「孤独になりに行く場所と、孤独を捨てに行く場所」 について


 山ガールがもう絶滅したのかどうかは知らないが、個人的には特に山好きでも何でもない。

 ――『孤高の人』と『岳』。

 これからするのは、この二つのマンガについての話である。そういうジャンルがあるのかどうかは知らないが、「山岳マンガ」ということになる。要するに、山登りをテーマにした話。
 とはいえ最初に言ったとおり、僕自身は山登りをしたこともないし、あまりしたいとも思わない。少なくとも、何十キロもの荷物を背負って歩いたり、高山病の頭痛や吐き気に苦しんだり、酸素ボンベに命を預けて、足を一歩動かすのに世界全部を持ち上げるほどの全力を尽くす、というようなことをしたいとは思わない。まあ、登山家だってそんなことをしたいと思っているわけでもないだろうけれど。
 もちろん、飛行機から見た景色と、エベレストの頂上から見た景色が同じであるはずがないことは、簡単に想像ができる。
 人は気分転換や、合理性や、心のリフレッシュのためだけに山に登っているわけではない。

 山登りにも山岳マンガにも詳しくはないので、これからするのはもちろん一方的で個人的な話ということになる。描写の正確性とか、作者の造詣の深さとか、そんなことはまったく問題にはしないし、そもそもできない。
 が、ともかくもこの二つの作品を読んで僕が感じたのは、そこにある不思議な対照性だった。話の作りも、絵柄も、性格も違うのだけれど、あるテーマ性において奇妙なほどの「近さ」を持っている。
 まるで、特殊な鏡をあいだに置いたみたいに。

 ――それぞれの作品について、一応の概観をしてみておこう。

孤高の人 1巻表紙 まず、『孤高の人』(Wiki)。作者は坂本眞一。
 『週刊ヤングジャンプ』で、2007年から2011年まで連載。完結済み。ちなみに、新田次郎の原作小説があるが、僕はそれは読んでいない。
 マンガのあらすじは大雑把に言うと、人とつきあうことのできない少年(高校生)、森文太郎があるきっかけで登山に関わるようになり、次第に本格的なクライマーになっていく、という話。
 ただしジャンプの金科玉条(少年のほうだが)であるところの「友情・努力・勝利」とは縁もゆかりもないような展開で、主人公は終始、孤独と絶望と行き場のなさを抱えている。

 その辺は、物語の冒頭で主人公がむしろ「孤独を求めている」ことなどにも表れている。ちょっかいをかけてくる相手に対して、主人公が勝負に応じて校舎を登っていき、最後のところで一か八かジャンプして手をのばす、というシーンがある。
 主人公はここで、「一人がいいんだ」と叫ぶ。要するに「一人でいられないくらいなら、死んだほうがましだ」と謳いあげる。孤独であることを、決意表明している。
 つまり、孤独を求めることは、とりもなおさず「エゴイスティック」なことなのである。
 結局、主人公は校舎から墜落死したりはせず(当たり前だが)、登攀に成功する。
 そのことで、教師の一人に認められ、ちょっかいをかけてきた相手とは友情に似た関係に近づくことになる。

 このままいくと、オーソドックスな成長物語に収斂してもいいところだが、結局そうはならない。物語の中では、変わりものの友人が助けてくれるわけでも、誰かが彼の存在を全的に肯定してくれるわけでもない。
 恩師となるべきだった人間は死に、友人候補は去り、いろいろな問題によって主人公は「友情・努力・勝利」とは無縁の存在になっていく。
 彼は孤独になっていく。
 そして彼自身が、そこにしかいられない。

 例えば、3巻の98Pでは、逃げるようにやってきた夜の雪山で、主人公は二つの選択を前にする。明かりの灯る町に戻るか、誰もいない山の頂上を目指すか。
 主人公は頂上を目指す。
 そこには何の必要性も、合理的な判断もない。主人公はただ、孤独になりたかった。それだけの話だ。自殺行為だとか、無意味だとか、不可能だとかいう批判は、ここでは見当違いのものである。
 そしてそれは、個人的にはよくわかる。
 誰もいないところ、自分にさえ会わなくてすむところ、そういうところにしかいられないときがある。そういうところでしか、存在できないときが。
 そのことは、とてもとても、よくわかる。

 そうはいっても、辛うじて彼を理解してくれる人々もいる。
 同じように傷を抱える人間とか、ほんの一瞬とはいえ笑いあえた相手とか、大学で世話をしてくれる教授。何だかんだで結婚もしている。
 でも彼らが主人公を救うかというと、そういうことはありえない。
 正確には、彼を理解する人ほど、彼を孤独のままにしておかなければならない。そういう人ほど、彼が孤独でしかいられないことを知っている。
 それを否定してしまうと、彼を傷つけることになるから。
 彼を愛する人間は、彼を孤独の中に放置しなければならない。それが愛という行為とはどれほどかけ離れたものだったとしても。

 とはいえ、彼自身にしても別に奇人や変人の類というわけではない。エゴイスティックで過剰にストイックではあるけれど、人間性を持たないわけではない。彼は傷つくし、ごくまともな心を持っている。というか、それを持ちすぎている。
 けれど、彼を救うほどの出来事は、この世界では起こりえないし、現実はむしろ彼をますます孤独へと追いやっていく。不当なほどの重力を持つその場所では、脱出速度が得られる希望はない。
 そんな主人公の状態を表すのに、ごくごく微細なシーンが使われていたりもする。
 10巻の178Pでは、数年ぶりに再会した同級生と向かいあって、主人公が目をあわせられない、というコマがある。相手はそれを見て、かすかに嘲笑を浮かべる。
 ここで目を逸らしてしまうのは、僕にはすごくよくわかってしまう。
 そこには自己卑下とか、卑屈、自信のなさ、敗北宣言などが含意される。野生動物なら、相手を上だと認めることを意味する。
 けれど実のところ、問題はそれ以前のところにある。彼はただ、目があわせられないだけなのだ。自分の孤独をあくまで守るために。
 ところが、その行為にはあとづけで不面目な理由がつけたされてしまうことになる。社会的な通則は、個人的な事情に優先される。
 彼に起こるすべてのことは、概ねそんなルールによって歪められてしまう。

 物語の詳細は実際に読んでもらうとして、ここではラストの部分を問題として取りあげる。
 主人公は最終的に、ヒマラヤ(カラコルム山脈)のK2に登攀を挑む。
 この部分に、「特殊な鏡」が存在している。

岳 1巻表紙 続いて、『岳』(Wiki)について概観する。作者は石塚真一。
 『ビッグコミックオリジナル』で、連載は2003年から2012年。こちらも完結済み。
 あくまで『孤高の人』と比べると、ということなのだけど、画力は飛びぬけて高いとはいえない。というより、『孤高の人』の画力がトップクラスのものなので、そもそも比較することにあまり意味がない。
 ここで問題にするのは画力や表現力ではないので、ともかくもそれは置いておく。マンガとしての面白さは、デッサン力で決まるわけではない。少なくとも、それがすべてではない。言うまでもないことではあるけれど。

 同じ山の話ではあるが、『岳』は山岳レスキューが中心になる。
 主人公は島崎三歩というボランティアで、かなり変わったキャラクターをしている。ほとんど山(日本の北アルプス)に住んでいて、登山のエキスパート、いつも陽気で底抜けに明るく、大抵の人にバカだと思われる。
 裸の大将に……いや、あまり似ているとも言えない。
 一種の登山バカみたいな位置づけだが、救助の能力は高く、経験は豊富で、ちょっと人間離れしている。時々、山の神様にも見える。というより、山の神様そのものといってもいい。

 この主人公で印象的なのは、次のセリフ。
 ――「良く、頑張った。」
 遭難者に対して、主人公はいつでもそう声をかける。過信や慢心で痛い目にあった相手にも、悲運や天候のせいで絶望的な状況に陥った相手にも、どちらにも。そして、死者にさえ。

 ……ちょっと関係のない話になるが、一時、うつ病について社会的な関心が高まった(流行った)ことがあって、その時によく耳にしたのが、うつ病患者に対しては「がんばれ」とは言うな、というものだった。
 限界以上の無理をして、耐え続けた結果がそうなのだから、それ以上の無理を強いるような言葉をかけてはいけない――つまり、そういうことだと思う。
 それは、よく理解できる。
 ただ、この言葉はまるで、「がんばってはいけない」と言っているようにも聞こえてしまう。ある意味では、がんばったことさえ否定しているようにも。そうではなくて、「今までよくがんばったね」が、本当に必要な言葉なのではないだろうか。
 少なくとも僕なら、そんなふうに言ってくれたほうが、まだ救いがある気がする。
 もう一歩も動けないというところに閉じこめられて、「良く、頑張った。」と言われることは、どれくらいの救いを与えてくれるだろう。
 そのことが、『岳』を読むとよくわかる気がする。
 ……話を戻そう。

 このマンガの特徴は、かなり「リアルな死」の場面があることだろう。シリアスな命の選択、確実な致命傷、ああ、それは死ぬな、というリアリティ。
 例えば、要救助者が二ヶ所で別々に発生し、どちらを優先するか(どちらも命の危険がある)、とか、雪崩に巻き込まれて命綱で体を切断されるとか、ほんの指先くらいの場所を知人が落下していくとか。
 いくつかの場面では、涙がちょちょぎれそうになるところもある(息子が滑落死して取り乱す両親が、主人公に土下座しろと激昂して、主人公が深々と謝罪するところとか。etc)。

 基本的にはオムニバス形式で、それぞれ別の話が語られていく。それらは概ね、ヒューマンドラマに類するものといっていい。どうにもならない葛藤や、傷跡の残る過去の記憶、失われたものや、失われるもの――そんなものたちの話。
 そこでは山は、人と人をつなぐ場所であるとともに、それが断たれる場所でもある。
 けれど断たれた場合でも、山は相変わらずそれをつないでいる。それが断たれた場所として、それをつないでいる。ちょっと奇妙にも思えるけど、『岳』というのはそういう話である。
 あるいは、山というのはそういう場所である。

 作中で、主人公がこんなことを言う場面がある。
 「山に捨てても怒られない物」は、と救助者にクイズを出して、自分でこう答える。「ゴミと命以外ぜ―――んぶ」
 ここで捨ててもいい「物」には、自分では処理しきれない感情や、過去や、記憶、そんなものが含まれている。抱えているには重すぎるけれど、捨ててしまうにはためらわれるもの。
 山は、そんなものでも軽く引き受けてくれる。
 そしてたぶんそれらは、「孤独」と通称されるものでもある。
 『孤高の人』と『岳』は、この点でとても対照的だと、僕は思っている。
 同じ山が、一方では「孤独になりに行く場所」であり、他方では「孤独を捨てに行く場所」なのだ。

 そして奇妙な符号だが、『孤高の人』も『岳』も、最後には同じ場所を目指すことになる。
 つまり、ヒマラヤを(正確には、『孤高の人』はカラコルム山脈のK2、『岳』はヒマラヤ山脈のローツェ。登山の最高峰といえばヒマラヤということになるから、奇妙というほどでもないかもしれないが――)。


 以上、『孤高の人』と『岳』は、同じ山岳マンガでありながら、かなり性格が違う。
 一方が「逃走」の先に選んだ場所が、他方では「つながり」を生む場所として描かれている。
 そして奇妙なことに、その二つは共通の場所(ちょっと違うが)に向かいながら、正反対の結末を迎える。 
 ラストをネタ晴らししてしまうが、一方は帰還し、一方は遭難死するのである。
 『孤高の人』の文太郎は生き残るが、『岳』の三歩は山頂で凍死してしまう。

 『孤高の人』では、最終的に単独でのK2登頂に挑んだ主人公が、途中で下山を決意する。しかしそこで、下降用のザイルを紛失するというミスを犯す。
 なす術をなくした主人公は、すべてを諦めてしまう。雪に埋もれ、酸素不足と疲労で動くこともできない。ところが、無意識のまま、主人公は地上にではなく頂上へと近づいている。
 最後、主人公は死を容認したうえで登頂に成功する。高度障害で朦朧とした意識の中、主人公は偶然、過去の登山隊が残していったロープを見つけ、それをつたって地上へと生還する。四肢に大きな障害を抱えた主人公だが、帰ってきた日本の山で微笑みを浮かべる。

 『岳』では、エベレスト登頂を目指す別の登山隊が遭難の危機を迎え、主人公は自身のローツェ登頂を諦め、その救助へ向かう。絶望的な状況の中、救える者たちを救った主人公は、最後の一人を連れ帰るために再び頂上を目指す。
 しかし、酸素ボンベはすでに使いはたされ、下からの呼びかけにも満足に応えることができない。結局主人公は、すでに事切れていたその遭難者と、エベレスト山頂からの光景を目にしながら息絶える。最後まで、帰還を目指しながら(ただし、死んだとは明示されていない)。

 これは、本来なら逆のほうがふさわしいようにも思える。
 何故なら、『孤高の人』が希求したのが「孤独」で、『岳』が提案してきたのが「つながり」なのだから。
 死のほうが孤独に、生のほうがつながりに近しいことに変わりはない。少なくとも、一般的には。
 といって、この結末に作品として問題がある、というのではない。このラストには違和感とか、期待はずれとかいうものはない。
 だからこそ、この二つを対比すると不思議な感じがする。お互いが、特殊な鏡に映しだされたみたいに。

 話としてのバランスが、そういうふうに取られたのだろうか?
 世界は概ね平均化されてできている。絶対的な孤独も、絶対的なつながりも存在することはない。本来そこに存在するのは、まあまあの絶望であり、まあまあのつながりでしかない。
 すべての話の結末にあるのは、平均値に戻った世界だ。
 つまり、日常と名づけられたものが、そこにはある。物語上、文太郎には生き残る義務があり、三歩には死ぬ必要があった。

 ――けれど、こんなふうに考えることも可能ではある。
「生きることは、孤独であり続けることを意味する」
「死によって、すべてのつながりが断たれるわけではない」
 たぶん、本当はそういうことなのだと思う。

 孤独でも、生きていくこと。
 死んでも、孤独ではないこと。

 この二つは対照的ではあるが、真逆というわけではない。それは同じ山を舞台にして起こりうることだし、双方を矛盾なく主張することに問題はない。
 たぶん、生の肯定は死の否定ではないし、死の否定は生の肯定というわけではないのだろう。
 世界はゼロサムゲームではできていない。
 『孤高の人』と『岳』の終わりかたは、そういうことを教えているような気もする。

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