「いのち」 について
星の一生、といったりします。
宇宙にただよう細かい塵やら何やらが集まって、徐々に大きくなり、やがてそれらがまた、くっついて原始星になり、そのうち赤色巨星だとかになって、超新星爆発を起こし、中性子星だかブラックホールを残したりします。
その「段階をふんで変化する過程」が、人の一生に重ねられたりするのでしょう。
赤ん坊の星、少年の星、青年の星、中年の星、老年の星、終わりの星――
しかし実際のところ超新星になって、それで星の「一生」が終わるのかどうかは分かりません。散り散りになる場合はともかく、まだ残っている場合もあります。超新星に巻き込まれて形を失った(引力の中心点を、というべきか……?)星ならともかく、ブラックホールのその後なんて、何だかぞっとしない感じでもあります。
それはまるで、「死に損ねた」ようにも受け取ることができるからです。
まあここでの主題は星の発生とか進化過程ではないので、そんな話はどうでもいいです。寿命の短い恒星ほど明るくか輝くらしいですが、まあそれを人の人生に例えることも可能だ、というところで。
ともかくも、僕たちは「星の一生」という言葉を素直に理解することができます。 では――
星にいのち≠ヘ、あるのでしょうか?
それを厳密な意味での「生命活動」だというなら、ないでしょう。
星は生物でもないし、生きてもいません。自己複製も、ある種のホメオスタシスも働いてはいません。
ある種の「法則」に従っていて、それを「生命活動」だというなら、星が「生命活動」を行っていると捉えるのもありなのかもしれませんが、やはり無理がある気がします。
いずれにせよ、感覚的、直感的に理解できる範囲として、星そのものが「生命活動」を行っている、とは捉えられないと思います。というか、ここではそういう考えかたで話を進めていきます。
星は「生命」ではない(「生命活動」を行う主体=「生命」とすると)。
だとすれば、そこに厳密な意味でのいのち≠ヘないことになります。にもかかわらず、僕たちは星を、「一生」を過ごすもの、として感覚的に理解することができる。
それは、何故でしょう? それはつまり、いのち=au生命活動」ということです。 では、いのち≠ニは何か?
感情があること、意識を持つこと、思考すること、行動すること、変化すること、成長すること、食べること、自己複製、ホメオスタシス――何らかの可能性を持つこと。
でもそのどれもが、いのち≠正確には言い表してはいません。
あるいは、それらの定義では僕たちが感覚的にいのち≠捉えることに無理がある、というべきかもしれません。
最初に星を例え話に使いましたが、僕たちはいのち≠大体すべてのものに感じています。
机の上の鉛筆や、筆箱、鉛筆削り、処理がすっかり遅くなった古いパソコン、何故かいつまでたっても減らない積み重ねられた本の山、毎朝律儀に顔を出す太陽、もう何十年も使い続けている自分自身の体――
それらにいのち≠感じることは、案外簡単だと思います。別にお気に入りの品とかでなくとも、身近なものでなくとも(しかし自分に近いものほどいのち≠感じやすいのかもしれません)。
いのち≠ヘ生物に限定されません。だからこそ人は「星の一生」という言いかただってできるのです。
――では、死者にいのち≠ヘあるでしょうか? たぶん、あると思います。
正確に言うなら、死体にはいのち≠ェあります。そこにあるいのち≠ヘまだ失われてはいません。
死体損壊が何故罪になるのか、というのは、案外そういうものかもしれません。そこにあるいのち≠損なうことは、僕たちの何か大きな倫理観みたいなものと、深い場所で抵触するのかもしれません。
いのち≠ニは一体何か? あくまで感覚的な次元における話ですが、僕はそれを「失われること」ではないかと思っています。
「失われる」ものにいのち≠ヘ宿る。いつか「失われる」ものに、僕たちはいのち≠感じる……。 「失われる」次元はいろいろです。
子供の頃よく遊んでいた人形を、何十年かたって修理して、自分の子供にあげたりしたとき、そこには何か新しいいのち≠ェ宿ったような気になります。
つまり、形を失わなくとも、いったんいのち≠ェなくなることはありうるわけです。
もちろん、単純にもう使えなくなったとき、いのち≠ェなくなったと捉えることも可能です。
ただ、大体のものがそうですが、完全に「失われる」ことは稀です。包丁は研げばまた切れるようになりますし、何かの都合で折れた、という場合でも、包丁としての記憶と形はまだ残っています。
よしんば、完全に包丁としての形状と機能を失ったとしても、何かの断片さえあれば、たぶん僕たちはそれをあくまで「包丁」として認識するでしょう。その「包丁」に対する思い入れが強ければ強いほど、です。
こういうと、いのち≠ヘひどく恣意的なもののようにも思えます。それはあくまで、人間の都合によるもののようにも。
いや、実際そうなのかもしれません。
それは逆にいうなら、僕たちがいのち≠守らなければ、それは簡単に失われてしまう、ということです(あくまで観念的な話ですが)。
現実的な話としては、例えば鉛筆のいのち≠ェ失われるのは、ごみ箱に放り込んで、それが市の焼却施設だかどこかで燃やされたときでしょう。さすがに灰になって他のものと混ざったとき、僕たちはそれを単純な「鉛筆」として認識することは不可能だと思います。
しかしそれさえも、「元々鉛筆だったもの」はどこかにあるはずだから、「鉛筆」は失われていない、そのいのち≠ヘまだ失われていない、ということは可能です。
まあしかし、そこまで鉛筆に思い入れを持つかどうかは分からないので、もう少し一般的なレベルに話を下げます。
概ね、灰になったところで「鉛筆」のいのち≠ヘ終わります。
それはどういう段階かというと、形≠失ったときだと思います(ちなみにここでいう形≠ニは純粋な形状のことではありません。どちらかというと形而上的なものです。「そのもの」という認識、といってもいいです)。
一般的には、形≠失ったときがいのち≠フ終わるときです。それは別に火にくべられるとか、土中でゆっくり腐っていくとか、獣の餌として食べられていくとか、どんな場合でも同じです。
おそらく僕たちの元を、現実的に手の届く範囲を離れたとき、いのち≠ヘ「失われ」ます。
しかしさっきもいったように、かつて「それ」だったものは、残されているはずです。灰にしろ、土にしろ、他者の栄養にしろ。
つまりそれは、純粋な意味で存在が失われたわけではありません。 では失われたのは何か? ――それは、つながり≠ナす。
物質は、当然ながら原子の、そのつながり≠ゥらできあがっています。形≠ェ壊れたとき、つながり≠ヘ失われますが、原子そのものは残ります。つまり、壊れたのはつながり≠ネのです。
すなわち、つながり=∞いのち≠ニいうことになります。 このつながり≠ヘ時間・空間・精神的な領域でも作用します。
だから、身近なものほどいのち≠感じやすいのであり、タンスの奥にしまわれたまま、まだ形≠なくしていない人形がいのち≠セけを失っている、ということもありえます。
つながり≠なくすことはいのち≠なくすこと――
一応の結論として、いのち=∞つながり≠ニいうことになります。そしてつながり≠保障するものが形≠ナす。
僕たちの目に見え、手で触れられるものとしては、形≠ェいのち≠表している、ということだと思います。その意味で、形≠ヘ非常に重要なものだといえます。
これらは、まあ原始的なアミニズム的な考えかたといってもいいかもしれません。だからこそ、「星の一生」という言葉が感覚的に理解しえるのだと思います。
もちろん、これが正解かどうかは知りません。というか、正解なんてあるのかどうかも知りません。
――しかし、この結論からすると、「失われないもの」にいのち≠ヘないことになるんですが、この世界に「失われないもの」なんてあるんでしょうか……?
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