「子供になる物語 ―『フリクリ』―」 について


 いや、こんな表題をつけておいて何だけど、その意味は自分でもよくわかっていない――ような気がする。
 けどどうも、そんなふうにも思えてしまう。
 このアニメが最後に目的にしたことは、「子供になること」だったんじゃないのか、と。
 そもそも、これは主人公であるナオ太の話だし、ナオ太が最終的にどこに至ったのかというと、そういうことなんじゃないか、と。
 
 実のところ「フリクリ」はそもそも、「解釈」を受けつけないようなところがある。
 実際は何も考えず、そのまま面白がればいいし、たぶんそれが一番正しい。
 ただの、とにかく面白いアニメ。
 そこには説教臭い哲学性も、しゃちほこばった倫理観も、韜晦するようなSF設定もない。
 ――にもかかわらず、その全部がある。
 たぶん、「訳がわからない」のが、このアニメの一番の魅力なのだと思う。
 
FLCL 一話 もちろん、評価することは可能だろう。
 それも、多面的に。デザイン、音楽、ストーリー、キャラクター、世界観、アニメ史における位置(僕にそれが可能だとは言っていない)。
 けど、これが「どういう」アニメなのか、を評価するのは至難でもある。
 ……「フリクリ」とは何なのか?
 
 小説版や、いくつか資料みたいなものがあるけど、僕は読んではいない。
 最近公開された新作も、見ていない。監督も違うみたいだし、とりあえず、ほったらかしている。
 だからこれは、論評でも批評でも――感想でもない。
 もしも正確に言うなら、たぶん「ちょっとした思いつき」なのだと思う。
 
 
FLCL DVDジャケット とりあえず、基本的なデータを。
 2000年からOVAとして発表。監督は鶴巻和哉。Production I.G、ガイナックスによる制作。全六話による構成。Wiki
 要するに、あのエヴァンゲリオンを作ったガイナックスのアニメである。監督の鶴巻和哉はエヴァの副監督をしていたそうな。
 オタクじゃないので、それ以上のことを語る能力はないのだけど。
 
 なお、以下の文章にはネタバレを含みます。気にする人は、注意を。
 とはいえ、何が謎なのか謎なくらい謎なアニメではあるのだけれど――

 まず、このアニメの要点をいくつか押さえておきたい。
 基本的なジャンルは、ロボットアクションSFアニメ、というところ。設定は現代、舞台は架空の都市「マバセ」。
FLCL 一話 主人公である「ナオ太」は小学生で、大人びてクールなところがある反面、子供っぽいところも。
 というか、その二面性の狭間で不安定な心を抱えている少年、というところ。
 ナオ太には特殊な能力があって、その能力「N.O」によって様々な事件が引き起こされる。
 その能力を発現するきっかけは、「ギターで頭を殴られる」こと。そうすると、別の場所につながった空間から、いろいろなものが出現する――ロボットとか。
 ……死ぬほどばかばかしいと同時に、優れて象徴的だと思いませんか?
 
FLCL 六話 そのナオ太の能力に目をつけたのが、ハル子。本名、ハルハ・ラハル。宇宙人で家政婦で時々看護婦で、とりあえずめちゃくちゃな性格。
 彼女はある力(というか、人物)を手に入れるために行動している。
 そのうえで、それを捕えている巨大組織、メディカルメカニカと対立。
 メディカルメカニカは「訳もなく宇宙中の星を(巨大なアイロンで)まっ平らにしているような連中」のこと。
 
 ――ストーリーのフレームは、メカニカとハル子の戦闘によって形成される。つまり、ハル子が原動力であり、エンジン部分。
 けれど「意味性」はナオ太にある。要するに、フリクリの世界は、あくまでナオ太の「視点」によって成立している。
 時折、ナオ太のモノローグが入るのはそのためでもある。
 
 
 主人公であるナオ太の、周辺人物について。
 ナオ太の家には、父と祖父しかいない。そして、アメリカ留学中で、不在の「兄」。この兄に対して、ナオ太は複雑な感情を抱いている。憧れと、劣等感。
 ――たぶん、フリクリでもっとも重要な設定が、この不在の「兄」だと思う。
 一方、母親は最初から存在しないかのように扱われている。
 というか、扱われてすらいない。作中でも言及されることは一度としてない。
 これは、意図的というより、黙殺に近いものがある。原因はたぶん、ナオ太の「子供性」を要求してまうためではないか、と思う。そうすると、作品のバランスが著しくとりにくくなってしまうのだろう。
 重りが強すぎて、天秤がうまく揺れなくなってしまうみたいに。
 
 それから、女子高生であるマミ美。
 「兄」の元彼女で、現在はナオ太とつきあっている……つきあっている、のか? とりあえず、作中では皮肉を込めて「嫁」と呼ばれたりもする。
 ――彼女は、ナオ太が「弱さ」を共有する相手でもある。
 何故なら、二人とも「兄」の不在を共有しているから。
 だから、一話目で「マミ美くん家はあれなのかい。貧乏なのかな?」と言われたとき、ナオ太ははっとするのである。それは彼女の弱さが……つまりは自分の弱さが、露呈させられた瞬間だから。
 
 そして、アマラオ。主人公の分身であり、矮小な大人の代表。
 政府の管理官として、メカニカとの折衝役みたいなこともしている(らしい)。ハル子を危険視するとともに、過去に自身の「N.O」を利用された経歴がある。
 ちなみに、「たっくんのほうが立派だったぴょん」とばかにされるような人物。
 とはいえ、個人的にはかなり好きなキャラクターではある。たぶんそれは、作中でもっとも「無力な現実」を生きているから――なのか?
 
 小学校のクラスメート三人はとりあえず、置いておく。
 
 
 フリクリでは随所に「大人」が強調される。
 主人公のナオ太からして、「中身の成長してないバカ大人め」と憎々しげに吐き捨てるような性格で、ゲームなんてお気楽だし、小学校の劇なんてばかばかしい。
 同時にそれは、ナオ太のいささか歪んだ非子供性の表れでもある。「すごいことなんてない」と述懐するナオ太は、日常にうんざりしている。
 というか、傷ついている。ナオ太はそこにいかなる幻想も見出せない、そこでは「ただ当たり前のことしか起こらない」。
 けれど、酸っぱいのも、辛いのも嫌いなナオ太は、大人でもない。
 非子供にして、非大人。
 その辺には、不思議な危うさすらある。いつバランスが崩れてしまってもおかしくないような――
 
 ナオ太は子供でいることができない。
 何故なら、ナオ太は「兄の不在」を抱えているから。ナオ太にとって、兄は憧れの存在である。強く、かっこいい。
 子供には本来、自分のことを無敵だと思うような幻想が備わっている。自分のことを世界一だと思うような。ナオ太にとってそれは、「兄」によって代表されている。
 ところが、その「兄」がいなくなって、消滅した幻想と、現実だけが残されてしまう。本来あるべき幻想が、兄の不在によって損なわれている。
 けれど、不在を破壊することはできない。もう失われてしまったものを失うことは不可能なのだから。
 
 ナオ太は不可避的に、壊れた幻想を生きるしかない。
 しかも、そんな「兄」の幻想と、ことあるごとに比較されてしまう。というか、自分で比べてしまう。
 例えばそれは、四話目の「振らないバット」に象徴される。草野球の助っ人を頼まれて、全打席で棒立ち。
 どうしてバットを振らないかというと、それは壊れた幻想を、そのうえで完全に破壊してしまう可能性があるから。
 要するに、自分が「兄」ではないことを認めてしまわざるをえないのだ。それは、自分自身の破壊をも意味する。
 バットを振らないことは、そのことを繊細かつ的確、そのうえばかばかしく表現している。
 マミ美でさえ、結局は「兄」のことを頼っている。だから、五話目で、自分でなく兄に助けを求めるマミ美に、ナオ太は激昂せざるをえないのである。
 
 ――ついでに、五話目でナオ太がマミ美に「マミ美だっておれのこと好きなんだろう」と言って、二人がはっとするシーン。
 ここは僕にとって、けっこう意味のとりづらい、不思議なシーンだった。
 けど考えてみると、そういうことなのかもしれない。
 ここでは、壊れた幻想が露出してしまっているのである。ナオ太は不在の「兄」を自分で補完せざるをえない。そうしないと、自分を保つことができないから。
 そしてそれは、二人の共同幻想でもある。マミ美も、「兄」を必要としている。
 けれど、ナオ太は結局「兄」にはなれない。そのことが二人に露出させられる。要するに、そういうシーンなのかもしれない。
 
 ちなみに、父親は父親でしかない。あくまで現実的な存在で、子供のことは「ハムスターと違って、勝手に大きくなるもんですよ」と達観している。
 あるいは、敵対者でもある。ハル子を巡る「嫉妬」の対象でも。
 実は、それでいてこの父親はナオ太を「ナオ太」として扱っている。無責任に見えて、一番現実的な責任を負っている――のかもしれない。
 
 
 子供と大人を巡る、ナオ太の物語――
 そんな中で、ハル子は「ここじゃないどこか」へ連れて行ってくれる存在である。兄と同等の存在、その不在を回復させてくれる存在。
 一話目でのシーンは、そのことを意味している。
 橋の上での戦闘時、ナオ太は彼女を見て「すごい」と口走ってしまう。そして次の瞬間、それを後悔する。何故なら、「一瞬でも、兄に似ている」と思ってしまったから。
 そんなハル子は、ナオ太を子供でいさせてくれる。不在の「兄」を埋めてくれるものとして。
 
 とはいえ結局のところ、作中ではナオ太は、子供でもいられないが、大人にもなれずにいる。だから、世界に対してバットくらいしか武器がない(いつも持ち歩いているのはそのため……だろう)。
 ――そんな子供でも大人でもないナオ太に対して、世界はあくまで選択を迫る。
 実質的に世界を支配するメカニカは、単純で平板で強大な「大人」(というか「社会」?)。
 ハル子は無茶苦茶で自分勝手で独立独歩の「大人」と「子供」のあいだ、あるいは「大人」でも「子供」でもないもの。
 メガテンではないけれど、ナオ太はそのあいだを揺れ動く。
 その案内役を担うのがアマラオで、メカニカに対して下手な刺激をしないよう忠告する。要するに、ハル子とは関係するな、と。大人になれ、と。
 ここでの「大人」は眉毛に象徴されている。「もっさりぶっとく大人の魅力」というわけだ。ただし、それは海苔(だそうだ)をはりつけただけの脆弱な虚飾にすぎない。
 最後のシリアスシーンで「何故、眉毛をしてないんだ」なんてセリフが平気で語られて、しかもそれがかっこよく見えてしまうのが、実にフリクリ的ではある。
 
 各話の細かい筋や展開は省くとして、ともかく世界の命運を握る戦いがやって来る。
 メカニカはとうとう、地球をまっ平らにしようとするのである――アイロンで。
 
 結局、最終話でナオ太は「海賊化」してメカニカを一蹴、ついで、ハル子にも勝利する。この時、ナオ太は「大人」を超越したことになる。あるいは、世界を。
 完全な無敵としての子供。取り戻した幻想。
 ――そして、与えられた選択肢。
 「兄」という壊れた幻想も、「子供」という無力な現実からも、ナオ太は一時的に自由になる。
 アマラオの「思い知らせてやれ」の言葉に対して、けれどナオ太はハル子への「告白」を選ぶ。ナオ太は大人のふりをすることをやめる。
 つまり結局、現実の「子供になること」を選択する。
 
 最後の別れのシーン。
「いっしょに行く?」
 と、いたずらっぽく訊いたあと、「やっぱだめ」と言って、ハル子はまじめな声で言い直す。
「たっくんはさ、まだ子供だから」
 ――と。
 この場面は、けっこうな寂しささえ覚えてしまう。それは、「子供」の二面性を露出させているからなのかもしれない。
 一方で(おそらく幻想の世界で)、無敵。一方で(おそらく現実の世界で)、無力。
 現実的な子供になったナオ太は、ハル子という幻想にもうついていくことができない……
 それは同時に、ナオ太が少しだけ成長したことも意味している。
 
 ――そして、マミ美だけが「ここじゃないどこか」へ去っていく。たぶんそれは、「兄」のいないどこかなのだろう。
 それはナオ太にとって、代替的な「弱さとの決別」でもある。

 フリクリには細かく見ると、本当に不思議な箇所がたくさんある。
 例えば、一話目でナオ太がマミ美から渡されたジュースを乱暴に投げ棄てるところとか。こういう意味深な演出が、一方でばかばかしいようなメタ演出といっしょになって提示される。
 
 それに冷静に考えると、「何と」「何で」戦ってるのかがわからなかったりもする。
 カンチはそもそもメディカルメカニカのロボットらしいのだけど、同じロボットと戦っている(メカニカにとりこまれたアトムスクがカンチを操ってる――というところ?)。
 おまけに、カンチは最終的にはターミナルコアの一部ということになるし……
 とはいえ、そういうのが全部どうでもよくなるくらいに戦闘シーンはかっこいい。何というか、破壊的に。
 
 実際のところ、フリクリには笑うしかないシーンが多々ある。一話目から早々に、バイクで轢かれるところとか。
 特に、落下してきた人工衛星を、ギターで打ち返す場面。
 ガイナックスふうの司令室で、オペレーターが鼻血流しながら冷静に状況報告してる。その場所で、あくまで野球ふうに解説が挟まれる。
 ――そりゃ笑うよ、こんなの、としか言いようがない。
 マンガふうのシーンだとか、サウスパークのシーンとか、いろんなところでボケ倒しているし。
 

FLCL 六話

「FOOLY COOLLY」
 作中でしょっちゅう尋ねられていた「フリクリ」の意味。
 だから、それはたぶん正しい。
 ナンセンスとも違う、コメディでもない。シリアスでも、感傷的でも、ヒロイックでも。
 けれど――
 同時に、そのすべてでもある。
 もしかしたら、「フリクリ」は一つのスタイル≠ンたいなものなのかもしれない。そしてたぶん、子供だけが、そのすべてでいられる。

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