「もう一つの試論:何故、人は動物に餌をやりたがるのか?」について


 試論と言うほどではないのだけど、どうも気になっていたので、書いておくことにします。
 前に、人間には本源的に「コントロール欲求」が備わっているのではないか、と書きました。動物に餌をやりたがる理由は、その延長線上にあるのではないか、と。
 けど、どうもしっくりこないところがありました。そういう説明では、あの感情を腑分けできていないような気がして――
 心理学的には、それで十分なのかもしれません。行動原理や、その理屈や、効果を検証するには。
 けど、そもそも何を「コントロール」しているというのでしょう?
 
 
 動物に餌を与えることの大きな特徴は、「与え返される心配がない」ということだと思います。
 志賀直哉の小説『小僧の神様』でも描写される、見ず知らずの小僧に親切にしてやるときの、「冷汗もの」とか「変に淋しい、いやな気持ち」。あの微細で、後ろめたくて、陽性とは言えない感情――まるで、犯罪を犯すことにでも似た。
 ……あれを、心配する必要がないのです。
 
 人に言われてわりと納得したのですが、これは贈与論的な解釈で説明されるそうです。
 贈与論というのは、要するに互酬制についての理論――与えられると、与え返す必要が生じる――についてのものです。
 有名なやつは、マオリ族の話です。
 マオリ族によると、贈り物には「ハウ」という精霊がついている。そのハウは、元の場所に帰りたがっている。だから、別の贈り物によって送り返す必要がある。そうしないと、よくないことが起こるから、というような話です。
 お中元やらお歳暮やらも、結局のところはこれに当たります。
 志賀直哉の小説では、相手の「与え返す権利・義務」が損なわれている、ということに「変に淋しい、いやな気持ち」があるのかもしれません。
 
 人間相手なら、そういうことになるのですが、動物相手なら、そういう心配は不要になります。
 何故なら、そこには人間同士で発生する公平や平等とは、基本的には無縁だからです(だからこそ、動物愛護は厄介な問題を提起する)。
 そして、与え返される心配がない、ということは、自分の気持ちだけで完結しうる、ということを意味します。相手の権利やら、感情やら、社会の基本制度やらについて、ややこしく考える必要がなくなる……。
 つまりそれは、100%の関係です。
 僕たちは動物に餌をやるとき、完全に純粋に「与える」ことができるのです。
 
 ただしこの場合、「餌をやる」ことと「飼育すること」は、ほぼ別物になります。
 飼育の場合、そこでは「見返り」を、そもそもの前提としているからです。教育効果だろうと、食料や労働力だろうと、ただで餌をやったり世話をしたりしているわけではありません。
 
 ……ここでちょっと、蓄牛(乳牛)のことを考えてみます。
 品種改良された結果、牛は必要以上の牛乳を生産するため、諸種の疾病を抱えるようになりました。そもそも、牛乳を出すのは子牛を産んだ母牛です。つまり、僕たちは子供から引き離された母親の、本来なら子供が飲むはずの母乳を飲んでいる、ということです。
 ――だからどうした、というわけではないのですが。
 僕は牛乳を飲まない人間だし、あれはたぶん消化に悪いんだろう(でなきゃ、腹を下す人がいるはずがない)、と思っているので、こんなこともしゃべれてしまいます。僕にとって牛乳が切実に必要になるのは、ココアを飲むときか、生クリームを料理に使うときくらいかもしれません。
 つまり、「牛乳って、そこまでして飲む必要のあるものか?」というわけです。
 もっとも、この辺は文明論とか、畜産の是非とか、別の話になります。
 以上はちょっとした愚痴というか、個人的な意見です。
 
 
 閑話休題。
 もしかすると、人は「与えたがっている」のかもしれません。
 動物に餌をやることが幸せなのは、余計な考えを持たずに、その欲求を満たすことができるからではないのか――
 ダン・アリエリーの『ずる』によると、人が不正行為によって利益を得る場合、それによって純粋に相手だけが利益を得る場合には、不正の度合いは高まる傾向があるそうです。
 人は利他行動を、(例えそれが不正であっても)善良なものと考えます。
 
 とはいえ、このことは進化論的にはどうなるのか?
 利他行動は生存に有利なのか? 有利な利他行動が遺伝された結果、自己犠牲や人助けを善しとする「社会的効用」が生まれたのか。
 たぶん、そうではあるのでしょう。
 利他行動はほかの動物や蟻みたいな昆虫にも見られるものですが、多くは血縁関係に依拠しています。リチャード・ドーキンス万歳。
 とはいえ、血縁関係がなくとも利他行動が見られるものもあります。
 ある種の鳥では、自分とは無関係な親子の手伝いをするものがあります。この場合は、そうすることで巣を譲り受けるための行動らしいです。
 しかし、こうした説明はどうもしっくりこないところがあります。
 
 
 むしろこれは、「アガペー」みたいなものじゃないか、と思うのです。
 つまり、神の愛というやつです。キリスト教でいうところの。
 普通、すべての行動には何らかの打算や、そうでなくとも理由が付随します。そうでなければ、行動そのものに発生のしようがないからです。
 愛も、その一種です。恋愛、友愛、郷土愛、人類愛――何にせよ、それなりの利益が存在します。幸せな気持ちになれる、とかでも。
 ところが、アガペーの場合はそういった動機が欠如しています。それはただただ、愛するための愛なわけです。いや、愛するためですらないのかも。
 キリストが信仰を集めるのは、根底にはこれがあるからです。そこには、もっとも純粋な形での愛が、完全な形で保管されている――
 動物に餌を与えるという行為は、これに近いのかもしれません。
 
 ちょっと妙な話なのだけど、ということはつまり、「人は神様になりたがっている」のかもしれません。それがどんな神様かは、ともかくとして。
 志賀直哉の『小僧の神様』の「変に淋しい、いやな気持ち」は、もしかしたら「人間の神様」になることに対する戸惑いなのかもしれません。この場合、「動物の神様」とは違って、自分の人間性が損なわれてしまうからです。
 あるいは、アガペーの本質は動物に餌をやることだ、と言えるのかもしれません。純度100%の、一方通行的な関係。
 
 ……面白そうではあるけれど、これはちょっと手に余る問題のような気がします。
 いずれにせよ、人は動物に餌をやりたがります。
 何故なら、人は「与える」ことを欲しているからです。それも、できるだけ一方的に、貸し借りなく、100%の純粋な行為として。
 それが何故なのかは、また別の問題ではあるわけですが。

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