「心の置き所を見つけること」 について
どんなことにでも人は慣れる、というのは、たぶん本当のことで、僕は今の生活に慣れてきている。
以前みたいに、「誰かが死ぬわけでも、自分が死ぬわけでもない」――と、思う頻度は減っている。ほとんどなくなっていると言っていいくらいに。
夜中の(朝の?)二時に家を出て、自転車で暗闇の中を走る。街灯が、ただ役目をはたすためだけに明かりをつけている。時々、口笛を吹く。すれ違うのは、新聞配達の人くらいしかいない。世界は大体、眠っている。夜の世界は広々している。
その時に僕が思うのは、早く帰りたいな、とか、眠いな、くらい。あとは、考えごとをしたり、文章を思いついたり。
――もっとも、望んでいるのは今でも「今日を無事に生きのびる」ことではあるのだけど。
まわりから見れば、僕はたぶん、ごく普通でまっとうに見えるはずだ。問題なくやっているように見えるし、適応的であるようにも見える。
少なくとも、多少おかしなところはあるかもしれないけれど、それは許容範囲のものでしかない。自分からは絶対に人にしゃべりかけないとか、世間話をしないとか、そういうことはあったとしても。
第一、どんな人だって、まともでない部分は持っているはずだ。自分のすぐ隣に立っている人が、どんな境遇や心性を抱えているのかなんて、わかるはずもない。そこにどれくらいの深さや、暗さや、濁りがあるのかなんてことは。
もしも、誰もがその心をさらけ出してしまうとしたら、世界は一日だって持ちはしないだろう。
ともかくも、僕はそれなりに日々をやり過ごすことができている。ある程度は順調に、凡庸に、大過なく。つまりは、傷や痛みを抱えることなく。
でも、それは良いことなのだろうか?
……ちなみに、ひどい腰痛だったのは治った。イスに座れないくらいひどかったけど。やったのは、@ストレッチ Aクッションの購入 Bジョギング(の再開)。
その代わりではないけれど、近頃は肩が痛くなってきている。肩甲骨をよせて肩をまわすと、肉を裂くみたいな痛みがある。首まわりが熱をもって、けっこうしんどかったりする。
まったく、うまくいかないものだ。
◇
僕は世界に(少しは)慣れつつある。相変わらず、自閉症的で、対人恐怖症的で、ろくな知識も知恵もなかったとしても。
ずっと抱えていた、どこにも行けずにいた感じ、潰れてしまいそうだった感じ、そういうものが薄れつつある。
けど、そうすることで、何となく自分が変わってきてしまっているような気もする。
慣れてきたことで、書くことの本質にあった何かが欠けてしまったような、そんな気が。
僕がかつて持っていたもの――
それは、暗い部屋の隅で、膝を抱えているしかないような何か。どこにも行けない部屋の中で、窓の外をただ眺めているような何か。
それが、薄れてしまっている。鈍くなってしまっている
かといって、それに代わるようなものがあるわけでもない。人生に対する喜びとか、前向きな感情、愛、熱中、譲歩なく自分を託せるような何か。
僕は相変わらず、世界を好きにはなれずにいる。
「僕」と「僕の書いていること」のあいだには矛盾や齟齬がある。それは前からもあったし、どんな人間にしろ、完全にないということはないだろう。場合によっては、そのことがテーマにさえなりうる。
けど問題は、その矛盾や齟齬が大きくなっていること。大きくなっている感じがすること。
軌道をはずれた衛星が、宇宙の彼方へと向かって漂いはじめるみたいに。
僕は僕がどこにいるのか、その正確な位置がわからなくなりつつある。はたして今の僕は、正しい場所にいるのだろうか?
――それに問題は、ほかにもある。
まず、現実的な「時間」の問題。
当たり前だけど、自由に使える時間は少なくなっている。それは零ではないし、文句を言うほど少ないわけでもない。普通の人に比べれば、よっぽど恵まれていることにはなるだろう。
けど、その配分やペースは、だいぶ変わってしまっている。前ほど余裕やマージンをとって考えるわけにはいかない。
書く速さは、たぶんそれほど変わってはいない。ただ、一つの作品を仕上げるのに、より長い日数が必要になっている。
それは、作業的な困難や、不測の事態みたいなものへの対応を難しくさせる。
だからといって、効率よく、集中力を高めて書いていく、というのは少し違う。
僕としては、書くことには好きなだけ時間をかけたい。そこに制限時間を設けたり、細かい執筆計画みたいなものを立てたりはしたくない。ただでさえしんどいのに、そのうえややこしい条件はつけたくない。できるだけゆっくり、無理なく、歩くくらいの速さで書いていたい。
個人的には、手早く要領よく料理をすることよりも、好きなだけ時間をかけて、余裕を持って考えながら料理をすることのほうが好きなのだ。
たぶん本当は、書くことに自由でいられる時間、可能な限り空白の時間――平らで何もなくて、好きなだけ物を置けたり、どこまでも歩いていけたりする、そんな時間――が必要なのだろう。
でもそれは、現実的には不可能だし(たぶん専業作家にしろ)、そうなったらなったで、また別の言い訳を探すのだろう。
人間はとかく、不満の種を探したり、不平の素を見つけるのが好きなのだから。
――それからもう一つ、これは個人的な問題。
兄のことだ。
三人いるうちの、一つ上の兄。上の二人は、ちゃんと結婚して、子供もいる。
ただし、この一つ上の兄は、僕と同じように家にいるだけで、働いていなかった。無為徒食。人間的にも、社会的にも、誉められた存在じゃない。
以前に、働くように言われたとき(その辺のややこしいところはもう書いたので、繰り返さない。繰り返したくない)、当然、この兄もその対象になっていた。
その時に、この兄が何を言ったかというと、次のこと。
「――ホームレスになるから働かなくていい」
「――子供の頃から、そう思っていたんだから、仕方がない」
実際のところ、それはひどい言葉だった。本当に本当に、ひどい言葉だった。
苦しんでいるなら、悩んでいるなら、それはわかるし、責める気にもならない。できないものは、できないのだ。どうしてもそれができないというのなら、それをできる人間がすればいいだけのことだ。
でも、兄が言ったのはそうじゃない。
働かなくていい――働けない、でも、働きたくないでも、なく。
正直なところ、僕はこう思っている。
何故、あいつが生きていてよくて、自分が死んではいけないんだろう――
本当に、そう思うのだ。そう思って、怒りに震えることが、しょっちゅうある。
そこまでして生きたいというのなら、働けばいい、と思う。理屈から言っても、道義から言っても、それが当然だと思う。
でも、兄はそれをしない。
兄の言葉は、だんだんだんだん、僕を蝕んでいく。その存在が、僕の傷や痛みを無意味化してしまう。じゃあ、僕のやっていることは何なんだ、と。僕の苦しみや痛みは、何なんだ、と。
僕は兄のことを、許せそうにない。殺してやりたい、とすら思う。
だから、可能なかぎりその存在自体を無視している。最低限の礼儀は守るし、つっかかったりはしない。でも、できるだけ接触をなくそうとしている。できるなら、その姿さえ目に入れたくはない。
同じ家にいて、すぐ隣にいて、それは難しいことではあるけれど。
時々、兄がアスペルガーだったらよかったのにと思うことがある。それなら、理解できるし納得もする。でも実際は、そうじゃない。どう考えても、そうじゃない。
もちろん、公平に言うなら、兄にもよいところはある。
例えば上の(二番目の)兄が家に来たりしたとき、その子供と遊んだりする(僕は全員の食事を作るだけで、あとは部屋に引っ込んでいる)。
それに、自分を不必要に恥じたりはしない。対人恐怖症的なところもない(たぶん、それが問題とはいえ)。
何もしていないかというと、家にある畑の世話をしたりしている(僕はその野菜で料理を作る)。そこで採れた野菜を、農協に持っていったりもしている。バカみたいに安い値段で売るその収入は、ほとんど存在しないようなものだけど。
……ただしそれは全部、「言われたから」でしかない。自分からは何もしないし、それで満足らしい。そういうのは、本当にうんざりするし、気持ちが悪い。
ピアニストになりたいとか、将棋指しになりたいとかなら、まだわかる。それが絶対に無理だとしても、なりたいものがあるのなら、それはわかる。何になりたいかわからない、というのなら、それはわかる。
でも、そうじゃない。本当に、そうじゃないらしいのだ。
そういうのを見ると、「何で、生きてるの?」――と思ってしまう。
もう一つ言うと、兄と僕は、まあまあ仲が良かった。よくいっしょにゲームもしたし、笑ったりもした。上の二人の兄よりは、ずっと近しい存在だった。
でもその兄は、今、僕をただただ苦しめている。そして、それで平然としている。
そういうところも、問題をややこしくしている。嘘つきのクレタ島人みたいに、何が嘘で何が本当かわからなくしている。
でも僕には、兄の世話や教育まで抱えるようなつもりも、余裕も、ありはしないのだ。
たぶん兄は、「自分で自分を苦しめることに何の意味がある?」と思っているのだろう。そこまで言語化しているかどうかは疑問だけど、基本的な考えとしてあるのは、そういうことじゃないかと思っている。
それはそれで、確かにまっとうなことではあるのだろう。自分で自分を傷つけておいて、それで苦しんでいれば、世話はないのだ。
けど――
じゃあ、お前はまっとうなのか、とは思ってしまう。
兄の存在は僕にとって、不幸ですら、悲劇ですらない……それは、緩慢な地獄といったところだ。
僕が言っていることは、極端だろうか?
現実的じゃないし、自分勝手だし、厳しすぎる。
そうかもしれない。実際には努力を怠っているだけ、自分の要求を他人に押しつけているだけ、なのだから。
でも、僕は狂信的なわけでも、原理主義的なわけでもない。そういう心性は、疑問を持たずにはすむだろう。何が正しいかを、判断しなくてもよいのだから。細部の議論を、無視してもいいのだから。
でもそれは、まともなこととは言えない。それは善悪でも、正誤でも、妥当性の問題でもなく。
もしも僕が望んでいることがあるとすれば、それはバランスの取れる場所を見つけることだ。
――もっと言うなら、心の置き所≠見つけること。
◇
たぶん、大切なのは「今の自分」を肯定すること、なのだろう。
肯定という言葉が大げさなら、認めてやること。ちょっとした努力でも、ささやかな成功でも、誰かがくれた言葉でも。
でなければ、自分が存在することさえできなくなってしまう。
チャップリンが言うように、「太陽なんて何だ。あんなのはただ光っているだけだ。太陽が考えるかい、意志があるかい? でも君には、それがあるんだ」(映画『ライムライト』のセリフ)ということになる。
生きているというのは、そういうことだ。意志があるうちは、人は確かに生きているのだ。
書くことについては、たぶん本当は、別の書き方≠ェ出来るようになっただけなのだろう。
それは、何かを失ったり、なくしてしまったわけではなく――新しく手に入れただけの話だ。
部屋の片隅ではない、どこか別の場所から世界を眺められるようになっただけ。
そこに少しの寂しさや、違和感があったとしても。以前のように書けなくなったとしても、例え以前のほうがよいものが書けていたとしても。
少なくとも僕にはまだ、書いていようとする意志があるのだから。
それに、すべてがなくなってしまったわけじゃない。
時間の使い方も、今までと違う工夫が必要になっただけの話なのだろう。
空白の時間を意図的に作り出す必要。
もしくは、そうでないことを忘れさせる必要。
うまく自分を励ますなり、だますなり、脅しつけるなりする必要(それは、前からだったとはいえ)。
それは不可能ではないし、何とかやっていけるはずだ。
――今の僕は、ものすごく弱々しく意味を保っている状態にある。
からっぽの貯金箱を振るみたいに、書こうとする気持ちが、書く意味が、少しも見つけられなかったりする。
それは本当にきついし、救いのない状態だ。
それでも、その弱々しい意味を保とうとすることはできる。その形が崩れないように、損なわれないように。
必要なのは、バランスを取り直すこと。
もしくは、新しいバランスを手に入れること、見つけること、身につけること。
「どれだけ変わるのか」と同時に、「どれだけ変わらずにいられるのか」ということ。
――たぶんそこが、心の置き所≠ノなるのだと思う。
◇
おそらく、僕が世界を好きになることはない。少なくとも、譲歩なく、100%好きになるようなことは。
それはたぶん、自分を好きになれないからでもあるのだけど。
だから僕に可能なのは、普通であるふり≠することだけ。
そしてそれが出来るのなら……それで大丈夫、ということなのだろう。
問題は、それに耐えられる程度≠ナしかない。耐えやすさの程度。そうであるふり≠ェできているのなら、それで問題はないということなのだ。
僕に望むことがあるとすれば、それはロウソクみたいな小さな光を、点々と、いっぱいに増やしていくことだけ。
それは、世界全体を明るくするわけじゃない。そうであるには、あまりに小さいし、弱々しい。それが照らせるのは、せいぜい手が届く範囲くらいでしかない。
でも――
それは道を示すことができる。導くことができる。それが、誰かの役に立つことだってある。
時々、ほかの人のほうがよっぽど苦しんでいるし、悩んでいるんじゃないかと思うことがある。
実際、そうなのだろう。家のローンだとか、子供の教育だとか、相性の悪い上司とか同僚とか、世界には解決不能の、解決困難の問題が山ほどあふれている。
僕が抱えているものなんて、結局はどれも自分自身に関しての、実体のないものでしかない。避けられないものや、無理にでも答えを出さなければならないものや、誰かを傷つけてしまうようなものでは(これは少し違うか)。
でもこれも時々、そんなはずはないような気がしてしまう。
どうやら、普通の人はそこまで自己否定したりはしないように見える。自分自身に対していちいち疑問を持ったり、その正しさを計測しようとしたり、いつまでもぐちぐちと自分のことを批判していたりはしない。
みんなどこかに、ちゃんとした心の置き所≠持っている。
僕は、僕がどうなっていくのか、今のところよくわかっていない。
それは悪くなるのかもしれないし、良くなるのかもしれない。結局は、それほど悪くなかった、ということになるのかもしれない。
けど、何かに祈るような、そんな気持ちを大切にしていけたらと思う。
――本当に、そう思う。
それは、とてもとても小さな声なので、静かなところで耳を澄ませていなければ、聞こえないのだけれど。 |