「ファイナルファンタジーV」 について


 1990年発売、ファミコン。
 最近(2006年)になって、ニンテンドーDSにリメイクされたりもしている。グラフィックが一新されているのは当然として、キャラクターにもちょっと設定が出てきたみたいである(実際にやったことはないのでなんとも言えないけど……)。どの程度「感じ」が変わったのかは、まあ、やってみないと分からない。
 それはともかくとして。
 ここで話題にしているのは、ファミコン時代のファイナルファンタジーVである。
 ……どうでもいいのだけれど、ファイナルファンタジーのことを「FF(エフエフ)」というのか「ファイファン」というのか、どっちが正しいのだろう? ちなみに僕は(というか僕の家では)「ファイファン」と略していた。ファイアーエンブレムのことを「ファイエム」と略すのと同じ理屈で。もちろん、「FE」と呼んでる人もいるかもしれないが……、ま、ともかく。個人的には「ファイファン」のほうが楽なのだけど、どうもこの呼び方はあんまりメジャーじゃないような気がする。通じないのも困るのだけど、実際にはどっちの呼び名が多いんだろう? 誰か調べてくれないものか……。
 話を戻す。
 実は子供の頃ファイナルファンタジーVをやって、クリアしていなかった。当時の僕はロープレでもシューティングでも、ろくにクリアすることが出来なかった。
 要するに下手だったのだ。
 それでもゲームが好きだったのは、今から考えると少し妙な気もする。
 ともかく、ファイナルファンタジーVの記憶は、僕の中ではようやく「ませんし」になった辺りで止まっていた。大戦艦は手に入れたような気もするが、それにしてもごくあいまいな記憶しかない。
 比較的鮮明に覚えていることと言えば、ポーション99個集めて武器を強くしたり、レベル上げたりする裏技のことで、おまけにどうしても敵の「おたから」でポーション2個が手に入らず、それでプレイするのを諦めた、というようなことである。その辺の運の悪さについては、僕の中では今でもジレンマとして残っている(兄貴は簡単に手に入れてたのだ)。
 それをもう一度やる気になったのは、単にエミュレーターを使って簡単にプレイできたのと、一応エンディングを見ておきたかったからである。
 そんなこんなで、僕は十何年かぶりでファイナルファンタジーVをやった。
 ……。
 やってみて、一番意外だったのは「自分が一切ストーリーを追っていなかった」という事実である。
 カズスの村(二番目の村)の住人がジンの呪いで透明人間になっていたこととか、目の見えないグルガン族のこととか、実は最初の世界は浮遊大陸だったこととか、闇の四戦士のこととか……。
 ほとんど覚えていない。
 光と闇が、相対的に配置されているのも初めて気づいた。どっちがいいとか悪いとかいう話ではなく、光と闇のクリスタルは、単純にエネルギーとして存在している。そこに意思はない。
 闇が暴走するのと同じように、光も暴走する。そしてその結果生まれるのが「無」。
 ストーリーは最後に、その「無」と対決するところに終着する。ラスボスの「くらやみのくも」である。
 つまり、主人公は光サイドだから闇サイドと戦う、ということではなくて、世界を「無」から守る、という「意思」を持っているから戦う、ということになる。
 「正義の味方」だから戦うのではなく、「正義の意思」を持っているから戦う。
 運命ではなくて、意思。
 この辺のテーマは、意外とシリーズで一貫しているような気がする。ファイナルファンタジーといえば毎回システムを変更してくるのが特徴だが、テーマは首尾一貫しているのかもしれない。
 「無」と「希望」。
 Vをやってみて、わりと似ているな、と思ったのは\だった。雰囲気というか、ラスボスの目的が同じなこととか(大分前なので、いまいち覚えていないけど)。

 しかし、最初に言ったように、子供の時はそれらのストーリーをまったく無視していた。多分、理解する必要性すら感じていなかった。
 そしてなお意外なのは、それでも最高に面白いと感じていたこと……。
 少なくともその時の僕は、ゲームに対してなんのためらいもなく感情移入していた。自分は完全にゲーム中の主人公と一体化していたし、プレイすることに頭がしびれるような陶酔を感じていた。画面やシステムや小道具に対して、限りない愛着を感じていた。ゲームが存在することに、どうしようもない幸福があった。
 幸福。
 確かにそれは、幸福だった。正確には「幸福感」というべきだろうけど、ともかく幸福だった。どうしようもないくらいに。
 不思議なものである。
 僕は完全に、ストーリーを無視していた。
 それでも、面白かった。
 要するにそれは、自分で「物語」を作っていたのだ。僕がその時ゲームに求めていたものは、単純に何らかの「手段」と「方向性」を持った「動き」だったのかもしれない。話が動きさえすれば、そのディテールは自分の感情が勝手に補完してくれる。
 物語の消費ではなく、生産。
 もちろん、それは生産というほど大仰なものではない。正義の主人公が、悪の魔王を紆余曲折を経つつ倒す、というごく単純な筋を、自分の方で再生産しているだけのことだ。お定まりのストーリー、約束された物語。
 しかしそれはやはり、生産だった。
 今はゲームをやっても、「消費」することはあっても、「生産」することはない。僕は一定の手順に従ってゲームを進めながら、その中のストーリーを読み取るし、制作手順という別の物語に目を向けたりもする。作り手がどういう手順をたどってこの物語にたどり着いたのだろう、とか、このシステムはどういう発想から生まれたのだろう、とか。
 でもそれはやっぱり、「消費」なのだ。
 子供の頃のような、あのためらいのない感情移入を、多分、僕はもうしない。それは、僕がそれを「作られたもの」だと知っているからだ。そこには僕が書き込むべき余地はどこにもない(そうじゃないかもしれないが)。僕はそれを読み取るだけ。
 だからといって僕は、それが悪いことだとか、心が鈍くなった、などというつもりはない。
 それは失われるべくして、失われたものなのだろう。
 多分。

 ……しかし、エミュレーターだからよかったようなものの、このゲームを実際にファミコンでやっていたら大変だったろう。ファイナルファンタジーにしてはエンカウント率が高めだし、ラストダンジョンは長いし、セーブできないし。
 しかも「えんげつりん」が呪われた武器ってどういうこと? あと地下に行って、召喚獣取り忘れてたから、いちいち戻ってまたやってきたら、その三つの召喚獣を買えるだけ、というのもショックだった。苦労したのに。
 しかし、プロローグの青地に白文字の表示とか、今でもぐっとくるものがある。ひらがななのが、またいい感じなのだ、不思議と。文章の感じもいい。

 ともかくも、良いゲームでした。

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