「心の置き所を見つけること」 について


 どんなことにでも人は慣れる、というのは、たぶん本当のことで、僕は今の生活に慣れてきている。
 以前みたいに、「誰かが死ぬわけでも、自分が死ぬわけでもない」――と、思う頻度は減っている。ほとんどなくなっていると言っていいくらいに。
 夜中の(朝の?)二時に家を出て、自転車で暗闇の中を走る。街灯が、ただ役目をはたすためだけに明かりをつけている。時々、口笛を吹く。すれ違うのは、新聞配達の人くらいしかいない。世界は大体、眠っている。夜の世界は広々している。
 その時に僕が思うのは、早く帰りたいな、とか、眠いな、くらい。あとは、考えごとをしたり、文章を思いついたり。
 ――もっとも、望んでいるのは今でも「今日を無事に生きのびる」ことではあるのだけど。
 
 まわりから見れば、僕はたぶん、ごく普通でまっとうに見えるはずだ。問題なくやっているように見えるし、適応的であるようにも見える。
 少なくとも、多少おかしなところはあるかもしれないけれど、それは許容範囲のものでしかない。自分からは絶対に人にしゃべりかけないとか、世間話をしないとか、そういうことはあったとしても。
 第一、どんな人だって、まともでない部分は持っているはずだ。自分のすぐ隣に立っている人が、どんな境遇や心性を抱えているのかなんて、わかるはずもない。そこにどれくらいの深さや、暗さや、濁りがあるのかなんてことは。
 もしも、誰もがその心をさらけ出してしまうとしたら、世界は一日だって持ちはしないだろう。
 
 ともかくも、僕はそれなりに日々をやり過ごすことができている。ある程度は順調に、凡庸に、大過なく。つまりは、傷や痛みを抱えることなく。
 でも、それは良いことなのだろうか?
 
 ……ちなみに、ひどい腰痛だったのは治った。イスに座れないくらいひどかったけど。やったのは、@ストレッチ Aクッションの購入 Bジョギング(の再開)。
 その代わりではないけれど、近頃は肩が痛くなってきている。肩甲骨をよせて肩をまわすと、肉を裂くみたいな痛みがある。首まわりが熱をもって、けっこうしんどかったりする。
 まったく、うまくいかないものだ。

 僕は世界に(少しは)慣れつつある。相変わらず、自閉症的で、対人恐怖症的で、ろくな知識も知恵もなかったとしても。
 ずっと抱えていた、どこにも行けずにいた感じ、潰れてしまいそうだった感じ、そういうものが薄れつつある。
 けど、そうすることで、何となく自分が変わってきてしまっているような気もする。
 慣れてきたことで、書くことの本質にあった何かが欠けてしまったような、そんな気が。
 
 僕がかつて持っていたもの――
 それは、暗い部屋の隅で、膝を抱えているしかないような何か。どこにも行けない部屋の中で、窓の外をただ眺めているような何か。
 それが、薄れてしまっている。鈍くなってしまっている
 かといって、それに代わるようなものがあるわけでもない。人生に対する喜びとか、前向きな感情、愛、熱中、譲歩なく自分を託せるような何か。
 僕は相変わらず、世界を好きにはなれずにいる。
 
 「僕」と「僕の書いていること」のあいだには矛盾や齟齬がある。それは前からもあったし、どんな人間にしろ、完全にないということはないだろう。場合によっては、そのことがテーマにさえなりうる。
 けど問題は、その矛盾や齟齬が大きくなっていること。大きくなっている感じがすること。
 軌道をはずれた衛星が、宇宙の彼方へと向かって漂いはじめるみたいに。
 僕は僕がどこにいるのか、その正確な位置がわからなくなりつつある。はたして今の僕は、正しい場所にいるのだろうか?
 
 ――それに問題は、ほかにもある。
 
 
 まず、現実的な「時間」の問題。
 当たり前だけど、自由に使える時間は少なくなっている。それは零ではないし、文句を言うほど少ないわけでもない。普通の人に比べれば、よっぽど恵まれていることにはなるだろう。
 けど、その配分やペースは、だいぶ変わってしまっている。前ほど余裕やマージンをとって考えるわけにはいかない。
 書く速さは、たぶんそれほど変わってはいない。ただ、一つの作品を仕上げるのに、より長い日数が必要になっている。
 それは、作業的な困難や、不測の事態みたいなものへの対応を難しくさせる。
 だからといって、効率よく、集中力を高めて書いていく、というのは少し違う。
 僕としては、書くことには好きなだけ時間をかけたい。そこに制限時間を設けたり、細かい執筆計画みたいなものを立てたりはしたくない。ただでさえしんどいのに、そのうえややこしい条件はつけたくない。できるだけゆっくり、無理なく、歩くくらいの速さで書いていたい。
 個人的には、手早く要領よく料理をすることよりも、好きなだけ時間をかけて、余裕を持って考えながら料理をすることのほうが好きなのだ。
 たぶん本当は、書くことに自由でいられる時間、可能な限り空白の時間――平らで何もなくて、好きなだけ物を置けたり、どこまでも歩いていけたりする、そんな時間――が必要なのだろう。
 でもそれは、現実的には不可能だし(たぶん専業作家にしろ)、そうなったらなったで、また別の言い訳を探すのだろう。
 人間はとかく、不満の種を探したり、不平の素を見つけるのが好きなのだから。
 
 
 ――それからもう一つ、これは個人的な問題。
 
 兄のことだ。
 三人いるうちの、一つ上の兄。上の二人は、ちゃんと結婚して、子供もいる。
 ただし、この一つ上の兄は、僕と同じように家にいるだけで、働いていなかった。無為徒食。人間的にも、社会的にも、誉められた存在じゃない。
 以前に、働くように言われたとき(その辺のややこしいところはもう書いたので、繰り返さない。繰り返したくない)、当然、この兄もその対象になっていた。
 その時に、この兄が何を言ったかというと、次のこと。
「――ホームレスになるから働かなくていい」
「――子供の頃から、そう思っていたんだから、仕方がない」
 実際のところ、それはひどい言葉だった。本当に本当に、ひどい言葉だった。
 苦しんでいるなら、悩んでいるなら、それはわかるし、責める気にもならない。できないものは、できないのだ。どうしてもそれができないというのなら、それをできる人間がすればいいだけのことだ。
 でも、兄が言ったのはそうじゃない。
 働かなくていい――働けない、でも、働きたくないでも、なく。
 
 正直なところ、僕はこう思っている。
 何故、あいつが生きていてよくて、自分が死んではいけないんだろう――
 本当に、そう思うのだ。そう思って、怒りに震えることが、しょっちゅうある。
 そこまでして生きたいというのなら、働けばいい、と思う。理屈から言っても、道義から言っても、それが当然だと思う。
 でも、兄はそれをしない。
 兄の言葉は、だんだんだんだん、僕を蝕んでいく。その存在が、僕の傷や痛みを無意味化してしまう。じゃあ、僕のやっていることは何なんだ、と。僕の苦しみや痛みは、何なんだ、と。
 僕は兄のことを、許せそうにない。殺してやりたい、とすら思う。
 だから、可能なかぎりその存在自体を無視している。最低限の礼儀は守るし、つっかかったりはしない。でも、できるだけ接触をなくそうとしている。できるなら、その姿さえ目に入れたくはない。
 同じ家にいて、すぐ隣にいて、それは難しいことではあるけれど。
 時々、兄がアスペルガーだったらよかったのにと思うことがある。それなら、理解できるし納得もする。でも実際は、そうじゃない。どう考えても、そうじゃない。
 
 もちろん、公平に言うなら、兄にもよいところはある。
 例えば上の(二番目の)兄が家に来たりしたとき、その子供と遊んだりする(僕は全員の食事を作るだけで、あとは部屋に引っ込んでいる)。
 それに、自分を不必要に恥じたりはしない。対人恐怖症的なところもない(たぶん、それが問題とはいえ)。
 何もしていないかというと、家にある畑の世話をしたりしている(僕はその野菜で料理を作る)。そこで採れた野菜を、農協に持っていったりもしている。バカみたいに安い値段で売るその収入は、ほとんど存在しないようなものだけど。
 ……ただしそれは全部、「言われたから」でしかない。自分からは何もしないし、それで満足らしい。そういうのは、本当にうんざりするし、気持ちが悪い。
 ピアニストになりたいとか、将棋指しになりたいとかなら、まだわかる。それが絶対に無理だとしても、なりたいものがあるのなら、それはわかる。何になりたいかわからない、というのなら、それはわかる。
 でも、そうじゃない。本当に、そうじゃないらしいのだ。
 そういうのを見ると、「何で、生きてるの?」――と思ってしまう。
 
 もう一つ言うと、兄と僕は、まあまあ仲が良かった。よくいっしょにゲームもしたし、笑ったりもした。上の二人の兄よりは、ずっと近しい存在だった。
 でもその兄は、今、僕をただただ苦しめている。そして、それで平然としている。
 そういうところも、問題をややこしくしている。嘘つきのクレタ島人みたいに、何が嘘で何が本当かわからなくしている。
 でも僕には、兄の世話や教育まで抱えるようなつもりも、余裕も、ありはしないのだ。
 
 たぶん兄は、「自分で自分を苦しめることに何の意味がある?」と思っているのだろう。そこまで言語化しているかどうかは疑問だけど、基本的な考えとしてあるのは、そういうことじゃないかと思っている。
 それはそれで、確かにまっとうなことではあるのだろう。自分で自分を傷つけておいて、それで苦しんでいれば、世話はないのだ。
 けど――
 じゃあ、お前はまっとうなのか、とは思ってしまう。
 兄の存在は僕にとって、不幸ですら、悲劇ですらない……それは、緩慢な地獄といったところだ。
 
 
 僕が言っていることは、極端だろうか?
 現実的じゃないし、自分勝手だし、厳しすぎる。
 そうかもしれない。実際には努力を怠っているだけ、自分の要求を他人に押しつけているだけ、なのだから。
 でも、僕は狂信的なわけでも、原理主義的なわけでもない。そういう心性は、疑問を持たずにはすむだろう。何が正しいかを、判断しなくてもよいのだから。細部の議論を、無視してもいいのだから。
 でもそれは、まともなこととは言えない。それは善悪でも、正誤でも、妥当性の問題でもなく。
 もしも僕が望んでいることがあるとすれば、それはバランスの取れる場所を見つけることだ。
 
 ――もっと言うなら、心の置き所≠見つけること。

 たぶん、大切なのは「今の自分」を肯定すること、なのだろう。
 肯定という言葉が大げさなら、認めてやること。ちょっとした努力でも、ささやかな成功でも、誰かがくれた言葉でも。
 でなければ、自分が存在することさえできなくなってしまう。
 チャップリンが言うように、「太陽なんて何だ。あんなのはただ光っているだけだ。太陽が考えるかい、意志があるかい? でも君には、それがあるんだ」(映画『ライムライト』のセリフ)ということになる。
 生きているというのは、そういうことだ。意志があるうちは、人は確かに生きているのだ。
 
 書くことについては、たぶん本当は、別の書き方≠ェ出来るようになっただけなのだろう。
 それは、何かを失ったり、なくしてしまったわけではなく――新しく手に入れただけの話だ。
 部屋の片隅ではない、どこか別の場所から世界を眺められるようになっただけ。
 そこに少しの寂しさや、違和感があったとしても。以前のように書けなくなったとしても、例え以前のほうがよいものが書けていたとしても。
 少なくとも僕にはまだ、書いていようとする意志があるのだから。
 それに、すべてがなくなってしまったわけじゃない。
 
 時間の使い方も、今までと違う工夫が必要になっただけの話なのだろう。
 空白の時間を意図的に作り出す必要。
 もしくは、そうでないことを忘れさせる必要。
 うまく自分を励ますなり、だますなり、脅しつけるなりする必要(それは、前からだったとはいえ)。
 それは不可能ではないし、何とかやっていけるはずだ。
 
 
 ――今の僕は、ものすごく弱々しく意味を保っている状態にある。
 からっぽの貯金箱を振るみたいに、書こうとする気持ちが、書く意味が、少しも見つけられなかったりする。
 それは本当にきついし、救いのない状態だ。
 それでも、その弱々しい意味を保とうとすることはできる。その形が崩れないように、損なわれないように。
 
 必要なのは、バランスを取り直すこと。
 もしくは、新しいバランスを手に入れること、見つけること、身につけること。
 「どれだけ変わるのか」と同時に、「どれだけ変わらずにいられるのか」ということ。
 
 ――たぶんそこが、心の置き所≠ノなるのだと思う。

 おそらく、僕が世界を好きになることはない。少なくとも、譲歩なく、100%好きになるようなことは。
 それはたぶん、自分を好きになれないからでもあるのだけど。
 だから僕に可能なのは、普通であるふり≠することだけ。
 そしてそれが出来るのなら……それで大丈夫、ということなのだろう。
 問題は、それに耐えられる程度≠ナしかない。耐えやすさの程度。そうであるふり≠ェできているのなら、それで問題はないということなのだ。
 
 僕に望むことがあるとすれば、それはロウソクみたいな小さな光を、点々と、いっぱいに増やしていくことだけ。
 それは、世界全体を明るくするわけじゃない。そうであるには、あまりに小さいし、弱々しい。それが照らせるのは、せいぜい手が届く範囲くらいでしかない。
 でも――
 それは道を示すことができる。導くことができる。それが、誰かの役に立つことだってある。
 
 時々、ほかの人のほうがよっぽど苦しんでいるし、悩んでいるんじゃないかと思うことがある。
 実際、そうなのだろう。家のローンだとか、子供の教育だとか、相性の悪い上司とか同僚とか、世界には解決不能の、解決困難の問題が山ほどあふれている。
 僕が抱えているものなんて、結局はどれも自分自身に関しての、実体のないものでしかない。避けられないものや、無理にでも答えを出さなければならないものや、誰かを傷つけてしまうようなものでは(これは少し違うか)。
 でもこれも時々、そんなはずはないような気がしてしまう。
 どうやら、普通の人はそこまで自己否定したりはしないように見える。自分自身に対していちいち疑問を持ったり、その正しさを計測しようとしたり、いつまでもぐちぐちと自分のことを批判していたりはしない。
 みんなどこかに、ちゃんとした心の置き所≠持っている。
 
 僕は、僕がどうなっていくのか、今のところよくわかっていない。
 それは悪くなるのかもしれないし、良くなるのかもしれない。結局は、それほど悪くなかった、ということになるのかもしれない。
 けど、何かに祈るような、そんな気持ちを大切にしていけたらと思う。
 ――本当に、そう思う。
 それは、とてもとても小さな声なので、静かなところで耳を澄ませていなければ、聞こえないのだけれど。

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