「もったいない」 について


 いつぞや「みんなの歌」で、もったいないの歌≠ニいうのをやっていました。何故かルー大柴が歌っている、不思議な歌です。
 歌は基本的に題名の通り、「もったいない」をテーマにしたものです。こんなことしたらもったいない、もっと気をつけるべきだ、みたいな。
 その中で、お風呂に水をいっぱいに入れて、ざぶんとはいる、みたいな歌詞があります。子供と父親がお風呂に入っていて、水がたくさんこぼれてもったいない、というわけです。
 ……僕はそれが何だか、妙に腹立たしくありました。
「もったいない、ってそういうことなんだろうか?」
 と、思ったのです。少なくとも僕にとってそれは、「もったいない」という話の中に含まれるべきではないものでした。「もったいない」というのは、そういうことじゃないだろう、と。

 もったいない、というのは概念です。そして概念というのは、常に危うくて、難しいものです。水が摂氏零度で凍る、というほどにははっきりとしていません。というか、それだって条件次第で変化します。
 例えば 「優しさ」 や 「正義」 が、時に人を駄目にしたり、傷つけたりするように。
 もったいないというのは、最近よく流行っている言葉のように思えます。その辺のことはこちら(『ウィキペディア』)を参照してください。地球温暖化とか、幾多のごみ問題、資源の枯渇などなどと関連づけて、グローバルに主張されるわけです(ついでにいうと、そこでは「もったいない」を従来のイメージとは微妙に変化させていますが、それはとりあえず置いときます)。
 もちろん、それ自体は必要なことだと思います。人は過度の消費をしてきたし、いい加減にこのままでいいわけもないし、現実問題として、いろいろ問題も起きています。
 けれど、「過度の消費」が問題を起こすように、「過度の節制」もやはり、問題を起こすのだと思います。
 それともうひとつ気になるのは、エコロジーとマナーの問題です。
 もったいない、という言葉を使う時、そこにはどこか、資源云々の前に、それを守るのが実際的にも人として当然のことだ、というニュアンスが含まれているような気がします。もったいないは、地球にも優しいし、人にも優しい、と。
 でも、僕にはそうは思えません。
 とはいえ、僕はどこぞの作家さんのように大学でエコロジーを専攻していたわけでもないし、まともな社会的マナーをきちんと身につけているわけでもないし、そもそもエコロジーとマナーについてきちんと知っているわけでもありません。
 だからこれは、ただの僕の意見です。でもそれは間違いなく、僕の意見です。
 で、僕がエコロジーとマナーについてどう考えるかというと、「それはまったく別ものである」ということです。
 実際的にも、精神的にも、概念的にも、それは別ものです。それが第一です。
 でも世間的には、その二つは一緒に扱われている気がします。そうしたほうが二つのことを守れて都合がいいとか、エコロジーは地球に対するマナーだ、というように。二つはセットのこととして主張されます。
 実際のところ、それは「似たようなもの」なんでしょうか?
 僕にはそうは思えせん。
 もしそうだというなら、今すぐ遊園地も動物園も水族館も各種アミューズメントパークもレストランも吉野家も映画もテレビもコマーシャルも商品開発も自動車もバイクもコンビニもスーパーも――生きることさえも――、諦めるべきでしょう。ちょっとどころでなく言いすぎですが、要するにそういうことだと思います。
 エコロジーとマナーをくっつけるというのは、そういうことです。もしも僕らが地球に対して遠慮をしなければならないとしたら、そういうことです。僕らはすべての無駄を放棄して、エコロジーとマナーを守って暮らさなくてはなりません。
 でももちろん、そんなことはできません。そもそも人間(僕たち)がいなくなっては、エコロジーもくそもありません。
 エコロジーというのは、「人間≠ェ世界でよりよく生きる」にはどうすればよいか、を問うものだと思うのです。というか、大体の物事は、結局のところ人間≠中心に考えられるものです。
 だからといって、人は元々独善的なものだ、とか、生きるためには何を犠牲にしてもよい、といのではありません。そうではなくて、「よりよく生きる」とは「できる限り多くのものと共生しうる」ということだと僕は思います。結局はそれが、人が生きるうえで一番「合理的」な形なのだ、と。
 一方、マナーとは何かというと、これは「人間が人間とよりよく生きる」にはどうすればよいか、ということを問うものです。要するに、様々な人間が様々な思考をして暮らしている世の中で、どうやって争いや面倒を避けて、できるだけ多くの人間が気持ちよく生活できるか、ということを実現するための手段・共通理解です。
 この二つは、はたして同じものでしょうか?
 マナーというのは、あくまでも「人間」に対するものです。大きくいっても、せいぜい「社会」です。ここでいう「社会」というのは、多くの人間が集まった共同体、というほどの意味です。いずれにせよ、人間を中心としたものに違いありません。。
 エコロジーとは環境とか生態といった、より大きな概念に対するものです。また、その中心は人間ではなく、あくまで自然環境といったものです。その中では、人間がそれほど重要視されるわけではありません。少なくとも重要視されるのは、人間自体ではなく、人間が与えるところの影響です(産業廃棄物、二酸化炭素排出、環境ホルモン、土地開発、etc)。
 はっきり言って、この二つが同じものとは思えません。ひとつは世界に対するもの、ひとつは人間に対するものです。
 では、何故この二つがセットで使用されるのでしょう?
 それは簡単にいうと、人間の増長を表しているのではないか、と僕は思います。
 本来、できるだけ環境に対する影響を少なしようとするエコロジーが、本来、人間に対するものであるマナーと結びつくというのは、そういうことだと思います。そしてそれは言うまでもなく、本末転倒です。
 詳しく言うと、こうです。
 エコロジーというのは、環境を中心にしたものです。マナーというのは、人間を中心にしたものです。その二つがくっつくということは、人間が、人間に対するのと同じように、環境に対する影響を多大に持ちえている、という意識があるということです。
 それだけならまだいいのですが(ある程度は事実ですし)、マナーという概念には思いやりとか、優しさといったものが含まれます。
 僕はそこが、ものすごく引っかかるのです。
 正直言って、地球は誰にも優しくなんてしてもらいたくはないでしょう。地球が意思を持っているかどうかとか、優しさという概念をどう捉えるか、ということはべつにして、道義的にそう思うことは間違っている気がします(岩明均『寄生獣』でもそんなこと言ってますし……)。
 優しくしてもらいたいのは、多分、人間自身です。少なくとも、そういうことになります。地球に優しく、というのは「地球に住んでいるものに優しく」という意味でしょう。そして「地球に住んでいるもの」はもちろんたくさんいますが、ことに人間がそういった場合、それはどうしようもなく人間自身を指します。僕らの想像力はそういうふうに出来ている気がします。
 つまり、なんのことはない、そこにあるのは「人間に優しく」という人間のエゴなのです。
 まあ言いすぎかもしれませんが、でも僕にはそう思えてしまいます。
 そしてもうひとつ、エコロジーとマナーを一緒くたにする時、そこには人が地球に及ぼす影響、もっというなら、人が地球を「気づかってやらなければいけない」という意識が読み取れる気がします。
 これはどう考えても傲慢であり、増長です。僕らはそれほど強くはないし、それほど自然を征服してもいません。地震や津波を防ぐことは出来ないし、火山が噴火すれば右往左往せざるをえないし、山に緑が戻るのを長いこと待たなくてはなりません。少なくとも、環境汚染や温暖化といった今の状況は、ある意味で自然の反抗とすら捉えることも出来ます。結局、人は自然には勝てないのです。
 人は昔から、「自然」と戦ってきました。ずっとずっと昔から、そしてこれからも。
 それを正しいことして捉える、というのは可能だと思います。
 エコロジーとか環境保全運動というのは、結局「戦い」なのではないでしょうか。それは人間の生活圏の拡張といったことではなく、崩れたバランスに対する「戦い」です。エコロジーをマナーとして捉えるよりは、僕はそっちのほうがよほどましだと思えます。
 僕たちはやっぱり無力です。
 だから、戦わなくてはなりません。最初から強ければ、戦う必要すらないのです。
 というわけで、「もったいない」という言葉はエコロジーでも、マナーでもないだろう、というのが僕の結論です。
 じゃあ何かというと、「もったいない」は「もったいない」です。これは単に僕が共通理解として「もったいない」を確立できていないだけかもしれませんが、少なくともそれはエコロジーとマナーをくっつけたものではありません。
 僕は大学の卒論で、倹約令というやつについて調べていました(というか、ほとんどデータの整理に追われて、理論的なことはスカでしたけど……)。
 江戸時代を通じて出された倹約令で、何度も何度も繰り返されていたのは、「倹約と吝嗇は違う」ということです。倹約とは不必要なことを削ることです。吝嗇とは本来必要なものを削ってしまうことです。
 もったいないというのは、そういうことじゃないでしょうか?
 僕はだから、風呂に水をいっぱいにはってざぶんと入る、くらいいいじゃないか、と思うのです。それは人間の豊かさを維持する上で、必要なことだろう、と。それは決して、不必要なことなんかではない。そんなことにけちをつけるのは吝嗇に分類されるものだ、と。
 まあそれも程度にはよるんですが……。
 いずれにせよ、「もったいない」というのはそんな卑小なことでも、尊大なことでもないはずです。
 少なくとも僕は、そう思います。

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