「不必要という必要」 について
蟻の30%は働かない、という話を聞いたことがあります。 聞いただけだったのでちょっと調べてみたところ(といっても、検索かけただけですが)、話はもう少し複雑です。 働き蟻のうち、30%が働き、30%は時々働き、残り40%は働かない、のだそうです。 時々働くのを1/2の効率として、全体として働くのは45%と見なせます。これは動物に広く当てはまって、45%の効率という法則になっているらしいです。 詳しいことはよく分かりません。 どういう実験と観察でこの数値が出たのか分からないし、蟻が働かない、というのがどういう状況なのかも分かりません。どうも餌を持ってこずに、ただ歩きまわってるものをそう見なしてるらしいのですが、「それって働いてないのか?」とも思えます。餌を見つけられない=働いてない、ということなのか……、しかしそれはそれでひっかかるものがあります。 話のついででもう一つ面白いのは、この三種類の蟻をそれぞれ別々にすると、結局もとの「3:3:4」に戻るのだそうです。働きものだけを集めると、そのうち40%は怠けるし、怠けものを集めると、そのうち30%は働きだす。
蟻の30%は働かない(実際には40%+15%=55%と見るのが正しいようですが)、これは何となく、示唆的な話のような気がします。 何故、30%は働かないのでしょう? 集団の中では必ず怠け者が出てくる、ということでしょうか。――働く必要のない存在が。
ところで、冲方丁の『マルドゥック・スクランブル』を読んでいると、この30%のことに触れて、これは「働かせてもらえない」存在なのだと書いていました。 これは何というか、とてもうがった見方だな、と思いました。 30%は「働かない」のではなく「働かせてもらえない」。もちろんこれは、小説のテーマにからんだことであって、それ以上の意味はないのかもしれません。集団の中には必ずつまはじきものがいるのだ、というだけで。 でも僕としては、これはやはりそれ以上の意味をもった見方だと思います。
「働かない」といった場合、それはあたかも、得をしている、集団の荷物として楽をしている、自分だけが甘い汁を吸っている、というようなニュアンスが感じられます。 でも「働かない」というのは、そう簡単なことではないような気がします。 例えば、動物園の動物は、野生環境では食料調達のために多くの時間を割きますが、それがなくなるために暇をもてあますようになるそうです。やることがないと、退屈して、それはやがてストレスになります。 (そのため、旭山動物園では猿の餌を仕掛けのある箱に入れて、餌の獲得にわざと時間がかかるようにしたりしているそうです。お客さんの中には、餌が取れなくて猿が可哀そうだ、という人もいるそうですが、実際は猿はすぐに餌の取り方を覚えてしまうそうです) 無為の時間、というのは自由な時間ではなく、場合によってはただの拷問でしかありません。「働かない」のではなくて「働かせてもらえない」。 これはやはり、うがった見方だと思います。
それはともかく、何故蟻の30%(実際は55%)は働かないのでしょう? 普通に考えると、この30%はどう考えても余計です。何もしていないなら、存在しなくてもいいはずです。というより、そんな余裕があるんだろうか、とも思います。これで厳しい生存競争に勝ち残っていけるのか。集団はすべからく無駄のないように、効率的・合理的に機能するべきではないのか。それが進化というものではないのか…… けれどここで逆に、むしろこの30%は進化の結果、最適化された生存戦略である、と考えることもできます。 実際に蟻が生き残っている以上、そう考えても間違いとはいえません。 では、この30%は何のために存在するのでしょう?
結論からいうと、僕はそれは冗長性≠ナはないか、と思います。 簡単にいうと、予備、いざという時のための備え、念のための準備、です。それは無駄というよりも、緊急時への対応手段、といったほうが正確です。洪水に備えてわざと河川敷を広くとったり、操作しやすいように自動車のアクセルに遊びを持たせたり。 有名なアポロ13号の事故の際、故障した本船に代わって宇宙飛行士を地球まで運んできたのは、月着陸船のほうでした。本船そのものも十分な冗長性を持たせたものでしたが、これはもう一つの宇宙船のようなもので、「究極の冗長系とでもいえるもの」(『アポロ13号 奇跡の生還』H.クーパーJr 立花隆・訳 新潮社.1998)だったそうです。結局、この冗長性が三人の宇宙飛行士の命を救いました。 すべてが完璧に無駄なく、合理的であるというのは、一見安定しているように見えますが、システムとしては柔軟性や危機対処能力に欠けた、結局は脆弱なものなのかもしれません。 不必要なものの多さとは、そのシステムの幅の広さでもあります(もちろんこれは程度≠フ問題で、行き過ぎればそこにあるのはただの混乱と混沌ですが)。
――ここで、話は変わります。 というより、ここからが本題です。
よくテレビなんかで、相当の「ダメ人間」みたいのが出てくることがあります。 些細なことまで他人に任せる、自分で出したごみは絶対に片づけない、思いやりの「お」の字もない、などなど(実際はもっと具体的な例になりますが。あと、家にかかってくる電話に絶対に出ない、とか、レストランに行くと水のおかわりを頼めない、とか……) そういうのを見ると大抵は、「おいおい、この人大丈夫かな?」と思って終わりですが、場合によってはこんなふうに思うときがあるはずです。「ああ、この人に比べたら俺はまだましだな」と。 こういう時の安心感は、わりと切実なものがあります。「俺はまだ大丈夫だな」「俺はこのままでいいんだな」というような。
これは、考えてみると不思議な話です。 その人が自分よりダメな人間だとして(この捉え方自体が相当危ういものですが)、どうして安心≠キるのでしょう。誰かがダメだからといって、自分もダメでいいはずはありません。というより、この思考そのものがけっこう「ダメ」である気がします。 にもかかわらず、人はそういうとき「自分が自分のままでいていい」という切実な安心感を得る場合があります。こんなダメな人がこれで大丈夫なら、自分が大丈夫でないわけがない。 まるで、自分の存在を許された≠ゥのようにさえ感じられる安らぎ…… それが余裕や優しさにさえつながるのだから、それは人間のエゴや弱さである、と簡単に片づけるわけにもいかない気がします。 つまりはこれも、一種の冗長性といえなくはないでしょうか? いわば、精神の、可能性の冗長性。
蟻のように考えるわけにはいきませんが、働いていないように見える30%も、実際的にはまったく意味がないわけではありません(おそらく)。 それと同じように、「ダメ人間」と見なされるような人間も、実際的には何かの役割を持っているのかもしれません。 つまり、人としての許容範囲、境界石、限界、ボーダーライン、そういう部分における役割を。 人は集団として可能性を負担しあっていますが、そこには正の可能性と負の可能性、その両方が存在します。アスリートや、芸術家や、プロスポーツ選手や、障害者スポーツや、そんな正の可能性と同時に、途方もなくダメダメな、そんな負の可能性をさえ、人はまかなう必要があるのかもしれません。
例え否定されるべき可能性にしろ、そこには人間にとって無視できないものがあります。つまり、「人間とは何か」という、そのあやふやな問いを考えるうえで無視できないものが。 でなければ、どうして人は自分とは関係のない殺人や盗みや姦淫や虚言について、興味を持ったりするでしょう。どうしてそれらについて本に書かれたり、題材になったりするでしょう。 それは「人」を考えるうえで、つまりは「自分」について考えるうえで、そこに無視できないものであるからです。 人間は不安定です。そして不安です。それはおそらく冗長性と同じように、システムとしての強度上、必要な不安定さなのだと思います。その不安定さを贖ううえでも、冗長性は必要になります。 両方に開かれた可能性、そのどちらでもないことを、人はその不安定さゆえに確認したくなります。自分がそうなれなかったものと、ならなかったものを。 それが、「切実な安心感」の正体なのかもしれません。
以前、何かのテレビ番組で、タレントの森山中がこんなことを言っているのを聞きました。 森山中の誰か(誰かは覚えてません)が、昔いじめにあっていたとき、そのことに耐えかねて苦しんでいるとき、ふとこう思ったそうです。「自分をいじめているみんなは輝いている」「わたしがみんなを輝かせている」。 これは、ただの笑い話にはならないものがあります。というか、笑い話ではありません。 普通、いじめられる=存在を否定されている、という図式ですが、ここでは、いじめられている=存在を肯定されている、という図式が持ち込まれています。さらにいえば、自分がいじめられることによってみんなを救っている、とさえいえるのです。 ここには奇妙な逆転があります。否定⇔肯定、虐げられる⇔救う、という。ある意味これは、「奴隷の宗教」といわれたキリスト教的でさえあります。
もちろん、結局はただの犠牲にすぎない、利用されているに過ぎない、とすることはできます。きれいごと、勘違い、歪んだ思い込み、搾取の正当化…… 念のために言っておくと、もちろんこれは虐げられる側に許される論理であって、虐げる側がこんなことを言い出したら、それはもうおしまいです。マンガ『軍鶏』で少年院の院長が、「イジメられることなら君にもできる。それだって立派な存在価値です」と言っていますが、どう考えてもこれはグロテスクです。
いじめられることの肯定―― それは諦めや、敗北や、弱者のたわごとや、戦う前に逃げ出すこと、なのでしょうか。 しかしそうでもしなければ存在を守れないときがあります。それさえ否定されたとき、その人はどうすればいいのか。 システムはその安定性を保つために、冗長性を必要とします。使われていない脳の70%、無意味な繰り返しを残す遺伝子の塩基配列。 不必要とはそんな、一見無駄に見える、冗長性≠ナもあります。不必要なものは、まさしく不必要≠ナあることによって必要とされるのです。 ニーチェもこんなことを言っています。 「そして、何ゆえにむしろ非真理を欲しないのであるか? 不確実を欲しないのであるか? 無知を欲しないのであるか?」
それにしても、これは人としての強かさなのか、それとも悲しさなのか? 蟻は働かないのか、働かせてもらえないのか。 人間には正の可能性だけでなく、負の可能性さえ必要とされるのか。 不必要は必要なのか。 ……それともこれは、ただののんきな独り言に過ぎないのでしょうか?
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