「オリジナリティとクオリティ」 について


略され方だけでは何の本か分からない話題のあれです 最近「萌え絵」が流行ってます。
 ……。
「そもそも萌え絵とは、」なんて話は無理なので、それがどういうものかは適当に想像してください。要するに可愛い・非現実的な・オタク的な絵、ということですね。
 しかし実際問題として、この手の絵に対するボーダーはずいぶん下がってきてる気がします。絵の種類次第では、普通の人でも(普通の人って何だ?)反感や嫌悪感を持つことはないと思います。場合によってはアート作品的な受容のされかたもするでしょう。
 で、何の話かというと18禁ゲームの絵の話です。

 18禁ゲームの絵というのは、ほぼ全部「萌え絵」です。そういっていいと思います。何故なのかは、僕にはよく分からないです。
 別に「萌え絵」がエロい絵である必要はないはずですが、しかしそもそも「萌え絵」というのはエロさとセットにして捉えられることが多いです。
 だから必ずしも一般受けするものではないわけです。というか、その辺の交通標識やら広告なんかにその手の絵が描かれていると、違和感があるというか、かなり微妙な気分にさせられます。
 少なくとも僕自身は、あんまりそういうのを見たいとは思いません。
 しかしそれはどうでもいい話です。

 とりあえず、どこでもいいんですが、18禁ゲームの通販サイトをのぞいてみてください。
 そして適当に商品をチェックしていきましょう。
 かなりの数があります。
 おいおい、と思うようなタイトルもあります。
 そしてどの絵もすごく――似てます。
 似てる、というのは正確ではありません。もちろんどの絵も違っています。本当に似てる絵は同じ人が描いたものです。
 でもとにかく膨大にあるサンプル画を眺めていると、どの絵も同じもののような気がしてきます。18禁という一つのジャンルにあるのだから、それは当然のことでしょうか?

 判子絵、という言いかたがあるらしいです。
 ハンコで押したみたいによく似た絵、という意味です。髪型だけ変えてあとは同じ顔、という絵のことをそんなふうに揶揄したりします。
適当に拾ってきたサンプル 実際、18禁の絵を見ていると、登場人物の特徴のほとんどは髪型に集中しています。たぶん全員を坊主頭にしてみると、ほとんど区別がつかなくなってしまうでしょう。青やら緑やらピンク色に髪が塗られるのも、無理からぬことです。
 しかしこの判子絵、必ずしも一人の人間が描いた絵だけで見られるものではない気がします。
 18禁ゲームというジャンルそのものが、ハンコでできあがっている、とさえいえるんじゃないでしょうか。同じような造形の、同じようなコンセプトの、同じような方向性。それが集められて膨大な数になっている。
 一つの可塑性を持つ柔らかな金型≠ゥら、よく似てはいるけどぎりぎり違っているものを生みだす。
 しかしそんなよく似た18禁絵を眺めていても、「これはいいな」とか「これはどうかな」と思ったりします。同じハンコ(=記号)のはずなのに、そこには何かしら差異が生まれるわけです。
 では、僕は何をもってその良し悪しを判断しているのか。同じハンコがもつ「違い」とは何か?

 ――それは、「クオリティ」です。
 というか、「どうしてこんなに同じような絵が並んでいて、それでも好き嫌いが生じるんだろう?」と自答した結果、どうも僕自身は絵の「クオリティ」を問題にしているらしい、という結論に達しました。
 この手の絵は一応いくつか種類があります。リアル⇔アニメを横軸、エロさ⇔可愛さを縦軸にとって配置してみると、いくつかの群が形成されるんじゃないかと思います(僕の適当な感想です)。
 その群の種類は人によって好みとして反映されるんですが、とりあえずそれは関係なく、絵の良し悪しには「クオリティ」が判断基準として採用されているのではないか、と思いました。
 これは一般的には、という意味ではなく、あくまで僕個人における判断基準です。
 しかしこの判断基準はある程度の蓋然性を持つのではないかと思います。

 武梨えりのマンガ『かんなぎ』の3巻にこんなシーンがあります。
『かんなぎ』3巻 『かんなぎ』についての細かい説明をしないとよく分からないと思うのですが……長くなりそうなのでやめます。とりあえず、不思議なメタファーのきいた作品です。おすすめです。ついでに現在連載休止中です。
 ま、ともかく、このシーンでは現代風オタクというような位置づけのキャラが資料用と称した(たぶん)エロ本を女子に見られ、自分のことを「絵がうまい作家はジャンル問わずチェックする人なんですよ!」と泣きながら言い訳するところです。
 他にもいろいろあるんですが、こういう態度はわりと「分かる」のではないかと思います。種類や属性は問題にせず、「クオリティ」を判断基準にするわけです。
 ……まあ参考までの話なので、気になった人はマンガをチェックしてください。

 ところで、何故「クオリティ」を判断基準にするのでしょう。
 18禁の絵の話です。
 さっきも言ったように、この手の絵は「ハンコ」でなりたっています。似たようなキャラ(幼馴染、ツンデレ、お姉さん、妹、無口、ちびっこ、などなど)を各自の裁量で形にします。
 出来上がった形はそれぞれ「違い」ますが、本質的な部分では「同じ」です。まあそれも見方次第ですが。同じ種から育ったものでも違う花とみるか、というような。
 ここには、考えてみると不思議な事実があります。
 それは「オリジナリティ」の欠如です。

 絵画、というのは、近代においては「オリジナリティ」を問題にするものです(話がでかすぎてちょっと扱いかねるところですが……)。
パウル・クレーの「忘れっぽい天使」 その作品の価値は、どれだけ他と違っているか、どれだけ独創的か、どれだけ珍しいか、というようなことで評価されます。何かに似ている、というのはそれだけで評価対象から外されてしまいます(ちょっと極端ですが)。
 絵描きでも物書きでも、彼らを殺すのに銃はいりません。「君の作品にはオリジナリティが感じられないね」の一言ですみます。
 そんなオリジナリティ至上主義にもかかわらず、18禁の絵というのは見事に「ハンコ」です。よく言って、そこにあるのは個性であって、オリジナリティと呼べるほどのものではありません。
 あるいはそれは、過去の絵画作品というのが概ね「集団」による「共同作業」だったことを考えると、むしろ復古的、正統的な行為で、なんらおかしなことではないのかもしれません。浮世絵が原画、版木の彫刻、彩色・刷りと、分かれていたことを考えればあるいは。
 ……ただの冗談です。
 いずれにせよ、18禁絵には「オリジナリティ」が欠如しています。
 この手の絵を「クオリティ」によって判断するのは、そんな理由もあるような気がします。
 オリジナリティとクオリティ――
 ではこの二つは、作品価値の判断基準として、「等価」なのでしょうか?

 いつ頃からか、「オリジナルはもう存在しない」というふうに言われるようになりました。
 ……少なくとも今、僕が言いました。
 しかしオリジナルが存在しにくい、というのはよく感じられていることだと思います。
 それが事実かどうかは知りません。
 小説はもうやりつくされているとか、心地よい音楽コードはすでに発表されているとか、ニュートンの時代に生まれれば微積分くらいは発見できただろうとか、実際にはどうしようもないことですが、よく言われます。
 本当のところどうなのかは、もちろん分かりません。案外そうなのかもしれません。でもちょっと考えれば、今そんなふうに考えて何も生み出せない人が、過去に戻ったとして何かを生み出せたりするんだろうか、とも思います。
 今できないことは、かつてもできなかったし、これからもできないだろう――
 しかしまあ、オリジナルが存在しにくくなっている、という雰囲気は誰もが感じているはずです。それが事実かどうかはともかくとして。
 それはテレビから流れてくる大量の情報とか、世界でやりとりされる物量とか、本屋に並ぶかなりの短期間で入れ替わっていく本のタイトルなんかを眺めていると、感じることかと思います。
 オリジナルの量は限られているのでしょうか?

 冷静に考えればそんなことはないはずなのですが、しかし「同じことをしてはいけない」というオリジナルの特性が、あたかも「可能性はどんどん費消されていく」という印象を与えることになります。オリジナルは時がたつほど失われていく。
 このことは、ある息苦しさを感じさせます。
 ただじっとしているだけで何かを失ってしまっているような、そんな気分。あの時見た感動は、本当は僕が作り出すものだったのかもしれない。あの商品の成功は、本当は僕が成し遂げるものだったのかもしれない。
 実際のところは分かりません。
 でも、そんなふうに感じることはあるはずです。それがただの勘違いや妄想だとわかっていても。

 イスとりゲームよろしく数を減らしていくオリジナリティと、そして同じように消えいく自分に残された可能性。
 この状況下で何が起こっているかというと、どうもそれは価値基準の変換じゃないかという気がします。
 つまり、量の減ったオリジナリティではもはや価値判断の基準として不適当とされ、その代わりにクオリティが問題視されるようになった。磨り減って絵柄のよく見えなくなったオリジナリティの変わりに、摩滅することのないクオリティを前面に押し出すことにした。
 ――パラダイムシフトです。
 ことは18禁絵だけの問題ではないわけです。

 おそらく現代的な消費者は、「オリジナリティ」を問題にしません。
 同じような商品があれば、安いほうを買うでしょう。ブランド観念はなくなることはありませんが、それは品質や安全性の問題、要するに「クオリティ」の問題です。
 ここでいう「オリジナリティ」とは、例えばその会社の歴史とか、経営理念とか、性格――「物語」のことです。それは確かに価値を持ってはいますが、それを商品の購入基準にするのはファンとかマニアとか呼ばれる種類の人だけです。
 でもそれは、考えてみれば当たり前のことでもあります。

 オリジナリティ至上主義とは、換言すれば「物語至上主義」です。
 そして物語は消費されにくくなってきています。あまりに量が多すぎるからです。一つ一つ味わうには、まずその選択、そして選択の前に選択基準の確立、選択後でもそのフォローと、それはあまりに時間のかかることです。一つのあめ玉をなめきる前に、周りにはもっとおいしそうなあめ玉があふれています。
 オリジナリティそのものが失われ、同時に自己の可能性も失われつつあるという怖さ。
 オリジナリティを消費するということ自体の困難さ。
 そんな状況が、「オリジナリティ」から「クオリティ」へのパラダイムシフトを生んでいるのではないでしょうか。

 18禁絵とは、大雑把に言って萌え絵のことです。
 そしてこうした萌え絵は、実は「オリジナリティ」の否定(ハンコ)によって成り立っています。だからその代わりの判断基準として「クオリティ」が現われました(……たぶん)。
 しかし今のところ、「オリジナリティ」は完全には失われていません。おそらくそれは近代を特徴付けるものの一つだからです。物語は完全には失われていません。
 にもかかわらず、萌え絵は受容されつつあります。本来それはオリジナリティ否定であって、いまだオリジナリティに立脚した現代否定でもあるのですが、しかしおそらくそのことは意識されてはいません。
 わずかに残った「オリジナリティ=物語」を自分たちで壊そうとしている。
 それはある意味では時代にのっとった正しい行為に思えますが、あまりに無意識かつ無自覚に行われている気がします。本来それは、「革命」といってもおかしくないような行為のはずです。
 巷にあふれる場違いな萌え絵を見たときの違和感や微妙な感じというのは、エロさだけでなくそのことにも原因があるような気がします。

 オリジナリティからクオリティへのパラダイムシフトが起こっているといいましたが、個人的にはオリジナリティを完全に否定するわけではありません。
 それはある意味では、とてもきれいなものだからです。心地よいとは言いません。でも、そこには無視できない、捨ててはいけない何かがあるような気がします。
 近代が夢見たオリジナリティ幻想というのは、それにはそれで意味があるのだと思います。
 ただ、「君にはオリジナリティがない」という評価が致命的なまでにショックを与えることを見ても分かるとおり、オリジナリティというのはとても厄介なものです。
 現代的な状況にあって、それは個人を苦しめるものでさえあります。
 何故なら、「誰かのオリジナリティ」は、「自分のオリジナリティを脅かすもの」として存在するからです。

 ハンコ(=型、ある種のパターン)を使ってクオリティを優先させる、というのはある意味で理にかなった方法です。
 何故なら、受け手がもはやオリジナリティを問題視していないからです。厳密な意味でオリジナルを問題にするのは、もはや科学論文くらいな気がします。言いすぎですが。
 基本的に絵のことばかり問題にしてきましたが、話のほうも同じような状況にあると思います。問題はハンコのほうではなく、ハンコをどう使うのか、ということ。
 小説も、ある程度決まった型をもっています。オリジナリティにこだわるよりは、いかにきれいにハンコを押すか、ということに注意したほうが、結局はよいものができるのかもしれません。
 少なくとも僕としては、「君にはオリジナリティがない」といわれてどうすることもできなくて、それなら「クオリティを上げろ」と言われたほうがましなような気がします。

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