「ヒーローは死んだ、何故だ」 について
もし、今スーパーマンやスパイダーマンみたいな「ヒーロー」がいたとして、世界はどうなるんでしょう? 戦争はなくなって、飢える子供はいなくなって、福島の廃炉は簡単に終わらせられるでしょうか。 それは可能かもしれません。 でも、格差社会やら年金問題やら老老介護やら児童虐待やら交通事故やら地域社会の空疎化やら日々の生活での感情的齟齬やら、そういうものはどうすることができるんでしょう。 エネルギー問題は、あるいはスーパーマンが発電用自転車でも全力で回してれば、解決するのかもしれません。設定的には何かそれくらいできそうな気がします。 でも、「ヒーロー」がいたとして、今の世界はどうなるでしょう。 彼/彼女らは、何と戦うべきなんでしょう?
すべての絶望や不幸を救い、希望の世界を作ることが、「ヒーロー」にはできるでしょうか。 というより、そんな「ヒーロー」を想像することは可能でしょうか。 はっきり言って、それは不可能です。希望を持つことは可能です。空想することは可能です。 でも、現実的にそこにいて、世界のすべてを救うような、そんな「ヒーロー」をもう誰も思い浮かべることができません。 救われるべき世界のほうが、もう存在しないからです。たぶん。
おそらく、「ヒーロー」は過去と現在では、それなりに変質しています。 過去というのは、遠くシュメールやらギリシャやら、ギルガメッシュやらヘラクレスやら、まあ神話の時代から存在している「半神」みたいな人々のことです。 古典的ヒーロー、といってもいいかもしれません。仮面ライダーや、ウルトラマン、ヒーロー戦隊なんかも、やはりこの系統かと思います。 ちなみにここで共通しているのは、彼らがあくまで「人間」であることです。半分か、それ以下であるにしても。 「ヒーロー」という属性には、人間であることが不可欠です。何故なら、彼らが救うのは「人間」だからです。
しかしまあ、問題が大雑把なあいだなら(馬小屋のくそ掃除とか)超人的能力で何とかやっていけるでしょうが、それが微細化してくると、古典的ヒーローの出番は途端に少なくなります。 事務処理を超高速で片付けてくれる存在を、たぶん誰も「ヒーロー」とは呼びません。パソコンやプログラマーを、誰もそうは呼ばないように。 僕たちのまわりにあるのはけれど、大部分はそういう問題です。 今の世界に「ヒーロー」が存在するには、たぶん救われるべき「人間」のほうが曖昧化してしまったのだと思います。 人々は、ヒーローを必要としない社会を作ったのです。 つまるところ、「ヒーロー」を殺したのは「人間」とも言えるわけです。 皮肉なことではありますが。
というわけで、現在は「ヒーロー」にとって生きにくい時代なわけです。 そこには怪獣もいなければ、世界制服をたくらむ悪の組織もいません。 では、今描かれるべきヒーロー像とはいったい、どんなものなのか?
ここで二つの映画について言及したいと思います。 それは『Mr.インクレディブル』(wiki)と『ハンコック』(wiki)です。何故この二つかというと、たまたま僕が見たことがあるからです。ええ、それだけですとも。 『Mr.インクレディブル』は2004年、『ハンコック』は2008年公開。 どっちもファミリー向けの映画ですが、設定はなかなかパンチの効いたものがあります。
まず、『Mr.インクレディブル』は「ヒーロー」が些細な事件で社会から排除される、というところから話がはじまります。粘土的な質感のアニメとあいまって、その辺は実に皮肉っぽく、逆説的、かつ社会的、現実的に描かれていきます。うなります。 「ヒーローであることが何故いけない?」 という問いかけと同時に、 「ヒーローを求めていないのは、我々のほうではないか?」 という疑問を投げかけてきます。大体、腹の中心あたりに向かって。 同時に「ヒーロー」を、かつてそれを夢見たはずの大人たち、というメタファーとして提出してもいます。 「あなたたちも昔はそうだったでしょ?」というふうに。「――そして、今はどうしていますか?」 そういう意味で、実に社会的なアニメでした。見事なもんです。
『ハンコック』のほうは、ウィル・スミス主演の、これも皮肉っぽい設定の映画です。 超人ではあるけれど町の嫌われ者、ハンコック。しかしあることをきっかけに、正義の味方に生まれ変わろうとします。 で、正義の味方活動をはじめるんですが、銃撃戦の中で女性警官を助けに行って、「今から君に触れるけど、それは性的な意味はない」とか何とか事前に説明するところは、笑えないところが笑えます。実に皮肉っぽいところです。 それはともかく、この映画を見て「ふーん」と思ったのは、主役のハンコックが明らかに零落した人間をシンボライズしていることです。 何しろ、アルコール依存症です。そのくせ、空も飛べるし、弾丸もはじくし、楽に車を持ち上げたりもします。 その時、これは要するに「敵がいないせい」だなと思いました。 「ヒーロー」には必ず「敵」が必要です。でないと、「ヒーロー」の存在意義がないからです。民のいない王は滑稽だそうですが、敵のいないヒーローは迷惑らしいです。 で、存在意義のないハンコックは外部に「敵」が不在のため、それを内部に求めているのだろう、と。 それがアルコール依存症であり、傍若無人ぶりであり、町の嫌われ者である、という設定です。 ただ、映画自体は僕のそういう感想とは無関係に、もう一人超人が現れて、それはハンコックと対になる存在で、一緒にいると普通の人間になる、とか何とかやりはじめて、後半は何かよくわからないうちに終わりました。どうやら思った話とは違っていたみたいです。 しかしまあ、どっちの映画も「ヒーロー」が実に皮肉っぽく扱われます。 ただし、最終的には「ヒーロー」の存在は和解をもって終わります。
「ヒーロー」には、救うべき「人間」と戦うべき「敵」の存在が不可欠です。 そのどちらかを(あるいは両方を)、欠いた状態では、「ヒーロー」はその存在にたちまち故障をきたします。社会的に鬱屈したり、アル中になったりします。
それに比べると、最近やってたアニメの『HEROMAN』(2010年)と『TIGER &
BUNNY』(2011年)は「ヒーロー」がテーマのはずですが、何となくいまいちでした。 『HEROMAN』(wiki)は原作がアメコミの巨匠、ということで、日米アニメ論みたいのも展開できそうですが、結局のところ「うまくいかなかった」の一言で終われそうな気もします。 それが日本とアメリカの「ヒーローやアニメの違い」なのかどうかはよくわからないんですが、ともかく全然噛みあってませんでした。絵のクオリティはよかったんですが、いろいろなところがまったく腑に落ちないままで終わりました。 これを見てて思ったのは、『リロ・アンド・スティッチ』(wiki)でした。 原作はディズニーですが、これには日本版の『スティッチ!』(wiki)があります。沖縄が舞台です。 日本版のほうは、まるで別物の印象でした。動き、絵面、そういうアニメーション部分で、なんかまったく別の感性とか価値観が働いているんじゃないか、と思えるくらい。そして残念ながら、日本版のほうは「よくあるアニメ」でしかありませんでした(一応、僕にとっては)。 話が横にそれました。
『TIGER & BUNNY』(wiki)は、一言で言うと『X-メン』のパクリです。 他にどういう言い方もありません。 このアニメ、作中に実在の企業ロゴが広告という設定で使われていて(ペプシとかソフトバンクとか)、それがどういう意味を持つんだろうと思ってたら、どういう意味も持ちませんでした。 企業の広告塔として活動するヒーロー、バラエティー番組としての犯罪者逮捕、というふうに気になる設定で、どこに向かうつもりなんだろう、と思っていたら、どこにも向かいませんでした。 アニメのあり方としては、あるいは実験的なのかもしれませんが(そうでもないですね。広告としてのアニメなんて)、結局はよくわからないまま「よくあるアニメ」として終わりました。 百年たってもこの評価は変わらないと思います。
ついでに言うと、映画『デスノート』の続編の『L change the
WorLd』が正直いまいちだったのは、「敵」の不在によるものではないかと思います。 主人公が天才であるためには、それに見あった「敵」が必要です。 でないと、それはただの設定上の天才です。 やはり、「ヒーロー」は「敵」がいないと成り立ちません。
最初の問いに戻ります。 今の世界に「ヒーロー」は存在できるのか? 存在するとすれば、それはどんな「ヒーロー」なのか。 ――僕にはわかりません。 もちろん、旧来の古典的ヒーローの価値が消失するわけではないでしょう。それはやっぱり、どこかで存続されるべきものなのだと思います。 でも今、「ヒーロー」は何と戦い、何を救うべきなんでしょう。 その対象すら、一言では言えないものになってしまっている気がします。
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