僕の生家・・・今はもうない(昭和31年)
淵崎小学校の運動場と校舎
伊喜末の張子の飾り屋根の太鼓は今はどうなっているのだろう。
おんばた(海端がなまったのかな?)
おんばたから永代橋方面を見ると
淵崎幼稚園の南側の道が冠水
水源地から東を見たところ
あずき島の手前に塩田の枝条架が見える。
昭和32年ごろの宮の下の砂浜
泳いだり潮干狩りをした。
下のカラー写真の現在の砂浜と比較してみてください。
土庄港 島に帰ってくるときは嬉しく、島を離れるときは後ろ髪をひかれる場所
宮の下の流下式塩田跡 ここに枝条架がにょっ 宮の下の砂浜 やせ細っている気がした
きりと立っていた
あずき島 1度だけ子供のころ入部の海水浴場から 八幡さまの桟敷
泳いでいったことがある 遠かった
八幡さまから見た余島 銚子渓の手前から振り返って見た上庄方面
銚子渓から四方指へ向かうとちゅうで見かけた物思いにふけっている猿
寒霞渓 以前1度乗ったが、こわかった
池田港 中山を通過中に見た段々畑
蒲生あたりから見た西の滝 寒霞渓の瓦売店
馬がいないので聞いてみると、後継者不足だそうで 銚子渓の手前でみたかわいい猿の標識
看板だけが残っていた
こういう光景を見ると、島が変形してしまいそうで寂しくなる
皇踏山はこんなにはげていたかなぁ・・・
小学校の冬休みの宿題の一つに「萩ぼうき」があり、冬休みになると友達と萩をとりにこの山に登った
夏休みの宿題には「萱ぼうき」があり、丸山へ萱をとりに行った
八幡さまの御旅所・・今はもうない。
電柱は木製であった。
左の田んぼも現在は家が建っている。
『おんばた』
上から4段目の『おんばた』は多分40年ほど前に写したものですが、その頃のおんばたは、漁船が着いたり、貨物船も出入りしていた。高松へ行くのにここから貨物船に乗って行ったことがある。おんばたの写真の後ろのほうに同じ様な形の屋根が2軒写っているが、この写真にも写っている。多分同じ家ではないかと思う。
『浄源坊』
ここにやぐらを建て、盆踊りをしていた。あちこちの地域のチームが参加したり、出店もあり、にぎやかなものであった。淵崎小学校の西側から細い道をどんどん西へ行くと、ここに着く。子供のころ歩いていたその道を今回は自転車でたどりながら、所々で写真を撮り、浄源坊に着いた。あれっ、こんなにせまかったかな?というのが第一印象で、歩幅で計ると、広い所で約20mくらいだった。当時と同じ広さなのかどうか分からないけれど、僕の記憶の中の浄源坊はもっともっと広い場所だったような気がする。
淵崎小学校の前にある農協の倉庫
この板壁の古さが何ともなつかしくて写してきた。おじさんたちが俵を手かぎを使ってひょいと肩に担いで出入りしていた。米俵だと思うが、あれ重そう。 この道を隔てた所が僕の母校の淵崎小学校で、かつてあった陣屋の松はもうなかった。
ここは淵崎小学校の北側で現在はプールになっている。かつでは小運動場で、遊動円木、ぶらんこ、シーソーなどがあり、よく遊んだ。野球もした。その北側には細い溝があって、とんぼやかえるを捕まえていた。さらにその北側は少し高くなって、町営住宅があった。 そのときの町営住宅の屋根に似ている屋根が見えたので写してきた。背後は山で、(子供のころは)防空壕が残っていて、中に入って遊んだことがある。
東洋紡績淵崎工場跡地
中学生の頃、それまで時報のサイレンを鳴らしていたのが音楽に変わった。『家路』とか、学校で習ったことのある曲がかかっていた。敷地内に女工さんたちの宿舎があった。
家に風呂が無かったので、赤穂屋とか淵崎の風呂屋(といっていた)へタオルや洗面器を持って行っていた。赤穂屋の停留所(富丘停留所)の横の路地を少し行くと、左側にあった。この辺りだったかなと思い写真を撮ってきた。風呂屋のおじさんが、ときどき荷車におがくず(はっきりせず)か何か風呂を沸かす薪かな?を積んで、僕の家の前の道を通っていたのを覚えている。西のほうに製材所があるので、そこへ仕入れに行っていたのかな。
子供のころ、夏になると入部のこの砂浜へ泳ぎに来た。飛び込み台がありロープで数珠繋ぎになった貸しボートあり。歩いて行くので土庄の鹿島よりこちらのほうが近かったので、泳ぐときはたいていここに来ていた。
40余年ぶりに見た僕の母校の小豆島高等学校の正門
体育の先生が言っていたニセアカシヤの木が大きく茂っていた。
このあたりを通ると醤油の香りがする。
大学生のころは埼玉県に住んでいたが、丸金のマーク、そして銀色と青の島バス(今はそうではないみたい)をたまに目にすると、うれしかった、ふるさとがなつかしかった。今は岡山県に住んでいて、小豆島で過ごしたよりもこちらで過ごした年月の方が2倍以上になるけれど、今でもこのマークを見かけると心がふるさとに飛んでゆくような気がする。
(岬の分教場)
木製の窓枠、2人用の長机、椅子ももちろん木製。 僕が小学生のころはたしかにこうだった
(岬の分教場) 板張りの教室の床
すき間があったり、虫食いのところあり、節穴あり(僕の通った小学校の教室の床の節穴はのぞくと、地面にごみがいっぱい落ちていた)
(岬の分教場) 昭和46年、この学校が廃校になった当時、この教室を使っていた児童の作品をそのまま保存しているとのこと
(岬の分教場)教室の黒板の上には横長の歴史年表があった。僕の小学校にも同じような年表があり、また音楽室にはバッハとかヘンデルなどの絵入りの横長の年表がはってあった。 どこの学校も同じだったのかな。
岬の分教場
東洋紡績淵崎工場だったところがオリーブタウンというショッピングセンターになっていた
東洋紡績の周囲を囲んでいたコンクリートの塀はだいぶ残っていた。コンクリートになる前は塀は木製だった。
東洋紡績渕崎工場をぐるりと囲んでいた塀はどうなっているのかなと思って見てきた。今まである道路との関係などもあり、どこからでも人が入ってこられるように全て撤去するというわけにはいかないのかな、部分的に残していた。
精霊流しの舟がいくつか潮の引いた砂地に取り残されていた。ここは土庄高校のそばの海峡で、かつて貝堀をしたことがある。
永代橋のたもとには延齢閣(えんれいかく)という芝居をしたり映画を上映したりする劇場があり、回り舞台があった。
淵崎小学校の運動場
八幡様の秋祭り 後は富丘中学校校舎
中央右端に見えるのは御旅所
八幡さまの向こうは一面水田であった。
露店の白っぽいテントが見える。
馬場の中央の土俵みたいなものは何?
小学校の運動場で一休みする小太鼓
祭りの1,2週間前(もっと前からだったかな?)夕方になると屋根のない太鼓台(けいこ太鼓)をちょうちんを先頭に大谷から時には上庄の方まで引きずり回していた。あちこちの部落のけいこ太鼓が太鼓を打ち鳴らし大声で叫びながら夜の街を走り回っていた。僕たちにとっては実に楽しい行事であり季節であった。太鼓の台車の車輪は木製で荷車の車輪のように鉄の輪がはめてあった。
小学校の小さな池で手作りの潜水艦を浮かべて遊んだ。
正面後方のあたりが職員室であったように思う。
運動場にあった木製のバックネット
後方は講堂
オリーブの歌
寒霞渓・・・鳥居のところまで行ってみたいけれど、思っただけで息が切れそう
2004年5月2日
子どもの頃に遊んだ路地はどうなっているのだろう。2004年12月26日に車に自転車を積んで小豆島に行ってきた。いくつかの路地、よく行った場所などを見てきた。
以下はそのときの写真の何枚かです。
2005年6月14日、バイクで小豆島に行った。 家から宇野港まで2時間。
切符売り場へ行くとフェリーはたった今出港したばかり、次の便は2時間後とのこと。家へひきかえそうか、それとも2時間待とうか。
ああ、時刻表を見ておくべきだった。
2005年8月16日に墓参りに小豆島に行ってきた。
家から新岡山港まで車で行き、そこで折りたたみ式の自転車をおろし、自転車で小豆島へ。経済的だけど、しんどい。
アルバムにあった昭和32年の永代橋付近 骨董品を並べている店があったり、花屋があったり、青果市場があった。 ボンネットバスが走っているのが見える。電柱は木製です。現在は埋め立てられ、細い水路(土渕海峡・・・土庄と渕崎の間の海峡)が一本走っているだけで、写真のような面影は全くない。 この入り江はかつては土庄湊と呼ばれていたらしい。
50年ほど前の写真
僕がはいているのは母が作ったわらぞうり
手前に家族の履物のわらぞうり、下駄、高下駄がころがっている。。
土庄港と高松港の間を走っていたオリーブ丸
2007年3月22日 墓掃除に行った。 いい天気だった。
新岡山港から土庄港 往復10200円(軽四) 高いなぁ
鹿島の海水浴場
子供のころ近所の友達と歩いて泳ぎに行った。 泳ぎ疲れとぼとぼたどる家路の長いこと長いこと。 家から2〜3kmあるのかな?
干潮のとき歩いて余島ヘ行けるらしい。 歩いて行ったことはまだない。 天使の散歩道というかわいい名前がついている。
西の滝(大麻山龍水寺) 小学校の遠足で(もちろん歩いて)一度行ったことがある。
今回は車で。
昭和26年 ぼくの幼稚園のときのたった一枚の写真 ズックあり、下駄あり、ぞうりあり
一度だけ『進駐軍がくれたミルクです』といって、ミルクを飲ませてもらったことがある。
戦後何年か経っていたけれどまだ栄養状態はよくなかったのかな。
昭和31年 小学5年生のとき 音楽室で合奏の練習 ソックスにスリッパあり、親指のぬけた足袋あり(ぞうりを履くと親指の先が一番に破れる)、ズボンの膝が破れているのあり、素足あり・・・服装からして冬みたい
昭和32年 小学6年卒業記念撮影 ズックあり、ぞうりあり、下駄あり
僕らが小学生のころはまだシラミがたくさんいたのか、養護の先生がDDTを入れた布袋で女の子の髪をポンポンたたいてシラミの駆除をしていた。髪が真っ白になっていた。
中学生のころ無理を言って買ってもらったおもちゃのようなカメラで写した『二十四の瞳』像。
右のバス駐車場にボンネットバスがとまっているのが見える。
中学校の卒業アルバムが出てきました。 1960年(昭和35年)卒業です。
富丘中学校校舎全景
右端とその次の男子は土踏まずより先、足指の付け根あたりまでの小さなわらぞうりをスパイク代わりに履いている。 たいていの人は裸足で走っていた。
3年生になると、進学組と就職組に分かれ、授業の内容が異なっていた。 写真は就職組の授業のひとつのオート三輪の実習。 運動場で先生の指導の下にオート三輪を走らせていた。
運動場で麦の脱穀をやっているところ
プールなどなかったので、全校生徒が全員水着になって並んでトコトコと学校の近くの海岸へ歩いていって泳いでいた。
渕崎小学校の小運動場にあったシーソー
今から考えると危なっかしい遊具に思えそう。
両腕で自分の体重をぶらさげ、なおかつ身体が飛んでゆかないような握力も必要です。
2008年8月5日に小豆島へ墓掃除に帰った。
たまに帰ってくるふるさとはなつかしく、何かさみしい気持ちになる。
海水浴に来ていた浜辺。
飛び込み台と数珠繋ぎになった貸しボートと、子供たちでにぎやかであった。
そのころはプールがなかったので、海で泳いでいた。この浜辺のホテルは当時は木造だった。
鹿島の海水浴場
時期的に遅かったのか(8月5日が?)想像していたより人の数は少なかった。
永代橋・・・かつては白っぽいコンクリート製で少し中央が盛り上がり表面はざらざらの橋であった。 ポンポン船がこの橋の下をくぐり抜けて海へ出て行っていた。 この橋を右に渡り切った当たりから手前が入り江になっていた(土庄湊)。このページの一番大きな写真がその入り江です。車に積んでいる自転車を下ろして見て回ったけれど、当時の面影を見つけることはできなかった。
またいつか探しに帰りたい。
迷路のまち
自転車でちょろちょろっと走ってみた。
小豆島に住む弟に聞くと、本当に迷路みたいで
分からなくなるそうである。
小学校の頃の冬休みの宿題の一つで萩箒、夏休みは萱箒というのがあった。冬休みになると友達と丸山から皇踏山にかけて萩をとりに行った。夏休みは水源地へ萱をとりに行った。萱の毛はぺたぺたくっついてかゆかった。
萩ぼうきは束ねて何箇所かを針金で縛ればよかった。
萱ぼうきは少しずつ束ね、だんだん継ぎ足して平たく、しかも使いやすいように絵のような三角形にしていた。
僕たちは萩や萱をとってきて、あとは母親が作ってくれた。
僕の高校時代(昭和35〜38年)の生徒手帳
雨天時の下駄とは高下駄かな?
農繁期休業日とは農作業で忙しいときの特別の休業日
小学校にあった陣屋の松
学校の敷地内にあったが、道路拡張のため松だけ道路に残された。その後、倒木のおそれがあり処分。
生徒手帳の『生徒心得』の保健衛生の項目に『身体及び衣服は常に清潔にし、タオル又はハンカチーフ及びちり紙は必ず身につけること』と書いてあります。タオルはかさばってポケットには入りません。 かつて男子はベルトにタオルを通してぶら下げている時代がありました(ちっぽけなハンカチなんかより役に立つ)。 この場合タオルとはそれを指しているのかな。 当時はそのような習慣はほぼすたれていましたが、タオルをぶら下げている猛者(変人?)が一人いました。
僕が生まれるときの妊産婦手帳のなかの『必要記事』というページです。
内容は
十九年五月二十七日 妊 衣料切符交付済
十九年九月二十二日 出産用(用か甲か?)紙綿ガーゼ交付ズミ
十九年十月二十五日 出産用(用か甲か?)浴用洗濯石鹸交付ズミ
妊産婦手帳の『妊産婦の心得』というのがあり、下記はその第一です
『丈夫ナ子ハ丈夫ナ母カラ生レマス。 妊娠中ノ養生ニ心ガケテ、立派ナ子ヲ生ミ
オ国ニツクシマセウ』妊産婦の
妊産婦手帳
子供のころの永代橋