「2021年の読書記録」 について


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 去年、読んだ本は62冊、総額は約14423円。
 ……まあまあ、ひどいものだな、と思う。誰のせいでもないとはいえ。
 いや、自分のせいか。
 年々確実に読書量が減ってるみたいで、なかなかの危機感は覚える。たぶん、地球温暖化と同じ程度には。
 ちなみに、去年あった一番印象的な出来事といえば、『風来のシレン4』のエクストラダンジョン、修羅の道と、その他ダンジョンを一通りクリアしたことだったりする(草と巻物の洞窟が最後だった)。
 やったことがある人にはわかると思うけど、かなりしんどかったです。神経が。とりあえず、もう一回やろとは思わない、もしくは、思えない。
 まあ、それはともかく、以下に印象的だった本を紹介していこうと思います。一応、ネタバレを含むので注意。
 
 
世界しあわせ紀行――『世界しあわせ紀行』 (エリック・ワイナー)
 
 幸福は数値化・定数化できるのか? 実は、できる。少なくとも、それを目的にしている研究組織がオランダにあって、著者はそこで手に入れた情報をもとにして、「しあわせとは何か?」という、かなり古典的、かつ答えのなさそうな問いもって世界中を旅する。訪れたのは、幸福度の高い国から低い国まで、全部で十ヶ国。ちなみに、日本は入っていない。話は手際よくまとめられていて、わりと辛辣なユーモアにあふれた文体をしている。ユニークな紀行文であるとともに、哲学的な考察や、科学的な研究結果も含められている。僕がわりと印象的だったのは「モルドバ」で、この国は幸福度で最低ランクに位置づけられている。東欧の国なんだけど、どこにあるのかと言われると、今でもよくわからない。著者によると国名さえ物悲しげで、まあわりと散々に書かれていたりする。実際、読んでいると救いのない感じで、「何故、こんなふうなんだろう?」と素直に疑問に思ってしまう。何故なんだろう? ほかの国も、それぞれに印象的ではある。すべてに完璧なスイス、例の幸福度を国是にするブータン、文化を金で作ってしまうカタール、微笑みがすべてを包含するタイ――。ただ、巻末の対談はちょっとあわなかった。よくわからないけど、自分たちの話ばかりはじめて、何かそれが全然しっくりこなかった。……はっきり言って、気持ち悪かった。


眠れる美女――『眠れる美女』 (川端 康成)
 
 文豪(個人的には好きな言葉じゃない)、川端康成の短編集。表題作は、もはや性的不能に陥った老人たちが、(薬か何かで)眠らせた美少女と一夜を過ごす、という話。そういうサービスを提供する宿があって、主人公は知人の紹介でそこを訪れる。ただし主人公自身は、性的不能ではない。はじめは懐疑的で乗り気ではないが、次第に深みにはまり、何度も訪れるようになる。そして、利用者であった老人の一人が死に、最後は主人公といっしょにいた二人の娘のうち、生命力にあふれた娘のほうが死ぬ――考えはじめると、何やかや読みとれそうだけど、正直あまりよくはわからなかった。川端康成的なテーマというか、たぶんそういうものが。主人公のしゃべりかたが妙に幼いというか、「〜の?」という童児みたいなセリフを口にするのは、ちょっとひっかかった。僕が一番気になったのは、「片腕」という短編で、これは恋人の右腕を借りていく、という怪奇小説みたいな話。主人公はその右腕と睦まじく過ごし、とうとう自分の腕とつけかえてしまう。そして眠るのだけど、目覚めた瞬間、その愛しい腕を激しく投げ棄ててしまう。そこにあるのは、強烈な「自己嫌悪」のような気がして、気になっている。はっきりとは説明できないのだけど。


最後の秘境 東京藝大――『最後の秘境 東京藝大』 (二宮 敦人)
 
 著者の奥さんが藝大生だった、というところからはじまるこの本は、四年ほどの時間をかけて取材を続けた、けっこうな労作でもある。そもそも藝大には美術と音楽の両方があって、その両方ともが取材されている。ただし、冒頭で語られるとおり、両者の違いは「ゴリラとオペラ」くらいある。ただ、読めば読むほど、どっちも「秘境」ではある。とにかくまともじゃない、というか。「命取りになる機械しか置いていない」って……。声楽科はチャラい、というのも、けど読んでみるとなるほどな、と思ってしまう。劇薬が「ちょっとピリピリする」程度だったり、ライブハウスで三味線やったり。抱腹絶倒であると同時に、何かいろいろ考えさせられるところもある。それはたぶん、著者の性格や人間性にもよるのだと思う。書かれていた人々のその後も、けっこう気になるところではある。


19世紀イタリア怪奇幻想短編集――『19世紀イタリア怪奇幻想短編集』
 
 思いのほか、面白かった。文学的な流れとか、特徴とかはわからないけど、小説としては面白い。中でも個人的に好きなのは「黒のビショップ」。あるスイスの温泉保養地ではじまったチェスの対戦の話なのだけど、話の仕掛けは鮮やかだった。対戦者は、ある成功した黒人と、黒人を蔑視するアメリカ人。そして時代は、黒人への弾圧が激しい十九世紀半ばのこと。二人はチェスの試合を続けるのだけど、黒人は「ビショップ」の駒に拘泥する。何故なら、それは一度割れて赤い?でつなげられ、それが傷ついた黒人のように見えたから――。息づまるような試合は進み、最後にとうとう「黒のビショップ」は取られてしまう。黒人の命運は、これで尽きたかに思える。しかし次の一手で、黒人のポーンがクイーンではなく、ビショップへと昇格する(普通は、最強のクイーンに昇格する)。チェックメイト。そして、黒人は相手のアメリカ人に射殺されてしまう――


フランケンシュタイン――『フランケンシュタイン』 (メアリー・シェリー)
 
 有名な有名な、例の小説。そして有名なように、フランケンシュタインは博士の名前で、「怪物」のほうは最後まで名無しのままで終わる。語りとしてはけっこう込みいっていて、全体が手紙の形式で、その中で「フランケンシュタインの話」と「フランケンシュタインが怪物から聞いた話」が出てくる。結局、フランケンシュタインも怪物も、最後には死んでしまうわけだけど。話の主体は、フランケンシュタインによる怪物の創造と、その怪物による復讐、そしてフランケンシュタインによる再復讐。実は、怪物はその身の上話を終えてから、フランケンシュタインにあることを頼む。それは「伴侶を作ってくれ」ということ。愛するものさえいれば、二人だけで満足していられるのだ、と。フランケンシュタインは迷ったすえ、その「伴侶」を完成寸前でずたずたに破壊してしまう。絶望し、激怒した怪物はフランケンシュタインの友人や結婚相手を殺害する。同じように絶望し、激怒したフランケンシュタインは、怪物を抹殺すべく追跡を開始する。北極近辺までやって来たフランケンシュタインが救助されるのが、冒頭部分。で、彼が衰弱死すると同時に、怪物がその前に現れる。そして怪物が最後の告解をすませると同時に、怪物もまた死を迎える。怪物の「おれは善良であろうとしたのに、おまえたちがそれを邪魔したのだ」というのは、けっこう考えるところではある。わりと、立て板に水的な語りが続いていくんだけど、気にせず流れに身を任せれば、面白く読めると思う。


猫的感覚――『猫的感覚』 (ジョン・ブラッドショー)
 
 言われてみるとそうなのだけど、猫についての研究はあまり多くない。少なくとも、犬ほどには多くない。この二種が人間のペットの大半を占めていることを考えると、ちょっと不釣合いなくらいではある。その原因は、犬が「役に立つ」のに比べて、猫はあまりそうではないから。「役に立つ」というのは、まあ語弊があるけど、猫に羊の世話や、泥棒の追跡や、家の番ができないのは、事実ではある。実際のところ、この本でも推測や憶測の部分が多くて、何かすっきりしないところはあった。それでも、猫というのは本来、単独で狩りをする生き物だから、家庭の狭い場所で飼われていることはストレスになる、といのは個人的には納得できる話だった。正直、猫はむやみに可愛がられたり、べったりされるのが好きではないのだと思う。たぶんそれは、人間の魂に少し似て。


人を動かす――『人を動かす』 (D・カーネギー)
 
 自己啓発本の走り、といえばいいのか知らんけど、まあそんな感じの話ではある。けどけっこう面白いし、納得はできる。例えば、「仕事をしない人間」をどうすればいいのか、というと――誉めること、なのだそうだ。それは別に、無理して何か発言するのではなくて、「誉められるところを探す」ということ。ネクタイがおしゃれとか、声がよいとか、仕事そのものとは全然関係のないことでもいい。ただ、本当に誉められることを指摘する、のがポイントである。そうすると不思議と、その人はやる気をだす。ただ、どう見ても怠慢な人間を誉める、というのは想像以上に難しいことで、カーネギー本人もなかなかその域には達しなかったそうだ。まあ、そりゃそうだと思う。腹の立つ相手を誉めるなんて、常人にはなかなかできることじゃない。けど、優れた指導者には、それが必要なんだろうな、と思う。間違いなく。


カヴァフィス全詩――『カヴァフィス全詩』 (カヴァフィス)
 
 ちょっと必要があって、図書館で借りた本。カヴァフィスは、二十世紀初頭をエジプトのアレキサンドリアで生きた、ギリシャ詩人。神話や歴史に題材をとった詩が多く収録されていて、とても面白い。カヴァフィスの詩は、中井久夫訳と池澤夏樹訳の二種類がある(ついでに言うと、中井訳には初版と第二版の二種類がある――この二種類は別物なんだけど、僕が借りた図書館はそれを混同していた)。この池澤訳のほうは、注釈がたくさんついているので、詩を理解しやすくなっている。というか、注釈がないと、わりと理解に困ったりする。『誰がアガメムノンを殺したの?』という短編のために、念のために読んだもの。でも、できれば手元に置いておきたいな、と思わないでもなかった。


ヤノマミ――『ヤノマミ』 (国分 拓)
 
 ヤノマミというのは、アマゾンの奥地に暮らす、現代でも原始の生活を続ける部族のこと。これは、NHKの特集番組を作るための取材をもとにした、ノンフィクションである。本には、現地での実体験が書かれてるのだけど、濃厚というか、濃密というか、とにかく「ねっとり」している。それは、人間の虚飾を剥ぎとった、その底にあるもののようでもあって、きれいとか汚いとか、それ以前のもののようでもある。そこでは、ハレもケも、生も死も、何もかもが混在し、そのことに平然としている。けどそれは、混沌とは少し違う。ある意味では、そういう「言葉以前」の何かが支配する世界なのかもしれない。とにかく、取材者たちは、生命とか魂が血と肉のままでいるような世界で、一五〇日間を過ごす。ちょっとしたことで殺されかねないような、そういう腥い恐怖を感じながら。その生活は臓物を手づかみするような、皮膚のうえを虫が這うような、そういう生々しさにあふれている。この世界には今もそういう場所があって、そしてその場所とは地続きでつながっている、と思うと不思議な感じではある。取材中、ある少女は長い陣痛と難産のすえに生まれた子供を、右足で踏みつけ、首を絞めて殺す――。当然ながら、彼らの生活は急激に変わろうとしている。たぶんそれは、早晩に失われてしまうものなのかもしれない。そのことがどういう意味を持っているのかは、僕にはまだわからないけれど。


悪魔と呼ばれたヴァイオリニスト――『悪魔と呼ばれたヴァイオリニスト』 (浦久 俊彦)
 
 前に読んだ、『フランツ・リストはなぜ女たちを失神させたのか』の作者によるもので、これはパガニーニの話。パガニーニといえば超絶技巧の代名詞みたいな人物だけど(とはいえ、詳しくは知らない)、同時に様々な伝説・奇伝に彩られた謎の人物でもあるらしい。だから、伝記には書きにくいのだ、と冒頭でも付言されている。彼についてまわる「悪魔」の形容詞にしても、逆に本人がそれを積極的に利用していたのではないか、と想像したりもしている。その上で面白いのは、パガニーニ自身は一演奏家でしかなかったのに、クラシックの歴史で重要な役割をはたしている、ということ。具体的には、この人の演奏を聞いて、様々な音楽家が強い刺激を受けた、ということ。音楽家どころか、ヨーロッパ中でフィーバーが起こったらしい。それから感心するのは、パガニーニが様々な病気を抱えていた、ということ。子供の頃から病気がちで、おまけに当時の乱暴な治療のせいで、歯が抜けたり、水銀中毒になったり、よくまあ、こんな体でコンサートなんて開けたよな、と信じられないくらいである。著者によると、それは愛する息子アキーレのためらしい。毀誉褒貶の激しい人らしいけど、そのヴァイオリンがとんでもない「ブーム」を起こしたのは事実で、とにもかくにも偉人としか言いようがない。


犬も平気でうそをつく?――『犬も平気でうそをつく?』 (スタンレー・コレン)
 
 この人の本が好きで何冊も持ってるけど、これも面白い。犬の薀蓄本というレベルじゃなくて、ちゃんとした学術研究に基づいた、まあ信頼できる内容のもの。例えば、犬の視覚について、研究と実地見聞をふまえたうえで、わかりやすく解説している。それによると、犬の視力は最高で0.26らしい。要するに、かなりの近視である。ただ、動体視力に優れていて、桿体細胞(明暗を感じる細胞)が多いため、暗闇でもものを見ることができる。犬に色がわからない、というのも間違いで、実際には黄色と青色で世界を見ているらしい。これは錐体細胞(色を感じる細胞)が二種類しかないため(人間は三種類、ちなみに鳥は四種類)。ほかにも、犬の認知症や、学習能力、犬が世界をどう認識しているか、などについて該博な知識と豊富なエピソードを交えて説明している。猟犬は激しい銃声で耳を悪くしやすいとか、有効なしつけ方法、老犬の世話の仕方、などなど。ちなみに、犬が遠く離れた人間の死を感知する、といった霊的な話については否定的である。僕もまあ、同意見ではある。


貧困の終焉――『貧困の終焉』 (ジェフリー・サックス)
 
 貧困、といっても三種類くらいあって、「極度の貧困」「中程度の貧困」「相対的貧困」に分類される。一応、数字的には一日の収入が一ドル以下が「極度の貧困」、一から二ドルが「中程度の貧困」、ということになる。相対的貧困は、名前の通りなので、ここでは問題にされない。極度の貧困、というのは、要するに「生きているのが、やっと」という状態のことで、著者はこれを「貧困の罠」に陥っているとする。具体的には、天候不順や、疾病、政治の混乱、土地の疲弊、情報の不足、などがあいまって、当事者の努力ではどうにもならないところにまで行ってしまっている、ということ。実際、例としてあげられるマラウイの話を読んでみると、それがよくわかる。要するに、「詰んでいる」のだ。そして、それに対する先進国の対応とは、雀の涙ほどの援助資金を与えることにすぎない――。極度の貧困はなくすことができる、それも今世紀中に、というのが著者の主張である。そして本を読むと、確かにそれは可能であるように思える(僕の勘違いかどうかは、ともかくとして)。必要なのは、適切な処置を施すこと。そして、それは絵空事でも、無意味なことでもない。僕たちはそれを、行わなければならない――。貧困についての徹底した研究とともに、著者であるジェフリー・サックスの経歴もけっこうドラマチックではある。ボリビアのハイパーインフレーションを嘘みたいに鎮めたり、ポーランドで改革を成功させたり、ロシアや中国での実地的な経験。ただ、「何故、僕たちは世界の裏側の貧困をなくさなくてはならないのか?」という素朴な疑問については、うまく答えられていないような気はした。何故、人は他者を救うのか。救うというのは、どういうことなのか――


二重人格――『二重人格』 (ドストエフスキー)
 
 ドストエフスキーが「貧しき人々」で華々しくデビューしたあと、酷評された作品。正直、それも無理はないなとは思った。ドストエフスキーの作品(というか、ロシア文学?)によく出てくるような低俗で卑劣で滑稽な「小役人」を主人公にしたもので、その主人公が次第に「もう一人の自分」にとって変わられていく、という話。とりあえず、面白くはない。ゴーゴリの「鼻」を意識してるってことなんだろうけど……


イスラーム文化――『イスラーム文化』 (井筒 俊彦)
 
 講演(1981年の)をもとにしているだけあって、語りかける文体は理解しやすい。専門書というほど難解でもなく、概説書というほど茫漠でもなく、入門書というほどありきたりでもない。題名は「文化」ではあるけど、要するにイスラム教の話である。イスラム教といえば、ユダヤ教、キリスト教の流れに自らを組み込みつつ、独自の路線を展開していった宗教、くらいのイメージしかないのだけど(あとは、断食、礼拝、巡礼、アッラー――それから、テロ)、読んでみると、確かにユニークだな、と思うところは多い。例えば、イスラム教では人間は「神の奴隷」である、ということになる。本当に、そうなのだ。その辺の機微を説明しようとすると、ちょっと難しいし長くなるのだけど、つまるところ、イスラム教では自己の「存在理由」について悩む必要がない。「何故、人は生きるのか」なんて問いは、イスラム教ではまったく不要になる(ということだと思う)。人間は神の奴隷であり、主人である神にただ従ってさえいればよいのだから。神は厳しいが、あなたの面倒を見てくれる――。それから、イスラム教は聖俗の区別がない。区別がないというのは、日常そのものが宗教と一体化しているから。だから、政教分離、というのは、イスラム教ではナンセンスそのものでしかない。歴史的には、アラブ・現実的・部族的なイスラム教(スンニ派)とイラン・秘教的・内面的なイスラム教(シーア派)といったふうに分かれたりもする。まあ、正直なところ、こういうのは読んだそばから忘れてしまうのだけど……。にしても、日本人にとって、イスラムというのは相当に縁遠い存在なのは確かだと思う。たぶん、火星の地質年代と同じくらいに。それは、直接的な歴史的接触がなかったせいではあるのだろうけど、さて、これからはどうなっていくのだろう? 個人的には、宗教の優劣や是非を云々するつもりはない。とはいえイスラム教の、後発宗教でありながら、自分たちのみが正しいのだ、という主張は、ちょっとひっかかるものはある。正直なところ、どうしても「せこい」と思ってしまうのだけど……


千の顔をもつ英雄――『千の顔をもつ英雄(上・下)』 (ジョーゼフ・キャンベル)
 
 スター・ウォーズの元ネタ(?)になったということで、超有名な本。この本をもとに、ハリウッドの脚本術みたいのが作成されたりしていて、大塚英志も引用したりしている。とはいえ、個人的にはまるっきり理解できなかった。本当に、何を言っているのか、しょっちゅうわからなくなってしまうのだ。それはまあ、こっちの知識や経験不足によるのだろうけど……。ただ、フロイトを援用しているだけあって、話がいちいち性的な隠喩とか、男根とか、そういうものに還元されてしまって、それがものすごくひっかかった。まともに読めなくなってしまうくらいに。まあ、すべては好みの問題ではある。


ホワット・イフ? Q1――『ホワット・イフ? Q1:野球のボールを光速で投げたらどうなるか』 (ランドール・マンロー)
 
 Webによせられた素朴(?)な疑問に、あくまで真剣に、あくまで科学的に答えてくれる、素敵な(?)本。元NASAのロボット技術者にして、マンガ家(棒人間みたいな絵の)という、かなり変わった経歴の持ち主が、その著者。まともな人間なら、生涯に一度は疑問に思ったことに、的確に答えてくれる。例えば、使用済み核燃料プールで泳ぐことはできるのか、レーザーポインターで月を明るくできるか、銃の反動で空は飛べるのか、コンピューターと人間の性能比較、風邪を根絶する方法は――などなど。題名にある「野球のボールを光速で投げたらどうなるか」については、あー、とりあえず、とんでもないことになる、と言っておくことにする。ただし、メジャーリーグ・ベースボール規則によれば、バッターは死球を受けたと判断されるそうです。この本の解説は稲垣理一郎で、「どっかで聞いたことがあるな」と思っていたら、「Dr.STONE」の原作者だった。
 

 
 世界は相変わらずコロナで、相変わらず混乱している。誰も、「答え」を見つけられずにいる。正解でも、一時しのぎでもなくて、「答え」を。
 つまりは、共通理解を成立させられずにいる。
 その言葉が指し示すものは、人によって違っている。ある人にとってそれは、ただの風邪で、ある人にとってそれは、愛する人を奪った悲劇で、ある人にとってそれは、たんなる新聞の話題で、ある人にとってそれは、愚かな人間の所業である。
 でもそれは、たぶん元からあった「意見の相違」に近いもので、そういう意味では、大きな問題提起というか、人類における一つの「試練」としてとらえることも可能なのかもしれない。
 我々は、「理解しあえないこと」をどうやって「理解」すべきなのか?
 
 個人的には、症状がどうとか、治療法がどうとかより、感染症であることが問題なんだと思っている。
 コロナによって、永遠ではないにしても、社会機能が麻痺してしまう。
 いわゆるエッセンシャルワーカー(主に、医療従事者)が倒れてしまうと、生命に関わるような重要なサービスが停止してしまう。
 想像するのは簡単だと思うけど、人が一人か二人いなくなっただけでも、現場の負担は激増する。
 コロナが「程度の重い風邪」というのは、たぶんある程度は当たっていて、問題はまさしくそこにある――のだろう。
 そして、インフルエンザが撲滅できない以上、コロナもやはり撲滅は不可能なんだろうとは思う。
 革命的な治療法が出現する可能性は、もちろんあるとはいえ。
 
 どこかの誰かは現在の状況を、個人的な「小さな物語」が、コロナという「大きな物語」にかきけされてしまっている、と表現していたけど――たぶん、それは違う。
 実際にここにあるのは、「物語の不在」なのだろう。
 僕たちは、それをどう受けとめてよいのか、どう理解してよいのか、いまだにわからずにいる。統計と確率による、「物語の不在」を。
 そして誰も、誰一人として、これからのあるべき世界を思い描けずにいる。
 ――それはだいぶ前から、同じ状況だとはいえ。

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