「根拠のない自信」 について


 昔、某情熱大陸で(と思って調べてみたら、09年の3月1日放送でした)すごく若い研究者が出ていて、けっこう気になることを言っていました。
 その研究者は「体内時計」の研究をしていて、例えば薬の利きやすい時間とか、脳卒中の起きやすい時間とか、時差ぼけは進めるのより遅らせるほうが楽とか、そういう体の不思議なメカニズムについて調べていました(ちなみにこの人は、最近NHKのほうでも出てました)。
 それ自体、確かに面白そうで、不思議なんですが、問題はそっちじゃなくて番組の途中で言っていた、こんなことです。
 セミナーのあとか何かで、大学の後輩だか何だかと飲み会をしているときのことです。学生の一人が、こんなことを訊きました。「研究をする上で、自分の興味関心と、世間の興味関心のようなものが、果たして同じなのかどうか分からない。それが違っていたら、自分の研究なんて何の必要性もないんじゃないのか」と。
 それに対して、研究者は(というか上田泰己は)こんなふうに答えました。「無根拠な自信、ってあるじゃないか。それでいい」

 その時はそれが何のことか、いまいちぴんと来ませんでした。無根拠な自信が研究の必要性とどう関係するのか。
 でもしばらくして、ああ、そういうことか、と何となく分かりました。
 上田泰己がスタッフの質問だかに答えているときのことです。上田いわく、「自分は体内時計の研究をすごく面白いと思っている。世間の人も、たぶん面白いと思っている。もし面白いと思っていないとしたら、この研究はこんなふうに面白いんだって、説明すればいい。そうすればやはり、面白いと思ってもらえるだろうと思う」
 つまりそれが「根拠のない自信」なのです。

 もうちょい説明します。
 学生の質問の要旨は、より普遍的な興味を持つべく、自分が努力すべきではないか、というようなことです。つまりそれが研究者としての正しい態度ではないか、と。自分の関心と世間の関心は必ずしも一致しないかもしれないが、それを一致するようにするのが研究をする上での正しい道ではないか。研究におけるテーマの正しいたて方とは、そういうものなのではないか。
 要するに、自分の興味と社会奉仕性の、どちらを優先すべきか、というような話です。そしてそれはさらに、自分が興味を持っていたとしても、そこに世間的な必要性≠ェなければ、それは無意味なんじゃないのか、という不安についての話でもあります。
 価値観の正しい在り処はどこなのか、ということですかね。自分なのか、それともその自分が含まれる世間なのか。自分の中での価値は、本当に価値のあることなのか。
 その不安に対して、上田泰己は自分の興味を優先しなさい、と答えます。
 それは何故か。
 何故ならそこには、根拠のない自信があるはずだからです。根拠のない自信があれば、世間のことは気にしなくても大丈夫。それは研究者としての正しい態度なのだ。
 もっと言うなら、その研究に根拠のない自信があるなら、その研究を自分で面白いと思えるなら、あとはそれを世間にも教えてやるだけだ、ということになるからです。そして最終的にその面白さを認めさせられれば(そしてそれは必ずできるはずのことである)、必要性≠ヘ事後承諾的な形であれそこに生まれ、その研究には意味があることになる。

 問題なのは、世間にとってそれが面白いかどうかじゃない。
 自分がそれを本当に面白いと思えるなら、あとはそれを教えてやればいいだけだ。
 ――そういうことです(だと思います)。
 確かにそうだな、と思います。自分がそれを面白いと思うのなら、それを信じて、あとは他の人間にそれを認めさせてやればいいのです。非常にシンプルです。

 では、根拠のない自信とは、何でしょう?
 それがあれば、自分の研究テーマ(または執筆前の小説、企画段階のプロモーション、楽譜に書かれる前の音楽、etc)の必要性を信じることができる、その必要性に対する葛藤を回避できる、その理由となる根拠のない自信とは?
 でもこれを説明するのは無理です。
 何故なら、そこには「根拠がない」のだから。もしそこに根拠があれば、そもそもこんな葛藤は生まれないはずです。誰かにその研究の有用性を尋ねられれば、簡単に答えられるはずです。
 それでも無理に説明するなら、根拠のない自信とは、「根拠がある」前段階、それを言葉ではなく直感によって理解している段階、というようなことになるでしょうか。数学の答えを先に思いついて、あとからそれが正しいことに気づく、というような。

 もう一度、根拠のない自信とは何でしょうか?
 それはたぶん、ごく感情的な、人には説明しにくい衝動のようなものだと思います。
 例えばそれは、楽しいという喜び、美しいものへの祈り、悲しみに対する涙、怒りというやるせなさ、どこにも行けないという絶望、誰かの幸せを願う心、何かの拍子にふと感じる心の揺れ、両手でそっとすくいとる何か。
 それはきっと、誰かに何かを伝えたいという、ごく素朴な、まだ形にならない、想いでもあります。人間にはどういうわけか、それを自分の中だけで処理しきれないようなところがあります。そういうものを、ごく自然に誰かに知ってもらいたいと思う気持ちが。
 他にももっと具体的にいえば、驚くような事実、ある疑問にたいするはっとするような答え、美しい一つの物語、発見、挑戦、記録。
 そういうものがあるとき、そこには根拠のない自信があります。そのことに対する素朴でシンプルな誰かに伝えたい≠ニいう気持ちがあります。
 そしてそれは、誰かが伝えてもらいたがっている≠ニいうことでもあるのです。

 けれども実際問題としては、だからといって必ずしも他の人がそれを必要とするとはかぎりません。
 難しい数学の証明や、人間離れした技の数々だとしても、人々にとってそれはどうでもいいことかもしれません。その人がどれほどそれを愛していたり、努力していたりしたとしても、他の人にはまるでその意味を理解できない、ということはあります。
 絵画や音楽や映画や小説や彫刻や建築や数学や物理や化学や歴史や地理や哲学で、それはやっぱりあることです。
 ゴッホの絵が生前には一枚しか売れなくて、結局自殺してしまうようなことが。

 でもたぶん、それは大丈夫なのです。
 そこに根拠のない自信さえあれば、大丈夫。
 あとは努力するだけなのです。その面白さを人にも伝えられるよう、努力するだけ。それが本当に面白いのかどうか、本当に価値があるのかどうかなんて、悩み続ける必要はないのです。悩み続けて、結局何も出来なくなってしまうような必要は。
 そこに根拠のない自信があれば、大丈夫。
 少なくとも、そう……思いたいです。

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