「可能性」 について


 この世界がなぜ存在するのか?
 というような問いに出会った時、僕はそれを「可能性のためだ」と思っています。
 世界というのは存在しているから存在しているのであって、それ以上でも以下でもありません。何かのためにあるわけでも、何らかの理由や意味があって存在しているわけではないと思います。
(とはいえ、こういう考えはあまり好きではありません。世界や、僕らがここにあるのには、やはり何らかの運命とか、必然とかがあると思ったほうが、幸福な考え方だとは思うからです)
 しかし、近代科学的なものの見方だか、それとも逆に古代的な原始思考によるせいなんだか、僕はともかくこの巨大で複雑で面倒な世界が何の意味もなく存在しているのだ、というふうに考えていると、何だか落ち着かなくなってしまいます。
 この世界にはともかく何らかの目的があるのではないか?
 そう思わなければ、一体どこに向かっていいのか、どこに向かっているのかが分からなくなるからです。この世界にはなんの意味も目的もないのに生きているのだと思うと、とてもやりきれなくなってしまいます。
 そこで、「可能性」です。
 なにかのドラマかテレビで、治る見込みのない難病者に対する治療を続けるのは何故かといえば、それは一年後、一週間後、いや明日にだって特効薬が開発されるかもしれない、という「可能性」があるからなのだ、というようなことを言っていた気がします。
 基本的には、それと同じです。「可能性」さえあれば、なんらかの場所にたどり着くのではないか、という想像。それが、世界のある意味だ、と。
 同時にこの「可能性」といっているのは、このなんで存在しているのか分からない世界から、まるで別の場所へと「突破」する可能性でもあります。
 少し話が変わりますが、人間はよく「未熟」で「不完全」な存在だ、と言われます。
 けど、僕は「完全」な存在とは要するに、ここでいうような「可能性」の閉ざされた状態で、それは必ずしも望むべき状態ではないのではないか、とも思うのです。
 完全なシステムに制御された完全な世界、といったSFなどに時々出てくるような世界が否定的に扱われるのはそのためでしょう。異分子や変化は、新しい環境への適応や、現状の変化を生むためには必ず必要なはずです。
 世界はいずれこことは違う場所、違う世界に至る可能性を持っているからこそ存在している、ような気がします。
 電撃文庫や講談社ノベルズで上遠野浩平(かどのこうへい)という作家がいて、よく別の可能性へ突破するため、とかなんとか言っているのは、そういうことなんだと思っています(この人の小説はこの世界には何の意味もないんだ、というようなことを主張しているので、読んですごく励まされるとか、そういうことはまずないと思います。ただし、非常に面白いです。悔しくなるくらい)。
 僕らは「未完成」という状態で「完成」されているのです。
 もっとも、この文章にはなんの「可能性」もないような気はしますが……。

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