「2020年の読書記録」 について


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 今年読んだのは、73冊、19148円。例によって、すべて古本。ただ、図書館で借りた本が数冊、元から家にあった本が数冊、混じっている。
 正直、物理的にも精神的にも、あまり潤沢とはいえない状況になっている。空白の時間も、穏やかな心も、簡単には望めない。特に、「心の状態」はかなり面倒なことになっている。
 とはいえ、やっぱり文句をつけられるような事態とはいえない。毎日みっちり、毎週ぎっちり働いている、というわけじゃない。訳のわからん人間に、生活をめちゃくちゃにされている、というわけでもない――わけでもない、はずだ。
 まあ、何とかうまくやっていく方法を見つけるしかないのだろ。映画の「E・T」で、E・Tがその辺のガラクタやおもちゃを使って、何とかして仲間たちと通信しようとしたみたいに……村上春樹もそう言っている。
 
 結局のところは、たぶん、カミュの言うとおりなんだろう。
「いまや、問題は論証ではなく、生きることだ。」
 
 以下、ネタバレも含むので、一応注意だけは。
 
 
誰が音楽をタダにした?――『誰が音楽をタダにした?』 (スティーヴン・ウィット
 
 たぶん、世界中の人間が知っているか、利用している「MP3」についての話。その開発にまつわる過程、音楽業界の推移、そして、それを利用して膨大な「海賊版」を一人でせっせと生産し続けた男――の三つを軸に構成されている。そもそも、音楽が5MBとか、それくらいで聞けるのは、「MP3」のおかげである。これは要するに、「人間には聞こえない音」を、音源から消去することで容量を稼いでいるのだけど、その仕組みはけっこう驚くべきものがある。例えば、高音や低音で単純に聞こえない、というのはともかく、脳が数秒戻って「聞こえなかったことにする」という場合もある。そういうのを逐一見つけていって、音楽を圧縮するわけである。当然、変な圧縮の仕方をすると、音楽は変になる。というわけで、開発は難航した。そして、新技術に対するおさだまりのごたごたもあった。次世代規格の決定というのはどうしても必要とはいえ、そこにはけっこう政治的な駆け引きも含まれることになる。この新技術を巡って、音楽業界でも再編、混乱、新しいビジネスモデルの発生と、様々なイノベーションが起こる。例えば、アップルがいち早く先鞭をつけた音楽配信サービスなど。そして、アーティストやリスナーやプロデューサーを巡る、どちらかというと物騒な話。一方で、危険な地下組織なみに海賊版を生産する人々の存在。そのうちの一人に焦点をしぼって、その人生まで含めて話が語られていく。そもそもMP3が普及したのは、実はこの海賊版の存在が大きかった、という身も蓋もない事実もあって、世界のややこしさというものを実感させてくれる。それから、その暗さや深さについても……。


坑夫――『抗夫』 (夏目 漱石
 
 解説に書いてあったのだけど、この夏目漱石の作品は『海辺のカフカ』に登場するらしい。と言われても、「そうだったっけ?」くらいで記憶ははっきりしないのだけど、そう言われると、そうだった気もする。ある青年が、自暴自棄のあまり世の中が嫌になって、たまたま誘われて鉱山に向かう、という話。恋愛のもつれみたいなのが原因らしいけど、どうもそこのところははっきりしない。自殺志願者だけあって、かなりの捨て鉢感はある。過去の自分を詳細に検討、批判、分析、腑分けしているという文体で、心理についての教科書とか、若者への忠告みたいなところがある。世間知らずの坊っちゃん、若者としての不安定さ、弱いプライド、客気、臆病、羞恥、見栄――そんなものが、子細に、冷静に、正確に書かれている。面白いかというと面白くはなくて、正直、いまだに漱石をどう読んでいいのかわかってないところはある。
 
 
白痴――『白痴(上・下)』 (ドストエフスキー
 
 上巻をまず見つけて、それから少しして下巻を見つけた。だから一ヶ月くらいあいだがあいている。まあ、だからどうというのでもない。正直、「白痴」という言葉がしっくりこなくて、今でもどう読んでいいのかわかっていないところがある。純粋に美しい人? うーん。カラマーゾフのアリョーシャとも、けどちょっと違う感じだしなぁ。まあそれはともかく、ラストは圧巻だった。確かに、文学史上に残る凄絶さだと思う。あれは「世界の終わり」に等しいもののような気がする。精神的な「世界の終わり」と。
 
 
ハリー・ポッターと呪いの子――『ハリー・ポッターと呪いの子』 (J.K.ローリング、 ジョン・ティファニー他

 舞台用の脚本なんだけど、やはり面白い。相変わらずの小道具の豊富さ、ミステリ風の仕掛け、軽妙だけどポイントはしっかり押さえた展開。まあ、タイムパラドックス系の話は、考えはじめるとよくわからなくなってくるところもあるけど。今回は「親子」がテーマで、ハリー、マルフォイ、それからウォルデモートまで含めてそれが展開する。タイトルの意味は、そういうこと。その辺の伏線の置きかたはさすがとしか言えない。アルバスとスコーピウス、子供二人の関係性も、けっこうぐっと来るものがある。
 
 
狂気の科学者たち――『狂気の科学者たち』 (アレックス・バーザ
 
 いたって「まじめ」なんだけど、どう考えても「まとも」とは言えない実験の数々。象にLSDを投与したり、ワインの専門家に赤くした白ワインを飲ませたり(結果がどうなったかは、本を読んでください)。風変わりな実験を集めただけあって、猿の赤ん坊に布製と金網製の母親を選ばせるとか、魂の重さを量るとか、本当は効果のないモーツァルト効果とか、おなじみの実験もある。自分の子供のおむつは他人のより臭くない、とか、記憶は脳を電気刺激しても蘇らないとか、けっこう意外な結果のものもある。プラナリアを使った実験の、記憶を摂取する話とか、SFちっくなのも。この話、どうしても、ドラえもんの暗記パンを連想してしまう。
 
 
ジーノの家――『ジーノの家』 (内田 洋子
 
 エッセイということになってるんだけど、正直これ、全部小説なんじゃないのかな、と思ってしまった。文体のせいかもしれないけど、とにかくエッセイらしく読めない。本当のこととも思えない。話が嘘くさすぎる。その辺で、どうにもならなかった。書きかたの問題なのか、内容の問題なのかは、いまいちわからない。でも個人的には断固として、これは小説(それも、あまり面白くない小説)だと思っている。だから、どうだということはないのだけど。
 
 
観光――『観光』 (ラッタウット・ラープチャルーンサップ
 
 タイ系アメリカ人、という珍しい作家による作品。短編集。タイが舞台。不思議な、きれいすぎて、見ているだけで心がしめつけられる海を見ているような、そんな感じの文章。個人的には、カンボジアからの難民少女を描いた「プリシラ」が好きだった。基本的にはこういう、優しくて、悲しくて、きれいな話が好きである。ただ、訳文に現在形(〜る・いる)を多用した種類の短編は、何となく読みにくいところがあった。慣れの問題かもしれないけど……。
 
 
パパの電話を待ちながら――『パパの電話を待ちながら』 (ジャンニ・ロダーリ
 
 ある女の子がいて、彼女は寝る前にお話を聞かないと眠れない。そこで、セールスマンの父親が、娘のために旅先から電話でお話を聞かせてあげる……という、心温まる構図で語られる、いくつものお伽噺。タイトルは、そういう意味。この設定だけで、けっこうぐっとくるものがある。子供たちが好きなだけ壊せる建物の話とか、お菓子を目一杯食べる話とか、子供が夢に見そうな話が語られていく。ちょっと素朴すぎる気もする、平和についての話とかも。どうでもいいけど、あとがき読んでるときにようやく気づいたのは、翻訳が『ジーノの家』の人だったということ。何か見覚えのある文章だな、と思ったら、そうだった。だから、どうだということはないのだけど。
 
 
フランツ・リストはなぜ女たちを失神させたのか――『フランツ・リストはなぜ女たちを失神させたのか』 (浦久 俊彦
 
 秀逸なタイトルだと思いませんか? クラシックというと、雅とか格調とか、そういうイメージが先行するけど、ここでは大胆にも「アイドル」の原型としてリストが語られている。実際、そうだったらしい。婦人たちは彼の演奏に失神し、少しでも近づこうとした。ちょうど、ビートルズがそうだったみたいに。そしてスキャンダラス、軽薄なリストのイメージとは裏腹に、本人はストイックで謹厳な人間だった、という。数あるエピソードの中でも個人的に好きなのは、次の話。――リストは大勢の弟子を持ったが、中には勝手に「リストの弟子」を名乗る人間もいた。で、そのうちの一人が謝罪に来たとき、リストはその人にピアノを弾かせて、その(あまり上手くはない)演奏を聞いてから、「これで、あなたもリストの弟子ですよ」と優しく励ました。男前な対応だと思いませんか?
 
 
仰臥慢録――『仰臥慢録』 (正岡 子規
 
 正岡子規が死の直前まで綴っていた日記……なんだけど、ちょっと驚くのは、しょっちゅう物を食っていること。粥はまだしも、菓子パンだの、果物だの、魚、漬物、etc。それで腹が痛くなってるんだから、そりゃ痛くもなるよ、と思う。ただ、餓鬼とか執着とかいうのを越えて、執念、あるいは妄執に近かったのかもなぁ。そういう人間だからこそ、みたいのはあるのかもな、とは思う。
 
 
女盗賊プーラン――『女盗賊プーラン(上)』 (プーラン・デヴィ
 
 インドの下層カーストに生まれて、ほとんど人間らしい扱いを受けなかったプーラン・デヴィの自伝。彼女自身は文字が書けないので、聞きとりという形で書かれたらしい。プーランは「花」のこと。ただし、その人生は恐ろしく過酷で、仮借がない。カースト制度の下、土地を非道に奪われ、虐げられ、両親の前で辱められる(本当に、現実として)。正義も、救いも、神様もないようなその日々で、それでも彼女の内には、あるものがあった。燃えるような、「怒り」が。そしてある日、彼女は突然、盗賊たちに誘拐されることになる――。と、この辺までが上巻。……下巻は、まだ読んでいない。けっこう頻繁に見かけるので、すぐ買えるだろうと思ってたけど、意外とない。『砂漠の女ディリー』と同じような、虐げられ、そして戦った女性の話。
 
 
チベット旅行記――『チベット旅行記(一〜五)』 (河口 慧海
 
 二十世紀初頭の、鎖国中のチベットに単身で踏み入り、数年そこで過ごしたのちに、多数の仏典を日本に持ち帰った、河口慧海という人の旅行記。旅行というか、冒険。鎖国中だけあって、もしも密入国していることが露見すると、死刑という状況。それで仏教修行をやったり、書物を集めたり、医者をやったりしてるんだから、まあ型破りというか、すごい人というしかない。山や雪の中を踏破したり、山賊に襲われたり、よくまあ生きてたもんだ、という話ばかり。それでいて、語学の勉強や、地理や道順の下調べやら、できることはきちんとやっている。行動力ありすぎるんじゃなかろうか。チベットの風習やら社会やらも細かく観察していて、けっこう辛辣なところもある。顔を洗わないとか、食器を洗わないとか。まあ、確かに汚いんだけど……。チベットでは、貴人に対しては「舌を見せる」挨拶が礼儀らしいんだけど、ちゃんとそれも書いてあった。ともかくも、半端じゃない人、という感じはある。
 
 
街並みの美学――『街並みの美学』 (芦原 義信
 
 都市の描写をする何かの参考にならないかな、と読んだ本。何しろ、RPGやファンタジーでおなじみとはいえ、実際にはよくわかっていない「街並み」というやつ。せいぜい石造りとか、高い塔とか、そんな描写しかできないわけで、可能ならもっと具体的に表現できないかな、と思っている。とはいえ、この本が参考になったかというと、そうでもない。第一、あくまで現代都市における街並みについての、実践書みたいなものだからなぁ。広場の構成の仕方とか、看板の問題とか、通りの外観の統一の必要性、とか。けどちょっと面白かったのは、「内部」と「外部」の意識の違い。日本では、家に入るときは靴を脱ぐ。これは、家を「うち」として考えるからである。西洋では、そうではなくて、街と家は(程度はあるにしても)一続きのものとして捉えられている。だから、日本では街並みという意識が生まれにくい。家と街が、別々に存在しているから。そのため、街を「内部」にするなり、家を「外部」にするなり、意識の変革がなければ、「街並み」は生まれないだろう、というような話がある。けっこう納得できるところはあった。
 
 
マシュマロ・テスト――『マシュマロ・テスト』 (ウォルター・ミシェル
 
 普通の本屋で見かけて以来、けっこう長いこと読みたかったけど、見つからなかった本。……まあ、普通に買えばいいんだけど。子供にマシュマロを用意して、「すぐ食べる」か「少し待って二個もらうか」の選択肢を与える心理学の実験――これが、マシュマロ・テスト。このテストで、マシュマロの誘惑に耐えた子供は、その後の人生でも概して良好な経過をたどったという。と書くとあれだけど、この実験の本意は、「いかにして誘惑に対処するか」にある。実際、子供だろうが大人だろうが、「うっかり魔が差して」みたいなことはある。それは、人間に「ホット」と「クール」なシステムがそなわっているからに他ならない。脳生理学的にも、それは証明されている。大脳辺縁系の、より原始的な仕組みと、前頭前皮質の、より複雑・冗長な仕組み。人間はその二つを持ちあわせている。その二つは、どちらがどうという単純なものではなくて、相互補完的だし、一方だけではうまく生きていくことはできない。ただし、誘惑に刺激されるのは、概ね「ホット」なシステムのほうで、それを制御するのが「クール」なシステムのほう、ということにはなる。本のテーマは「よりよく生きるには?」であって、別に機械のように冷たく生きろとか、動物のように直情的に生きろとか、そんなことではない。物事で重要なのは、やっぱりバランスである。人は何故、後悔するとわかっていることをやってしまうのか、怒りや衝動を抑えるにはどうすればいいか――そんな話が科学的知見と、実際的応用を含めて豊富に語られている。
 
 
聖なる怠け者の冒険――『聖なる怠け者の冒険』 (森見 登美彦
 
 『四畳半神話体系』の文体が強烈すぎて、それ以外の文体だと、何故かいまいち面白く読めないところのある、森見登美彦。この本も、冒頭あたりはあんまり面白くなかった。ようやく面白くなってきたのは、よく登場する例の下鴨幽水荘が出てきたあたり。あの辺からは、何となく面白く読めた。というか、宵山のあたりはけっこう圧巻だった。極彩色の万華鏡というか、イメージの乱舞というか、頭がちょっとうねって≠ュる。ただ、文体が三人称なんだけど、しょっちゅう「筆者」という言葉が出てきて、かといってその「筆者」の立ち位置みたいのはよくわからなくて、それでしっくりこなかったところはある。
 
 
代替医療解剖――『代替医療解剖』 ( サイモン・シン、エツァート・エルンスト
 
 『フェルマーの最終定理』以下で有名なS・シンの本。共著だけど。代替医療についての「科学的」な本で、主に鍼、ホメオパシー、カイロプラクティック、ハーブの四つを大きくとりあげている。ざっくり言ってしまうと、どれも「プラセボ」以上の効果はない、というのが結論。そもそも医療効果を計るには、というところから話ははじまる。そのために利用されるのが、「ランダム化」と「二重盲検法」。これは要するに、治療対象の平均化と、プラセボ効果の排除を目的としている。この二つを厳密に適用しないと、ある薬なり治療なりの効果を客観的に計ることができなくなってしまう。で、この二つを利用した厳密な臨床試験によると、残念ながら、あの神秘的な鍼治療は、神秘以上の意味はないらしい。ホメオパシーというのは、薬を希釈して飲む、というのらしくて、希釈した結果は元々の成分はほぼゼロ、というもの。読んでると、中世の魔術とどっこいどっこいというところなんだけど、それでも利用者はけっこうなものらしい。これも、プラセボでしかないというのが結論。カイロプラクティックの話は、なんか宗教そのものだった。というか、首の骨を無理やり動かすとか、怖すぎる。ハーブも、自然の薬草だから効き目がある、という簡単な話じゃないらしい。残念ながら、世の中には魔法は存在しない――というか、まあ現代医学が魔法そのものみたいなもの、というのが事実なんだろうけど。しかし、プラセボに関してはそこまで否定しなくても、という気はした。難しいところなのはわかるけど。気休めも、それなりに必要だとは思う。ともかくも、誰もが一度は読んでおいたほうがいい本、なのかもしれない。
 

 
 ――ここからは、余談。
 
 もちろん、今年(去年)は、ほとんどすべてがコロナで覆いつくされた年だった。猫も杓子もコロナというところで、正直うんざりはしている。
 個人的な実感としては、いまだにどう捉えていいのかはわかっていない。この病気は、どこまで危機的で、どこまで重大なのか。
 例えば、エイズやマラリアや、そんなものと比べてどうなのか、とか。それこそしょっちゅう引きあいに出される、スペイン風邪と比べると、どうなんだろう(何しろ、第一次代戦より人が死んでるのだから)。
 印象としては、最終的にはやはり、インフルエンザと同じような扱いに落ち着くしかないような気はする。
 
 ただ、いくつか違和感を覚えることはある。
 ……例えば、一つは数字が先行していること。
 というより、わかっているのは数字くらいだ、ということ。全国で何人、地域で何人――ニュースや新聞で、毎日毎日、偏執狂じみて伝えられる、その数字。
 しかしこれで、何が「わかっている」のだろう。
 それは、東日本大震災の時と似ている。新聞に毎日載っていた「死者・行方不明者数」と。その数字は結局のところ、何を表しているのだろう?
 世界はもう、統計的にしか把握できない、ということなんだろうか。
 ビッグデータしかりで、それが現在の世界の方向性なのはわかる。統計を蔑ろにするわけでもない。むしろ、それこそ、これからの世界には必要なものだろう。
 けどそれでも、どうもしっくりこないところはある。
 
 それから、医療関係者への英雄扱い。
 そのこと自体を云々するわけじゃないけど、ただ、じゃあ普段、彼/彼女らのやっていることは「英雄的」じゃないのか、とは思ってしまう。
 生命の責任を負ったり、横暴な患者をなだめたり、汚物の処理をしたり、日常の細かなことを淡々とこなしていったりする、といったことは。
 ただの屁理屈や独りよがりかもしれないけど、その辺で、どうしても納得できないものは感じてしまう。
 
 あと、やたらに持ちだされる「つながり」。
 大切な人に会えないとか、気軽に出かけられないとか、遊びに行けないとか。
 親の死に目に会えないとか、苦しんでいる友人のそばにいられないとか、そういうのは、まだわかる。
 けど、元々がひきこもりの人間としては、かなりどうでもいい。誰かに会うことも、どこかに行くこともないのだから。
 というより、裏を返すと、そういうお前は異常だ、と言われているのに等しい。いつも一人で、ずっと家にいることは。
 そう思うと本当にうんざりする。何も変わらなくて悪かったな、と思う。
 というか、そんなに悪いんですかね――とか。
 
 
 コロナのことで、個人的に変化のあったことはない。田舎なんて、そんなものである。
 もちろん、バイト先ではマスク着用が義務づけられていて、息苦しいことこの上ない。眼鏡も曇るし、不便である。
 ただ、マスクに関しては、いまだにエチケットやファッション以上の効果はないと思っている。口や鼻から手、手から物、その逆順をたどって別の人へ――が基本だろう。要するに、重要なのは手洗いである。
 というか、マスクの効果は実証されてるんだっけ?
 
 ワクチンが開発されたとはいえ、とても十分な臨床試験ができているとも思えない。副作用への懸念は、当然ある。
 たぶん、そう簡単には終わらないんだろうな、ということくらいしか、今はわからない。
 というか、いまだに感染源さえわかってないんだからなぁ。結局のところ、何が悪かったんだろう? 中国の対応? WHOの対応? その後の世界の対応? サーズの時と、何が違うんだろう。
 けど、いつかは今回のことも忘れられてしまうのだろう。それこそ、今の世界で誰も、スペイン風邪について、実感をもって語ることのできる人間がいないのと同じで。
 そうなるのがいつかは、わからないにしても。

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