「蟲師」 について


 民話チックな話である。
 ……民話チックと言うのはさすがに無茶な言い方だが、非常に民俗学的な雰囲気を漂わせた作品である。
 2000年に第一巻が発売されて、今現在四巻まで発行されている。
 蟲師≠ニいうのは蟲≠ノ関する事象を扱う、民俗学者兼医者のような存在である。蟲≠ニは「生命の原生体(そのもの)に近いもの達」(一巻、P20)のことで、いろいろと不可思議な現象を起こす。例えば、「音を喰う蟲」や、「虹のような形をした蟲」、「密室に住む蟲」などがいる。
 それらの蟲≠ェ起こした事件に主人公が絡んでいく、というのが毎回の話。
 極端に言えば、同じ主人公の登場する『日本昔話』だと思えばいいかもしれない。民俗学的なものが好きな人は、たぶん面白く読めると思う。
 それは、ともかく。
 僕がこの話で一番面白いと思うのは、作者の提示する蟲≠ニの関わり方である。
 二巻に「綿胞子」という話がある。「綿吐(ワタハキ)」という茸のような蟲がいて、それは胎児を殺し、その子供の形をした人茸≠送る。その人茸≠ヘ何年かすると壊死して種を残すため、そのまえに殺さなければならない……。
 という話だが、夫婦の方で子供に情が移って殺せなくなった。それでしばらく様子を見ようということになったが、結局殺すしかなくなった。
 その時に、その人茸≠ニ主人公の間で会話が交わされる。
 「たすけて、ころさないで。しにたくない」「無駄だ」「どうしてころすの」「お前らがヒトの子を食うからだ」「ぼくらはわるくない」「俺らも悪くない。だが俺達の方が強い。だからお前はたねを残せずに死ぬんだ」(二巻、P216)
 あるいは、「畏れや、怒りに、目を眩まされるな。みな、ただそれぞれが、あるようにあるだけ」(三巻、P230)ともいう。
 要するに、蟲≠ニは善悪によって対立する存在ではなく、ただそこに「ある」だけなのである。
 マンガの場合、多かれ少なかれ主人公にはそれに対する「敵」、あるいは「困難」といったものが存在し、それを解決する過程に「面白さ」が生まれる。民俗学ではこれを「欠乏」と「欠乏の充足」というらしいが、『蟲師』では主人公は基本的には部外者で、話の中の「欠乏」は必ずしも主人公に対するものではない。
 つまり、主人公は話の主体ではなく、「話」こそが話の主体となる。読者は主人公に対して感情移入することはあまりないだろう。では、どこにするかといえば、「話」そのものに対してである。このマンガは普通よりも、「話」そのものが持つ意味合いに対して、感情移入を要求するのだ。
(そろそろ、自分でも何を言っているか分からなかったりするので、やめておこう……)
 ところで、このマンガは回を重ねる毎に、だんだん蟲≠ノ関する設定が細かくなっていく(たぶん、それはどんなマンガでも宿命的なものだが……)。
 しかし僕としては、初めの頃のまだ漠然として、しかし何だかすごい可能性を秘めているかのように思える頃の方が、好きだったりする。話の作り方も、最初はどちらかといえば異邦者的でふらりと訪れる、という感じの主人公が、段々と前面に出てくるようになる。
 その方が、作りやすいのだろうとは思う。が、連載化されて、パターン化してきている、というふうにも思えてしまう。話のモチーフが違っても、似たような構造を持つものが出来てしまっている気がするのだ。
 絵も、必ずしもうまいとは言えない。ほのぼのした感じの絵はすごく好きなのだが、しかし同じ絵のキャラクターが登場する。よく、髪型だけ違って顔は同じなんじゃないかと思えるマンガがあるが(それが悪いとは言えないが)、そういうことではなくて、まったく同じ絵が何回か使われている。
 が、それほど気にはならない。
 それはたぶん、前述したようにこのマンガが主人公やキャラクターに焦点を置いているわけではなく、「話」に焦点を置いているためだろう。
 昔話、というのは徹底して「形容」を省いたものらしく(例えば「おじいさんと、おばあさんがいました」というが、どんなおじいさんか、といったことには触れない)、だからこそ語り継がれていく、というようなことを聞いたことがある。
 『蟲師』も、そんな要素を抱えているのではないか?

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