土庄郵便局

小学校の百葉箱のそばに小さな池がありました。 
木を削って作った潜水艦にスクリュウや前後にブリキを切って作った羽をつけ、ゴム動力で潜水させて遊んだりしたものです。
登校時と家で遊ぶ時で着替えることもあまりなく、学生服で遊んでいました。
後方の教室は職員室でした。

僕の生まれて初めての写真です。

中央で下を向いています。

永代橋

おんばた

                   赤穂屋のアーケード
左は65年ほど前(昭和29年)に公開された『二十四の瞳』に写っている赤穂屋の『かどや』から八幡橋に至る通りの様子です。  アーケードが見えますが、僕が小学生の頃にできたように思います。
右の写真は平成16年にほぼ同じ辺りから僕が写したものです。 かつてのアーケードは取り外されて空が見えます。
思い出す僕の中の赤穂屋はやっぱり左の写真の景色です。

←淵崎小学校の運動場にあった相撲場が昭和29年の台風で倒れてしまった。(幼稚園の卒園式の写真の隅に載っていた相撲場の一部)

左のモノクロ写真は昭和32年ごろに父が写したもの
右のカラー写真は平成24年〜僕が写したものです。

比べてみると    

中学校の野球の対抗試合です。
場所は現在土庄西消防署のあるところです。

僕が子供の頃土庄港でよく見た船、左が『おりいぶ丸』で土庄ー高松間、 右の船は名前を思い出さないのですが土庄ー豊島間を航行していたような気がします。

  淵崎小学校の庭にあった『陣屋の松』について

・小豆島は江戸時代(1603〜1868年)の元和元年(1615年)から天領として大阪奉行の支配下にあった。
・天保9年(1838年  参考・・・ペリーが浦賀に黒船で来たのが1853年なので、その15年前) 土庄・渕崎・上庄・肥土山・小海・池田の6郷は天領から(岡山の)津山藩領に移された。
・現在、淵崎小学校校舎の場所に津山藩の代官所が置かれ、明治2年(1869年)の版籍奉還まで津山藩の代官が常駐し、行政上の大抵のことを処理していた。
・村人はこの代官所を『陣屋』と呼んでいた。
・昭和58年(1983年)に枯れて伐倒するまで陣屋の庭の老松は陣屋の唯一のものとして『陣屋の松』と呼ばれ親しまれていた。

       (土庄教育委員会の説明文を参考)

僕らが子供の頃は枝を存分に広げた大きな松の木でした。

女子児童の頭髪のシラミ駆除のため養護の先生が布袋にDDTを入れ、頭をポンポンたたいていました。 女の子は頭が真っ白けになっていやがっていました。 僕の小学校の頃です。

小学校の小運動場にあったシーソーです。
楽しかったけれど今考えると危ない遊具ですね。

鼻汁を服の袖で拭きとるものだから、袖がテカテカしていました。 舐めるとからかった。

昭和32年 小学校卒業記念写真です。
履物を見ると靴あり、下駄あり、草履あり。

土庄湊(とのしょうみなと)です。
現在この場所には郵便局などが建っていて、かつて写真のように入江になっていて船のたまり場であったという面影は全くありません。

道路をボンネットバスが走っているのが見えます。

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メール  rokubeinosaka2@gmail.com

永代橋

淵崎小学校の古い校舎です。
屋根の向こうに大きなクスの木、校舎と運動場の間のプラタナスの木、小運動場の山側に町営住宅などが見えます。

伊喜末のたいこ(このような太鼓台もある)

左の写真は昭和34〜35年ごろのものです。 
前方の丸山は山頂付近まで段々畑になっているのが見えます。 
右の写真は平成25年のもので、丸山はすっかり木々の覆われてしまっています。
子どもの頃に何度も通った丸山への道はもうたどりようもないのではと思います。

馬場の向こうは一面稲田でした→ 

上庄のたいこ

上の2枚の写真は『おんばた』と僕たちは言っている船着き場です。
そばにあった東洋紡績淵崎工場の積出港でもあり、子どもの頃高松で開催された博覧会を見るためにここから船に乗って高松へ行ったこともありました。 
七夕の笹を流したり、お盆の精霊流しをしたこともある場所です。


小豆島は僕のふるさと

背景の建物は富丘中学校の校舎

富丘八幡神社の馬場に至る道にある鳥居です。
かつてはもっと小さな花崗岩でできた鳥居でしたが、太鼓が通り抜けるのに引っかかることがあったのか(?)このように大きな鳥居に建て替えられたような気がします。
正面に見える建物は御旅所です。
道の左側は田んぼで
右側は富丘中学校でした。
正面の馬場は中学校の運動場として使われていました。

  ・・・ あんなことこんなこと ・・・
富丘中学校では給食がなくて、生徒は弁当を持参するか、近くの者は食べに家へ帰ることもありました。 4時間目が終わると走って家に帰り、急いで昼ご飯を食べ、また走って学校へ行くことになります。 お腹が痛くなることもありました。
あるとき、昼ご飯を食べに家に帰っていると、途中にある八百屋さんの店先に皇太子殿下と美智子さんの婚約の号外が張り出されていました。 
弁当のことですが、寒くなると各クラスに底が「すのこ」になった「もろぶた」が配られました。 弁当をその中に並べて出すと、学校で大きな釜の上にもろぶたを重ね、下から蒸気で温めてくれました。  昭和32年〜35年頃のことです。

土庄町役場

子どもの頃によく水源地へ上がって遊びました。
この写真は水源地から赤穂屋方面を写したものです。
あずき島があり、その手前に当時はまだ宮の下にあった流下式塩田の枝条架が見えます。

僕が履いているのはわらぞうりかゴムぞうりか?
手前に下駄が何足か転がっています。
昭和32年ごろと思います。

母が庭でわらぞうりを編んでいたのを思い出します。

上庄の太鼓は別として、太鼓の屋根は赤い座布団を重ねたようなものとばかり思っていたので、伊喜末の太鼓を初めて見た
ときはびっくりしました。

これが僕達の家です。
今はもうありません。

殿川ダム

小学校の運動場で一休みしている淵崎の小太鼓です。

『けいこ太鼓』について
秋祭りは常に10月15日と決まっていました。
その少し前から『けいこ太鼓』といって、屋根とか飾りの無い骨組みだけの太鼓台をつかって祭りの練習(?)をしていました。
夕方から提灯を先頭にテンテケテンテケと太鼓をたたきながら太鼓台を引きずって夜の町を走り回っていました。
時には大谷の方まで、あるいは平木か北山の方まで足を延ばしていたように思います。
秋祭りの本番には参加できない子供たちの
太鼓台(けいこ太鼓だけれど)を使った秋祭りへの参加方法でした。


淵崎小学校の運動場です。
休みの日などは子供たちが集まって
野球などをして遊んでいました。
テレビもゲーム機器などもまだない
時代で、子どもたちは仲間と広場で遊ぶことが多かったような気がします。

正面に見えるのは講堂です。
入学式や卒業式の式典はここで行われ
ていました。 
富丘中学校も共同でここを利用していました。 
また中学校の柔道や卓球の部活動もこの講堂を使っていました。

地域の映画会もここで行われていまし
た。

家の前の淵崎小学校の運動場です。
運動場の山側に僕が通った幼稚園
の園舎がありました。
相撲場もありました。
山裾には崩れかけた防空壕がいくつ
か残っており、僕たちは崩れてこない
かとびくびくしながらもぐりこんで遊ん
でいました。


運動場から水源地に至る急な山肌に
コンクリートの水路があり、手足を突
っ張ってぞくぞくしながら登ったもの
でした。 




富丘八幡神社の下の宮の下の砂浜です。
潮干狩りをしたり、姉に連れられて海水浴に行ったりしました。
記憶の中のそのころに比べて、今の砂浜はだいぶやせ細ってしまっているように思います。
  
夏の頃の干潮時には、ここから東に海岸線を通って涛洋荘の前の海水浴場へ海水浴に行ったりしました。
 
左前方に見えるのは余島です。

昭和35年頃にこの海峡(土庄と淵崎の間の海峡なので土渕海峡という)の工事を行っているところです。
左側の道幅を拡張するために海中にコンクリートの杭を打っているのかな?
僕達が子供の頃はこの海峡で仕掛け花火が行われていました

秋祭り

土庄港にある『二十四の瞳』のブロンズ像です。
昭和31年に除幕だそうで、僕がおもちゃのようなカメラで写したのは昭和35年ごろです。
右に当時のボンネットバスが見えます。