「文体」 について


 広辞苑によれば(といっても、僕の持っているのは1976年発刊のやつですが・・。しかも裏表紙に兄キの名前があるし)、
 ぶんたい【文体】
 @(style)文章の風体。いかにもその作者らしい表現上の特色、また、作者の思想・個性が文章表現の仕方ににじみでている全体的な特色。
 と、なっています。
 一冊の本を読んでいる場合、そこで書かれている文章のリズムだとか、語勢の強弱だとか、もっといえば鉤括弧のつけかただとかいうのは(人によっては鉤括弧の代わりに――を使ったりしますから)、基本的に変わりません。
 村上春樹を読んでいれば、そこには村上春樹の文体があるし、司馬遼太郎を読んでいれば、そこには司馬遼太郎の文体があります。
 そして文体によっては、表現しやすい内容と、表現しにくい内容があります。
 ・・ちょっと違う気がしますね。なんというか、内容自体は、どんな文体でも表現できる気がします。彼が泣いた≠ニいうのを、誰がどんな風に書いても、やはり彼が泣いた≠アとに変わりはありません。
 違うのは、表現したい内容の感じ≠ナす。村上春樹の文体では、司馬遼太郎の文体にある感じ≠ヘ表現できません。逆もまた真なり。
 要するにその感じ≠アそが、文体のすべてである、と思います。
 作家なら、(多分)大体の人が自分独自の文体、感じ=Aを持っています。だからこそ、その本はその作家のものである、ということになります。
 僕は文章を書きます。
 もちろん、大多数の人が文章を書きます。そこには、多分、知らず知らずのうちにでも、何らかの特徴、その人の感じ≠ェあります。
 でも、その感じ≠ェ好ましいものかどうか、は別の問題になります。
 僕ははじめの頃、別に何も考えずにものを書いていました。でもそういうのは、途中でどうしても嫌≠ノなってきます。まるで、自分が苦労してゴミ≠ナも作っているような気になります。もともとの話が駄目だというのもありますが、どうしても自分の文章が好きになれないのです。こんなものを書いて、なんになる、という気になります。
 それで人の真似をするようになりました。そうすると、なんとかかんとか書けるようになります。
 そういうのが良いことなのかどうか、よく分かりません。
 でもまあ、絵でも模写から入っていくこともあるし、モーツァルトだって人の模倣をしてたっていうし、「ペガサス」というのは創造じゃなくて「馬」と「鳥」をくっつけて想像したものだ、という人だっています。
 そう思いながらも、なんというか、
(こんな真似ばっかりしてていいんだろうか?)
 という気になります。
 もしも人が僕の書いたものを読みたい、といってくれたとすると、それは多分、僕の書いたなかの感じ≠ェ少しは気にいったからだ、と思います。
 その感じ≠ニいうのは、つまりは僕の文体です(もちろん、そればかりではないはずですが、つまり何故わざわざ僕のものを読みたくなったか、ということにしぼると、結局はそれが重大問題になります)。
 逆に言えば、僕は、自分独自の、しかも好ましい文体を持たなければ、自分のものを書いた、とは言えないことになります。人真似では、結局のところ自分の文体ではなく、人がわざわざ僕のものを読みたい、というふうには考えないからです。
 それで、今までに何度か、「自分の文章」を書こうとしたことがあります。人の真似ではなくて、自分だけで書いたものです。
 でもそうすると、まるで何も書けなくなります。本当に、何を書いていいのかさえ、分からなくなるのです。出だしの一文だってどう書いていいか分からないし、無理矢理に書いてみても、それが一体どんな感じ≠ネのかが、さっぱり分からないのです。
 そのうちに、そういう混乱は体中に広がって、僕は結局、何もできなくなってしまいます。
 それは多分、感じ≠ェ明確に先にあって書かなくてはならない、と思っているせいもあります。それは、本当はまるで逆のことです。感じ=A文体というのは書いた後からついてくるもので、それは自然発生的なもののはずです。少なくともそれは、意識しなくてもでてくるはずのものです。
 そういう混乱は、結局のところ僕自身の自己性の薄弱さ=Aみたいなものから出てくる気がします。
 僕は僕が嫌いです。嫌いとまでは言わないでも、好きではありません。それは、別に自分が好きな人はみんなナルシストだとかいうレベルではなくて、自分を信頼できるかどうか、とかもっとごく単純で重要なレベルにおいてです。
 僕は大体の物事、行動について、いつも「自分がやるよりはもっと適任な人がいるはずだ」というようなことを考えています。それは自分より優れたものがやるべきだ、と。
 でもそんなことを考えていれば、どんなことだってできなくなってしまいます。
 本当に、どんなことだって、です。
 つまるところそれは、自己存在の必要性、みたいなところにまで行き着きます。
 実のところ僕は、その「必要性」を、文章によって回復させようとしているところがあります。ものを書くことによって、自分の「必要性」を他者に、そして自分に復活させよう、というような。
 そういうのは、高校の頃からありました。というか、その頃に生まれて、僕はそれにしがみつくしかなかったようなところがあります。そうしなければ、「自己」というものをついに絶望せざるをえなかったようなところが(念のために言っておくと、別にいじめられてたとかそういうのではありません。僕自身にもそのことはよく分からないし、そのことはここでは書かないことにしておきます。長くなりそうだから・・)。
 でも結局、そういう行為ってむなしいものかもしれません。現に今、僕はそのことで悩んでいます。回復させるどころか、僕はひどく間違ったことをしているんじゃないか、という気になります。文章を書くというのは、それとはまるで逆の行為のような・・。
 自己って、なんでしょう?
 僕は僕の文体を、どうやって手に入れればいいんでしょう?
 僕はどこに行こうとして、そのために何を手に入れなければならないんでしょうか?

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