「Gはレコンギスタしたか?」 について


『ガンダム Gのレコンギスタ』 オープニング

 『ガンダム Gのレコンギスタ』は2014年から放送されたテレビアニメシリーズ。深夜放送、全26話。いわゆる、ガンダム。監督は富野由悠季。
 ガンダムシリーズとしては、『ガンダムビルド』の次の順番。(とはいえビルドはプラモの話だから、直近は『機動戦士ガンダムAGE』になる)。『Gレコ』の次は『機動戦士ガンダム 鉄血のオルフェンズ』。
 公式サイト(こちら)とWiki(こちら)。
 富野作品としては、『∀ガンダム』から15年、短編CG作品の『リング・オブ・ガンダム』(僕は見たことない)から5年ぶりの作品になる。Zのリメイク映画をのぞくと、『キングゲイナー』と『リーンの翼』がもっとも最近のもの。
 ガンダムシリーズとしては、ここでは特に触れない。これはあくまで、『Gレコ』の話である。
 
OVERMAN キングゲイナー 『Gレコ』がはじまったときは、監督が富野由悠季ということで、個人的には期待半分、不安半分というところだった。
 何しろ、ガンダムシリーズの生みの親というか、「正統的作者」ということにはなるだろうし、富野アニメで面白かったものは多い。『ブレンパワード』とか『キングゲイナー』とか、直近のアニメはとても好きだった。
 特に『キングゲイナー』なんかは、一世代か二世代くらい前のアニメを見事にリバイバルした感じで、「ああ、こういうこともできるんだ」とわりと感動したくらいだった。あれははっきりと、「面白いアニメ」だったと言える。
 それに映画のほうではあるけど、『逆襲のシャア』は「今後、これを越えるアニメ映画が存在することはないだろうな」と今でも思っている。すべてにおける完成度が逸脱していて、同じことが繰り返されるとは思えないのだ。――まあ、極端で、偏屈で、ごく個人的な意見としては。
 ただ、好みでいうと『F91』のほうが好きだった。子供の頃に映画館で見た、ということもあるだろうけど、あの作品の続きが一番見たかった。そもそもテレビシリーズとして企画されてたらしいし。
 『∀ガンダム』も好きだし、『Zガンダム』は通しで何度か見るくらい好きだった。まあ、個人的な体験はとりあえず置いておく。結局は、それがけっこう重要なのかもしれないけれど……。
 
 で、『Gレコ』の話に戻る。
 まずはじめに、正直言って「よくわからなかった」。面白いとか面白くないとか以前に、「何だったのか」がわからないのである。
 それは単純に、僕がうまく「見れなかった」とか、個人的に「あわなかった」とか、それだけの話なのかもしれない。僕の中の何かが足りなくて、あるいは過剰になっていて、それが障害になっただけなのかもしれない。
 だから、これから書くことは基本的には「いちゃもんをつける」のに近い。それはあくまで、正確性や、妥当性や、公平性や、「深さ」を欠いたものかもしれないし、個人的な好みの話でしかないのかもしれない。
 他人がどれだけ評価しても、歴史がどれだけ評価しても、あわないものはあわないのである。それは個人的な問題であって、作品そのものとは何の関係もない。
 ――でも、この作品に関しては、それだけのことじゃないようなが気がする。僕は僕なりに「素直」に見たつもりだし、それで理解できないとなると、「作品のほうに問題があった」のではないか、と。
 というか、個人的にそれだけのことですませられないのである。『Gレコ』というものが一体なんだったのか、個人的に確定しておきたいようなところが。
 それはたぶん、神学者が聖書中の些細な文句に、何年も思考を巡らすのに似ているのだと思う。
 
 これを書くのは、今さらになって、ということはある。放送終了から4年以上たってるし、別に何かの理由やきっかけがあった、というわけでもない。
 とはいえ、自分なりに「Gレコとは何だったのか?」を整理しておく必要があったのは事実である。修道士が四六時中神に祈りを捧げるほどじゃないにしろ、しょっちゅう「あれって何だったんだろう」と考えていたから。
 その問いに対する答えはまったく出ていないけれど、問いそのものが残っている以上、そのことは仕方がない。ここに書くのは、答えというより、その代用品でしかない。
 まあ、それでも、迷ったときにコインを投げるくらいには役立つかもしれない。
 ――ちなみに、最近になって劇場版が公開されていくらしいのだけれど、それとはまったく関係がない。世界は世界で、勝手に動いていればいいのである。
 
 もう一度言うけれど、これは「個人的な意見」である。あなたがそれで評価をどうにかする必要はないし、気にする必要もない。何かを面白いと思ったのなら、それは単純に面白いのである。
 ついでに言うと、あなたが僕の評価をどうにかする必要もない。個人的な意見というのは、そういうものである。要するに、それは魂の自由なのだから。

 『Gレコ』の話をはじめていく前に、とりあえずざっと個人的な意見をまとめておこうと思う。その問題点について――
 それは大体、次の四点になる。

@感情移入しにくい主人公

A誰と誰が、何のために戦っているのかわからない戦争

B見えてこない世界設定

C方向性を確定できないストーリー

 というわけで、以下この四つに従って具体的に見ていくことにする。
 蛇足ながら、ネタバレを含むので注意されたし。
 
 
@感情移入しにくい主人公

ベルリ・ゼナム 主人公、ベルリ・ゼナム。ちょっとよくわからないけど、17歳らしい。
 富野アニメにしては珍しくといっていいのかどうか、ほとんど「陰」というものがない。一種の天才である、というのは別にいいとして、性格的にひねくれたところがなくて、何というか「不幸のオーラ」がない。
 もうちょっと正確に言うと、内省的なところ、陰気なところ、消極的なところがなくて、F91のビルギットいわくの「そういうのって、大概個人的には不幸だったんだよな」というのがない。頭はいいんだろうけど……。
 ZZのジュドー・アーシタも性格的にはかなり陽性だったけど、それでも「妹を山の手の学校にやりたい」とか、そういう切実(?)な悩みを抱えていた。それすらない。
 作中でも、何度か妬まれてるくらいである。一応、赤ん坊の頃に地球に送られて、という話はあるけれど、それで苦労したかというとそうじゃなくて、どっちかというとかなり恵まれた環境で成長しているのである。
 
 この主人公が、正直うまく捉えられなかった。感情移入できなかった。
 感情移入というのは、要するにその相手を「応援したくなる」かどうか、である。わかりやすく言うと、「貧しいけど才能にあふれた若者が苦労しながら成功していく」とか、「恋に悩む男女が様々な障害を乗り越えて」――とかいうやつ。
 必須である、とは言わない。「応援」とまでいかないこともある。
 それでも、主人公というのは読み手(視聴者)が物語に関わっていくための「窓」みたいなものだから、その主人公が「よくわからない」というのは致命的としかいいようがない。
 別にそれは、主人公に好感が持てないとまずい、ということではない。
 もっと単純に、「物語に関われない」のである。関わりようがない。その結節点となるべき人物に、関われないのだから。
 ほかの三つもそうなのだけど、『Gレコ』では全体的にこの「物語に関われない」感じが強かった。精巧な立体映像がそこにあって、手をのばしても、どうしても触れられないみたいに。
 
ベルリと二人 主人公への違和感を具体的に挙げていくと、例えば次のようなことがある。
 最初、主人公はキャピタル・ガードに所属している(というか、一応最後までそういうことになるのか?)。で、二話目でアメリア軍のカーヒル大尉を撃破する。この時点では何だかはっきりわからないのだけど、この大佐は「死んでいいような人間ではなかった」らしい。
 その後、なし崩しというか成りゆきというかで、海賊(アメリアの独立部隊)に間借りするというか、参加するというか、名目的には捕虜になる。
 ここの展開も、あまり納得できるものじゃない。アイーダ(実は姉)に一目惚れするとか何とかいうつっこみや、本人の意志みたいのも描写されるけど、……無理でしょ、と。
 無理というか、主人公の立ち位置がわからないのである。どこに所属していて、何を志向しているのか。
 しかも、その海賊軍で戦闘までして、本来の自分の所属であるはずのキャピタル・ガードからきたモビルスーツを撃破している。敬愛する(?)デレンセン教官を返り討ちにまでしている。
 ……あんまりじゃないかな。
 と、思った。何の罪もない(か、どうかはともかく)キャラクターを二人も殺しておいて、そのことを掘り下げるでもなく、話が続いていく。普通なら、「もう戦いたくない」とか「戦う必然がありません」てなことになりそうだけど、まったくない。
 何のためにあの二人が死んだんだか、わからない。
 当然、主人公がしたことの意味も、わからない。重要人物を二人も殺しておいて。実際、あれって何だったんだろう?
 
 この辺の混乱はかなり処理に困ったけど、ともかく主人公なことに変わりはないわけだし、彼に導かれて話を追っていくしかない。
 とはいえ、この躓きはけっこう大きい。話に歩調をあわせるのが難しい。
 おまけに、それだけじゃすまない。
 アイーダに一目惚れだのどうだのは、けっこう長く話が引っぱられるんだけど、突然それが「実は姉でした」になる。
 ……あんまりじゃないかな。
 とまではいかないけど、「スターウォーズかよ」とはつっこんだ。レイア姫は双子の妹だけど。
 この辺のことも、こっちが未処理なうちに話が進んでしまう。ベルリの恋心だか何だかは、どうなったわけ? と思いながら。
 
 それに、声のこともある。
 いや、声そのものはあってたと思うんだけど(少なくとも、まずいだろう、とは思わなかった)、時々出てくる「え゛ぇ゛ー」とか、「〜しなさいよ」とかいうやつ。
 ……正直、「んー」だった。狭量なことは言いたくないけど、個人的にはどうしてもなじめなかった。はっきり言うと、「うるさかった」。
 そんなこんなで、どうしても主人公が好きになれなかったけど、問題はそれより、どのキャラも好きになれなかった、ということ。
 
 大体において、どのキャラも立ち位置がよくわからないのだ。
 アイーダにしても、姫姫言われてるけど、高貴と責任感、無能と小娘感がごちゃまぜになってて、正直どうしていいのかわからなかった。ベルリとの関係も何だかよくわからなかった。
ルイン・リー 主人公に感情移入できそうにないので代わりの人間を探すと、それができそうなのがルイン・リーだったのだけど、これも躓いた。
 一応、「ガンダムにおける伝統」であるらしい、マスク役が与えられる(∀のハリーは好きだった)。とはいえ、やられ役すぎるし、有能なんだか無能なんだかよくわからないところがある。これじゃあ、ライバルじゃなくて、ただの道化だよ。
 被差別民であるところのクンタラ設定で、マリィとの純愛みたいなのがあって、そこに何とかとっかかりができそうだったけど、何かもう悪役というか、私情に突き動かされすぎてて、それもよくわからなかった。最初の、「優しい先輩」的なポジションはどこ行ったんだろう? それとも、強化人間にでもされてるのか……?
 たぶん、一番まともに感情移入できそうだったのは、ノレド・ナグ。一番普通で、これも被差別民であるところのクンタラ設定で、ある意味等身大で苦悩してくれているキャラだったけど、重要キャラとはいえないし、物語のメインラインにはほとんど関わってこない。
 
 しかし結局のところは、主人公だろう。
 物語における「基準線」というか、価値判断の基点になるべき存在が、その機能をはたしていないのである。となると、物語そのものが宙吊り状態になってしまわざるをえない。
 それはどこにも向かわないし、どこにもたどり着かない。
 慣性に従って、等速直線運動をただ続けるみたいに。
 
 
A誰と誰が、何のために戦っているのかわからない戦争

 実際のところ、何となくわかるけど何となくわからない、というのが実情である。少なくとも、アニメだけを見ていると普通に混乱してしまう。
 一応、まとめてみるとこんなふうになる。地球や月といったそれぞれの地域が対立していて、おまけにその地域内部でも争いがある。

 地球(大陸): アメリア ⇔ ゴンドワン
 キャピタル・テリトリィ: ガード ⇔ アーミィ
 月(トワサンガ): レジスタンス・本国守備隊 ⇔ ドレッド軍
 金星方面(ビーナス・グロゥブ): テン・ポリス ⇔ ジット団 
 (一応、左側が主人公サイドか)

 正直、Wiki(こちら)を見たほうが早い。というか、もしちゃんと知りたければ、そうして欲しい。
 これらが、それぞれの利害だか思想だかで手を組んだり戦ったりしてて、もう何がなんだか意味不明だった。
 だから、もうとにかく主人公側に視線をあわせるしかないんだ、と思ったけど、この主人公すら誰と何のために戦ってんだか、よくわからない。
 戦争をやめさせなければ、という立場で戦っている、といえばそうなんだけど、そもそも「どうやったら戦争が終わるのか」がわからない。何故なら、「誰と誰が、何のために戦ってるのかがわからない」から。
 
 一応、エネルギーの大本である「フォトン・バッテリー」と「技術」の独占を巡る争い、ということにはなるんだろう。それですべての生活がまかなわれている以上、その支配権を握った人間が、人類全体を支配する。
 そして、各地域の人間が、それぞれその権利は自分たちにある、と思っている。
 の、はずなんだけど、誰が誰と戦って、誰が誰を利用しようとしていて、誰が誰と協力しているのか、ということになると、よくわからない。本当によくわからない。
 それに、この「フォトン・バッテリー」の設定もわかりにくいし、それを巡る議論も、「技術の独占は――」とか「我々が地球を守ってやっているから――」とか、何かすっきりしない。
 ちなみに、「フォトン・バッテリー」そのものは金星からクレセント・シップによって輸送される、という設定で、地球も月さえも、要するに「生かされている」状態でしかない。
 もっとも、地球はそれがなくてもやっていけるんじゃないかな、とか思ったり。∀の時にやってたのが、それなわけだし……。
 この辺の設定のわかりにくさは、Bにまわすのでこれ以上云々しない。
 というか、頭が痛くなってきた。
 
 戦争の様態が理解しにくいとはいえ、よくわからないといえば、Zガンダムのときもわかりやすいとは言えなかった。
 少なくとも見ている当初は、全然そんなこと気にしなかったことは覚えている。
 あれは「ティターンズ」対「エゥーゴ」の図式なんだけど、ティターンズというのは、そもそも地球連邦の独立部隊である。スペースコロニーの暴動鎮圧部隊。だからエゥーゴは反地球連邦組織なわけだ。
 これは、ガンダムの「ジオン」対「地球連邦」を考えると、立場が180度逆転していることになる。
 んだけど、見ている当初はまったくそんなこと気にしなかったし、気にしなくても面白かった。カミーユに感情移入しやすかったからかな?
 まあ少なくとも、誰が敵なのかははっきりしていた。
 
 ∀ガンダムにしても、その辺はまあわかりやすかった。産業革命レベルに戻った地球、という設定も面白かったし。
 月で文明レベルを維持していた人間たちが地球に戻ってくる――当然、地球に残っていた人間と軋轢が生じる、というのもすんなり理解できた。
 その上で、密かに地球へ帰還していたムーンレィスであるロランが、地球側に立って苦悩しながら戦う、というのは、かなり感情移入しやすい構図ではある。戦力の圧倒的劣勢や、それを覆す∀の存在、というのもそそられるところである。
 すべての歴史を「黒歴史」としていったんリセットする、という野放図さも素晴らしかった。
 
 『Gレコ』の場合は、しかし作中では「戦争」を連呼してるけど、そもそもの話あまり「戦争をやっている」感じはしない。
 それはまあ、そもそも状況が理解できない、というのもあるんだけど、規模の問題でもあるかと思う。
 作中、各組織に艦隊が数隻、という規模だったと思うけど、それが何というか、「戦争」というより「戦闘」レベルじゃないのかな、と感じるところはあった。
 中世の騎士レベルというか……。
 戦争とは何か、というのは意外とバカにできない問題だけど、『Gレコ』の場合は何故か戦争という感じはなかった。
キア・ムベッキ それは例えば、金星に行ったときの、ジット団のあの隊長(キア・ムベッキ)なんかを見ていても感じるところではある。
 自分で戦闘をしかけておいて、自分で施設を破壊して、「やっちゃならんことだ」と叫んでいることのバカバカしさ。見ているとき、何やってるんだ? と本当に思った。
 それでモビルアーマーで蓋をして、自分は犠牲になる、とか言われても……「え?」と思うしかない。この話、何なんだ、と。悲劇なのか、喜劇なのか。悲壮なのか、滑稽なのか。
 ――本当に、何だったんだろう。
 
 
B見えてこない世界設定

キャピタル 大抵の世界設定がそうであるように、設定というのは設定だけで魅力を持つ、ということはない。もしくは、ほぼゼロに等しい。ごくまれには、設定だけでも魅力的な作品というのはあるけど……。
 結局のところ、中身の問題なのである。どれだけ設定がよかろうが、消費されるのは中身でしかない。僕たちは料理を食うのであって、皿を食うわけじゃない。店の雰囲気を食うわけじゃない。
 とはいえ、だから設定なんかどうでもいい、ということにもならない。それは、物語の外枠・フレームであり、支持基盤、構造であり――物語を成立させるもの、である。
 『Gレコ』は、この世界設定が見えてこなさすぎた。
 
 あくまで作中から得られる情報をもとにして、個人的に理解したところを書くと、次のようになる。

・人類が全滅しそうになる
 →技術を封印、エネルギーの管理統制
 →月で保持されていた技術が地球に流出
 →その技術を利用して大陸間で戦争をはじめる
 →現在

 ここまでが、おおざっぱな過去設定。
 で、現在がどういう状況かというと、重要なのは次のようなこと。

・エネルギー源である「フォトン・バッテリー」はキャピタル・タワーから配給される。
・そのタワーを守っているのが主人公の所属するキャピタル・ガード
・キャピタルは戦争を認可していないが、大陸では戦争をやっている
・技術に関することなどは「タブー」扱いされている
・「タブー」は宗教扱いされている

 この宗教関係の設定が、かなり理解しにくかったし、今も理解できていない。あとは、

・月と地球に交流はない
・地球人は、いわば「生かされている」状態
・月は地球と違ってかなりの技術を保持している(そのわりには、戦力は互角みたいだったけど)
・この技術の不平等を巡って争いが起きる
・さらに金星方面に高い技術が保持されている

 ベルリとアイーダの設定、この辺も相当わかりにくい。

・二人は月にいたレイハントン家の子供
・レイハントン家は技術が悪用されるのを恐れていた
・Gセルフは本来、月からやって来た偵察用の試作機で、「ついで」で二人を探していた

 かなりわかりにくいけど、この辺の設定の上にストーリーが作られている――はず。詳しいことは、もうWiki(こちら)参照で。
 ともかく、人類が全滅しかかった、というのが一番の味噌で、すべての設定はここからはじまっている。
 にもかかわらず、その時の話そのものは、ほぼ出てこない。というか、出てこない。それがどれだけ悲惨で、残酷で、取り返しがつかなかったか、ということは。
 ――何故、それが起こったのか、ということは。
 本来的には、ここがメインテーマになりそうなんだけど、何というかそんな感じじゃない。一応、多少の議論はあるんだけど、もう「人間は愚かだから戦争をする」みたいな話にしかなってなくて、それ以上先に進まない。かなり切実で、重要なテーマだと思うんだけど……。
 第一、「クンタラ」の設定が作中では意味不明だった。「人に食われるような劣った人々」という話はあるんだけど、「本当に食われてた」なんてわかるかよ、と言いたい。
 これが唯一、全滅しかかったときの悲惨さに「かすっている」んだけど、それすら作中では理解しようがない。現在のクンタラの差別のされかたも理解しにくい。
 
 Wikiも見て、ようやくわかるような設定だけど、ただ、じゃあ設定が複雑なのがまずいのか、というと……問題は少し違っているような気がする。
 問題なのは、「設定」が理解できないことじゃなくて、「設定の意味」が理解できないことなんじゃないか、と。
 設定自体は、理解しようと思えばできる。どれだけわかりにくかろうが、納得がいかなかろうが。
 でも、それとストーリーが「噛みあっていない」ような気がするのだ。
 というか、この設定がこのストーリーに、あるいは、このストーリーにこの設定が必要だった、という「実感」がない。
 接着剤がうまく効いていないみたいに、設定とストーリーの定着が弱い。
 その上でストーリーが動いていくと、噛みあってない歯車を無理やり動かしているような「ぎこちなさ」を感じてしまう。
 壊れたフレームにエンジンを載せたところで、まともに動くはずはない。そんなものは、すぐに分解してしまうのだから。
 
 そもそもは、設定的には∀とのあいだの話だったはずなのだけど、いつのまにか∀のあとの話になっているらしい。月との関係とか、どうしたって∀を意識せざるをえなかったんだけど、結局は無関係ということになる。
 まあ、つなげようとすることのほうが無理があったと思うので、そのほうが都合がいい気はするけど。
 この辺は、下手にガンダムシリーズとして見ようとしたのが「ややこしさ」を増やした気もする。もしかしたら、『Gレコ』を単体で見れば、もっと素直に見れた可能性はある。もっと面白く見れた可能性は――
 そもそも、作中では「ガンダム」の言葉は出てこない、んだったかな。
 だからといって、ガンダムシリーズなことは間違いないし(ガンダムよりも重要な「ミノフスキー粒子」が出てくる)、「ニュータイプの音」なんて思わせぶりすぎるタイトルの回もある。
 ……ニュータイプはどうなった?

 ちなみに、レコンギスタは「宇宙から地球への帰還・移民」を意味する。当然、レコンキスタにかけてある。失地回復。
 『Gレコ』がガンダムシリーズとして失地回復したかどうかは知らない。
 
 
C方向性を確定できないストーリー

 キャラが好きになれなかろうが、状況が混乱していようが、設定が理解しにくかろうが、実際にはそれほど問題にはならない。
 一番問題なのは、「話の方向性」を決定できないことだ。話の「意味」を。
 
 ともかく、どんな物語だろうと、その「ポイント」をつかむのが最重要である。ポイントがつかめないかぎり、その物語を理解することはできないし、その物語には意味が生まれてこない。
 桃太郎で重要なのは、桃から生まれたことでも、きびだんごを腰につけたことでも、犬猿雉をお供にしたことでもない。重要なのは、鬼退治に行ったこと。そこが、話の「ポイント」である(たぶん)。
 で、僕としても何とかして『Gレコ』の「ポイント」をつかみたかった。それさえつかめれば、話は面白くなるはずだから。
 
 実のところ、何度か話のポイントらしいものをつかみかけたことはある。あくまで、自分にとってのポイント、ではあるにしても。
 ところが、そのたびに、つかんだはずのポイントが外されていって、新しいものを探さなくてはならなくなった。具体的に説明すると、こんな経過になる――
 
 最初は、とりあえず様子見。はじまった瞬間から「わかる」ということはあるけど、そこまで期待はしない。
 いまいち理解しにくいと思いつつ見る。
 海賊についてったあたりでかなり疑問点が重なってしまったけど、主人公の才能とGセルフの性能から、これは要するに「主人公が無双する」話なんだ、と思う。というか、一種のトリックスターである。問題や困難は、主人公が大体解決してくれる。
 これは、別に問題のある展開じゃない。第一、既存のガンダムシリーズだって、突きつめてしまえばそういうことである。ガンダムに乗ったアムロは、誰よりも強いのだ。
 と思ってたんだけど、デレンセン教官を返り討ちにしたあたりから、また何かよくわからなくなってくる。
 月との戦争がはじまったあたりになると、もっとわからなくなってくる。こここそ無双か、と思ったけど、そうでもない。そもそも、何で戦ってるのかわからないせいもある。
 設定がごちゃごちゃしはじめて、理解が追いつかなくなる。
 金星に行く、という話になったとき、そうかこれは「過去を探す旅」なんだ、と思う。諸悪の根源というか、この世界を生んだ理由を探しに行く旅なんだ、と。
 ところが金星まで行って、ジット団のよくわからない話があって、体がぼろぼろの二百歳の人間が出てきて――となるだけで、過去のことはよくわからないまま終わる。
 地球まで戻ってきて、再び戦争に加わる。
 マニィがモビルアーマーで逃走し、みんなを裏切ってまでルインのところに行く。ここでむしろ、主人公より「この二人に感情移入できそうだな」と思うんだけど……無理だった。ルインはともかくクンタラにこだわるし、マニィはそれに追随するだけ。むしろ、ラスボスみたいな扱いになってるし……。
クンパ・ルシータ そしてラスト付近になって、主要キャラが唐突に死んでいく。それはもう、本当にゴミのように……。クンパ大佐なんて、いくら戦争の元凶みたいな扱いだからって、あの死に方はないだろ、と思う。
 それでいて、エンディングでしれっと何もなかったようにしてるマスク=ルイン。
 実の父親を宇宙船をで踏み潰す子供(天才、クリム)――これ、どうなの?(実際は踏みつぶされてはいないらしい)
 そして結局、何がどう決着したのかもわからずに話が終わってしまう……。
 
 大体、三回くらいはポイントをつかみかけたんだけど、そのどれもが「何か違う」で終わってしまった。早い話、こっちで期待するようには話が展開しなかった、ということである。
 もちろん、そんなのはお前の好みの問題だ、ということではあるんだけど。
 ポイントとは違うけど、話のおおまかな質として、『キングゲイナー』みたいなものなのかな、と思ったこともある。
 絵柄のせいもあるのかもしれないけど、こう、わりとコミカルな話なのかと。
 ∀に関する本人の話とか、キングゲイナーの時に、「もう悲惨な話はいいよ」と言ったらしいことからすると、むしろそういう方向性で見たほうがいいんじゃないかな、と。
 それだけに、ラストのあっけなく人が死んでいく展開は、今でもどう消化していいのかわかっていない。変な話、裏切られたような気さえしてしまうのだ――
 
 結局のところ、主人公たちの「戦う理由」がどうしてもつかめなかったところがある。
 侵略されて、望まない戦いに巻き込まれた、というわけでもない。敵が圧倒的で、こちらの兵力は僅少、というわけでもない。
 ガンダム的には、これはけっこう重要な要素のような気がするんだけど。「戦いたくて戦ってるわけじゃない」と「主人公が活躍するための兵力差」――は。

 以上、長々と四つの点を見てきたけど、まああくまで「個人的な意見」である。僕にはうまく理解できなかった、というだけの話でしかない。
 あるいは、26話は短すぎた、ということもあるのかもしれない。もっと長いスパンで、ゆっくり丁寧に展開していけば――
 と思うが、しかし長くすればどうにかなるかというと、わりとそれも疑問ではある。
 ともかく僕としては、どうしても『Gレコ』の見方がわからなかった、という話なのだ。
 
 で、富野監督は『Gレコ』の対象年齢を、「10歳から15歳。だって、それ以上の年齢の人は見ても役に立てられないと思いますよ」と言っている(こちら)。これはまあ、硬直化した世界を変革させられるのは、まだ常識というものを持たない子供だけだ、みたいな感じなんだけど、この辺も「ひっかかり」の一因くらいにはなったのかもしれない。
 ただ、はたして子供がこれを見て面白いのかどうか、は僕にはわからない。案外、そうなのかもしれない。もっと素直に、キャラデザインとか、メカへの憧れとか、アニメのクオリティとかに感心することができれば。あるいは、主人公に感情移入したり、設定を自分なりに意味づけられたり、ストーリーの方向性をつかむことができれば。
 
 個人的にも、そうなればいいと思う。このアニメを、うまく消化できればいいと思う。自分の中に、きちんと取り込めれば。
 もしかしたらいつか、ぱっと視界が開けるみたいにそれができる、ということもありえるかもしれない。必要なピースがすべてそろって、それがうまくはまるようなことが。
 ――そうなればいいと思う。本当に。

『ガンダム Gのレコンギスタ』 アイキャッチ

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