「何故、人は動物に餌をやりたがるのか?」について


 あなたの小学校に、ウサギ小屋はありましたか?
 ――で、あなたはそのウサギたちに餌をやったことがある?

 僕はあります。
 といっても、そう頻繁にというわけではありません。そこまで暇でもなければ、孤独だったわけでもないので……少なくとも、その頃は。
 小屋があったのは、校舎の裏側、プールのすぐそばでした。
 ウサギ小屋はもちろん、たいして立派なものではなくて、細い木の柱とトタン屋根で作られ、全体が金網で覆われていました。枯れ草が敷きつめてあったけど、吹きさらしみたいな状態だったし、特にウサギの福利衛生に考慮したものでもなかったような気がします。確か、空っぽになった鶏小屋が隣接していたはずです。

 休み時間、僕はその小屋の前までやってきました。
 で、その辺の雑草をちぎって、細い金網のあいだから、それをつっこむわけです。ウサギは二羽いて、白と茶色だった気がします。
 その白だか茶だかのウサギが、つっこまれた雑草に気づくと、ぴょこぴょこ近づいてきて、さっそくそれを食べはじめます。例の三口で、もぐもぐもぐもぐ、何を考えているのかはさっぱりわからないけれど、文句も言わず、感謝もせず、ただただ、もぐもぐもぐもぐ――と。


 その時、あまり意識はしなかったけれど、僕はけっこうな満足感を覚えていたはずです。
 自分のやった雑草を、ウサギが無心で食んでいる、という事実に。
 考えてみると、これはけっこう不思議なことです。その行為で僕は何かを得るわけでもないし、義務をはたしているわけでもありません(僕は飼育係じゃなかった)。
 にもかかわらず、僕は何というか……「幸せな気持ち」になっていました。

 動物に餌をやることは、不思議と癒されることのようです。
 実際、人は機会さえあれば動物に餌をやりたがります。動物だけじゃなくて、対象が魚でも、虫でも、植物でさえも。
 動物園に行けば必ずと言っていいほど餌やりのイベントがあるし、奈良の公園に行けば当然のように鹿せんべいが売られています。

 ――もしかしたら、餌をやることは、人間に備わった本能のようなものなのでしょうか?


 大げさな、と思うのなら、それは少々認識が甘いです。
 これはけっこう、重要なことなのです。
 何故なら、この辺に「牧畜」の起源があるのかもしれない、と考えられるからです。

 人が何故、動物を飼うようになったのか、実際のところはわかっていません。歴史的には、よくて推測ができる程度です。多くは「偶然」と「人為選択」で説明されるようです。
 ここで例えば、「犬」のことを考えてみます。確認されている「最古の犬」は一万四千年前のものだそうです。
 そして実のところ、犬の飼育はすべての家畜の飼育に先立つものなのです。

 野生のオオカミが犬になっていった過程は諸説あるにせよ、人間の捨てるゴミを漁っていたものが、徐々に近づき、馴れていった、というのが基本的なシナリオのようです。
 その過程で、「餌やり」が行われたのだろうと推測する人もいます。
 実際、現代に残る「狩猟採集民」でも、野生の動物をペットとして飼う、という習慣は頻繁に見られるものだそうです。そうしたペットは家族同然に大切に育てられたりもします。何かの役に立つ、という理由ではなく。
 ちなみに、最終的に犬が人間と暮らすようになったのは、どちらも「群れ」で行動する生き物だったから、というのがおおまかな理由のようです(J・ブラッドショー『犬はあなたをこう見ている』より)。


 餌をやりたがる、というのは人類史にとってけっこう重要な要素です。もし、それがなかったとしたら、僕たちの生活は今とはずいぶん違った――というより、現在の生活そのものが存在しなかった可能性は高いです。
 人間には、「飼育本能」や「給餌本能」が存在するのでしょうか?
 僕にはまるでないのだけど、「人に食事を作ること」に無上の喜びを感じる、という人もいるそうです。相手が自分の料理をぱくぱく食べてくれることに言い知れぬ幸福を感じる、という人が。
 ……もしかしたら飼育本能の対象は、人間にも及ぶのかもしれません。

 あるいはそれは、人は本能的に「与えたがっている」、といえるのかもしれません。
 つまり、「与える」という行為を、一種の表現欲求のようなものとして捉えることも可能だ、ということです。
 料理や直接的な手助けといった物理的な「餌やり」に限らず、絵画や小説、芸術作品を人に見てもらう、ということを「餌やり」として。
 人はパンのみにて生きるわけではないらしいので――
 ですが、これはやや拡大解釈になるし、ここでの話とは関係がありません。

 飼育本能はともかく、人間には根源的な部分で「コントロール欲求」と呼べるものが存在しているようです。
 こんな話があります。
 ある老人ホームでのことです。実験のため、入居者に観葉植物が配られました。彼らの半数は自分で植物の世話をし、半数は職員が世話をしました。
 で、結果どうなったかというと、自分で世話をするほうが、他人に任すよりも満足度が高いらしい、というがわかりました。死亡率にかなりの違いが出たのです。
 ところが、これで話が終わるわけではありません。
 実験後、死亡率は逆転しました。つまり、自分で世話をしていたほうが、かえって死亡率が高くなったのです。
 何故なら、彼らは実験終了後に、与えられていた「コントロール」の権限を奪われてしまったからです。
 その他、「コントロール欲求」が人間に与える「満足度」については様々な心理実験が行われているようです(ダニエル・ギルバート『明日の幸せを科学する』より)。

 ところで、ここで「与えること」と「与えられること」を比較してみます。
 「餌を与える」ことで人が「幸せな気持ち」になれるとして、はたして「餌を与えられる」ことで同じように「幸せな気持ち」になることは可能でしょうか。
 ……正直なところ、そんなことをされてもあまり嬉しくはない気がします。
 もちろん、程度にはよるでしょう。「餌」の種類にも影響されるはずです。例えば、ずっと以前から欲しかったものを与えられる、とか。
 けど、ここではおそらく、「一方通行」であることに意味があります。僕たちが「幸せな気持ち」になるのは、「与える側」であるからであって、「与えられる側」にあるからではない。

 人にはおそらく、本能的な部分でコントロール欲求があります。その延長上に「餌をやる」という欲求もある。飼育本能は、人間に備わった「コントロール欲求」の一変種であると見なすことは可能です。
 つまるところそこには、相手のことは問題に入れられていない。相手が餌を欲しがっていることや、満足していることには、自分とはまったく関係がない。
 問題は、自分がコントロールする側にあるかどうか、ということなのです。餌を与えることで相手をコントロールすることは気持ちがいいが、与えられてコントロールされるのは必ずしもそうではない……

 これは、皮相な話でしょうか?
 極論すると、ボランティアや、災害救助や、寄付や、募金も、すべては「コントロール欲求」に従っているだけの話になります。すべての善意は、一方通行の意思表示であり、一種の支配欲でしかない。
 が、話はそれほど単純ではありません。
 むしろ、善意と悪意の境界は、それくらい曖昧である、というのがことの本質だと思われます。
 ――そして人は、そのことを自覚している。

 誰かを世話したい=誰かをコントロールしたい、ということに、ほとんど違いはないのです。少なくとも、壷か横顔かくらいには。それは一つの絵の、別の見え方にすぎません。
 だからこそ、僕たちは「親切」ということを不得手にしています。それは、相手を支配しようとすることでもあるからです。だからわざわざ、「情けは人のためならず」なんてことわざまで作って、「親切」の言い訳をしなくてはならないのです。
 人には親切にすればいいというものではありません。
 それは、人を支配すればいいというものではないのと、同義です。

 コントロール欲求は、それ自体を善悪で判断できるものではありません。
 時と場合によって、それが善きこととされたり、悪しきこととされるにすぎません。
 人は、災害や、病気や、不運さえもコントロールしたがります。そして科学や、医療や、諸種の学問やら似非学問を発達させてきました。
 そこには、実際的な恩恵があります。
 同時にそれは、戦争や犯罪や暴力や雑多な悲劇の原因にもなってきました。
 ごくごく普通に言って、人間の本質は、それ自体で善悪を決定できるものではないのです。


 何にせよ、「餌をやる」というのは人間にとってかなり本質的な行為です。
 それはたんに動物を喜ばせたいとか、気まぐれとか気晴らしといった以上の意味があります。
 給餌行為は人間を「人間」たらしめている要因の一つかもしれません。

 実際問題として、動物は何故、ただ餌を与えられているのでしょう?
 それを不満に思ったり、ストレスに感じたりはしないのでしょうか?
 正直、よくはわかりません。
 観察するかぎりでは、まったく気にしていないようにも見えます。空腹なら食べるし、そうでなければ見向きもしないだけです。
 つまり、間接的な証明として、動物にはコントロール欲求が存在しないのかもしれません。何故なら、コントロールされることに抵抗がないからです。
 というか、それを「コントロール」として捉えるだけの能力が、と言い換えてもいいのかもしれません。

 僕たちは動物に餌をやるとき、幸せな気持ちになります。
 それは、「コントロール欲求」が満たされているからなのかもしれません。
 その「コントロール欲求」が進化的に獲得されたものか、ただの副産物なのかはわかりません。少なくとも、動物にはそのはっきりした形は見られないようだし(世界のどこかには、ほかの種に意味もなく餌をやりがたがる動物もいるのかもしれないけれど)、それを人間の本質的なものだと言っても間違いではなさそうです。

 ――あなたは動物に餌をやりたくなりますか?
 それは、あなたが人間だからなのかもしれません。

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