「価値観」 について


「おもしろい」とはどういう事か、考えていました。
 中学二年の頃に小説を書いてみたいな、と思って、ある頃から「おもしろい」というのがどういう事なのかよく分からなくなり始めました。
 小説を書く以上、面白いものが作りたくて、でも「おもしろい」とはどういう事かと考えて、僕はまるで訳が分からなくなってしまいました。人によってはつまらないものが、人によっては面白かったり、人によっては面白いものが、人によってはつまらなかったりします。僕はだから、100人中99人がつまらないと言っても、1人でも面白いと言うのであれば、それは何らかの「おもしろい」の要素を持っていて、「おもしろい」を書きたいと思ったら、その1人だけしか感じない「おもしろい」でも自分は感じなければならないんだと思っていました。
 そうやって僕は、何度か他人から見て「おもしろい」話というのを作ろうとしてみました。
 でも、全然書けませんでした。
 一体何を書けばいいのか、さっぱり分からないのです。そして、そういう状態で何か書いてみても、まるでネズミの死体でも見るみたいに(よく分かんない比喩ですが)混乱するだけでした。
 僕はそこで、自分の書きたいものを書けばいいんだと開き直ることもせず、かといって書くのをやめることもなく、半ば惰性もあって混乱しながら書き続けました。
 でもその状態は、時々ものすごくバカバカしさとか、嫌悪感とか、絶望じみた想いとかに襲われて、冗談でなく死にそうだったし、そういう自分に対してもまたバカバカしさとか嫌悪感とかを覚えて、思考がぐるぐると終わらない追いかけっこをしているような感じでした。
 小説家になりたい、というのは僕にとって非常に微妙な夢です。確かにそうなるのは理想的なのですが、上記のような思考の回転状態にあって果たして小説家になれるんだろうか、と考えると、かなり絶望的な想いに囚われました。書きたい、とは思います。けど小説家、つまり職業的小説家というものに果たして自分がなれるのか、と考えると僕は全然その事をうまく想像することが出来ません。絶望的にうまく想像できないのです。
 小説家になるのが夢です、と言う時、僕にはそれがかなり微妙な問題になるし、その事で感心されても、正直ものすごく複雑な気持ちになります。本当はそんなに強く小説家になりたいと思ってるわけじゃないんです、と思って、そしてそう思う自分が嫌いで、受け入れられなくて、受け入れられないことが受け入れられなくて……。
 かといって書くこと以外、生きる目標みたいなのにするものも思いつきません。それ以外に、特にやりたいと思うことがないのです。
 それは、多分悲しいことです。どうやって生きていけばいいのか、分からないのです。
 最近になって、僕はようやく「とりあえず自分にとっておしろいものを書くしかない」と思うようになりました。どうやらそうした方が良いみたいだし、それを踏まえた上で「おもしろい」を書いた方がうまく行く気もします。
 僕は、しかし、「おもしろい」に対する上のような考えは変わっていません。どれだけつまらないものでも、たった一人でも面白いと言うのなら、そこには何らかの面白さがあって、それには価値がある、と。だから、出来るなら物事に対して最初からつまらないとか面白いとか決めてかかりたくないし、その物事の面白さを出来る限り理解したいと思います。
 それは、ある意味では何も決めないことのようにも思えるし、それで良いのかどうかは僕にはまだよく分かりません。
「価値観を持たないという価値観」を、僕は持っています。
 とりあえず、今はそれで行こうかな、と思っています。それって結局価値観を持ってるじゃん、という気もしますが……ま、仕方ないです。
 結局、自分が納得できるのかどうか、というのが一番大切なんだと思います。正しいとか、間違ってるとか、良いとか悪いとか、合理的かそうでないかとか、でなく、またそうでもあった上で。
 それにしても、もうちょっと面白いこといえないかなぁ……。

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