「僕は自分のことを正しいとは思いたくない」 について


 あなたは、何かに対して腹を立てたことがありますか?
 ――もちろん、あるでしょう。
 あなたが聖者か愚者でないかぎり、何かに対して怒りを覚えないということはありえません。そして、あなたは聖者でも愚者でもない。
 もちろん、それは僕も。

 ちょっとした必要性(アルバイト)から、僕は夜中に自転車を走らせています。
 その時にちょくちょく、無灯火の自転車とすれ違います。
 ええ、無灯火です。ライトをつけてないんです。はっきり言って、危ないです。怖いです。場合によっては直前まで気づかず、暗闇から不意に現れたりします。こんなの、テロ行為以外の何ものでもありません。
 当然だけど、僕は腹を立てます。危ねえだろ、クソ野郎、と心の中で毒づきます。できるかぎりの罵詈雑言を頭に思い浮かべます。すれ違いざまに蹴り飛ばしたくなります。かっとなって、怒鳴りつけたくなります。ソクラテスばりに、お前はろくでなしの愚か者だと説教したくなります。
 それに僕としては、夜中に自転車を走らせるという、けっこう心楽しい行為を邪魔されることにもなるのです。ほとんど誰も走っていない時間に自転車を走らせるのは、心を素敵に自由にしてくれます。場所にもよるとは思いますが、おすすめです。
 ところが、無灯火の自転車が走っていると、注意力にそれなりのコストを使うことになります。これでは心を自由にするなんて無理です。
 でもこれも当然だけど、僕は黙って通りすぎます。せいぜい、ささやかな嫌がらせとして自転車のベルを鳴らすのがいいところです。もちろん、それで相手が気づくわけもありません。

 それだけなら、別にどうという話ではないんですが、僕自身も不思議に思うことが一つあります。
 夜中に出かけるたび、僕はどうやら、そうした無灯火テロリスト自転車に「会いたがっている」らしいのです。
 まるで、光ならそれが月だろうが炎だろうが、詳細なんて気にせずに集まる蛾か何かみたいに。
 どうして、僕は自分からそんなことを望むのでしょう? わざわざ、不愉快な気持ちになるために。
 ――それはたぶん、僕はその時、「怒ることができる」からです。

 怒っているとき、腹を立てているとき、頭に来ているとき、人は自分のことを「正しい」と思っています。
 あるいは、正しいかどうかの判断を棚上げするような状態になっています。
 それはたぶん、「反撃するための反応」が「怒り」という感情システムを構築したためではないかとも思います。つまり、相手がやろうっていうなら、こっちもやってやろじゃないか、というわけです。
 反撃なのだから、すべては許される。
 古くはハムラビ法典から、現代の正当防衛にいたるまで、認可されているように。

 本来なら、相手の不当行為がこちらの「怒り」を招くわけですが、これは容易に逆転するらしいです。
 つまり、「怒り」たいために、相手の不当行為を期待する。
 何故なら怒っているとき、自分は「正義」でいられるから。
 少なくとも僕は、そうらしいです。
 いわゆる「かっとなる」という生理反応は、実際には数秒しか持続しないらしい(つまり、数秒後にはその感情はきれいさっぱりなくなってしまう)のですが、人間はわざわざ、その不快状態を求めてしまうことがあります。
 何故なら、怒りは快楽になりえるから。
 人は自分のことを「正しい」と思いたがっています。だから間違いなくそう信じさせてくれる「怒り」という感情は、歪んだ愉悦になりうるのではないかと思います。

 実際のところ、「怒り」にどのくらいの正当性があるのかはわかりません。ケースバイケース、というところでしょうが、「怒り」が相当厄介な感情であることに変わりはないでしょう。
 例えば、邪智暴虐の王に激怒してみたり、仲間を捧げ物にして使徒に転生した親友に怒り狂ったり、奸悪なユダヤ人を毛嫌いしたり、非人道的な虐殺を行ったナチスを憎んだり、異民族をバルバロイだの夷狄だのいって馬鹿にしたり――
 よく知りもしない人間の言動に反対したり、相手の話を十分聞きもせずに否定したり、隣人の行為を一部だけあげつらったり、本当はよくわかってもいないことを無理に推し進めたり――
 相手の自転車のライトがついていないというだけで、蹴り殺したくなったり。

 でも、ここで注意しなくてはならないのは、「相手が間違っていることは、自分が正しいことを意味するわけではない」ということです。

「相手が間違っている≠自分が正しい」

 相手が間違いを犯している、と思うと、人は頭に来ます。頭に来ると、自動的な反応として、自分のことを正しい、と思います。自分のことを正しい、と思うと、人はその相手を攻撃します。
 でも本当のところ、相手が本当に間違っているのかどうかさえ、判然とはしないことが多いのです。少なくとも、どう間違っているのか、ということは。
 相手はライトが壊れているのかもしれません。ただ明かりを点けるのを忘れているだけかもしれません。人質に残してきた親友のために、そうする必要があるのかもしれません。
 ……まあ、とてもそうは思えないし、やっぱり頭には来るんですが。

 どちらにせよ、「怒り」→「正義」反応は、必要な思考を省略する反応なので、とても厄介です。「怒り」はすべての葛藤を迂回し、熟考を拒否し、正常な思考を嘲笑し、冷静を無視し、どんな愚かな・馬鹿馬鹿しい・残虐な行為も正当化します。
 手に触れたものをすべて、無差別に黄金に変えてしまうみたいに。
 そして世の中には、そういう人間が多すぎる気がします。それを求めている人間が。
 僕を含めて。

 これと同じようなことが、ある種の能力や価値判断について言えるのではないか、と思います。

 ひところ「おバカタレント」というのが流行ったことがありました。
 ……今もそうなのかどうかは知りません。僕はその頃から、何となくバラエティ番組というのを見なくなっていったからです。
 その手の番組を、僕も笑ってみていました。まったく、恐ろしく斜め上の回答を出してくるし、とんちんかんなコメントをしてくるからです。
 でも、ふと、「僕はいったい何を笑っているんだろう?」と思いました。
 そう思うと、何だかよくわからなくなりました。いったい、何を笑っているんだろう?

 例えばそれは、落語だとか漫才と同じような、一種の「滑稽さ」に対する笑いかもしれません。長屋の八五郎がしょうもない間違いをする、商人が壷の値段についてわからなくなる――
 でもこれは「クイズ番組」で、タレントはあくまで「真剣」に回答しているはずでした。
 とすると、ここではタレントの「滑稽さ」を笑うということは構造的に許されてはいない(の、はずです)し、だとしたら僕はもっと別のことを笑っていることになってしまいます。
 つまり僕がここでやっているのは、相手の馬鹿さかげんに一種の溜飲を下げている、ということになるのではないのか、と思ったのです。
 少なくとも形式的には、そういうことになります。僕は何よりもタレントの「真剣さ」を笑っているのですから(番組がそれを狙い、何らかの形で助長していたとしても。あるいは、そうであればなおいっそう)。

 実のところここには、さっき言った、「相手が間違っている≠自分が正しい」と同じように、「相手が愚か≠自分が賢い」という構図が成立します。
 相手の頭が悪いからといって、自分が賢くなるわけではないのです。
 ところがこの一種の「悪循環」みたいなものが、ネットなんかでは流行っている気もします。あるいは、それが際限なく露呈しているような気が。
 でなければ、どうしてそこに出現するコメントのほとんどが、相手を馬鹿にしたものになる必要があるでしょうか?
 大抵の人は世界が天秤が何かでできていて、一方の皿に自分が、もう一方の皿に自分以外が乗っている、と思っているようです。で、一方が下がれば、もう一方は上がるはずだ、と。
 ……この場合、当然一方が上がれば、もう一方が下がるわけで、過度の攻撃性はそういう天秤思考にも起因しているのかもしれません。

 ただし、これは心理学者も薦めているらしいのですが、うつ状態やストレスが高じたときには、自分より「下の人間」を想像するといいらしいです。
 つまり、あの人よりは自分のほうがまだましだな、と思うわけです。
 僕も、それはわかる気がします。あんまりにしんどいときは、僕よりもっとひどくて、ろくでなしの人間はいくらでもいる、と自分を慰めたりします。僕よりまぬけで、性格が悪くて、能力も下で、そのくせのうのうと生きている人間が大勢いるんだ、と。できるだけ抽象的に考えるのがこつです。
 この思考習慣をさらに進めて、誰かが自分のことを思って心を慰めているところを想像したりもします。そうすると、自分にも少しは存在価値があるんじゃないのか、と……


 「相手が間違っている≠自分が正しい」と同じ図式でもう一つ気にかかっているのは「日本はすばらしいのか」ということです。
 最近やたらと「日本を誉める番組」が氾濫していて、辟易しています。
 別にそれが悪いことだとは言いません。ずいぶん感心することだってあるし、誇らしい気持ちにさせてくれたりもします。
 それはあるいは、国民性の向上、みたいな有益な効果があるのかもしれません。
 でも僕はそこに、入口も出口もない迷路みたいな、込み入った形のプロパガンダめいたものを感じてもしまうのです。

 少なくとも、何でもかんでも「クール」をつければいいってもんじゃないだろう、とは思います。
 どっから呼んだのか知らんけど、外国人であるというだけのゲストが車座になって、神様が創造し忘れたとでもいうように反対意見は出てこない。鰯の頭じゃないんだから、何でもかんでも「クール」になるわけがないだろう、と。
 第一、例の「ジャパニメーション」からして、どうなのかと思うのです。巷で放送しているのは、もうほとんどが萌えアニメで、深夜枠というありさま。映画のほうもぱっとしない。そもそも、アニメーターが薄給に苦しんでいるのに、現状が改善される見込みはいっこうにありません(あるのか?)。声優は何故かアイドル扱いで、区別のつかない声ばかり。原作の宣伝用アニメばかりで、オリジナル作品が異常なほど少ない。Gのレコンギスタはわけがわからないまま終わってしまう。ぶつぶつ……

 ……ともかくも、この流行の「日本誉め」には釈然としないものがあります。
 そうしたことは、わりと自然な流れとして、「日本はすばらしい=外国はしょぼい」という思考を強制しているような気がするのです。もちろんこれは、「日本はすばらしい≠外国はしょぼい」が当然なんですが――
 例えば、あなたはドイツをすばらしいと思うでしょうか。アメリカや、フランスや、イギリスや、ジンバブエや、ブータンのことを。
 それと同じようにして、外国人が日本のことをすばらしいと思っていると思えるでしょうか?
 僕には思えません。とてもじゃないけど、無理です。
 それなのに、どうしてそこまでして自国のことだけを誉める必要があるのでしょう?

 ――僕にはわかりません。けど少なくとも、わからないことはわかっています。
 だから僕は、自分のことを正しいとは思いたくはないのです。そのことが自明であると思えるような場合以外には。たぶん正しいだろう、とは思ったとしても。
 自分に対して無批判に正しさを許容した場合、僕にはどうしても、そこに正しさがあるとは思えないのです。

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