざわざケンカをふっかっける必要なんてあるだろうか? 実際のところ、これは相手の間違いを糾弾しているわけでも、たしなめているわけでもない。ただ、相手の存在を否定しているだけ。
 何でわざわざ、世界をややこしい場所にしたがるんだろう。
 D・カーネギーの本でも読んでろよ、と思う。
 
 寿司にわさびの話は、細かいところはあんまりわかっていない。大阪のある寿司屋が、韓国人や中国人のお客さんを相手に大量にわさびを仕込んだ寿司を出した、というやつ。
 罰ゲームかコントみたいな話だけど、店側の発言では「サービスの一環」ということになっているらしい。中国や韓国からのお客さんが、あんまりわさびを多く食べるから、とかで。しかも、一二年前からやっていて、それまで文句もなかった――とか。本当かな?
 けど、普通なら確認するか、わさびを別添えにするのがまっとうなところだろう。人の好みなんてわからないのだし。それに、こんなの嫌がらせ以外にどうとらえていいのかもわからない。
 一方で擁護者もいるらしくて、あんまりにもわさびを要求されるから、皮肉のつもりでやっていたんだ、と。
 細かいところは、やっぱりよくわからない。
 ただのヘイト行為だという話もあるし、コンセンサス(合意)の不足みたいな面もあるかもしれない(あまりそうは思えないけど)。一部の心ない職人が勝手にやっていたことだ、みたいな話もある。
 仮にプライドの高い職人が憤慨したあまり、という話なら、わからないでもないところはある。そんなにわさびが好きなら、わさびだけ食ってろよ、みたいに。
 まあそれでも、どうかとは思うけど。
 ちなみに、この店は今でも営業しているみたいである。
 
 
 さて――
 問題は要するに、「料理は誰のものか?」ということになる。ペペロンチーノに、勝手にケチャップをかけてもいいのか、どうか。
 食べる側、作る側、どちらの考え、好みが優先されるべきか。
 はじめに結論を言っておくと――「それは、場合と程度による」。
 料理なんて個人の問題だし、目玉焼きに塩コショウをかけようが、しょうゆをかけようが、ソースをかけようが、そんなのは当人の自由である。
 もっとも、それではすまない場合・程度だってある。
 例えば、料理のアイデンティティを破壊するような行為まで行くと、そうも言っていられない。どこかのコンビニ強盗のおっさんも言っているとおり、「シチューの素がなきゃシチューじゃない」ということになる。鍋の中に肉が入っていても、「カレーにだってなっちまうのさ」と。
 ……わからない人は、カウボーイビバップの映画を見てください。
(『カウボーイビバップ 天国の扉』)
 
 ともかく、料理が別物になるくらいのレベルになると、「食べる側の勝手」とは言っていられない。
 それは、「作られたものの否定」であり、ひいては「作った相手の否定」でもあるのだから。
 子供が書いた絵や、作った工作に、大人が勝手に手を加えてはいけないのだ。それがどんなに拙かろうと、未完成だろうと。
 そんなのは、余計なお世話にもほどがある。第一、そんなのは本当は、「自分はもっとうまくできる」と主張しているだけの話なのだから。相手をバカにしきっただけの、卑劣で低俗で最低な自己満足でしか。
 
 もちろん、すべては場合と程度の問題ではある。ボクサーを体重別に分類するみたいに、障害者スポーツを細かくグレード分けするみたいに。
 しかし、どの程度までなら「許容範囲」なのか。
 当たり前だけど、料理は「食べる/食べられる」の関係性で成り立っている。どっちが偉いとか、どっちが正しいとかはない。
 ――それは要するに、マナーの問題である。
 つまるところそれは、「相手に敬意を払う」という問題でもある。
 
 とはいえマナーの一番の問題は、たぶんその「自明性」にある。
 それは、「当たり前のこと」なのだ。
 仕事場で挨拶したり、道を譲ったり、親切にされたらお礼を言ったり、井戸の中に子供が落っこちそうになってたらそれを助けたり――
 人間なら、そうするのが当然なこと。
 とはいえ、「自明性」というのは、実際にはそれほど「自明」でもない。
 それは、あくまでも個人的な経験・習慣によるところが大きい。誰かにとっての「当たり前」は、ほかの誰かにとっての「当たり前」では、必ずしもない。
 虹の色が、七色だとは決まっていない。
 ある人にとって、それはただのスキンシップであり、ある人にとって、それはセクハラである。ある人にとって、それは暴言であり、ある人にとって、それは正当な主張である。
 傷や痛み、喜びや感動でさえ、簡単には共有されない。
 ある人が心に深い傷を負ったとしても、ある人にとってそれは「それくらいのことで?」という程度のものでしかない。
 
 相手に敬意を払う――
 けどそれは、そんなに単純なことじゃない。
 そこに正誤はない――たぶん、善悪も。メートル、ヤード・ポンド、尺貫法、どれが正解という話じゃない。
 あるのは任意による、ただの慣習だけ。どの基準をとるかは、その人によって違っている。経験、環境、文化、教育、何らかの運命。
 ある人にとっては何の問題もないことでも、ある人にとってはひどく傷つくことだったりする。手を入れた水が冷たいか、温かいかは、その人によって違っている。
 そのあいだにある差は、決定的で絶望的なものでしかない。
 どんな歌でも、詩でも、小説でも、絵画でも、簡単には共有されない。
 それはただの事実で――たぶん、それだけのことでしかない。
 
 
 ――「料理は誰のものか?」
 それは同時に、すべての物事に関しても言える。作り手と受け手。生産者と消費者。
 マイケル・サンデルの本に、マイケル・ジョーダンの話が出てくる。ジョーダンは引退したが、ファンはジョーダンのプレイを求めている。そこで連邦議会は民衆の総意に従って、ジョーダンにシーズンでのプレイを強制する――これは正しいか。
 実際には、自由至上主義(リバタリアニズム)に関する議論で、主に課税の是非を問う文脈での話なんだけど、それはともかく、この決定は正しいのか?
 ジョーダンの収入は、ファンの存在に依存している。ジョーダンの実力は、ジョーダン自身に依存している。
 プレイヤーとファンの、どちらが優先されるべきなのか。
 もちろん、他人がジョーダンにプレイを強制するような権限はないし、常識的にも間違っている。それは自己所有権という概念で説明される――「自分は自分のものである」
 けど結局のところ問題は、「関係性」そのものにあるのだろう。自分が自分のものであるかどうかは、それほど自明とは言えない。料理の食べかたを強制したり、自分の都合で出された料理を勝手に作り変えてしまったりしていいわけじゃない。
 だから、マナーが必要になる。一時的に、妥協的に、利便的に。とりあえずの決定として、一応の同意として、それなりの許容範囲として。
 
 もう一度言うけど、この問題に正解はない。あるとすれば、お互いへの敬意くらいのものだろう。人は、簡単に相手のことを否定したりしてはいけない。
 正直なところ、ラーメンにこしょうを振る話は、わざわざケンカを売る必要があるのかどうかは疑問だと思う。馬鹿げてさえいる。こんなくだらないことで自己満足する必要があるんだろうか、と。
 それなら、自分で作って自分で食べていればいいだけの話なのだ。
 そうはいかないのがこの世界なんだよ――と、あなたは言うだろうか? 現実はもっとごちゃごちゃして、ままならなくて、角つきあっているものだと。
 でも、僕にはやっぱり、そうは思えない。
 ――そうありたい、とも。
 
 とにもかくにも、父親はペペロンチーノにケチャップをかけるし、そうしたほうが美味しいと思っている。
 僕は僕で、そうされるとうんざりするし、作る気をなくしてしまう。掘った穴を埋め戻して、さらにまた掘らされるみたいに。
 ここに、解決方法はあるだろうか?
 ――たぶん、ない。
 矛と盾は同時に壊れるし、兎を二羽とも捕まえることはできない。
 だから僕としては、「ミートソーススパゲティ」を作ることにしている。これなら、仮にケチャップを足されたとしても、まあ許せる範囲には収まる(もっとも、わざわざ足したりはしないけど)。
 かくのごとくして、現実はいつも非情にして散文的である。

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